ニ、黒川鉄矢
『らせつ【改稿版】』とリンクしています。
俺は昔から、いわゆる「見える人」だった。ただその力は弱く、なんとなくその類かなと思えるような出来事は片手で数えられる程度だった。
物心ついたときには、すでに母子家庭で、俺は自分の父親が誰かを知らない。祖父母の家に同居していたのだが、母親は仕事から帰ってくるたび、その合間に影でいろいろとなじられていた。
「なぜ父親がいないのに子どもを産んだのか」
「なぜあのとき見合いを断ったのか」
「いつになったら結婚して家を出てくれるのか」
挙げ句の果てには、
「息子の躾がなっていない」
「一体誰の子か白状しろ」
「相手に養育費を請求するくらいは許されるはずだ」
果たしてそれらの言葉の中に、俺たち親子としての幸せな未来は考慮されていただろうか。こんな調子で、幼い子どもがきくにはあまりにも残酷な言葉が、成長するにつれて嫌でも耳に入ってくるようになってしまった。だが、表向きは普通の家族として接していたし、母親も俺がある程度大きくなったら出て行こうとでも考えていたのか、辛抱強く同居し続けた。俺は自分の無力さにイライラしながらも、あともう少し、大学に進学したら家を出ようと思っていた。
俺は自分が「見える」という事実を黙秘し続ける必要があった。祖父母やその周囲のほとんどは唯物論者だったのだ。今は表向きだけでも平穏でいられているが、それがばれたら最後、袋叩きにあって、親子ともども路上に投げ出されるかもしれなかった。死んだ人間が見える。たったそれだけのことで、唯物論者に目の敵にされる。俺は一人で怯えていた。
それでもなんとかなっていたのは、俺自身の霊能力が弱かったからだ。大丈夫、やり過ごしていける。そう思っていた。あいつに出会うまでは……
高校の入学式。何気なく気配を感じた方向を見やると、一人の女子生徒に凄まじい何かが取り憑いているのを見てしまった……乱れた真っ赤な髪はそのままで、まるで周囲を威嚇しているかのように鋭い青眼を光らせていた。肌は浅黒く、今にもうなり声を上げて襲いかからんばかりのその姿に血の気が引く。今まで見た中で、最もおぞましく、最もはっきりと鮮明に見えた。と、その女子生徒と目が合ってしまった。するとそれに反応したかのように、取り憑いている霊までもこちらに目を向け――あろうことか、笑ったように感じた。最悪だった。
それを境に、今まで見えないからこそ気づかなかったものたちが、次々と姿を現すようになった。どうやら、霊能力が完全に覚醒してしまったらしかった。自分ではそんなつもりがなくとも、知らぬうちに霊を惹きつけてしまうのか、登下校時も、学校にいるときにも、家にいるときですら見える、見える、見える……
あらゆるものがうんざりするほどに見えてしまった。気をつけていなければ、誰もいないところに挨拶をしてしまうこともある。俺の様子がおかしいことは、すぐにばれてしまった。学校では幽霊が見えると妙な噂が流れ出し(悲しいことに、真実でもある)、その高校の関係者の中には祖父母の知人もいたために、噂は呆気なく祖父母の耳にも届いた。
「鉄矢。お前、最近学校はどうだ?」
そうきかれたときには、覚悟は決まっていた。案の定、会話が進むにつれて不穏な空気が漂い出し、最終的には「恩知らず」「一族の恥」と罵倒される。敵に回された決定的な瞬間だった。タイミング悪く帰宅した母親の顔色は、今にも倒れてしまいそうなくらいに蒼白だった。
あの女子生徒が憎かった。上手く逃げ切れそうだったのに、やり過ごせそうだったのに。あいつのせいで、普通ではいられなくなったのだ。
俺は「何も見えない」ことを強制されながら高校生活を送った。実に窮屈だ。何もいないと思いつつも、やはりそこにいるのだから。ポーカーフェースは得意なつもりでいたのだが、祖父母は人一倍敏感で鋭い人たちだったのだと、もはや嘆くしかない。
早く卒業して家を出たい……そんな思いから切羽詰まって勉強をし、なるべく遠くの大学を目指した。ただ、祖父母は卒業後まで経済的に支援してくれるのだろうか……いや、ないだろう。極力学費の安いところを、あとは一人暮らし用のアパートや、バイト先も考えておかなければ……
「鉄矢」
夜中、家のみんなは寝静まっているだろう時間帯に一人、考え耽っていたところ、突然呼ばれたので思わず飛び上がってしまった。振り返ると、少しやつれて疲れた顔の母親が、それでも俺が珍しく飛び上がったのがおかしかったのだろう、くすりと笑いながらも、すぐに気遣わしげな表情になった。
「家を出るつもりだときいたんだけど……」
俺は一体いつから、母親と話さなくなったのだろう。そもそも、この母親と遊んだ思い出はあっただろうか。俺たちはちゃんと親子なのだろうか。そんな思いが浮かんで消えた。
この人も、俺がいなくなれば少しは荷が下りるだろうか……
「そのつもり。迷惑はかけない。自分でなんとかするから……」
「これ、良かったら」
そう言って通帳を渡された。入れられているその額を見て愕然とする。
「使って。鉄矢のために貯めておいたの」
「こんなに……」
母親はただ静かに微笑むだけで、何も言わずに出て行ってしまった。いらないと突っぱねることはとてもできない。胸の奥が鈍く疼いた。
卒業式の当日。行き先も無事に決まり、荷造りも済んでがらんとした自分の部屋を見渡す。未練はない。ただ一つ気がかりなのは母親の今後だったが、母は母でいい加減大人なのだし、自分でなんとかしていくだろうと無理やり納得しながら家を出た。今日でこの家ともおさらばだ。この制服とも、あの学校とも、この地域からも。祖父母や、あいつからも、すべて。
「あの、黒川君」
式後、その声をきいた瞬間、あたりの空気が凍りついたような気がした。振り返って思わず顔をしかめる。
「ちょっと、いいかな? 伝えたいことが、あるんだけど……」
――この期に及んで何の用だ。
そう不快に感じつつも、まわりには結構人目が多くあったし、それに考えてみれば彼女――森山との接点は入学式のあのときを除けばなきに等しかった。森山からは俺に近づいては来なかったし、何もしては来なかった。俺のほうからも意図的に避けていたのだから、当然と言えば当然か。
そのときの彼女の背後には、何も取り憑いていなかったということも、俺の警戒心を多少は和らげていたのだろう。どうせ今日で最後なのだから、少しくらいは付き合ってやっても良いだろうと、そう思い直した。
「黒川君、私ね、ずっと黒川君のこと、好きだったんだ……と思う」
こいつは何をほざいていやがると、眉根一つ動かさずにしながらそう思った。
「もう卒業したから、離ればなれになっちゃうけど、どうしても、その……突然でごめんなさい! 迷惑だよね、今さら……それでも、思いを伝えておきたかったんだ」
「それで、お前は俺とどうなりたいわけ?」
「え?」
「俺はお前を遠ざけたくて仕方ない」
思いっきり恨みを込めて睨んでおいた。こうでもしておかなければ、気が済まなかった。母親のやつれた顔が脳裏に浮かぶ。俺の前にこいつさえ現れなければ、何かが変わっただろうか。
「羅刹に見えた。入学式のときからずっと。
もう、目の前には現れないでほしい。お互いのためにも」
森山の顔色は悪く、身体もがたがたと震え始めている様子から、もうこれ以上は話しても無駄だろうと判断した。冷たいと自分でも思う。しかし、それなりに平穏だった生活を奪われてしまった、このやり場のない怒りや憎しみを、一体どこにぶつけてやればいいのかわからなかった。俺はもう後ろを振り返るのも嫌で、ただまっすぐ前だけを見つめて歩いていった。
新居に落ち着いてからしばらくして、母親から連絡が来た。俺が出発してからそう間を置かずに、母もあの家を出たのだという。心底ほっとしている自分に気がついて、そのあまりの安堵から身体中の力が抜けていくのがわかった。これで母がなじられることはめったになくなるだろう。気がついたら泣きながら笑っていた。
その後、俺は大学では剣道のサークルに入った。実は小中学のときにもちらっと嗜む程度にやっていたし、高校では勉強ばかりだったので、身体を動かすのは心地良かった。心身を鍛え、人格向上を目指す武道とされる剣道だが、俺の入ったサークルはなんちゃって剣道だったので、その気軽さも逆に良かった。
家を出て土地も変われば、また違う霊が現れては消えていく。霊界のことはよくわからないが、少なくともこれらは、俺の心身をかき乱そうとしてくれる原因に変わりない。通学途中に通過する公園内に、なぜか気に入らない木が一本あった。ある日、あまりにもむしゃくしゃとしていたために、思わず持っていた木刀でめちゃくちゃに叩きつけた。夕方近くであたりには人影もなく、それを良いことになりふり構わず叩き続けた。ある程度叩くと、その後は心なし荒れていた心情が落ち着いている気がして、それからしばらく、情緒不安定気味になったときには叩くようになった。あまりほめられた行為でないことはわかっているが、やめられない。
そんなときに、俺は大元織と出会ったのだ。いつものように、気に入らないその木をバシバシと叩いていたら、
「そんなに叩かないでよ。ひどいわ、私のお気に入りの木なのに……」
小柄で華奢な身体。まっすぐで艶やかな黒髪は、色白な肌を強調しているようだ。人形のように整った顔立ちの、その美しい瞳に涙をうっすら浮かべながら、長いまつげを悲しそうに伏せて、花びらのような薄桃色の唇をゆがませていた。
その姿に、しばらく馬鹿みたいに呆然としながら見とれていたのを、今でも覚えている。まさに、巫女と呼ぶにふさわしい姿だと思った。