十一、兄弟
「慈烏って何だ?」
「さあ……」
突然の優の変化に戸惑いを隠せない黒川と環生。それでも今の現状で、彼女が話しかける以外には誰にも何も出来ることはなく、一同が固唾を飲んで見守る中、優の言葉は紡がれる。
「慈烏。ここにいたんだね、ずっと捜していたよ。今まで何をしていたの? ……今何をしようとしているの?」
「あ……あぁ……」
それまで狂ったように叫んで暴れていたのが嘘のように静かになって、クロの視線は優に釘付けになった。憑き物が落ちたかのように睨むのを止め、大きく見開かれたその瞳には透明な涙の膜が張っている。
優の手がクロの頬に触れると、途端にクロの膜が張った目の端からハラハラと涙がこぼれ落ちた。それを親指で拭いながら、優は慈愛に満ちた顔で微笑む。
「もう良いよ。大丈夫、私はここにいる。何も苦しくないし、どこも痛くない。ただ……慈烏がそんなにぼろぼろじゃあ、悲しいなぁ」
どうやらクロは昔、夕から慈烏と呼ばれていたらしかった。優に夕が乗り移ったというところだろうか。完全に置いてけぼりを食らった黒川と環生は、詳しい説明を求めるように紫雲に目を向ける。
「これが言わざるの霊能力だ。本来、霊界に行った人間同士は心の基準が合わない限り、互いの存在に気づくことは出来ない。だから意思疎通がはかれないんだ。でも、言わざるはそんな人間同士の意思疎通の仲介が出来る。届かないはずの気持ちが届く……彼女の口を通して」
そんな大それた霊能力が、この小さな少女の中に眠っていたなんて……驚きの表情で優の様子を見つめ直した黒川と環生。
「しかし長くは続けさせない方がいいな……」
「そうね……」
紫雲と大元の不穏な発言に、黒川と環生の胸中に不安が募る。
「師匠、優はどうなってしまうんですか?」
環生の方を振り返った大元は小さく息を吐くと、伏し目がちの目で答えた。
「霊能力を使うということは、体力も精神力もそれなりに結構消耗するわ。優ちゃんはもともとあまり体力がないでしょう? この力は今初めて使っているわけだし、そのような訓練もまだしてないから、とても無理をしていると思うの……そろそろ限界かもしれない」
見ればたしかに、優の顔には冷や汗が流れており、身体もどことなくふらふらと揺れている。それでも微笑みを浮かべ続ける優の健気さは、見る者の胸を痛くさせた。
クロは暗闇の中にいた。息苦しくて、深呼吸してもまだ苦しくて……身体中が痛くて仕方なかった。悲しかった。誰かをずっと捜していたはずなのに、それが誰かすらわからなくなってしまった。癒やされない胸の痼りが辛い。頭が痛い……誰かの声が自分にいろいろと語りかけてくるが、その誰かは自分の捜している人ではないことだけは感じられた。捜している人はこんな命令口調ではなかったし、トゲトゲとしないし、ネチネチとしない。もっと優しい声で自分を呼んでくれた……
――慈烏。
暗闇の中、頭に響き渡ったその声は、脳天から突き抜けて胸にまで届いた。不思議な心地になって、自分は今の声で安心したのだと悟る。同時に自分が今まで誰を捜し求めていたのかも思い出して、そっと浮上した意識の中、目を開くとそこには一人の少女が微笑んでいた。どこか懐かしい面影の残るその顔に、その声に、無性に泣きたくなる。
彼女の手が自分の頬に触れたとき、それが思った以上にあたたかくて優しくて、もう枯れ果てて流すことはないだろうと思っていた涙がこぼれた。
「会いたかった……夕」
そう言ってクロが優を抱き寄せようとしたので、環生が「ちょっ、おま……」と声を上げると、突然優の意識がふっと消え、糸が切れたみたいに身体が崩れ落ちた。そのままクロの腕の中に倒れ込む。
「夕? ……夕!?」
クロの顔が必死の形相に歪む。優の額にはびっしょりと汗がにじみ、呼吸も荒かった。他の者も駆け寄ろうとしたのだが、クロが優を覆い隠すようにして抱き込んでいるので近づけない。まるで誰も彼女には触らせまいといった雰囲気だった。
環生の右耳がジンジンと痛み出した。耳元に手をやったとき、ふっとまわりの空気がざわついているように感じ、慌ててあたりを見回せば、自分たちから離れていたはずの黒い霧がまた徐々に近づいてきていた。じっと耳を澄ますと、鵺の苦々しげな声がする。
――解せない……なぜ正気に戻れる。なぜいつも最後には救われる。なぜお前だけいつも……
その声には恨みや怒りが満ちていて、同時に悲しみや寂しさも感じられた。
――あれのせいか、忌まわしい……そんな喉は潰してくれる!
ひゅっと音がして、優目掛けて黒い矢が飛んできた。クロごと貫通させるつもりだろうと、環生は自分の顔が真っ青になるのがわかった。とっさに「黒川!」と環生が叫ぶと、黒川もそれに気がついて、素早く動くと持っていた木刀で矢を叩き落とした。鵺の太くて低い声が響く。
――よくも、よくも、よくもっ!
「鵺」
突然、紫雲が立ち上がって黒い霧に向かって声をかけた。その目はまるで、霧の向こうにいる誰かを見透かしているように見えた。
「お前は自分を得体の知れない存在にしたいようだが、本当は何者なのか俺にはもうわかっている。そして今から、ここにいるみんなにもお前のことを知ってもらおうと思う……映像を通して」
紫雲がさっと手を振り動かすと、壁鏡が大画面に切り替わった。
二人の兄弟が野原で遊んでいた。兄の方は十歳にも満たない少年であり、さらにまだ年端も行かない弟がよちよち歩くそのかたわらで、時折手を引いては笑顔を向けていた。そしてその様子を遠くの方で両親らしき夫婦が見守っていた。
場面は変わり、焼け野原に先ほどの兄弟が薄汚れた姿で突っ立っていた。まわりには数え切れない程の遺体が転がっており、やるせない顔をした兄が弟の手を引っ張ってどこかへ行こうとしていた。が、弟は駄々をこねてなかなか動こうとはせず、じれた兄は弟の顔を殴った。殴られた弟は火がついたように顔を真っ赤にして泣き出して、それを見た兄も終いにはつられて一緒に泣き出してしまった。するとその泣き声をききつけたのか、どこからか異国風の男が現れて、弟の方を抱き上げると兄の手を引いてどこかへ去って行った。
異国風の男は「鬼部」と呼ばれる盗賊の一人であり、兄弟が暮らしていた村を襲ったのも彼らだった。鬼部のリーダー格の男は、兄を生かしておくとしても、弟の方は幼過ぎて逆に足手まといになるからと、弟を手に掛けようとしたが、拾ってきた男自ら「自分が処分する」と名乗り出て、弟をどこかに連れて行った。そして戻ってくると、あとでこっそりと兄に「弟は殺さずに遠くの田園に置いてきたから」と教えてくれた。
兄は生かされはしたが、いろいろとこき使われては、鈍臭いと虐待された。一度は火のついた棒を頭に近づけられて火傷を負った。兄の耳はただれて跡が残り、形も崩れてしまった。異国風の男は兄の面倒を見てはくれたが、いつもそばにいられるわけではなかった。
また異国風の男は鬼部の主流派と意見がたびたび食い違い、まわりから目の敵にされていた。彼はよく戦場に投げ出された孤児を拾ってきたりするものだから、なおさら「いつもお荷物を作る」と陰口を叩かれた。兄は成人してそれなりの力もついたが、ひたすらまわりの大人たちの悪行を見てばかりいたので次第に心を歪ませていき、ついには異国風の男をこころよく思わない連中に吹き込まれて、兄は命の恩人を殺害してしまった。その現場を男の幼い一人娘に見られていたのだが、兄は自分よりも年下で身体も小さい彼女に油断していた。娘は親譲りの青目を見開きながら、赤髪を舞い上がらせると、持っていた父親の形見である小刀を構え、兄に向かって突進してきた。その姿はまさに鬼のような子どもだった。
「そして娘に殺された兄は、鵺という悪霊となって地上をさまよい歩いた。兄を殺した娘は自ら鬼部を抜け出して、孤児としてしばらく過ごしたが、クロに拾われて『鬼夜』として育てられた」
大画面の上映が終わり、もとの壁鏡に戻ってからも、紫雲が補足説明を続ける。黒い霧はもやもやと揺れながら黙っていた。
「つまり鵺は……クロ、お前の兄なんだよ」
一同が呆然と沈黙している中、クロは何とも言えない表情をしており、鬼夜もいたたまれない顔をしてうつむいてしまった。そんな二人に対し、鵺が怒りを含んだ声を浴びせてくる。
――わたしには弟などいない。家族などいない。そんなものは幻想だ。必要のないものだ。わたしは何者でもない……ただお前を苦しめるためだけに存在するモノだ!
「……どうして……そこまで俺が憎い?」
クロの問いかけに、鵺の怒声が止んだ。
「昔のことは記憶にないが、成人した姿のお前を俺は覚えている。鬼夜が大きくなって俺のもとから離れて行ったとき、お前が現れたんだ。あのときにはもう死んでいたのか……死んでもなお、俺が憎かった……だから俺に鬼夜を殺すようにと仕向けたのか……答えろよ、鵺!」
クロはいまだに気を失った優を抱きしめたままだったが、それは鵺という悪霊から彼女を守るためのようだった。
しばらくの沈黙の後、鵺は霧の向こうからくぐもった声を発した。
――そうだ。お前に取り憑いてその生意気な餓鬼を殺した。自分が大切に育てた娘を、自ら手に掛ける気分はどうだった?
クロの表情が不機嫌に歪む。こめかみに青筋が立ったようだった。するとすかさず紫雲がその前に立ちはだかり、クロに諭すように語りかける。
「乗せられるな。怒りは身を滅ぼすだけだ」
はっと我に返ったクロは、自分の懐にいる優を見やった。顔中の汗は引き、呼吸もだいぶ落ち着いてきている。
「クロ。お前の抱いていた恨みは、夕が幸せになれなかった……幸せにしてやりたかったのに、その望みが叶えられなかったことに対する恨みだ。だが……お前もきいただろう、夕の言葉を」
静かに目を閉じている優の顔に、そっと手を添えたクロはどこか寂しげだが、それでも幸せそうに微笑んだ。
「夕はちゃんと幸せだった……変わらない笑顔で」
すっと一呼吸置いてからクロは、
「ありがとう。夕」
そう言ってから、さめざめと泣き出した。そんな光景を見ていた一同は、鵺の黒い霧がだんだんと薄まって消えていくのに気づいた。何の恨み言も言わずに、まったく音もなく完全に消え去ってしまった。それはクロの中にあった「恨み」が晴れて、鵺への怒りが薄れたからだと紫雲は言った。
「クロと相対できなくなった鵺は、一体これからどうするんだろうな」
誰にともなく口にした環生のその一言に、大元は答える。
「また隙を狙って入り込んでこようとするでしょうね。彼の怨みはまだ晴れていないから……そろそろ帰りましょう。クロさん、あなたも」
優を抱きしめていたクロは、大元に目を向けるとうなずいてから、優を横抱きに立ち上がった。




