十、再会
霊媒相談所のソファーに一人座っていた紫苑は、奥の鏡部屋から物音がしたように感じ、恐る恐る立ち上がると部屋の扉に近づいて耳を澄ました。すると、きき覚えのある声が紫苑の名前を呼ぶ。ばっと勢い良く扉を開けると、紫雲と織が知らない女性を抱きかかえていた。女性はぐったりと気を失っており、心なし顔色も悪かった。
「紫苑! 手伝ってくれ、森山喜代さんだ」
「わかった。そこのソファーまで行こう」
小柄な織と大柄な紫雲では差があって運びづらいので、女性にしては背が高い方である紫苑が織に代わって森山を運んでいく。
「ありがとう、紫苑ちゃん」
織は紫苑が行うどんな些細なことでも、こうやって必ず感謝する。初めて会ったときには、大好きな兄を取られてしまったと嫌悪をあらわにしていた紫苑だが、今ではそんな思いは微塵も湧いてこない。とても大切な義姉なのだ。
「紫苑。俺たちはまたしばらくここを離れるが、その間彼女を頼んだぞ」
そう言い置くと、二人はまた鏡の向こうに去って行った。紫苑はしんと静まり返った部屋の中、森山の身体の上にそっと毛布を掛けると、隅から折りたたみ椅子を持ってきて、彼女のそばに腰掛けた。その血の気のない顔を見やり、思わず手を取って握りしめる。
――少しでも役に立ちたい。何の力もない自分に、出来ることがあるなら……
時計を見ると、夜の八時半を回っていた。
黒い霧が立ち込める中、クロと対峙した三猿霊媒師たちだったが、クロのギラギラと殺気立った目を見た環生は「ひぃっ……」と言葉をもらしてたじろいだ。
「お、おい。俺たち今、ひょっとしなくても絶体絶命の大ピンチだろ? 今まで実践的な修行してこなかったし……これ間違いなく殺られるって! 師匠ぉ! 早く来てぇ!」
「うるさい。そうやって取り乱すくらいなら、黙って耳を澄ませたらどうだ。お前の得意分野だろう?」
はっと環生は黒川の顔を凝視する。ごくっと唾を飲み込むと、
「その落ち着きぶり……何か勝算でもあるのか? 黒川」
「いや、ない」
「うおぉい!? 期待しちまったじゃねえか!」
黒川は相変わらずの無表情で、ふっと軽く息を吐いた。
「俺のはなんちゃって剣道だからな。でも、まったく何も出来ないよりはマシだろう」
そう言うと、いきなりそばの壁鏡に手を突っ込んだ。驚きで目をまんまるに見開いている環生と優を尻目に、鏡から抜き出されたその手には木刀が握られていた。
「嘘? マジで? 何それ!?」
「何かあったときには、鏡を頼れとあらかじめ言われていた」
「はあ、なるほど……結構いろいろと都合が良いな、鏡!」
環生と黒川は視線で会話するように目を見合わせた。そして一つうなずいた環生が、優の肩を抱え込むとじりじりと黒川から離れていく。
「黒川さん……!」
振り向いた黒川は、怯えていてもなお心配する優の顔に、ぶっきらぼうに言葉を返した。
「最悪でもお前は助かる」
優の瞳から大粒の涙が一筋つたう様子は、すぐに正面を向いてしまった黒川の目に入らなかった。クロと黒川が対峙する中、黒い霧はまるで二人を煽っているように見える。環生は思わず顔をしかめた。黙ったことで、黒い霧のあちらこちらから声がきこえてくる。
――殺せ……殺せ……殺せ!
「本っ当にうるせぇな」
環生のその苛立ちが含まれた声音に、優がぎょっと見上げてくる。その反応から、やはりこの声は自分にしかきこえていないのだと環生は確信した。きこえたところで、環生がどうこうできることは特にないのだが……
――その男はお前の子孫だが、それはお前と夕の子どもの子孫ではない。お前が荒くれていたときにその場の勢いで抱いた、どうでもいい女が生んだ子どもの末裔だ。愛する夕は子を抱くこともなく死んだ。つまり、その目の前にいる子孫は、お前の望むものではない。そんな存在は殺せ。殺して血筋を根絶やしてしまえ!
鵺がクロに話しかけているのだろう。これもまた環生一人にしかきこえていないようだった。環生は耳を塞ぎたかったが、塞いだところでこの声は魂を通してでもきこえてくる気がしたし、優をまたあのときのようにどうにかされてしまうかもしれない不安もあった。環生の指が優の肩に食い込む。「痛い……」という声で我に返ると、慌てて少し力を抜いた。
クロが奇声を上げて黒川に突進してきた。木刀を構えて身構える――と、突然視界の隅から誰かが二人の間に割り込んできた。黒川の目の前に立ち、勢い良く突っ込んできたクロの手首を掴むと、そのままねじ上げて反転させて倒れ込む。クロの持っていた刃物はその手から離れ、カランと音を立てて壁際まで蹴り飛ばされた。それでも暴れて抵抗するクロを羽交い締めにする。その人物は――
「紫雲……」
「待たせたな、三猿霊媒師」
床に押し付けられ、身動きの取れないクロは「放せぇ!」と狂ったように叫んでいた。
「ぐあぁぁ……放しやがれ、糞がぁ! 放しやがれぇ……ぅがぁぁあああっ!」
口から涎を垂らしながら、頭部を床にがんがんと打ち始めた。完全に狂ったその姿には、どこか見るに耐えない哀愁がただよっていた。
「紫雲さん……!」
環生が優を連れて近づいてきた。ふと向こう側の血溜まりがある方を見やると、大元がずたずたに切りつけられていた森山の――否、森山だと思っていた誰かのかたわらにひざまずいて、その傷口に手を当てている。大元の手からは不思議な柔らかい光が溢れ出しており、それが傷口を癒しているようだった。
「彼女が鬼夜……森山さんのご先祖様だ。途中から身代わりになっていたんだよ。本物の森山さんはもう保護して、今は安全な場所にいる。付けられた傷も癒えているよ」
紫雲の知らせに、三猿霊媒師たちはほっと胸をなで下ろした。が、まだ終わってはいない。相変わらず紫雲の下でクロは暴れているし、黒い霧は大元の手から漏れ出している光から逃れるようにまわりへと遠ざかっていたが、決して消えたわけではない。
「うぅぅ……?」
大元に癒やされている鬼夜が目を覚ました。その意識はまだぼんやりとした感じだったが、クロの激しい唸り声に気づくと、何とも言えない複雑で悲しげな表情をした。
「クロ……クロ……」
鬼夜の青目から涙がこぼれ落ちた。乱れきった赤髪を掻き上げると、大元に支えられながらゆっくりと上半身を起こす。
「ねえ、鬼夜だよ。気づいて、クロ……」
ギラギラと殺気立って血走った目が鬼夜を見据えた。獰猛な低い唸り声が響き続ける。そんなクロに近づこうとする素振りを見せた鬼夜だったが、さすがに大元に制された。
「今の彼にあなたの声は届かないわ。残念だけど……」
「せっかく会えたのに……」
うなだれてむせび泣く鬼夜の背中を静かに撫でさすった大元は、そのまま鬼夜を抱きしめた。
「霊界では心の基準がお互いに合わなければ、相手の存在を認識することは出来ないのよ……彼の心は鵺によって歪められているから、今の状態ではとても相対が出来ない」
その美しい瞳からは涙が溢れそうになっており、大元の顔も悲痛な感情で歪められていた。
もう誰もクロを救うことは出来ないのかと、皆が絶望の淵に立ったような心境でいたそのとき、環生のかたわらでずっと大人しくしていた優が、急にクロのそばへと近づいて行った。
「おい、何やってんだよ!?」
「ゆ、優ちゃん!?」
まわりは慌てて止めようとしたが、しかしなぜか、普段の彼女からは想像もできない有無を言わせぬ雰囲気がただよっており、そんな優の小さな身体を誰も止めることができなかった。クロが恐ろしい顔で睨みつけてきても少しもひるむことなく、むしろ悠然とその前にしゃがみ込むと、今までつけていたマスクを外して小さな口を開いた。
「落ち着いて慈烏、私よ。わかる?」
静かにはっきりと発せられたその声は、三村優のものではなかった。




