皿とお新香のあいだ
8月が始まって最初の週末、仕事帰りの風は、ぬるま湯というよりは、熱湯をスプレーで吹き付けられるような感覚。
駅前の街路樹は、葉を少し枯らしていた。
暑すぎるのだ。
「着いたら、連絡しろよ。」
届いていたスマホの短いメッセージを見返し、笑みがこぼれる。
親友、司〔つかさ〕からだ。
卒業してから、10年近い歳月が流れ、別の道を歩いてきた。
学生時代のように、毎日顔を合わせることは、なくなった。
それでも、年に数回は酒を飲み、近況を話す時間は、欠かさない。
インターホンを押す前、連絡もしていないのに、玄関のドアが開いた。
「おう、ちょうどいいところだった。」
「相変わらず、タイミングいいな。」
「いやぁ、外、あつぃな。早く入れ。」
変わらない笑顔。
学生時代のように5本の指を広げ、左手でパンとハイタッチをした後、玄関に足を踏み入れた。
出汁のにおいが、ふわりと鼻をくすぐる。
それだけで、胃袋が刺激された。
「いい匂いだな。」
「今日は、大したもんじゃないよ。適当に作っただけだ。」
「その適当が、うまいんだよ。」
キッチンリビングのテーブルには、司お得意のパパイヤとささみの酢のものに、みょうがと青じそをのせたなす焼き浸し・・・そして、いくつもの小鉢が、並んでいた。
「ささみとナスは、いつものだけど、小鉢のは、見たことないな。自分で漬けたのか?」
「うんうん。結構、うまくできた。」
そう、目を引いたのは、小さな皿いっぱいに盛られた鮮やかなお新香。
きゅうりに、大根、人参、白菜。
どれも瑞々しく、包丁の切り口まで美しい。
「店で、出せるだろ。」
「褒めすぎだ。」
笑う司を立たせたまま、席につく。
冷えたビールが、グラスではじけて、軽快な音を立てた。
「じゃあ。」
「お疲れぇっ!」
グラスが触れ合い、澄んだ音が響く。
喉を潤したあと、迷わず箸をお新香へ伸ばした。
きゅうりを口へ運ぶ。
ポリッ
歯を立てた瞬間、心地よい音。
塩気は、穏やかで、野菜の甘みが広がる。
「うまいっ。」
「そうか?」
司は、カウンターキッチンの向こう側に立ち、トントンと包丁の音をさせながら笑った。
いつものスタイル。
こいつは、料理をするのが本当に好きな奴だ。
今度は、大根。
ほんのりとした甘み。
「市販のとは、全然違うな。」
「塩加減は、結構、気を付けてる。」
「これだけで、ビールがすすむ。」
たわいのない話をしているだけで、時計の針が、くるくると進んだ。
テーブルの下に並んだビールの缶は、すでに10本を超えている。
こっちは、トイレに立った以外は、座ったままだが、司は、ず~っと立ったままだった。
「ん?なんか、冷蔵庫にキュウリが1本まるまる漬かったままのがあった。こんなことしたかな?」
冷蔵庫を覗き込んだ司が、チャック式・・・ジップロックの袋に詰め込まれたキュウリを何本も取り出した。
「お?1本、そのままかぶりついて食べればいいのか?」
「バカ言えっ、切るよ。ちゃんと・・・」
そう言って、ふたりで爆笑した。
酔っ払いの軽口に、真面目に答える司の顔も、すでに真っ赤なのだ。
ふたりとも、つまらない冗談でも大笑いできるくらい酔いが回っている。
ストンっ、ストンっ、ストンっ
包丁が、キュウリを切る軽い音。
その音を聞きながら、流し込む冷たいビール。
心地よい時間とは、このことだろう。
目の前に出された新しい小皿に箸をのばし、お新香を口に放り込む。
ポリッ
冷たいっ!そして、うまいっ!
先ほどまで、冷蔵庫の中に放り込まれていたためだろう。
冷たい感触が、口の中に広がって何とも言えない。
さらに箸を伸ばし、漬けたてのきゅうりをつまむ。
口へ放り込み、歯を立てた。
ポリッ ポリッ ポリッ
小気味いい音。
いつもの軽い歯触り。
・・・いや。
もう一度、噛む。
ぐにゅり
柔らかい。
きゅうりの瑞々しさとは違う、妙に弾力のある感触が、歯に、まとわりついた。
眉をひそめながら、噛みしめる。
ぐちっ
舌の上へ、生ぬるい液体が広がった。
鼻へ抜ける、生臭さ。
鉄を舐めたような臭いが、口いっぱいに広がる。
・・・っ
塊を飲み込んだ喉が、ひくりと震え、吐き気が、一気にせり上がる。
ぺっ ぺっ ぺっ
必死で口の中のモノを、吐き出した。
唾液が、皿とお新香の間に落ちる。
息を乱しながら、見つめた。
唾液は、真っ赤。
恐る恐る顔をあげると、司と目が合った。
司は、包丁をまな板へ置くと、困ったように眉を下げた。
そうして、左手をシンクの縁に預けたまま、まな板へ目を落とす。
「・・・どおりで、一本足りないと思った。」
「一本?」
意味が分からず、まな板の上を覗き込む。
まな板の上のきゅうりは、5本。
さっきまでと変わらない。
自然と視線が、司へと戻る。
その時、はじめて、シンクから離れたその左手が見えた。
親指、中指、薬指、小指・・・
そこに確かにあったはずの一本が、見つからない。
さっき噛んだ、ぐにゅりという感触と、喉の奥へと転がり込んだやわらかな塊が、頭の中で形を持ちはじめていく。
テーブルの上、皿とお新香の間に落ちた赤い唾液は、ゆっくりと広がり、その形をゆがめていた。




