第九話 「凡人、名前を知る」
あの女の名前を知らなかった。
正確に言えば、聞こうとしなかったのかもしれない。第三観測線では、名前より先に「生き残ったかどうか」が来る。昨日まで隣に立っていた人間が、次の日にはいなくなる場所で、名前を覚えるのはどこか縁起が悪かった。
あの女の名前を知らなかった。
正確に言えば、聞こうとしなかったのかもしれない。第三観測線では、名前より先に「生き残ったかどうか」が来る。昨日まで隣に立っていた人間が、次の日にはいなくなる場所で、名前を覚えるのはどこか縁起が悪かった。
「……私、リィナって言うの」
記録室で、彼女は唐突にそう言った。
俺は紙から目を離さないまま、「今さらだな」とだけ返した。
「うん、今さら。でも、呼ばれないままなのも嫌だった」
その声に、逃げはなかった。戦場で一度だけ見せた、あの覚悟の残り香みたいなものが、まだ彼女の中に残っている。
「額賀は?」
「仁之」
名前を口にした瞬間、少しだけ胸の奥がざわついた。前の世界でも、ここでも、呼ばれることが減っていた名前だった。
「じゃあ、仁之」
呼ばれた瞬間、不思議と現実に引き戻された気がした。俺は確かにここにいて、確かに生きているのだと、嫌でも思い知らされる。
最近、第三観測線の扱いが変わり始めていた。戦況が好転したわけじゃない。むしろ逆だ。だが、俺の書いた記録が、下位の戦術会議に回されるようになった。英雄譚じゃない。勝利の方程式でもない。失敗が再現される条件、その羅列だ。
同じ地形、同じ判断、同じ焦り。そこに辿り着くと、同じ死に方をする。
それを文章にして残しているだけなのに、それが「使える」と判断されたらしい。
昼の配給列で、嫌な噂を聞いた。
「アルトが前線に戻ったらしい」
アルト。最初の配属で一緒だった転生者だ。理屈屋で、臆病で、それでも目だけはずっと諦めていなかった男。
「戦術補佐だってさ。記録を読む側に回った」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
その夜、俺は呼び出された。場所は、最初に転生者を集められた、あの白く神々しい建物の奥。参謀、役人、騎士団長が並ぶ中に、アルトがいた。
痩せていた。目の下に影が落ちている。それでも、目は生きていた。
「久しぶりだな、額賀」
「……ああ」
形式ばったやり取りの後、用件が告げられる。
「君の記録を、正式に戦術判断へ組み込みたい」
拒否権は、最初から用意されていない言い方だった。
「ただし条件がある」
アルトが視線を逸らす。
「記録の取捨選択は、こちらが行う」
やっぱり来た。
「全部渡せってことですか」
「全部は要らない。王国に不利な事実は、戦意を削ぐ」
建前だ。削ぎたいのは、上の連中の安心感だ。
「拒否したら?」
「第三観測線は解体される」
淡々とした宣告だった。
部屋を出た後、アルトが俺を呼び止めた。
「額賀、これはチャンスだ」
「何のだ」
「凡人が、戦争に口を出せる場所だ」
分かっている。分かっているからこそ、怖かった。
「アルト。お前、どこまで分かってる」
少し間があって、彼は言った。
「この王国は、負ける」
即答だった。
「だから今、負け方を選び始めてる」
その言葉が、胸に重く落ちた。
記録室に戻ると、リィナがいた。
「顔、最悪」
「いい話じゃない」
「そっか」
彼女はそれ以上、聞いてこなかった。
「ねえ、仁之」
「なんだ」
「もしさ、書いたせいで誰かが死んだら、どうする?」
答えは、すぐには出なかった。
「……それでも、書くと思う」
少しの沈黙のあと、彼女は小さく頷いた。
「じゃあ、私も逃げない」
約束みたいな言い方だった。
その瞬間、盤面が確実に変わったと分かった。
俺はもう、見ているだけの存在じゃない。俺の書いた言葉が、誰かの判断を動かし、誰かを前に出し、誰かを切り捨てる。
凡人が触れていい重さじゃない。
それでも、紙を前にすると、手は止まらなかった。
――事実を削ることは、未来を削ることだ。
――それを選ぶのは、書き手か、読む側か。
次に鐘が鳴るとき、この王国はもう一段、深い場所へ沈む。
その中心に、俺たちは立たされている。




