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凡人戦記― 異世界転生したら崩壊した王国スタート ―  作者: harap1239


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第九話 「凡人、名前を知る」


あの女の名前を知らなかった。


正確に言えば、聞こうとしなかったのかもしれない。第三観測線では、名前より先に「生き残ったかどうか」が来る。昨日まで隣に立っていた人間が、次の日にはいなくなる場所で、名前を覚えるのはどこか縁起が悪かった。



あの女の名前を知らなかった。


正確に言えば、聞こうとしなかったのかもしれない。第三観測線では、名前より先に「生き残ったかどうか」が来る。昨日まで隣に立っていた人間が、次の日にはいなくなる場所で、名前を覚えるのはどこか縁起が悪かった。


「……私、リィナって言うの」


記録室で、彼女は唐突にそう言った。


俺は紙から目を離さないまま、「今さらだな」とだけ返した。


「うん、今さら。でも、呼ばれないままなのも嫌だった」


その声に、逃げはなかった。戦場で一度だけ見せた、あの覚悟の残り香みたいなものが、まだ彼女の中に残っている。


「額賀は?」


「仁之」


名前を口にした瞬間、少しだけ胸の奥がざわついた。前の世界でも、ここでも、呼ばれることが減っていた名前だった。


「じゃあ、仁之」


呼ばれた瞬間、不思議と現実に引き戻された気がした。俺は確かにここにいて、確かに生きているのだと、嫌でも思い知らされる。


最近、第三観測線の扱いが変わり始めていた。戦況が好転したわけじゃない。むしろ逆だ。だが、俺の書いた記録が、下位の戦術会議に回されるようになった。英雄譚じゃない。勝利の方程式でもない。失敗が再現される条件、その羅列だ。


同じ地形、同じ判断、同じ焦り。そこに辿り着くと、同じ死に方をする。


それを文章にして残しているだけなのに、それが「使える」と判断されたらしい。


昼の配給列で、嫌な噂を聞いた。


「アルトが前線に戻ったらしい」


アルト。最初の配属で一緒だった転生者だ。理屈屋で、臆病で、それでも目だけはずっと諦めていなかった男。


「戦術補佐だってさ。記録を読む側に回った」


胸の奥が、嫌な音を立てた。


その夜、俺は呼び出された。場所は、最初に転生者を集められた、あの白く神々しい建物の奥。参謀、役人、騎士団長が並ぶ中に、アルトがいた。


痩せていた。目の下に影が落ちている。それでも、目は生きていた。


「久しぶりだな、額賀」


「……ああ」


形式ばったやり取りの後、用件が告げられる。


「君の記録を、正式に戦術判断へ組み込みたい」


拒否権は、最初から用意されていない言い方だった。


「ただし条件がある」


アルトが視線を逸らす。


「記録の取捨選択は、こちらが行う」


やっぱり来た。


「全部渡せってことですか」


「全部は要らない。王国に不利な事実は、戦意を削ぐ」


建前だ。削ぎたいのは、上の連中の安心感だ。


「拒否したら?」


「第三観測線は解体される」


淡々とした宣告だった。


部屋を出た後、アルトが俺を呼び止めた。


「額賀、これはチャンスだ」


「何のだ」


「凡人が、戦争に口を出せる場所だ」


分かっている。分かっているからこそ、怖かった。


「アルト。お前、どこまで分かってる」


少し間があって、彼は言った。


「この王国は、負ける」


即答だった。


「だから今、負け方を選び始めてる」


その言葉が、胸に重く落ちた。


記録室に戻ると、リィナがいた。


「顔、最悪」


「いい話じゃない」


「そっか」


彼女はそれ以上、聞いてこなかった。


「ねえ、仁之」


「なんだ」


「もしさ、書いたせいで誰かが死んだら、どうする?」


答えは、すぐには出なかった。


「……それでも、書くと思う」


少しの沈黙のあと、彼女は小さく頷いた。


「じゃあ、私も逃げない」


約束みたいな言い方だった。


その瞬間、盤面が確実に変わったと分かった。


俺はもう、見ているだけの存在じゃない。俺の書いた言葉が、誰かの判断を動かし、誰かを前に出し、誰かを切り捨てる。


凡人が触れていい重さじゃない。


それでも、紙を前にすると、手は止まらなかった。


――事実を削ることは、未来を削ることだ。

――それを選ぶのは、書き手か、読む側か。


次に鐘が鳴るとき、この王国はもう一段、深い場所へ沈む。


その中心に、俺たちは立たされている。

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