第八話 「凡人、記録の価値を知る」
王国は、負けを隠すのが上手くなっていた。
前線の地図が書き換えられる。陣地の色が、いつの間にか後ろへずれている。撤退ではない、再配置だと言い張るための、ほんの数本の線の引き直し。
王国は、負けを隠すのが上手くなっていた。
前線の地図が書き換えられる。陣地の色が、いつの間にか後ろへずれている。撤退ではない、再配置だと言い張るための、ほんの数本の線の引き直し。
兵舎に戻ってきた騎士の数は減っているのに、補充兵の数は増えない。死者が減ったわけじゃない。最初から、数えられていないだけだ。
俺の机には、二種類の記録が積み上がるようになった。
一つは、提出用。
もう一つは、誰にも渡さないやつ。
後者の方が、分厚くなるのは時間の問題だった。
「……これ、見せていいの?」
夜、例の女が小声で言った。城内の倉庫で見つけたという補給記録だ。日付と数量が合っていない。兵の数より、明らかに少ない。
「見せたら、消される」
「だよね」
彼女は納得したように頷く。
「じゃあ、残す?」
「残す」
即答だった。
消されることと、間違っていることは、別だ。
最近、彼女はよく俺のそばにいた。理由を聞いたことはない。聞かなくても分かる。第三観測線で、彼女は一度も逃げなかった。その事実だけが、ここでは重い。
「ねえ」
「ん?」
「記録ってさ、人を守る?」
不意に、そんなことを聞かれた。
俺は、しばらく考えた。
前の世界で、記録は何も守らなかった。成績も、履歴も、反省文も、俺を救ってはくれなかった。
「守らないことも多い」
正直に答える。
「でも」
言葉を選ぶ。
「誰かが嘘をついたってことだけは、残せる」
彼女はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「それなら、十分だと思う」
翌日、王都の下層区画を通る許可が出た。理由は、被害状況の再確認。名目だけは丁寧だ。
実際に見えたのは、数字に載らない王国だった。
倒壊しかけた家。片腕を失ったまま物乞いをする元兵士。避難所に入りきらず、壁際で眠る子ども。
「この辺は、記録しなくていいって言われてる」
案内役の若い騎士が、気まずそうに言った。
「王都の士気が下がるから、だそうです」
「……士気って、誰の?」
答えは返ってこなかった。
城に戻ると、また呼び出しがあった。
今度は、役人じゃない。軍の参謀だった。
「額賀」
「はい」
「君の記録は、現場では重宝されている」
また、その言葉だ。
「だが、上は君を危険視し始めている」
「危険、ですか」
「剣を振らない人間ほど、怖い時がある」
はっきり言う人だった。
「君は、戦況を変えていない。だが、人の判断を変え始めている」
それは、褒め言葉じゃない。
「忠告だ。どこまで書くか、選べ」
「選ばなかったら?」
参謀は、少しだけ笑った。
「その時は、君の記録が不要になる」
消される、という意味だ。
夜、俺は一人で紙を広げた。
書けること。
書かないこと。
書いたら消えること。
書かなくても、消えること。
全部を並べて、ようやく気づいた。
これはもう、観測じゃない。
参加だ。
戦えない凡人が、戦争に参加する方法は一つしかない。
事実を、残し続けること。
最後の行に、俺はこう書いた。
――この王国は、まだ滅びていない。
――だが、嘘の量だけは、確実に増えている。
紙を閉じる。
外では、また鐘が鳴っていた。
前よりも、短く。
前よりも、近い音で。




