第五話 「記録係、残される」
撤退の翌日、城は妙に静かだった。
負傷兵の呻きも、怒号も、昨日で一通り出尽くしたらしい。代わりにあるのは、整理された沈黙だ。生き残った者たちが、それぞれの場所で「生き延びた理由」を探している時間。
撤退の翌日、城は妙に静かだった。
負傷兵の呻きも、怒号も、昨日で一通り出尽くしたらしい。代わりにあるのは、整理された沈黙だ。生き残った者たちが、それぞれの場所で「生き延びた理由」を探している時間。
俺は記録室にいた。
石造りの小部屋で、窓は一つ。机と椅子と、昨日俺が書いた紙の束。血は付いていないが、内容だけは十分に生臭い。
戦闘記録、と一括りにされるそれは、実際にはもっと雑多だ。
時系列も曖昧だし、主観も混じる。英雄譚になる要素なんてどこにもない。
「判断が遅れた」
「恐怖で硬直した」
「命令が伝わらなかった」
そんな言葉が、淡々と並んでいる。
扉がノックされた。
「……入るぞ」
返事をする前に、扉は開いた。入ってきたのは、第三観測線をまとめていた老騎士だった。名前は知らない。知る必要もない立場の人間だ。
「お前が、昨日の記録係か」
「そうです」
「感想は?」
随分と雑な聞き方だった。
「……戦場は、整理されていませんでした」
「だろうな」
彼は頷き、机の上の紙に目を落とした。
「だが、これは整理しようとしている」
俺は何も言わなかった。評価されたいわけじゃない。ただ、事実を並べただけだ。
「前線の指揮官がな、昨日の突破を『想定外』で片付けようとしている」
老騎士は、低い声で続ける。
「だがこの記録を見る限り、想定外じゃない。起きるべくして起きた」
紙を一枚、指で叩いた。
「恐怖による硬直。連携不全。後退経路の未共有。どれも、前から兆候はあった」
「……それを書きました」
「書いたな。余計な感情も付けずに」
そこで初めて、彼は俺の顔を見た。
「それは才能だ。戦えないこととは、別のな」
才能、という言葉に、少しだけ違和感を覚えた。
俺は才能という言葉が嫌いだ。前の世界で、散々それに期待して、裏切られてきた。
「俺は、戦えません」
「知っている」
即答だった。
「だが、戦えない者が全員無価値なら、軍はとっくに崩壊している」
老騎士は、紙の束をまとめて抱えた。
「この記録は、上に回す。名前は出ない。だが、使われる」
「……はい」
それだけで十分だった。
彼が去ったあと、部屋はまた静かになった。
窓から見える中庭では、兵が黙々と武具を直している。昨日、同じ場所で倒れていた誰かの姿は、もうない。
しばらくして、あの女が来た。
包帯が増えている。歩き方も少しぎこちない。
「……生きてる?」
第一声がそれだった。
「そっちこそ」
彼女は小さく笑って、椅子に腰を下ろした。
「ねえ。昨日のこと、書いた?」
「書いた」
「全部?」
「逃げなかったことも、怖かったことも」
一瞬、彼女は視線を逸らした。
「……それ、誰かに読まれるんだよね」
「多分」
「嫌じゃない?」
「嫌だよ」
即答すると、彼女は意外そうな顔をした。
「でも、消す理由もない」
「……そっか」
沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。ただ、言葉を選ぶ必要がある静けさだ。
「私さ」
彼女が、ぽつりと言った。
「英雄になりたかったわけじゃないんだよ。ただ、逃げたって言われたくなかった」
「それも、書いた」
「ひどい人」
そう言いながら、彼女は少しだけ楽そうだった。
「ねえ、額賀」
「なに」
「次も……見る?」
質問というより、確認だった。
「見る」
俺は答えた。
「見て、書く。それしかできない」
「それでいいと思う」
彼女は立ち上がり、扉に向かう。
「戦えない人が、ちゃんと見てくれるなら。少なくとも、無駄死にはしない気がする」
扉が閉まる。
一人になった部屋で、俺は新しい紙を取り出した。
次の戦いは、きっともっと酷い。
それでも、誰かが判断を放棄しない限り、全部が終わるわけじゃない。
凡人の役割は、英雄になることじゃない。
世界が壊れていく過程を、途中で止めるための“目”になることだ。
それがどこまで通用するかは、まだ分からない。
だが少なくとも、俺はもう立ち尽くしてはいない。
紙に、今日の日付を書く。
第五話は、ここまででいい。
続きを急ぐ必要はない。崩れる世界は、勝手に先へ進むのだから。




