第三話 「凡人、価値」
教官の言葉は、それ以上説明されることなく訓練は終わった。
「凡人が足りない」と言われても、拍手が起きるわけでもなく、周囲の視線が変わるわけでもない。ただ、空気だけが少しだけ重くなった。
教官の言葉は、それ以上説明されることなく訓練は終わった。
「凡人が足りない」と言われても、拍手が起きるわけでもなく、周囲の視線が変わるわけでもない。ただ、空気だけが少しだけ重くなった。
兵舎へ戻る道すがら、アルトが何度もこちらを見ては、何か言いたげに口を閉じるのを繰り返していた。
「……さっきの、どういうことだと思う?」
我慢できなくなったのか、ようやく聞いてきた。
「さあな。俺にも分からない」
それは本音だった。特別な力がある感覚はなかったし、あの石にひびが入った理由も、正直なところ見当がつかない。前の世界で何かを評価された記憶がほとんどない人間に、突然「妙だ」と言われても、困るだけだ。
「でもさ」
アルトは少し声を落とす。
「何も出なかったやつ、何人か別の列に連れていかれてた」
振り返ると、確かに訓練場の端で数人が騎士に囲まれている。表情は読めないが、安心している顔ではなかった。
「役割分けだろ」
「それって……」
「戦わない役もある、ってことだ」
自分で言いながら、どこかで納得していない自分がいた。
前の世界では、役割がないこと自体が、存在しないことと同義だったからだ。
その日の夜、兵舎に一人の騎士が現れ、俺の名前を呼んだ。
「額賀仁之。ついてこい」
アルトが一瞬こちらを見る。
大丈夫だと言うほどの自信はないが、行かない理由もなかった。
通されたのは、訓練場の奥にある小さな部屋だった。豪華さはなく、机と椅子、それに例の石板が一枚置かれているだけだ。
「座れ」
向かいに座ったのは、昼間の教官とは別の男だった。年齢は分からないが、目だけが異様に疲れている。
「お前、自分が特別だと思うか?」
唐突すぎて、少し考えた。
「思いません」
即答に近かった。
「即答だな」
「思ったことがないので」
男はふっと鼻で笑った。
「そういうやつほど、厄介だ」
机の上に、薄い紙が置かれる。文字は見たことのない言語だが、不思議と意味だけは頭に入ってきた。
「ここでは、力がある者ほど消耗が激しい。魔力が強ければ感情に引きずられ、命力が強ければ体を壊す。元力が強ければ、過去に呑まれる」
男は淡々と続ける。
「だが、お前はどれも中途半端だ。中途半端すぎて、噛み合っていない」
褒められている感じはしない。
「それが、価値ですか」
男は一瞬、言葉を止めた。
「価値というより、余地だな」
余地。
前の世界では、一度も言われなかった言葉だ。
「この国はもう、壊れかけている。強い者だけでは回らない。迷い、立ち止まり、それでも折れない者が必要だ」
俺は黙って聞いていた。
折れない、という言葉が、胸の奥で少しだけ引っかかる。
「兵としての適性は低い。だが、兵で終わる必要もない」
男はそう言って、立ち上がった。
「明日から、お前は通常訓練に加えて、別の記録を取る。命令だ」
部屋を出ると、夜の空気がやけに冷たく感じた。
兵舎へ戻ると、アルトが起きて待っていた。
「呼ばれてたな」
「まあな」
「……何か、言われた?」
どう答えるか、一瞬迷った。
でも、誤魔化す気にはならなかった。
「俺は、使いにくいらしい」
アルトは少し笑った。
「それ、悪くないな」
「そうか?」
「少なくとも、捨てられてはいない」
その言葉は、思っていたより胸に残った。
寝台に横になり、天井を見つめる。
前の世界では、何者にもなれなかった。なろうとした結果、何も残らなかった。
でもこの世界では、まだ何者でもないこと自体が、理由になるらしい。
それが救いなのか、罠なのかは分からない。
ただ一つ分かるのは、俺はもう、何もせずに流される場所にはいない、ということだった。
夜明け前、兵舎の外が妙に騒がしかった。金属がぶつかる音と、誰かの怒鳴り声、それに混じって焦げたような匂いが鼻につく。夢かと思ったが、天井はいつも通り低く、体もちゃんと重い。現実だ。
外に出ると、訓練場の端で人だかりができていた。松明の光の中、数人の転生者が地面に座らされ、騎士たちに囲まれている。昼に別の列へ連れていかれた連中だと、すぐに分かった。
「何があったんだ?」
隣で同じく出てきたアルトが小声で聞く。
「さあ……」
答えながら、胸の奥がざわつく。あの顔だ。前の世界で、何度も見た。何かを「やらかした」人間の顔。失敗というより、想定外に放り込まれた時の表情だ。
騎士の一人が、苛立った様子で言った。
「命力の制御ができていない。自己判断で力を使うなと、何度言えば分かる」
座らされている中の一人、若い女が震えながら言い返す。
「でも……使えって言われたから……」
「使えとは言ったが、暴走しろとは言っていない」
地面には、抉れた跡と焦げ跡が残っていた。人は巻き込まれていない。だが、それがたまたまだということは、誰の目にも明らかだった。
その時、背後から声がした。
「額賀」
振り返ると、昨夜の男が立っていた。相変わらず目だけが疲れている。
「来い」
またか、と思ったが、今度は訓練場の中心へ連れていかれる。視線が集まる。正直、居心地は最悪だった。
「お前なら、どうする?」
いきなりそう聞かれた。
「何を、ですか」
「力を持って、扱いきれないと分かった時だ」
即答できなかった。
前の世界で俺が持っていたのは、扱いきれない力じゃない。扱うほどの力が、そもそもなかった。
「……使わない、と思います」
男は少しだけ眉を動かした。
「理由は」
「失敗したら、取り返しがつかないからです」
訓練場が静まり返る。
「凡庸だな」
そう言われて、なぜか腹は立たなかった。
「はい。凡人なんで」
男は一瞬だけ口角を上げた。
「だから聞いた」
そして、座らされている転生者たちに向き直る。
「こいつは、力を持っても使わない選択をする。臆病だからだ」
ざわつきが起こる。
「だが、この国は今、その臆病さを必要としている」
騎士の一人が不満そうに口を開く。
「それでは戦になりません」
「戦だけで国が保つなら、ここまで崩れていない」
男はそう言って、俺を見る。
「額賀。お前は今日から、訓練中止者の観測を担当しろ」
「……観測?」
「使えなかった者、使いすぎた者、怖くなった者。その全員の記録を取れ。何を見て、何を選んだかを」
頭が追いつかない。
「俺に、そんなこと……」
「できない理由は?」
言葉に詰まる。
ない。できない理由が、思いつかない。ただ、やったことがないだけだ。
「……ありません」
「なら決まりだ」
男はそれだけ言って去っていった。
残された空気が、妙に重い。
座らされていた転生者の一人が、こちらを見て言った。
「なんで、あんたなんだよ」
責める声でも、助けを求める声でもない。ただ、疑問そのものだった。
「分からない」
俺は正直に答えた。
「俺も、分からない」
それでも、その言葉を聞いた何人かの表情が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
兵舎に戻る途中、アルトが肩をすくめる。
「また変な役目だな」
「慣れてる」
「え?」
「前の世界でも、いつもそうだった」
中心には行けない。だが、端にいる人間の顔だけは、よく見える。
それが役に立つことなんて、なかったはずなのに。
寝台に腰を下ろし、渡された記録用の紙を見つめる。
白い。何も書かれていない。
この世界で、初めて与えられた役割が、「戦わない判断を記録すること」だというのが、少しだけ可笑しかった。
でも同時に、胸の奥で何かが静かに動き始めているのも、確かだった。
凡人であることを理由に、初めて必要とされた。その事実だけが、今は妙に現実感を持って、そこにあった。




