第二十一話 「網の向こう側」
第三観測線は、地図上ではまだ線だった。だが現場では、もはや“線”として扱える密度を失っている。
朝、補給が届かなかった。正確には、届くはずの魔力が、途中で消えていた。
魔力網の節点は生きている。だが、流れてこない。
第三観測線は、地図上ではまだ線だった。だが現場では、もはや“線”として扱える密度を失っている。
朝、補給が届かなかった。正確には、届くはずの魔力が、途中で消えていた。魔力網の節点は生きている。だが、流れてこない。
理由は単純で、王国が魔力を「動かしすぎている」からだ。
「……網が、悲鳴上げてる」
リィナが低く言った。魔力感知が得意な彼女ですら、流れを追いきれないほど不安定だ。
魔力網は万能じゃない。元力を通し、命力を補助し、魔力を循環させるための“道”でしかない。
その道に、過剰な判断と過剰な期待を流し込めば、当然どこかで詰まる。
昼前、中央からの通達が届いた。
第三観測線を含む広域で、魔力運用方式を変更する。
契双を前提とした、短期的な出力引き上げ。
紙を読んだ瞬間、背中が冷えた。
契双は、本来、個人が自分に課す生死の契約だ。死の条件を設定し、限界を引き上げる。
それを、部隊単位で、半ば強制的に運用する。
「……誤用だ」
思わず声が漏れた。
「でも、勝てるんでしょ」
リィナが言う。その声に、期待はない。ただ、現実を測ろうとしている。
「短期的にはな。数字は上がる」
「じゃあ」
「その分、壊れる」
契双は、失敗したら即死する類の力じゃない。だが、条件設定を誤れば、命力の回復が追いつかなくなる。
戦場では“戦えなくなる”という形で死ぬ。
午後、実験的な運用が始まった。
確かに、強い。
一斉に放たれた魔力は、敵陣を押し返し、前線は久々に前へ進んだ。
勝っている。
少なくとも、地図の上では。
だが、記録を取る俺には見えてしまう。魔力流量の落差、命力の消耗速度、元力の歪み。
全部、許容範囲を超えている。
「仁之」
リィナが、少し息を荒くして戻ってきた。
「前、あんたが言ってたでしょ。正解が積み重なると壊れるって」
「ああ」
「今、それ?」
「今、それだ」
夕方、前線が持ちこたえられなくなった。
敵の反撃が強まったわけじゃない。こちらが、動けなくなった。
強化が切れ、回復が遅れ、判断が一拍ずつ遅れる。
魔法は遅れ、強化は途切れ、連携は紙一枚分、噛み合わない。
それでも王国は、後退命令を出さなかった。
勝っているからだ。数字上は。
夜、俺は記録を書きながら、初めて迷った。
このまま正確に書けば、明日も同じ判断が繰り返される。
「……ねえ」
リィナが、珍しく言葉を選びながら言った。
「逃げるって、ありだと思う?」
初めてだった。選択肢としての逃走を、彼女が口にしたのは。
「個人としては、ありだ」
「部隊としては?」
「……切り捨てられる」
彼女は、黙って頷いた。
「じゃあさ」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「あなたは、残る?」
「残る」
即答だった。
「理由は?」
「俺が降りたら、ここはもっと雑に壊れる」
英雄みたいな理由じゃない。ただ、嫌な未来が見えているだけだ。
彼女は、少しだけ笑った。
「ほんと、最悪な理由」
「褒め言葉として受け取る」
外では、勝利を告げる鐘が鳴っている。
前線は押し返した。戦果は上々だ。
だが俺は、紙にこう書いた。
――本日の勝利は、命力消耗を前借りした結果である。
――契双運用、短期的有効。中期的破綻確実。
――魔力網、限界近し。
これを読んだ誰かが、どう判断するかは分からない。
それでも、書かないという選択肢は、もうない。
第三観測線は、まだ崩れていない。
だが王国は、勝ちながら死に始めている。
俺は英雄にならない。
王国も救わない。
ただ、この壊れ方だけは、嘘なく残す。
最悪を、ほんの少しだけ、遅らせるために。




