第十九話 「使われる記録」
第三観測線が、まだ線として存在している理由は一つしかなかった。
壊れていく速度が、王国の想定より遅かったからだ。
第三観測線が、まだ線として存在している理由は一つしかなかった。
壊れていく速度が、王国の想定より遅かったからだ。
それは称賛でも、評価でもない。ただの誤算だ。だから王国は、その誤算を修正しようとした。
俺の書いた記録を使って。
朝、詰所に呼び出された。仮設とは名ばかりの、布と木で組まれた簡易指揮所だ。中に入ると、地図が何枚も並べられていて、赤と青の線が複雑に絡み合っていた。
そこに、俺の文字があった。
第三観測線、右翼崩壊兆候。
魔力流量、局地的に四割低下。
命力運用者、疲弊度限界域。
俺は、嫌な予感を覚えた。
「この判断についてだが」
指揮官が、俺の記録を指で叩いた。
「お前は、右を捨てろと進言したな」
「結果的には、そうなります」
「結果的に、では困る」
淡々とした声だった。
「王国としては、第三観測線をもう一日、維持したい」
俺は理解した。
維持したい、ではない。
維持できると思わせたい、だ。
「魔力網の再構築が間に合うと?」
「間に合わせる」
「どうやって」
「捨てる場所を、調整する」
その言葉で、全てが繋がった。
第三観測線は、もう“盾”として使われていない。
時間を稼ぐための、調整弁になっている。
俺の記録は、敵を避けるためじゃない。
味方を、どこで切るかを決めるためのものになり始めていた。
「……一つ、確認させてください」
「何だ」
「この記録、現場の判断補助として使われていますか」
一瞬の間。
それが答えだった。
「戦略判断に使っている」
戦略。
現場ではない。
「分かりました」
それ以上は言わなかった。言えなかった、の方が正しい。ここで反発しても、記録が使われなくなるだけだ。それは、もっと悪い。
出て行くとき、背中に視線を感じた。
期待でも信頼でもない。
便利な道具を見る目だ。
詰所を出たところで、リィナが待っていた。顔を見ただけで、何かを察したらしい。
「……使われた?」
「ああ」
「守るために?」
「時間を稼ぐために」
彼女は、少し黙ったあと、低く言った。
「それ、守ってないよね」
「守ってない」
事実だった。
第三観測線は、今日も持ちこたえた。だがそれは、偶然じゃない。誰かが、どこかで、余計に削られた結果だ。
午後、前線で小規模な衝突が起きた。規模は小さい。だが、配置が悪かった。
俺の記録通りだ。
魔力の供給が遅れ、援護が間に合わず、三人が倒れた。
死んだわけじゃない。
ただ、もう戦えない。
それでも、王国の判断としては「成功」だった。線は維持された。時間は稼げた。
夜、俺は紙を前にして、手が止まった。
書けば、また使われる。
書かなければ、もっと酷い形で壊れる。
逃げ道はない。
「ねえ、仁之」
リィナが、低い声で言った。
「もしさ……この戦争、勝ってもさ」
「うん」
「私たち、何か残ってると思う?」
俺は、すぐには答えられなかった。
勝利の定義が、もう分からなくなっていたからだ。
「……形は、残る」
「中身は?」
「保証できない」
彼女は苦笑した。
「正直だね」
「嘘を書く仕事じゃない」
「じゃあさ」
少し間を置いて、彼女は言った。
「どこで、降りる?」
その言葉は、冗談じゃなかった。逃げたい、じゃない。選択肢としての撤退を、初めて口にした。
俺は、紙を見た。
記録は、積み重なっている。
壊れ方の傾向も、速度も、見えてきている。
「……まだだ」
「理由は?」
「今降りると、誰が代わりに測るか分からない」
彼女は、しばらく俺を見ていた。
「自分が犠牲になる前提?」
「違う」
「じゃあ何」
「……もっと悪い形になるのが、嫌なだけだ」
リィナは、深く息を吸った。
「ほんと、凡人だね」
「褒めてないだろ」
「褒めてない。でも」
少しだけ、声が柔らいだ。
「嫌いじゃない」
遠くで、また鐘が鳴った。
次は、もっと大きな動きになる。
第三観測線は、まだ使われる。
俺の記録も、まだ使われる。
王国が壊れる速度は、確実に上がっている。
それでも俺は、書く。
誰かに都合よく使われるとしても、
少なくとも、嘘にはしないために。
それが、今の俺にできる、唯一の抵抗だった。




