第十七話 「前に出た理由」
前進は、想像していたよりも静かに始まった。
号令は短く、怒鳴る声もない。誰もが分かっていたからだ。ここから先は、気合でどうにかなる距離じゃない。整列は崩れ、隊形は実用優先になる。生き残るための形に、自然と近づいていく。
前進は、想像していたよりも静かに始まった。
号令は短く、怒鳴る声もない。誰もが分かっていたからだ。ここから先は、気合でどうにかなる距離じゃない。整列は崩れ、隊形は実用優先になる。生き残るための形に、自然と近づいていく。
第三観測線は、地形的には最悪だった。なだらかな斜面、遮蔽物は少なく、退路は一本だけ。防衛線としては三流、時間稼ぎとしては一流。王国の判断は、どこまでも合理的だった。
俺は後方寄りに配置された。視界は広い。だからこそ、見えてしまう。
前線の歩幅が、少しずつズレていくのが分かる。魔力の消費量に個人差が出始めている。魔力網の同期が追いつかない。流量の低下は、数字になる前に動きとして現れる。
誰かが遅れ、誰かが合わせ、誰かが無理をする。
戦争は、そうやって形を崩していく。
「仁之」
リィナが、俺の横に来た。鎧の擦れる音が、妙に大きく聞こえる。
「前に出すぎてない?」
「出すぎてるのは、俺たちじゃない」
視線の先、第一陣の一部が予定より早く接敵していた。敵影。まだ全容は見えない。ただ、数が多い。
「……来るね」
「ああ」
その瞬間、空気が変わった。
魔力が震える。音じゃない。圧でもない。皮膚の内側が、じわりと反応する感覚。訓練で何度も感じたはずなのに、実戦では毎回、嫌な思い出として上書きされる。
最初の衝突は、予想通りだった。
魔法は遅れ、強化は途切れ、連携は紙一枚分、噛み合わない。
それでも前線は踏みとどまった。勇敢だからじゃない。退く余裕がないからだ。
誰かが叫び、誰かが倒れ、誰かがそれを見なかったふりをする。視線を外した者から、順に生き残る。そういう局面だった。
俺は、書かなかった。
紙は持っていた。記録する準備もある。でも、今は違う。今ここで必要なのは、未来に渡す言葉じゃない。今を保つ判断だ。
「第三小隊、左が薄い」
俺は声を張った。伝令役でも指揮官でもない。ただ、見えてしまったから言った。
一瞬の間。誰かが迷う。だが、リィナが動いた。
「聞こえたでしょ! 左、詰める!」
命令口調でもない。頼みでもない。ただの事実の共有。それが、今の彼女の声だった。
数人が動く。完璧じゃない。でも、穴は塞がった。
その瞬間、俺は理解した。
俺たちは、もう「配置された駒」じゃない。盤面の歪みに、触れてしまった。
代償は、すぐに来た。
前線が一段、押し込まれる。想定より早い。敵の動きが、記録と違う。
「……学習してる?」
リィナの呟きは、小さかったが、的確だった。
「してるな」
魔獣の動きが、明らかに連携を意識している。偶然じゃない。こちらの反応速度を見て、踏み込むタイミングを変えている。
嫌なタイプだ。
戦争は、相手が間違えてくれないと成立しない。だが、今回は違う。
俺は、紙を見た。
そして、書いた。
――敵は、こちらの“限界”を見ている。
――消耗ではなく、判断を削りに来ている。
書き終えた瞬間、背後で爆音が鳴った。
振り返ると、後方支援の一部が崩れていた。想定外の被弾。魔力網が、一瞬だけ沈黙する。
「……来る」
リィナが言った。
次の波が。
これは、まだ始まりだ。第三観測線が壊れるのは、これからだ。
それでも俺は、前を見ていた。
逃げなかった理由は、まだ言語化できない。でも、分かっていることが一つある。
ここで目を逸らしたら、俺はもう二度と、何も書けなくなる。
だから、立っている。
凡人のまま、前に出ている。
それが、今の俺の選択だった。




