第十六話 「記録されない選択」
夜明け前の空は、色を失っていた。暗いというより、薄い。何かを塗り忘れたみたいな空だった。
夜明け前の空は、色を失っていた。暗いというより、薄い。何かを塗り忘れたみたいな空だった。
第三観測線は、すでに動き始めている。命令は出ていた。前進。再配置。索敵強化。どれも正しい言葉で、どれも現場を摩耗させる指示だった。
俺は壕の中で、最後の確認をしていた。魔力流量、通信の遅延、補給の到達予測。数字を並べれば並べるほど、結論は変わらない。
持たない。
防衛線としてではなく、時間を稼ぐ装置としてなら、成立する。それ以上でも以下でもなかった。
「……やっぱり、厳しい?」
背後から声がした。振り返らなくても分かる。リィナだ。
「厳しいって言葉だと、少し希望が混じる」
「じゃあ、どう言えばいい?」
「予定通り」
彼女はそれ以上聞かなかった。聞けば、数字が増えるだけだと分かっている。
しばらく沈黙が落ちた。外では部隊が動いている。足音、装備の擦れる音、短い指示。どれも急いでいないのが、逆に怖かった。
「ねえ、仁之」
「ん」
「さっきの記録……提出するんだよね」
「ああ」
「書き直し、言われてたでしょ」
「言われた」
「……直した?」
俺は、首を横に振った。
「一字も」
少し間があって、彼女は小さく息を吐いた。
「だろうね」
責めるでもなく、驚くでもない。ただ、確認が取れたという声だった。
「多分さ」
リィナは壁にもたれたまま言った。
「この後、何人か死ぬよね」
「うん」
「私も、その中に入る可能性、高い?」
「高い」
「そっか」
それだけだった。感情を削った言葉じゃない。最初から、余計な飾りがない。
「……それでもさ」
彼女は少しだけ視線を下げた。
「逃げなかったの、間違いじゃなかったって思っていい?」
俺は少し考えた。正直に答えないといけないと思った。
「王国の視点だと、正解だ」
「現場の視点は?」
「……分からない」
彼女はそれを聞いて、静かに頷いた。
「うん。それでいい」
分からないことを、分からないまま共有できる距離。それが、今の俺たちだった。
外で鐘が鳴った。合図だ。前線が動く。
俺は紙をまとめ、封をした。誰が読むかは分からない。そもそも、読まれない可能性の方が高い。それでも、書いた。
「仁之」
「ん?」
「もし、生き残ったらさ」
珍しく、言葉が途中で止まった。
「……いや、いい」
俺は何も言わなかった。続きを求めるのは、今じゃない。
壕を出ると、冷たい空気が肺に刺さった。空は相変わらず薄いままだ。
第三観測線は、前に出る。王国の選んだ形で、壊れに行く。
俺は思った。
これはもう、戦争の話じゃない。記録が追いつかない速度で、人が削られていく話だ。
そして、その最初のページは、もうめくられている。




