第十五話 「正しい敗北」
その決定は、拍子抜けするほど静かに下された。
怒号も、反対意見も、机を叩く音すらなかった。あるのは、紙をめくる音と、誰かが喉を鳴らす乾いた音だけだった。
「第三観測線を、前進させる」
読み上げる声は淡々としていて、まるで倉庫の配置換えでも告げるようだった。
俺は、その場で理解した。
これは前進じゃない。切り捨てだ。
理由は分かる。敵の動きを探るには、観測線を前に出す必要がある。魔力網の再構築が追いつかない以上、魔力依存の部隊を守るためには、比較的“失ってもいい”場所を盾にするしかない。
理屈としては、正しい。
だからこそ、最悪だった。
「……第三観測線には、転生者が多いですよね」
俺がそう言うと、上座の男は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻した。
「だからだ」
その一言で、全てが片付けられた。
転生者は、代替が利く。
訓練期間も短い。
戦力として未完成だが、情報は引き出せる。
そして何より、この世界に“根を張っていない”。
合理的だ。冷静だ。王国としては、正解に近い判断だろう。
会議が終わり、廊下に出たとき、足の裏に重さを感じた。歩けないほどじゃない。ただ、一歩一歩が遅れる。
リィナは、少し離れたところで待っていた。俺の顔を見た瞬間、何も聞かずに察したようだった。
「……決まった?」
「ああ」
「前進?」
「前進って言葉を使うなら、そうなる」
彼女は短く息を吐いた。怒りでも、恐怖でもない。ただ、覚悟を飲み込むための動作だった。
「私たち、餌だね」
「餌って言うと、反発される」
「でも事実でしょ」
否定できなかった。
その日のうちに、配置換えが始まった。第三観測線は、事実上の前線になる。撤退路はあるが、維持される保証はない。補給も後回しだ。
兵たちは、何も言わずに準備を進めていた。文句を言っても、状況は変わらないことを、もう知っている。
夜、仮設の詰所で、俺は記録をまとめていた。紙の上には、これまでの戦闘の失敗と成功、敵の行動パターン、そして今回の決定がもたらすであろう結果が並んでいる。
書けば書くほど、結論は一つに収束していく。
第三観測線は、壊滅する。
それも、無意味にではない。王国にとって“意味のある壊れ方”をする。
「ねえ、仁之」
リィナが、隣に腰を下ろした。距離は近いが、触れない。触れないままの方が、今は楽だった。
「もしさ」
彼女は少しだけ言葉を探してから続けた。
「私たちが、ここで全部ダメになったら……この記録、どうなると思う?」
「残る」
即答だった。
「誰かが使う?」
「使うか、捨てるかは分からない。でも、残る」
それを聞いて、彼女は小さく笑った。
「そっか。じゃあ、逃げなかった意味はあるね」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
逃げなかったことを、意味で肯定しなきゃいけない状況自体が、もう異常なんだ。
外では、部隊の移動が始まっている。鎧の擦れる音、命令の短い叫び、遠くで鳴る鐘。全部が、いつもより低く、重く聞こえた。
俺は紙に、最後にこう書いた。
――王国は、最善を選んだ。
――その最善は、現場を救わない。
――だが、間違いではない。
――だからこそ、この敗北は止められない。
書き終えたとき、妙に頭が冴えていた。恐怖はある。絶望もある。それでも、思考は澄んでいる。
多分、俺はもう分かっている。
この戦争で問われているのは、勝つか負けるかじゃない。
どんな形で壊れるかだ。
そして王国は、その形を選んだ。
選ばされたのは、俺たちだ。
夜が明ければ、前線は動く。
第三観測線は、前に出る。
それが、王国の出した答えだった。




