第十一話「静かな国は、戦争を信じない」
王都は穏やかだった。
穏やかすぎる、と仁之は思っていた。
王都は穏やかだった。
穏やかすぎる、と仁之は思っていた。
朝の鐘は正確に鳴り、魔力灯は一度も明滅せず、通りではパンの値段を巡るくだらない口論が続いている。戦争の気配は、生活のどこにも見当たらない。
だからこそ、彼は机に広げた観測記録から目を離せなかった。
「……三日前から、北方第二魔力線の流量が落ちてる」
独り言のように呟くと、向かいの席にいた女が顔を上げた。
彼女の名はリィナ。前線伝令上がりで、今は仁之の補助として記録室に出入りしている。
「また偶然って言われるやつ?」
「たぶんね。偶然は便利だから」
仁之は笑わなかった。
魔力流量の低下、契約更新の遅延、部隊再配置の不整合。どれも単体では誤差と呼べる。しかし、記録を重ねるほど、それらは同じ方向に傾いている。
王国は今、戦争を「管理できるもの」だと信じている。
英雄が前に立ち、魔法が均衡を保ち、戦術が被害を限定する。
そうやって、何度も勝ってきた。
だが、その前提を支えていた一人の名が、最近また書類に現れ始めていた。
「アルトの再評価、か……」
かつて戦場で判断を誤り、英雄になり損ねた男。
彼の残した撤退記録と判断ログが、近年の王国防衛理論の土台になっている事実を、上はあまり語りたがらない。
「英雄じゃなくて、逃げた人の記録が役に立つって、皮肉だよね」
リィナが言う。
「逃げたんじゃない。壊れる前に引いた」
仁之はそう返した。「それができる人間が、一番少ない」
昼過ぎ、王城からの通達が届いた。
国境警戒レベルは据え置き。追加動員なし。訓練計画も変更なし。
要するに、何も起きていないという判断だ。
その帰り道、仁之とリィナは城壁の上に立っていた。
遠くの平原は静かで、敵影などどこにもない。
「ねえ、仁之」
リィナが珍しく真面目な声を出した。
「もしさ、この国が負けるとしたら、どんな負け方だと思う?」
仁之はすぐには答えなかった。
風が城壁の旗を揺らし、王国の紋章がはためく。
「英雄が倒れる負けじゃない」
彼は静かに言った。
「戦う前提そのものが壊される負けだ」
リィナは少しだけ目を見開き、それから苦く笑った。
「最悪だね。それ」
「でも、あり得る。記録がそう言ってる」
夕方、記録室に戻ると、魔力計が一瞬だけ異常値を示した。
ほんの一瞬。誰も気に留めない程度の揺らぎ。
だが仁之は、それを見逃さなかった。
戦争は、まだ始まっていない。
ただ、王国が信じてきた「戦争の形」が、静かに終わろうとしている。
そのことを、知っている人間だけが、今この国にいる。




