第十話 「書かれなかった行」
王都の空気が、目に見えて重くなった。
朝の鐘は鳴っているのに、通りに人が少ない。市場は開いているが、声が低い。値段交渉も短く、誰も長居をしない。笑顔が減ったわけじゃない。ただ、笑う余裕が削られている。
王都の空気が、目に見えて重くなった。
朝の鐘は鳴っているのに、通りに人が少ない。市場は開いているが、声が低い。値段交渉も短く、誰も長居をしない。笑顔が減ったわけじゃない。ただ、笑う余裕が削られている。
戦況の悪化は、公式には発表されていない。だが、前線から戻ってこない部隊の数と、増え続ける「再編成中」という曖昧な言葉が、十分すぎるほど雄弁だった。
第三観測線は、半ば公的な部署になりかけていた。
俺の机の上には、以前より質のいい紙が積まれ、インクも切らさず補充されるようになった。その代わり、提出先が増えた。参謀本部、王都防衛局、戦術補佐室。名前だけは立派だ。
「ここ、消されてる」
リィナが俺の書いた草稿を指でなぞった。赤い線が一本、綺麗に引かれている。
「南門崩落時の指揮遅延、か」
「うん。これ、原因なのに」
「原因だからだろ」
俺は修正後の正式文書を見た。そこには、「予測不能な敵の奇襲」とだけ書かれている。便利な言葉だ。誰の責任にもならない。
「ねえ仁之」
「分かってる」
俺は、まだ提出していない原稿の束に手を置いた。
「全部出したら、採用されない」
「でも、出さなかったら」
「同じことが、また起きる」
リィナは黙った。否定も肯定もしない。その沈黙が、妙にありがたかった。
昼過ぎ、アルトが来た。
以前より立場が上がったはずなのに、態度は変わっていない。むしろ、余計な言葉が減った。
「仁之、次の会議で使う資料だ」
渡されたのは、俺の記録を元に再構成された戦況図だった。矢印は整理され、失敗の要因は丸められ、勝てそうな雰囲気だけが丁寧に残されている。
「これで、また人が前に出るな」
「そうだ」
即答だった。
「でも、全滅はしない」
その言葉に、怒りよりも疲労が来た。
「それが、選んだ負け方か」
アルトは一瞬だけ目を伏せた。
「生き残った人間が、次を考えるための負けだ」
「都合のいい言い方だな」
「現実的だ」
どちらも間違っていないのが、厄介だった。
夜、俺は一行だけ、正式文書に書き足した。
消されるのを承知で、だ。
――指揮の遅延は、構造上の問題であり、個人の判断ミスではない。
たった一文。責任を誰か一人に押し付けないための、ささやかな抵抗。
翌朝、その行は消えていた。
代わりに、文書の余白に、知らない筆跡で小さな印が付いていた。参謀でも役人でもない、現場の符号。
「……読んだな」
リィナが覗き込んで、言った。
「届いてるってこと?」
「ああ。たぶん、必要なところには」
王国は、もう一枚岩じゃない。上は整え、下は察し、現場は勝手に動き始めている。
英雄が戦争を動かす時代は、とうに終わっている。今は、誰が何を書き、何を消すかで、流れが変わる。
「ねえ、仁之」
「ん?」
「それでも書く?」
俺はペンを取り、次の紙に向かった。
「書かない理由が、なくなった」
凡人の仕事は、派手じゃない。剣も振らない。奇跡も起こさない。
ただ、消されると分かっている行を、それでも書き続けるだけだ。
王国がどんな形で終わるのかは分からない。
でも、少なくとも――
嘘だけで終わらせる気は、俺にはなかった。




