1 プロローグ
霧がかった五月の夜。
窓辺にあるソファーに座って、朧月をぼんやりと眺めていた。
何故か無性に悲しくて、まだ当分眠れそうにない。
ふと、窓に映る自分自身を見て、ため息が出る。
黄緑色の髪が僅かに顔を覆って、髪の隙間から覗く翡翠色の瞳は焦点が合っておらず、覇気がない。
紅茶でも飲んで気分を落ち着けようと、ローテーブルに視線を移した。
「!?」
突然、ソファーの背凭れ越しから、何者かに抱き着かれた。
部屋には私だけで、誰も呼んでいない。
こんな事、誰も私にしない。
「私が誰か分かる?」
「っ!」
耳元で囁かれた。
家族や侍従でもない、聞きなれない男性の声。
私を拘束する腕が緩んで、恐る恐る振り向く。
ソファーの背もたれ越しに立っていた男性は、月白色の髪に空色の瞳。
整った顔立ちをした長身の……。
本当に誰――――――!?
全く知らない人だった時の驚き。
そして、恐怖は計り知れない。
心臓がバクバクと音を立てている。
だってここは王都にあるラース辺境伯家の邸宅で、私、フローラの自室。
しかも、夜十一時。
既に侍女は下がり、用意して貰ったハーブティーを飲みながら、窓辺のソファーに座って、訳も無く気落ちしていた時に、背後から突然の不法侵入者。
ソファーに座って振り向いた体勢で、男性を見上げる。
「っ、誰?」
「やはり分からないか。」
「ですから、貴方は」
「私はアニュアス。フェイン国王の次男だ。」
「え?」
この人は嘘をついている。
フェイン国王陛下主催の夜会は、王家が勢揃いする。
貴族も参加義務があって、辺境の領地に引きこもっている私も、その夜会だけは参加している。
つまり、成人している国内貴族は、王家全員の顔と名前を知っている。
フェイン国王陛下の次男、第二王子のアニュアス殿下なんて、存在しない。
身の危険を感じて、ローテーブルにあるベルへと手を伸ばす。
軽く鳴らせば侍女が、激しく鳴らせば護衛が来てくれる。
「待て。」
背後から回された腕に上半身を拘束されて、背もたれに押さえ付けられると同時に、大きな手で口を塞がれた。
ベルまであと少しだったのに。
常に持ち歩いている護身用品を持っていなかったのも、キツイ。
「怖がらせてすまない。危害を加えるつもりは無い。色々あって、こうするしかなかった。話を聞いて欲しいだけだ。終われば人を呼んでも構わない。今は大人しくしてくれないか?」
その話は聞いて大丈夫な内容なの?
不安しかない。
どうにかして逃げたいけれど、見える腕は筋肉質で、剣士のそれだった。
背も高く体格差は歴然。
抵抗するだけ無駄。
降参するように体から力を抜いて頷けば、口を塞いでいた手は放された。
でも、上半身を拘束している手はそのままだから、動けない。
「済まないが、何か食べ物はない?朝から何も口にしていなくてね。」
王子が朝から何も口にしていないなんて、あり得ない。
本当に何者?
「……頂き物ですが、戸棚に焼き菓子が少しあります。拘束を解いて下さるなら、お持ちしますが。」
「逃げない、騒がないと約束出来る?」
「ええ。約束します。」
「いい子だ、フローラ。」
呼び捨て!?しかも頭を撫でられた!家族以外の男性に!
戸惑っていると、肩を押さえている力が緩んだ。
はっとして、素早くソファーから立ち上がり、戸棚へ向かいながら考える。
どこかで会った?分からない。
私は社交界で「引きこもり令嬢」と噂されるほど、望んで領地に引きこもっている。
どうしても参加しなければならない重要な夜会では、お父様かイヴァンお兄様にくっついているか、人がいないバルコニーや庭園、もしくは休憩室で時間を潰している。
だから男性と仲を深める機会なんて、ほぼ無い。
それなのに、王子のアニュアスと名乗る男性は、私を知っているばかりか、かなり親しい間柄のような馴れ馴れしさがある。
世の中には初対面にも関わらず、甘い言葉を囁き、令嬢を虜にする恋愛に積極的な人種がいると聞くけれど、彼もそのタイプ?
そんな人が私に話?
ふと、イヴァンお兄様の言葉を思い出す。
『話だけと言う男は、それだけでは終わらないから、ついて行ってはいけないよ』
話が終わったら人を呼んでいいと言われたけれど、身代金を要求されたらどうしよう。
戸棚を開けた時、ひらめいた。
逃げない、騒がないと約束したけれど、ベルを鳴らさないとは約束していない。
一般的に食べている時は、誰しも無防備になる。
その時にベルを鳴らして、話は、お父様と聞けばいい。
そうしよう、それが良い。
皿に並べたお菓子とカップをトレイに乗せて振り返ると、男性は私が座っていた二人掛けソファーに腰かけていた。
テーブルを挟んだ向かいにもソファーはあるのに、どうして。
男性を横目に見つつ、トレイをテーブルに置いて、気づいた。
ベルが無い!あった筈のベルが何処にも!
これでは誰も呼べない。
「フローラ、ここへ。」
男性がポンポンとソファーを叩き、隣へ座るよう促してくる。
少しでも距離を取りたくて、向かいのソファーに座ろうと思ったのに、上手くいかない。
仕方なく隣に腰かける。
男性は余程お腹が空いていたのか、私が何口かで食べる焼き菓子を、ほぼ一口で食べていた。
喉が乾くと思って、持ってきたカップに、冷めたハーブティーを注げば、ゴクゴクと一気に飲み干している。
ソファーの背もたれ越しで全身を見ていなかったけれど、近くで見れば見るほど王子とは、かけ離れた姿をしている。
確かに、腰に携えている剣の持ち手や鞘には豪華な装飾があり、剣だけ見れば、王国騎士団クラスの騎士かと思う。
けれど、着ている服は明らかに寝間着だし、喧嘩でもしたのか、生地が所々破れている。
何故か靴も履いていない。そのせいで足は傷だらけ。血が滲んで痛々しい。
私の作った薬なら、直ぐに治せるけれど、誰にでも使って良いものではないし、何をするか分からない不法侵入者に同情するのは、危険かもしれない。
そんな事を考えていたら、お菓子を食べ終わった男性が話しかけてきた。
「有り難うフローラ。お陰で生き返ったよ。」
本当に心から幸せそうな笑顔をする。
まるで差し入れを喜ぶ孤児院の子供達を見ているようで、つい気持ちが緩んでしまった。
「それで、私に話があるのですよね。お聞きしても?」
「先ずはここへ忍び込んだ経緯について話すよ。」
「忍び込んだのは、そうでしょうけれど、ここ、三階ですよ?それに警備も厳重だったはず。」
夜でも複数の護衛騎士が、庭や邸宅内を巡回している。
「私は身体能力には自信がある。それに、ラース辺境伯家には何度も訪問して、色々把握していたから、何とか侵入出来たよ。」
笑顔で悪びれる様子もない男性を見て、物凄く不安になってきた。
何度も訪問?色々把握?
王子がそんな事、するはずがない!
確信した。
この人は、やっぱり嘘をついている!