92、黒い契約
ある街の外れ。
人通りの絶えた石畳の奥に、看板の文字も剥げ落ちた小さなバーがあった。
軋む扉を押し開けるたび、乾いた鈴の音が鳴る。
店内は薄暗く、古いランプが琥珀色の光を落とし、酒と煙草と湿った木材の匂いが混ざり合っていた。
カウンター中央に、黒いコートを羽織った男が腰掛けている。背筋はまっすぐ、微動だにしない。
グラスの中の氷が、ゆっくりと溶ける音だけが時間の経過を告げていた。
隣の席に、長い髪を持つ女が静かに腰を下ろす。
「彼と同じものを」
低く告げると、女は紙巻き煙草を取り出し、慣れた手つきで火を点けた。
煙が揺らめき、ランプの光を歪める。
「……新しい依頼か?」
男は前を向いたまま問う。声は抑えられているが、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「そう。だから呼び出したの」
女は煙を吐き出し、淡々と答える。
「まだ前の依頼が終わっていない」
「緊急よ。最優先で、って」
男は小さく舌打ちした。
「計画を入れ替えるなんて、今までなかった」
女は男の横顔を盗み見る。
「……自信がない? 断る?」
「断るとは言っていない」
男はようやく女を見る。
「完璧なプランには、それなりの準備が必要だ。標的は一人か? それとも複数か?」
「一人よ。」
女はハンドバッグから半分に折られた紙を取り出し、滑らせるように差し出した。
男がそれを開く。
一瞬――指が止まった。
「……おい。これは聞いていない」
声が低く、鋭くなる。
「今、教えてるわ」
女は煙草を灰皿に置き、静かに告げた。
「標的は“アンブレイカー”――エルドリン・ファルコン」
「今の戦争の功労者だろうが」
「だからよ。
“彼”に消えて欲しいと思う側からの依頼」
女は薄く笑う。
「断る? “血刻のノクティス”」
男は目を伏せたまま、しばし沈黙した。
「……理由などどうでもいい」
ゆっくりと顔を上げる。
「依頼を引き受けるということは、“確実”に仕留めるという意味だ」
「成功報酬は一千万ギル」
「二千万なら受けよう」
即答だった。
「“彼”には、その価値がある」
マスターが二つのウィスキー・オン・ザ・ロックを置く。
氷が静かに鳴った。
「先方との交渉は君に任せる。着手金で五百万を用意してもらいたい」
「ええ、話はまとめておくわ。また連絡する」
男はグラスを一息に煽り、無言で立ち上がる。
黒いコートが翻り、扉の向こうへ消えた。
女は一人残り、契約成立を祝うようにグラスを傾けた。
同じ頃――。
エルドリンは、ガルム救出のため動いていた。
イリスは騎士団指揮に復帰し、作戦はエルドリンとソレンディルの二人に託される。
夜の空気は冷たく、星が冴え冴えと輝いている。
二人は隠蔽魔法を重ね、風と闇に溶けるように進んだ。
上空から、魔道具の反応を頼りに位置を探る。
――見つけた。
野営地では、闇の勢力が放ったワイバーンが旋回し、補給路と周囲の警戒を続けていた。
その下で、ガルムが天幕から出てくる。
「……少し外の空気を吸ってくるか」
独り言のように呟き、腰に手を当てて空を仰ぐ。
太陽はすでに地平線の向こうへ沈み、闇が世界を塗り替えていく。
「まだか……」
焦燥が胸を締め付ける。
「……ガルム……」
微かな声。
彼は迷わず歩き出した。
「立ち止まって」
再び声が響く。
次の瞬間、視界が帳のように落ち、世界が静寂に包まれた。
「話しても大丈夫ですよ」
エルドリンの声。
「迎えに来てくれたのか」
「当然です。この先の戦い、ガルム抜きでは進めません」
「……言い過ぎじゃないか?」
「そんなことはないよ。
君の穴を埋めるために、皆で必死に戦ってきたんだ。」
ガルムはソレンディルの言葉に小さく笑った。
「悪い気はしないな」
「では、帰りましょう」
風の精霊が応え、三人を包む。
野営地から十分に離れた地点で、転移魔法が発動した。
光が弾け、闇が反転する。
光が収まると、そこは作戦本部だった。
公王は三人の姿を認め、目に見えて安堵する。
アレクセイとリシェルが駆け寄った。
「援軍は集結していますか?」
「ああ。君の読み通りだ。改めて礼を言おう」
「それは何よりです」
エルドリンは一息つき、続ける。
「我々は再び動きます。
ガルム、急ぐ三カ所の優先順位を」
「俺でいいのか?」
「ええ。敵を最も近くで見ていたのはあなたです」
ガルムは腕を組み、考えを巡らせる。
「……エンペリアは既に叩いた。警戒は強い。
なら次はアルカディア王国、海軍拠点都市セリオンだ。
増援を送れなくするのが狙いだろう」
アレクセイが頷く。
「妥当だ。大軍を国外に出せば、内部の守りは薄くなる」
視線がエルドリンに集まる。
「決まりですね。次はセリオンです」
その一言で空気が動いた。
作戦本部を後にし、一同は待機していた中隊と合流。
飛空艇に分乗し、夜空へと飛び立つ。
闇の彼方で、
新たな戦いと、忍び寄る死神が、静かに牙を研いでいた。




