64、別れと再会
戦いの喧騒が遠ざかり、辺境都市フォルンハイムには静かな秋が訪れていた。
陽光は金色に柔らぎ、石畳の街路を琥珀色に染めている。
グリフォン討伐の功績を称えられたエルドリンたちは、久方ぶりの安息を得ていた。
だが明日にはイリスがエルメリオン王国へ帰還し、エルドリンも東方の古遺跡群――ミスティクレスト方面へと旅立たねばならない。
その前に、二人は「最後の一日」を共に過ごす約束を交わしていた。
朝の帝都中央通り。
屋台の並ぶ通りは香ばしい肉とスパイスの匂いに包まれ、人々の笑い声が陽に溶けていた。
「美味しい……こんな串焼き、久しぶりに食べたわ。」
頬をほころばせるイリスの姿に、エルドリンは思わず微笑んだ。
「団長殿にも、こんな無防備な顔があるとはね。」
「……もう、“団長殿”はやめて。今日は“イリス”でいいの。」
彼女がそう言って笑う。その横顔は、戦場で見た騎士団長の鋼の気高さとはまるで別人だった。
ただ一人の女性として、秋風に髪を揺らしながら笑っていた。
昼過ぎ、二人は美術館を訪れた。
古代エルフの絵画が並ぶ静寂の館。イリスは一枚の風景画の前に立ち止まり、目を細める。
「この山脈……私の故郷に似ているわ。懐かしい。」
「エルメリオン王国、か。緑深い街並みだと聞いた。――君の故郷を、君と歩いてみたい。」
「約束したものね。私の生まれた場所を、あなたに見せたい。……そして、私をもっと知ってほしい。」
その言葉に、エルドリンは静かに頷いた。
二人の指先が触れ合い、やがて確かに手が重なる。
言葉よりも真実のぬくもりが、そこにあった。
午後、二人は宝石商を訪れた。
ショーケースの中で淡く光るエメラルドのブレスレットに、イリスの瞳が吸い寄せられる。
「これ、素敵ね。」
彼女はひとつを取り、エルドリンの腕に試すように巻きつけた。
「似合うわね……あなたの瞳に映る緑が、この石の輝きに重なる気がする。」
「君の瞳のように美しい。これを見れば、いつでも君を思い出せる。」
「なら、同じものを私もつけるわ。――お揃いね。」
「離れていても、きっと繋がっていられる。」
店主が微笑みながら包みを差し出した。
「末永く、お幸せに。」
二人は視線を交わし、言葉の代わりに微笑みで応えた。
翡翠の光が二人の手首で柔らかく瞬く。それは、別れを予感しながらも結ばれた絆の証だった。
夕刻、教会の展望台。
帝都の屋根が朱に染まり、鐘の音が風に溶けていた。
イリスは手すりに寄りかかり、静かに問う。
「ねえ、エルドリン。あなたは、なぜ冒険者になったの?」
エルドリンは少し黙し、橙に染まる空を見上げて語った。
「私は太公の三男。継ぐ家もなく、騎士団に入ったのが十五の頃。
“エーテルリウム”という夢を視た。そして力を得て、次第に自分が騎士団という枠を越えていくのを感じた。生まれや肩書ではなく――“ひとりの人間”として生きる意味を見つけたかったんだ。」
イリスは黙って彼を見つめ、やがて微笑む。
「……私も似ているの。三姉妹の長女として、いつも家の誉れでなければならなかった。
“理想の娘”として、心を隠して生きてきた。でも――あなたに出会ってから、私の仮面は砕けたの。
あなたの前では、私はただの“イリス”でいられる。」
エルドリンは彼女を抱き寄せた。
沈む陽が二人の影を重ね、風が髪を撫でる。
「この旅が終わったら、君を迎えに行く。君の国、エルメリオンへ。」
「……本当に?」
「ああ。私の言葉に偽りはない。」
イリスは涙を堪え、微笑んだ。
「……待っているわ。あなたが、約束を果たすその日まで。」
夜、恋人たちが集うバー。
外では小雨が降り、ガラス越しに灯りが揺らめいている。
二人のグラスが淡い音を立てて触れ合った。
「……人生で一番、素敵な一日でした。」
「明日が来なければいいのにな。」
音楽が流れ、言葉のないまま寄り添う。
戦いも義務も、遠く霞んでいった。
流星がひとつ、夜空を横切る。
それは別れを告げる光でもあり、再会を誓う印のようでもあった。
翌朝。
冷たい朝気の中、フォルンハイム西門前で一行は別れの時を迎えていた。
イリスは微笑み、転移の詠唱を始める。
光が彼女の身体を包み込み、エルドリンと最後の視線を交わした。
――何も言わず、ただ頷き合う。
白い光の中に、イリスは消えた。
残された空気に、彼女の香と温もりが淡く残る。
エルドリンは深く息を吸い込み、言った。
「……さあ、行こう。」
仲間たちが頷く。新たな旅が、始まる。
雪降る高地の鉱山都市ドラウセン。
煙突の蒸気が冬空を霞ませ、通りでは毛皮を纏った人々が凍える指先を擦り合わせていた。
宿《山猫の巣》の扉を開けると、焚き火の匂いと笑い声が迎える。
そこに――懐かしい姿があった。
「……ソフィア?」
「エルドリン……! 本当に、あなたなのね!」
思わぬ再会だった。
彼女の碧い瞳が涙を宿し、頬が焚き火の赤で染まる。
やがてガルムとソレンディル、アシュリーも加わり、再会の喜びが宿の食堂を満たす。
夜、岩塩で焼き上げた猪肉の香が立ち込め、杯が打ち鳴らされた。
話題は戦いの数々へと及ぶ。
ソフィアは笑いながらも、エルドリンの変化を見つめていた。
その穏やかな瞳の奥に、かつてなかった静けさ――そして、愛を知る光。
(……恋を、しているのね。)
心がきゅっと痛む。
理解しているのに、追いつけない自分が悔しかった。
食後、ソレンディルの部屋。
ソフィアは胸の内を打ち明けた。
「彼……変わったわね。」
「イリスというハイエルフの騎士団長に出会った。彼女が、彼の心を動かしたの。」
「……そう。」
静かな沈黙の後、ソフィアは微笑んだ。
「胸が痛い。でも、不思議と悲しくはないの。」
彼女の瞳から涙が零れ、ソレンディルは優しく抱き寄せた。
夜更け、暖炉の前で。
エルドリンは炎を見つめていた。
「……どう言えば良かったのだろうな。」
傍らで横たわる聖獣ナイトが、低く喉を鳴らした。
翌朝。
冒険者ギルド《鉱脈の守り手》。
エルドリンの推薦状を見た受付嬢が息を呑む。
「アルカディア王国のレオニス三世陛下、エンペリア皇帝ネフィロス陛下、商都領主コンラッド卿の連名……!?」
ギルドマスター、ホセは慌てて出迎えた。
「この街に来てくださったのは幸運です。お願いがあるのです。」
ホセの声は切実だった。
「この街では病が広まり、水源の汚染が疑われています。
さらに鉱山麓の村がオーク軍団に襲われました。人手が足りません――どうか力を貸して下さい。」
「分かりました。」
エルドリンは地図を受け取り、即座に指示を下す。
「水源調査は私とソレンディルで行こう。
ガルムとアシュリーはソフィアに同行してオーク討伐を。」
「了解!」
ホールに戻ると、ソフィアとナイトが待っていた。
「私は水源へ向かう。オーク討伐は君たちに任せる。」
「……分かった。無理はしないでね。」
「君もだ。ナイト、頼んだぞ。」
ナイトが喉を鳴らし、雪の粉が舞い上がる。
別れ際、ソフィアは胸に手を当て、小さく呟いた。
「――やっぱり、あなたが好き。」
その声は白い息となって、冬空に溶けていった。




