57、古代語の解明を目指して
転移魔法の光が淡く収まると、そこは深き森と清流に囲まれたエルメリオン王国であった。
空はどこまでも澄みわたり、緑の木々は幾重にも重なり合い、枝葉の隙間から差し込む光は宝石のように輝いている。
ソレンディルは思わず深呼吸をした。故郷の空気は甘く、若葉の香りが心を癒やしてゆく。
王都の中心に建つ王立研究所は、白大理石と生木が調和する荘厳な建築だった。
高く聳える尖塔には蔦が絡み、風にそよぐ葉がまるで王国の歌声のように響いている。
ソレンディルは石畳を歩き、扉をくぐり抜け、慣れ親しんだ廊下を進んだ。
所長室の前に立ち、拳を軽く握り、静かにノックをする。
「どうぞ――」
柔らかで低い声が返る。
扉を開けると、そこには背筋を伸ばしたまま机に向かう壮麗な姿があった。
銀の髪を長く垂らし、翡翠の瞳に深き叡智を宿すハイエルフ、エルドラン・シルフェリオン。
ソレンディルが幼き日より師と仰いできた人物である。
「……ソレンディル!」
顔を上げたエルドランの表情に、温かな驚きと喜びが浮かぶ。
「先生……!」
堪えきれず、彼女の声が震える。
長い旅路と幾多の戦いを経て戻ってきた心の奥底から、安堵と懐かしさが溢れた。
エルドランは立ち上がり、静かに彼女の肩に手を置いた。
「よくぞ戻った……娘のように思っていたお前が、こうして再びここに立っている。
それだけで私の心は満たされる。」
その言葉に、ソレンディルの胸に熱いものが込み上げた。
やがて彼女は深呼吸をして、旅で見聞きした驚異を語り始める。
氷雪の聖域に住むフロスト・ジャイアント。
その長ヨトゥングリムが、古代語〈ハイエイシェント〉で語りかけてきたこと。
そして――人間でありながら神々の残滓「エーテリウム」を魂に宿す青年、エルドリンがその言葉を受け止めたこと。
「先生……彼と彼等の間で、言葉が交わされたのです。
神々の時代から伝わる古代語で……!」
語るごとにソレンディルの瞳は潤み、声は高揚していく。
エルドランは椅子に腰を下ろし、片手で顎を撫でながらじっと聞き入った。
驚嘆のあまり目を見開き、ときに深く頷き、時に穏やかに問い返す。
「フロスト・ジャイアント……存在したのか?……彼等が古代語を……?
そして、その青年……エルドリンといったか。彼が、古代語を……?
……なんと!エーテリウムは神々の残滓とな?」
「はい。彼は今、さらに恐るべき存在――古き氷を蝕む黒き影と呼ばれる、神々の残滓へ会いに行っています。フロスト・ジャイアントの問題を解決するために……!」
ソレンディルの言葉は熱を帯び、指先が震えるほどの感激を示していた。
彼女の声に込められた感情の全てを、エルドランは優しく受け止める。
まるで父が愛娘の夢と冒険の物語を聞くように。
「ソレンディル……。
お前が見てきたこと、そして彼が成し遂げていること――それは我らが長年求めてきた“失われた神代”への扉を開くものだ。
必ずや、彼を研究所へ招きなさい。彼と語らえる日が来るのなら……その時こそ、真の古代語解明の夜明けとなるだろう。」
その言葉にソレンディルは深く頷き、瞳に涙を溜めながらも笑みを浮かべた。
恩師の胸に響くように――彼女の心は、確かに未来への希望で満たされていた。
エルドラン所長との再会を終えたソレンディルは、研究所の大広間へと足を運んだ。
そこは天窓から柔らかな光が降り注ぎ、壁一面に並ぶ古代碑文の拓本や、無数の巻物と石版が並ぶ神聖な空間だった。
精緻な彫刻が施された書見台には、研究員たちが羽根ペンを走らせ、符号のような古代文字を必死に写し取っている。
彼女の姿を見つけた若き研究員たちは、驚きの声を上げた。
「ソレンディル様! ご無事で……!」
「長き旅に出ておられると伺っておりましたが……まさかここでお会いできるとは。」
彼女は微笑みながら頷き、研究員たちの視線を正面から受け止める。
「ただいま戻りました。……そして、皆に知らせたい大きな発見があります。」
その声に、大広間のざわめきが静まる。
彼女は一歩前へ進み、深く息を吸った。
「フロスト・ジャイアント……古代の叡智を宿す氷の巨人たちが本当に存在しました。
しかも、彼等は古代語〈ハイエイシェント〉を話していたのです!
彼等は伝説ではなく、今も生きて我らの前に立ち、言葉を紡いでいる。
そして――人間でありながら、神の残滓〈エーテリウム〉を魂に宿す青年、エルドリンがその言葉を受け止めたのです。」
一同の間にどよめきが広がる。
羽根ペンを持ったまま手を震わせる者、椅子から立ち上がる者、信じられぬと顔を見合わせる者――。
「神々の残滓を宿す者が……人間に……?」
「そんな存在が実在するとは……!」
「もし彼が碑文を読めるなら、古代の碑文の解読が一気に進む!」
研究員たちの瞳は興奮に燃えていた。
その熱気に包まれながら、ソレンディルの胸も高鳴る。
「ええ……彼となら、我らが長年見つけられなかった古代語の“文法”さえも、解き明かせるかもしれません。
エルドリンが試練を終え、戻った時には……必ずここへ連れてきます。
その時こそ、失われし神代の真実に触れる日となるでしょう。」
声を張り上げる彼女の姿に、研究員たちは次々と頷き、拍手が湧き起こった。
その音は天窓を通して森に響き、まるで木々が祝福の歌を奏でるようであった。
エルドラン所長はその場に現れ、静かに一言を添える。
「――皆よ、彼女の言葉を胸に刻め。近い未来、我らが夢見た“神の言葉”が再び語られる時が来る。」
ソレンディルは胸に手を当て、深く一礼した。
その瞳には決意が宿っていた――必ずやエルドリンをここへ導く、と。
研究所の大広間は拍手と熱気に包まれ、まるで祭典のようであった。
しかしその中で、ソレンディルはふと立ち止まり、奥に並ぶ古代碑文の断片へと視線を移した。
苔むした石板に刻まれた文字――それは彼女が幼い頃、師エルドランと共に幾度も解読を試みてきたが、どうしても意味が繋がらなかった一節である。
「……“閉ざされた古代の記憶”……“大地の真実”……」
彼女は指で文字をなぞりながら呟いた。
その瞬間、胸に去来するのは、エルドリンが語っていた言葉。
“エーテリウムの残滓”を宿す彼だけが触れ得る、未知の記憶と力。
まるで失われた文法の“欠片”を、彼がその身に抱いているかのように思えた。
研究員のひとりが駆け寄り、熱のこもった声をあげる。
「ソレンディル様、もしその青年が碑文を“感じ取れる”のであれば……文字に書かれていない意味までも掬い上げられるのでは?」
「……そう願います。」
ソレンディルは静かに頷いた。
「碑文は単語の意味が判明しても、文の構造が繋がらない。まるで誰かの記憶を欠いたように……。
エルドリンなら、その“欠けた部分”を埋められるかもしれません。」
彼女の声は、希望と震えるような期待に満ちていた。
そしてそれは研究員たちの胸にも火を灯した。
エルドラン所長は机に広げられた拓本を閉じ、皆を見渡した。
「我らが探してきたのは、ただの“翻訳”ではない。神代の時代に生きた者たちの思考そのもの……言葉の魂だ。
ソレンディル、そしてその青年――彼らこそが新たな扉の鍵となるだろう。」
大広間に再び静寂が訪れる。
ソレンディルは深く息を吸い込み、まっすぐ前を見据えた。
「……試練を乗り越えエルドリンが戻るのを麓の村で待ちます。
彼と共に、この碑文の謎を必ず解き明かしましょう。」
その言葉に、研究員たちの間からは静かな感嘆の声が漏れた。
古代の石板の文字が、陽光を浴びてかすかに輝いて見える。
まるで未来に続く道を示すかのように――。




