9 お別れするのは嫌だ
「この仕事をしているとな、いろんな魂に出会うよ。でも、こんなに真っすぐで頑固な魂は久しぶりだ。私は、同級生と絵本をつくるなんて、そんなの無理だって言ってやった。でもそいつは諦めなかった。いろんなところを連れまわされた。そしてやっと、クサキのお眼鏡にかなう人を見つけた。それが君だ、ミドリ。絵が特別好きなわけでもない。図書室にこもっている女の子。私は、どうしてと思った。それでも、クサキは正しかった。うまいとか、下手だとか、そういうことじゃなかったんだな」
ビズムさんは一気にそう言うと、優しい笑顔を見せた。気さくなお姉さんといった感じ。最初、怖いと感じたのが嘘みたいだ。
ビズムさんよりさらに優しそうなロットさんは、どこからともなく現れたティッシュで何度も鼻をかんでいる。
「ロット、泣くな」
「な、泣いてません……ただ、二人がとても懸命なのが、僕嬉しくて……応援したくなって、そうしたら、は、鼻水が止まらなくなって……」
「まったく困ったやつだ……放っておこう」
ビズムさんは静かに立ち上がる。
さて、と腕をまくる。
「ミドリ、契約は成立した」
私は立ち上がる。意気揚々と。
いつもそうだ。すぐに調子に乗ってしまう。
「しかし、まだ断ることはできる」
私はわかっていなかった。
いつのまにか、ビズムさんの手に握られているものを、見るまでは。
「なぜなら、もう一つ話さなければならないことが、残っているからだ」
ぎらりと光るそれは、私を見て笑っているように、綺麗なカーブを描いている。
クサキは、それをじっと見つめて、何を考えているのだろう。
「クサキの夢を叶えたとき、どうなるか、これを見たら、想像つくか?」
黒が好きな神様。
魂をつれていくと言ったとき、私が思い浮かべたのは、黒いフードをかぶった骸骨の姿をした神様だった。
手にしていたのは、大きな鎌。
ビズムさんが手にしているそれは、私の想像していたものよりさらに、大きかった。
「私たちのことを、涙もろくて、情に厚い、いいやつらだと君は思ったかもしれない。しかし、私たちは人間ではない。肉体から離れた魂を、あるべき場所へ連れていく──君らの世界で、私たちは死神と呼ばれている」
「死神……」
「そうだ。クサキの夢を君が叶えたとき、私たちはクサキを連れていく」
私の視界の隅で、クサキが静かに立ち上がって、言った。
「ずっと会えなくなるってことだ」
ずっと、会えなくなる?
クサキは死んでしまうということ?
口にする前に飲み込んだ。
クサキは、もう──。
「……い、いやだ」
私は、首を何度も振った。
いやだ。いやだ。
せっかく出会えたのに。せっかく仲良くなったのに。私の悩みを話せるほどに。
「お別れなんてしたくない」
ロットさんが、ティッシュを鼻に当てながら、私の方へ歩み寄ってきた。
「意地悪を言うようですが、仕事の一環ですので許してくださいね。ミドリさんが契約しないという考えに変えた場合、クサキ君のことと僕らのことは、あなたの記憶から消します」
「え……?」
つまりだ、とビズムさんが鎌を肩に持ち上げる。
「一緒に夢を叶えて、クサキを魂から助けるか、これまでの記憶をすべてなくして、日常に戻るか、どちらかだ」
「そんな!」
「やっぱりすぐには決まりませんよね」
ロットさんが、困ったように頭をかく。
「まあ、酷な話だよな。私たちだって、ひどいことを言っている自覚はある。でもこれがこの世の中の決まり事だ。ミドリ、よく考えてくれ。クサキ、何かあったらまた呼べ」
「どっか行っちまうのかよ!」
クサキの叫び声が、頭の中で鳴り響く。気がつくと、目の前が黒い煙でいっぱいになっている。
「おい! 死神! おい! 無責任だ! 何でだよ!」
遠くから聞こえる、クサキの叫び声。
黒い煙は、私の視界いっぱいに広がって、いつしか、夜みたいに真っ暗になる。星がない分、夜よりも怖い。
気がつくと私は、自分の部屋のベッドに座っていた。隣には、クサキがちょこんと座っている。もちろん、絵本付きだ。
「ひ、ひどいやつらだ……勝手だよ、なあ!」
クサキの声が、明るすぎる。
泣きそう。
でも、クサキは私の何倍も、泣きたいはずだ。
「……ミドリ。俺もいろいろ聞いたんだよ。怖い場所じゃないんだって、俺が連れていかれるところ」
クサキの声が、小さく、遠くで、悲しく響く。
何度も何度も、考えて、私が今受けているショックの何倍ものショックを受けて、それでも、クサキはそれを受け入れたんだろうか。
「この世界にいる方が、だんだん、苦しく怖くなるって。俺、そこは信じているんだ。あの二人、プロの死神だから、嘘はつかないよ」
プロの死神。
頭がズキズキする。
「私はクサキの夢をかなえたいけれど、クサキとお別れするのは嫌だ」
私は、そういって、立ち上がった。クサキが何かを言う前にと思って、部屋を出た。
何も、分からなかった。
「おねえちゃん、げんきないね」
リビングのソファにもたれかかっていたら、ゆう君にそう言われた。
「ゆう君はなんでもわかるんだね」
言った後に、それとも私がわかりやすく落ち込んでいたのかな、と思う。ため息がひとつ漏れる。ゆう君が私に寄りかかってくる。あたたかい。
時計を見ると、もう夜遅い時間だ。「ゆう君寝ないの?」と聞くと、ゆう君は黙って首を横に振るだけだ。
「ゆう君、昨日と今日と、お姉ちゃんに構ってもらえなくて拗ねてたのよねえ」
キッチンにいたお母さんが、くすりと笑った。「うるさいよう」と口答えするゆう君は、ふわふわのほっぺを目いっぱい膨らませている。かわいい。私がなでると、安心したように体をすりよせてきた。
昨日クサキに会って、今日まで、いろんなことを話した。いろんなことが変わった。私の心が追いつけない。こうやって、お休みすることも重要だ。
「おねえちゃん、けんかした?」
「ん?」
「ともだちと」
ゆう君が、手をもじもじさせている。かわいい。私が最近すぐに部屋に戻ってしまう理由を、必死に考えたのだろう。
「ごめんね、心配かけちゃったね」
「けんか、やだよねえ」
「けんかじゃないよ」
ゆう君がぱっと顔をあげて、にっこりと笑う。
「けんかじゃないの! よかった」
「新しいお友達ができたんだよ」
「すごい!」
転校生? とお母さんが聞いてきたので、返事に困る。
転校生のような存在ではあるけれど、転校生ではない。どちらかというと……「違うクラスの子」。私の返事に、そっかあ、とお母さんの声がはずむ。
「どんなともだち?」
ゆう君が、私の腕をぎゅっとつかむ。
「本が大好きな子だよ。元気で明るくてね、お姉ちゃんより何倍も大人なの」
「なんさい?」
「同じ年だよ。でもね、私よりたくさんのことを知っているし……たくさん、考えて……」
「おねえちゃん?」
今、クサキは部屋で一人、何を考えているのだろう。
私は何も考えられなくなって、思わず逃げてしまった。
でも、クサキは逃げる場所なんて、ない。
それなのに、置いてきてしまった。
「そ、その子にね、お手紙書く、お姉ちゃん。今から」
「なんで?」
適当に部屋に行く理由を作ってみたけれど、ゆう君はすぐには納得しない。
「今日ちょっと、その友達にひどいこと言っちゃったから、ごめんなさいのお手紙書くの」
「けんかした」
「違うの、二人でいろいろ考えて……お姉ちゃんが逃げちゃったから、ごめんなさいって」
私が立ち上がると、ゆう君は本当にさみしそうな表情をうかべる。
「ごめんねゆう君、今度遊ぼう」
「こんどっていつ?」
「今度は今度!」
私は早足でリビングを出た。クサキに言うことなんてわからない。それでも、そばにいたい。階段を早足で上る。
「おねえちゃん!」
たたた、と走る音がして、振り向くと、ゆう君がいた。
手に、折り紙を持っている。
ゆう君が、階段を上ってくる。
「これ」
差し出された折り紙は、ピンク色のチューリップ。
「あげ」
る、と言い終わる前に、ぐらり、とゆう君の体が後ろにそれる。