4 この絵本を作ってほしい
頭の中をぐるぐると回る言葉が、私を混乱させて、そのまま何とかご飯を食べて、私はすぐに部屋に戻った。
クサキには、お風呂に入ると告げて、お風呂にかけこむ。急いで体を洗う。怖かった。クサキの言う黒い人って何だろう、ここに現れたらどうしよう! 体の後は、短い髪を、勢いよく洗う。リンスもさっさとして、顔を洗うのが一番怖かったから、目を開けて洗って、湯船にばしゃんとつかる。
そのまま、しばらくじっとしていた。
音がなくなる。自分の心臓の音だけが聞こえる。
さっきクサキに話せばよかった。聞こえた声のこと、黒いきらきらのこと。どうしてお風呂に来ちゃったんだろう? ぐるぐると思考が湧き出てきて、止まらない。
お風呂を出て、体をふいて、ドライヤーで髪をかわかして、部屋に戻る。
その途中でユウ君に「遊ぼう」と声をかけられたけれど、宿題があると言って断って、部屋に戻る。
絵本を勢いよく開けて、ねえ! と叫ぶ。
「うわあ、びっくりした!」
「黒い人ってなに? 怖い! いたかも! 女の人?」
クサキの顔が青ざめる。女の人なんだあ。私は泣きそうになる。
「低い声がしたの、ご飯食べていたら、夢は無いのか? そちらのほうが、都合はいい、とか言ってて」
「あいつら、なんでわざわざミドリに聞こえるように言うんだよ……」
「誰なの、怖いよ」
クサキはううん、とうなって、腕を組む。何かに悩んでいるようだ。私は黙って、ベッドの隅に座る。膝に絵本を置いて、クサキが話し始めるのを待つ。
しばらく黙った後、クサキはうん、と頷いた。
「きっと、その女の人はわざとそういう行動に出たんだ」
「その人って誰……」
クサキは立ち上がり、ずい、と私に近づいた。私を見上げて、説明しよう、と偉そうに胸を張る。
「どうして俺がミドリに会いたかったかを説明する。本当はもっと仲良くなってから話そうと思っていたんだけれど、黒いやつらが」
「何人もいるの?」
「二人だ。黒い二人がミドリにそうやって近づいているってことは、あの二人は待てないってことだ。せっかちなんだよ」
ち、とクサキは舌打ちをして、宙を見上げる。
「……女の人の声が、夢の話をしたんだよな」
「そう、私に聞いたの。夢がないのかって」
「もうすぐ夏休みだよな」
うん、と私はうなずく。クサキはゆっくりと話す。言葉を慎重に選んでいるようだ。
「もしミドリが、夏休みにとってもしたいことがないのなら、少しだけでいいから、俺の夢をかなえる手伝いをしてほしいんだ」
「夢を……?」
ああ、とクサキが困ったような顔をする。
「嫌な断ってくれて構わない。俺はずっと、図書館で探していたのは、本が好きでまじめなやつ。そういう人が、俺の夢をかなえてくれるのなら、きっと俺の夢は素晴らしい形で叶う。そう思って、俺は探していた。そして、ミドリがいいなって思った。俺の夢をたくしたい」
「ど、どんな夢なの?」
「この絵本は、俺が作った絵本なんだ」
私は、クサキが乗っている絵本に目をやる。真っ白なページ。これは、もしかすると。
「友情絵本、だよね。完成していないの?」
「そうだ。俺はこの絵本を完成させるのが夢だった」
「夢……」
すごい。
私は素直にそう思った。
クサキの年齢は分からないけれど、同い年くらいなんじゃないかな、と思っていた。
私たちは、年齢も、名字も、知らないことばかり。
それでも、クサキはすごい。それだけはわかる。
私は、絵本を作ってみようという気持ちになったこともない。そんなことができると思ったことすらない。
夢って、そういうことなんだ、と思う。心臓がばくばくと鳴っている。
夢って、私が思っていたよりもずっと、きらきらとしていて、パワーを持ったものなんだ。
「素敵な夢。すごいよ」
でも、どうしてその夢を、私が一緒にかなえる必要があるんだろう?
私は想像する。妖精の世界には決まりがあって、絵本を作ることができない? それとも、人間を題材にした絵本が描きたくて、モデルになるような人間を探していた?
聞きたいことが次々と頭に浮かんでは消える。
「私には、何ができるのかな」
「この絵本を作ってほしい」
「……クサキが作るんじゃないの」
クサキは、ぎゅっと拳を握りしめ、足元に目をやった。
泣いているのを我慢しているようにも見える。私は、はっと気がついた。私の質問が、クサキを傷つけてしまったのかもしれない。
「ごめん、クサキにだって、妖精の世界の決まり事とか、あるよね。ごめんね。私、何も知らないのに」
「……いや、ごめん。正確に言うと、俺の頭の中にはアイディアがある。それを形にすることができないから、例えば絵をかいたり、そういうのをミドリにやってほしいんだ。何で俺が絵本を作ることができないのかは、ミドリが俺と一緒に絵本を作っていいと思えたら、そのときに話すよ。考えてみてくれ」
じゃあ、と言って、クサキはちょっと笑った。
「待って」
私の言葉を聞かずに、クサキの足元が絵本に沈んでいく。あっという間に、クサキは絵本の中にもぐってしまった。
絵本を揺さぶっても、逆さにしても、出てこない。
「そんな……」
私は絵本を閉じて、机に置くと、ベッドにごろんと横になった。
急にいなくなっちゃうなんてひどい。そう思ったけれど、クサキのあの悲しそうな、苦しそうな表情を思い出すと、ひどいと思う気持ちがなくなってしまう。
クサキは、きっとすごく勇気を出してくれたんだろうな。
勇気を出して、何かをするって、すごいことだ。
私はもう──あのころから、そんなことをしなくなってしまった。
目をつむると思い出す。広いステージ。
「クサキ」
この声は、クサキに届くかどうか分からない。それでも、私は話し続ける。
「あのね、私、四年生のころに、失敗しちゃったことがあって」
スポットライトの光と、手にじんわりとにじむ汗。
「あれから、何かに挑戦するのが怖くて」
震える足と声。遠くでなるピアノの音。
「でもね、だからかな、勇気をもって何かをする人の気持ちは、少しわかるよ。クサキは勇気をもって、私に話してくれたんだよね。違うかな。きっと、そうだよね」
夢を持つのは怖い。
失敗したら、どうするの?
皆、怖くないのかな。
クサキは、怖くなさそうだったな。
「自分の夢を話すのって、かっこいいんだね。すごいと思った。クサキ、もう私の返事は決まっているけれど、明日、しっかりと返事をするね。お昼休みに、図書室で話すよ」
夢かあ。
私は天井を見つめながら、考えた。
未来を描くのが怖くなってしまったあの日から、私は何をするにも怖がりになってしまった。未来を思い描くことも、何かを好きだと思うことも、勇気が出なくて、自分から遠ざけていた。
絵本を完成させるのが夢だと言った、クサキの、芯の通った声を思い出す。
あの一言で、私は勇気をもらったんだ。
クサキには、単純だって笑われるかもしれないけれど。
私の夢ではない夢を、追いかける。初めての経験だけれど、いいかもしれない。決めたのは、私の意思だ。
明日、昼休みになったらすぐに図書室に行こう。
クサキに、一緒に絵本を作ろうと言ったら、どんな顔をするだろう。
今から楽しみだ。