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13 今日が最後って、決めていた

 リビングのすぐ隣に、クサキの部屋があった。私の後ろから、クサキがゆっくりと入っていく。クサキの表情は、見えない。

 クサキの部屋には、勉強机と、たくさんの本が並んでいた。リビングとは違って、物がいっぱいある部屋だ。壁には、世界地図やスポーツ選手のポスターが貼られている。


「まだそのままにしているんです。埃っぽいですが……触っていないんです」


 クサキのお父さんが、悲しそうに微笑んだ。私は、なんて言っていいのか分からない。

「絵本を、探してもいいですか」

 私が言い終わる前に、クサキが私の後ろから、ふわふわと浮かんで、勉強机の上に着地した。私を見つめて、「上から二番目の引き出しの中」と言う。そこに絵本が眠っているのだろう。


「いいですよ。どこにあるかわかりませんから、私も一緒に探します」

「あ、多分、机の中の引き出しです。クサキ君と話したことがあるんです」


 私の言葉に、クサキがはは、と笑った。探すふりなんてできないもん。私はすぐに、クサキが言っていた引き出しを開けた。

 そこには、色鉛筆と絵の具と、白い本が入っていた。


「画材屋で見つけたんだ、その白い本。便利だよな」

 クサキがそう言って、ふわふわと私のすぐそばに体を寄せてきた。


 私は白い本を手に取って、クサキに言われた通りのことを、クサキのお父さんに伝えた。

「この白い本、画材屋さんで買ったって言っていました。こういうのが売っているんだ、便利だろって」

 そうでしたか、とクサキのお父さんは微笑んでいる。

 クサキが、耳元で言う。


「これは、森の妖精と女の子の友情物語なんだ。ひとりぼっちだった妖精が、女の子と出会って、友情を知るんだ」

 私はそれを、お父さんに伝える。

「森の妖精と、女の子の友情物語だって聞いています。妖精はひとりぼっちで、女の子と出会って、友情を知るんです」

「そうですか……全く知らなかった」


 はは、とクサキのお父さんは笑って、見せてくださいと絵本を手に取った。中身を見る。


「下書きがされていますね……そうですか。完成させたかったでしょうに」

「私もそう思います。クサキ君は、この絵本を完成させたかったと思います。だから、私がその思いを引き継ぎたいと思って」


 ふう、とクサキのお父さんが長い長いため息をつく。


「ありがとう。とっても嬉しいです。ミドリさん、一つお願いがあるのですが」

「何ですか?」

「この絵本は、このまま取っておきたいんです。これはお貸ししますし、白い絵本をもう一冊私の方で購入します。ですから……」


 クサキのお父さんが、目頭を指で押さえた。


「すみません。机も、引き出しも、押し入れも、何もかも、触れるのが怖くてそのままでした。でも、こうやって、クサキの知らない姿を見たら……これは、これのまま残しておきたくて」

 クサキは、私の前にふわふわと浮いているだけ。

 返事は私がしていいのだろうか。迷っていると、クサキが振り返って、私を見た。

 目が真っ赤だ。それでも、泣くのを我慢している。

「ミドリ、もちろんいいって、伝えて。それと、俺の机でも押し入れでも、何でも見てくれって……父さんがそれを望むのなら」


 私は小さくうなずいて、クサキの思いを口にする。


「あの、もちろんです。私も、クサキ君の書いたものはそのままにしておいた方がいいと思うんです。それと、私がこんなこと言うの変ですけれど、クサキ君は、きっとお父さんが机を見ても押し入れを見ても、怒らないと言うか……クサキ君のお父さんが望むようにしてほしいなって、思うんじゃないかって」


 クサキのお父さんが、涙をぽろぽろとこぼしている。

 私は、大人の男の人がこうやって泣くのをはじめてみた。なんて言ったらいいのか、分からない。困っていると、クサキのお父さんがごめんね、と笑った。


「涙がね……止まらないんです。息子の知らないことを、こうやって今でも教えてくれる人が現れるのが……奇跡のようで。ありがとう、ミドリさん」

「……私も、クサキ君にたくさん、感謝しているんです」


 私が一人でいることを、肯定してくれた。

 私が悩んでいたことを、聞いてくれた。

 私が心配していることを、一緒に心配してくれた。


「クサキ君は、私にとって、大切な友人です」


 泣きそうになったけれど、涙をこらえた。クサキのお父さんは、涙をぬぐって、ありがとうとつぶやいた。

 クサキは、何も言わなかった。

「この夏に、必ず完成させます」

 私の言葉に、クサキのお父さんは、もう一度ありがとうと言って、笑ってくれた。




「私、クサキ君とは絵本の話ばかりしていて、クサキ君がどんな子だったかって、あまり知らないんです。何が得意で、何が嫌いだったか……聞きたいんです。いいですか」


 リビングに戻って、お茶を飲みながら、私はそう切り出していた。長くいるのは失礼かなとも思ったけれど、クサキのお父さんは、嬉しいですと言ってくれた。

 クサキのお父さんは、クサキの話をたくさんしてくれた。

 クサキは小さなころから絵を描くのと本を読むことが大好きだったこと。

 運動は苦手で、運動会の前の日は決まって駄々をこねたけれど、当日になるとけろっと学校に向かっていたこと。

 外で遊ぶのは大好きで、よく木に登ろうとして足をすりむいて、泣きながら帰ってきていたこと。

 トマトが嫌いで、ピーマンが好きだったこと。

 海でくらげを踏んだことがあり、それから海に行くのは怖くなってしまったこと。


 クサキの、いろんなことを、私は聞いた。

 ゆっくり、私の知らないクサキが、クサキの形を作っていく。そんな気持ちになった。

 クサキの話をするのと同時に、私の話もした。


 小さなころから、歌も絵も読書も運動も大好きだったこと。

 運動会の前の日には、わくわくしすぎて眠れなかったこと。

 外で遊ぶのは大好きだけれど、木には虫がいて怖くて登れなかったこと。

 ニンジンが嫌いで、ナスが好きなこと。

 海で砂に絵をかいては、波がそれを消すのが好きで、海に入らずに浜辺でずっと遊んでいたこと。


 私のことをたくさん話して、私の知らなかった私も形作られる気がした。

 クサキのお父さんは、こんなに素敵な友達がいたんですねと、私の話を真剣に聞いてくれた。

 クサキの家を出たのは、日が傾いてからだった。


「またいつでも来てくださいね。絵本ができてからでも、そうじゃなくても。今度は、クサキとの思い出を聞かせてください」


 クサキのお父さんは、そう言って、駅まで送ってくれた。帰り道に、住所を教えてくれれば白い絵本を送ると言われたけれど、私が買うから大丈夫だと答えた。クサキのお父さんは申し訳なさそうにしていたけれど、夏休みの自由研究だからと言うと、了承してくれた。

 むしむしとした帰り道だった。夕焼けが見られるのは、まだもう少し先だ。夏の日は、長い。



 電車は相変わらず人が少なくて、クサキはふわふわと私の横を浮いているだけだった。

 言葉はうまく出てこなくて、私も黙って、窓の外を流れていく景色を見つめる。


「俺、お別れも言えないままだった」


 電車に乗ってから三駅目で、クサキは私の前にふわふわと移動したかと思うと、ぽつりとそう言った。


「連れてきてくれてありがとう。直接は伝えられないけれど、俺の中で、しっかり言えたよ。さようならと、ありがとうを」


「そっか……よかった」

 お別れは、あまりにも突然にやってくる。

 私は、そんなことも知らなかった。目を閉じる。暗闇。死神さんのまとっている色を思い出す。


「絵本ができたら、俺の家に行ってくれると嬉しい」


 目を開けると、クサキが私をじっと見つめていた。緑色の目が、きらりと日に当たって光っている。


「……それまでは、行かないでほしいってこと?」

「うん。もう、俺は、父さんには会わないから。今日が最後って、決めていたから」


 私は、分かった、と答えることしかできなかった。

 こんなとき、クサキが幽霊じゃなくて、すぐ隣に座っていたら、私はクサキを抱きしめていたと思う。それは、クラスの子がよくいっている、恋とかそういうのではない。


 友達だから。


 クサキを抱きしめられない代わりに、クサキの夢をかなえよう。

 私は、そっとカバンを抱いた。


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