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12 私は約束したんです

 次の日、朝早くに家を出た。電車に乗って、地図を見ると、乗り換えの時間が浮き出てきて驚いた。先頭の車両には人が三人しかいなかった。端の席に腰かけて、膝の上で本を開いた。


「今日、出かけても平気だったのか?」

「うん、お母さんに相談したら、お母さんはユウ君につきっきりになるから、むしろごめんねって言われた」

「そっか……」

「今日、いい天気でよかった」


 クサキは、そうだな、と窓の外に目をやった。そこから一時間半ぐらい電車に乗っていたけれど、クサキとはほとんど離さなかった。

 外を見るクサキの目はきらきらしていて、なぜだか私はさみしくなって、何も話せなくなってしまったのだ。



 クサキの家の最寄り駅に降り立って地図を見ると、「あと少し!」と言う文字と、ロットさんによく似た人のイラストが浮かび上がってきた。クサキに見せたいと思ったけれど、クサキは絵本の中だ。

 いちいち絵本を開かなければいけないのは、面倒だなあ。

「あの」

 小さい声で、つぶやいてみる。

「絵本から、クサキを出すことはできませんか。白いところでは、絵本なしでいられたじゃないですか、あんな感じで……」


 言い終わるとすぐに、肩にかけていたカバンが小さく揺れた。どうやらクサキの絵本が揺れているみたいだ。びっくりしてカバンから絵本を出すと、震えていた絵本は私の手から逃げ出すようにして宙に浮いた。そして、ページが勝手に開き、クサキが現れた。


「う、浮いてる?」

 クサキも私もびっくりして、しばらく言葉が出てこなかった。

「な、こ、こんなことができるなら、最初からしてくれよなあ!」


 クサキは宙に向かって拳をつきあげると、そう思わない? と首を傾げた。そう思う。私は真剣な顔で頷いた後、我慢できなくなって吹き出した。クサキも同時に吹き出して、二人でけらけらと笑い転げた。

 やっと笑いが収まって、よし行こう、と歩き始めて、絵本がふわふわと浮きながら私の隣をついてくるのがおかしくて、笑いながらクサキの家に歩いて行った。

 クサキの家は、アパートの三階だった。階段を上るまでは笑っていたけれど、上りきったら、クサキの顔から笑顔は消えていた。私も、急に緊張して、ドアの前で固まってしまった。


「……クサキ、いい?」

「準備はできてる」


 深呼吸をする。すって、はいて、もう一度すう。そして、インターフォンを勢いよく鳴らした。ドアの向こうで、ピンポン、という音がする。

「はーい」

 男の人の声だ。私の隣で、クサキが緊張して体をこわばらせる。私も、両手をぎゅっと握って、どうにか緊張を和らげようとした。


「はいはい、どちら様」

 チェーンをかけたまま、ドアが開いた。隙間から覗いていたのは、ほっそりとした男の人だった。私を見て、にこりと笑う。


「どちら様でしょう?」

「あ、あの、私、若草ミドリと言います。クサキ君の、友達です」

「クサキの……? 前に来てくれたことはあったかな」

「ないです、あの! 遠くに住んでいる友人で、その……クサキ君との約束を果たすために来ました」


 クサキのお父さんの目が、きらりと光ったように見えた。

「ちょっと待っていてくださいね、今開けますから」


 ドアが一度閉まって、チェーンを外す音がして、ゆっくりと、ドアが開く。

「ミドリさん、だったかな。クサキの友達が今まで何人か来てくれたけれど、約束があったって来てくれたのは、あなたが初めてですよ。どうぞ、あがってください」


 クサキは、何も言わない。

 私は、おじゃまします、と言って、家にあがった。



「暑かったでしょう。麦茶はいりますか」

 最小限の家具しかない、シンプルな家だった。クーラーがひんやりときいている。

「あ、ありがとうございます。あの、クサキ君に、挨拶を……」

 クサキのお父さんは、ありがとう、と笑って、奥の部屋に私を通してくれた。

 部屋の隅になる仏壇から、私は目をそらさない。


「俺、この姿じゃないから」

 クサキが、ぼそりと言う。わかってるよ、その姿はクサキの書いた絵本の主人公なんでしょう。言葉に出さず、私はうなずいた。



 写真の中で笑っている少年は、黒い髪を綺麗にそろえて、賢そうな顔つきをしていた。クラスにいたら、きっと進んで発言をするような、秀才だったのだろうと、勝手に想像する。絵本の中のクサキとは似ていなかったけれど、目の輝きだけは一緒のような気がした。

 クサキのお父さんが、ろうそくに火をともしてくれた。私はお線香に火をつけて、静かに立てて、鈴を二度鳴らした。手を合わせて、目をつむる。


 クサキ、必ず絵本を完成させるからね。

 心の中でそう呟いて、私は目を開けた。ろうそくの火を消して、遠くから見守ってくれていたクサキのお父さんに向かって、頭を下げる。


「ありがとうございます」

「こちらこそ。さ、お茶をどうぞ。お菓子なんて気の利いたものがなくてごめんね」

「いえ、私こそ、急に伺って、すみません」

「そんな。嬉しいですよ。約束の話を聞かせてください」


 椅子に座って、クサキのお父さんと向き合う。目元と、笑顔がそっくりだ。ふわふわと浮いているクサキが、私の右前に移動する。

 グラスの中の氷が、カラン、と音をたてる。


「学校のお友達ですか」

「いえ、あの、ここから一時間半くらいかかるところに住んでいるんです。偶然、お友達になって、それで……クサキ君のこと、最近、聞いて。約束のことも……」


 言いながら、冷や汗をかいてしまう。もっとしっかりと考えてくればよかった!

 私のぐちゃぐちゃな説明を、クサキのお父さんは笑顔で聞いてくれた。


「息子の友人関係を、私はよく知りませんでした。息子がいなくなってしまってから、知るようになったんです。今でもこうやって会いに来てくれる人がいる。息子は幸せですね」


 笑顔から、少しだけ悲しい表情になる。私は、ぎゅっと拳を握りしめる。


「クサキ君は、明るくて、元気で、私の気持をたくさん考えてくれる、本当に優しい子です。そんな彼と、私は約束したんです。絵本を完成させようって」

「絵本?」


 私はひとつ、頷いた。クサキは黙ったまま、ふわふわと浮いている。


「クサキ君は、絵本を作っていたんです。多分なんですけど、私にだけ話してくれていて……私も、本が好きなので。それで、一緒に作ろうって、約束していたんです。クサキ君が作りかけていた絵本、ありませんか」


 絵本ですか、とクサキのお父さんは微笑んだ。驚いてはいないみたいだ。


「それはまた、私の知らない息子の一面を知ることになりました。そうでしたか。息子が絵本を作っていることも、一緒に作ろうとしていた友人がいたことも……そうでしたか。部屋に、行きましょう」


 クサキのお父さんは立ち上がって、ゆっくりと歩き始めた。私も慌てて立ち上がって、クサキのお父さんの後ろをついて行った。


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