10 そんな私で生きたくない
「え……?」
ピンク色のチューリップが、宙に浮く。
私に折り紙を差し出したから、バランスが崩れてしまったんだ。
脳みそのどこかが冷静に分析する。
それと同時に、私は手を伸ばす。
ゆう君の指先が、私の指先をかすめて、つかめないまま、ふわりと浮かぶ。
「ゆう君!」
呼んでも、ゆう君の体は、バランスを崩したまま。
私の叫び声と共に、ゆう君は、階段を、落ちていく。
パキン、と、何かの割れる音がする。
その後のことは、とぎれとぎれにしか覚えていない。
私は必死にお母さんを呼んだ。階段を降りて、何も言わないゆう君を揺さぶった。お母さんがすぐにやってきて、ゆう君を抱きかかえたまま、救急車を呼んだ。その後お父さんに電話をして、すぐに帰ってくるように言った。そこではじめて、ゆう君がずっと泣いていることに気がついた。私は何もできず、立っていることが精いっぱいだった。
救急車がやってきて、おかあさんとゆう君は救急車に乗った。お父さんがすぐに帰ってくるから、一緒に来なさいとお母さんに言われた。お父さんは救急車が行ってしまった直後に帰ってきて、もう帰ってきていたところだったんだ、と私を抱きしめながら、お母さんに電話をした。病院の場所が分かったと言って、私は車に乗せられた。
そうして気がつくと病院の固い椅子に座っていて、私はぼんやりと、白い病院の床を見つめていた。
何度も思い出していた。
あのチューリップ。
作ったんだろう。私に渡そうとしたのは、もしかしたら、友達にあげればいいよってことだったのかもしれない。ゆう君は、小さい手で折り紙を一生懸命折る。きっと優しいから、一番よくできたものを私に渡そうとしたに違いない。
急いでいたのだと思う。私はすぐに部屋にこもってしまうから。私が部屋にもどる前にと、一生懸命伸ばした手。私がもっと早く受け取れば。私の体がもっとはやく動いていたら。あの小さな手をつかめたかもしれないのに。
転がり落ちる小さな体。何かの折れた音は、骨だったのだろうか。転んだらすぐにわんわんと泣くゆう君が、何も言わずにうずくまっていた。
「ミドリ」
お父さんが、私の肩を抱いた。私は初めて、震えていることに気がついた。
遠くから足音が聞こえた。速足だった。
「お父さん、ミドリ」
お母さんの声だ。廊下の角から現れたお母さんは、腕にゆう君を抱いていた。
「ゆう君!」
私が立ち上がると、お母さんはシーと人差し指を唇に当てた。ゆう君は、どうやら寝ているようだった。
「疲れて寝ちゃったみたい」
お父さんが「腕の骨は」とお母さんにたずねる。
「綺麗に折れてるから、すぐに治るでしょうって」
ゆう君の左腕には、白い布がぐるぐるとまかれていた。ギブスだ。痛そう。私は骨を折ったことがない。どんな痛さか、想像ができない。
「よかった。ミドリも、びっくりしたな」
お父さんが、大丈夫だ、と私の頭をなでた。大丈夫なもんか。ゆう君は、これから何か月か、慣れない生活を送ることになる。
「私のせいで……」
つぶやいた言葉に、お母さんもお父さんも、それは違うよといってくれたけれど、私はどうしても、ゆう君は私のせいで怪我をしたとしか、思えなかった。
車で家に帰って、私はすぐに部屋に戻った。階段をあがる途中で、ゆう君が起きたのだろう、泣き声が聞こえた。痛いのかな。苦しいのかな。私はぎゅっと手を握って、戻りたくても戻れなくて、静かに部屋に入った。
「ミドリ! 何かあったのか?」
クサキが、ベッドの上に置かれたままの絵本から、身を乗り出していた。
いろんな感情が、ぐちゃぐちゃになって、あふれ出る。
私はクサキを置き去りにした。
私はゆう君も置き去りにした。
それでも二人は優しい。
私ばっかりが、何もできない。決められない。
「……ミドリ?」
あふれた涙をぬぐって、私はベッドに腰かけた。
「ごめん……弟が、階段から落ちて、怪我しちゃった」
「それで、救急車の音が……?」
「そう、骨が折れちゃった」
「ええ!」
「すぐに、くっつくって……さっき、階段から落ちたとき、私に折り紙を渡そうとしてくれていたの。チューリップ。折ったやつ」
お母さんにも、お父さんにも言えなかった。
「私が速足で階段を上るから、いそいで追いかけてきたの。そうしたらバランスを崩して……骨を、折っただけって言ったら、変だけれど」
私はクサキのことを、何もわかってはいなかった。
「そ、そのとき私」
私は、まっさかさまに落ちていくゆう君を見て、本当に怖くなった。
死んでしまったら、なんて恐ろしいことを考えてしまった。
「ミドリ」
私の言おうとしていることを、クサキはすぐに、察したのかもしれない。私の言葉をさえぎって、何度も首を横に振る。
「大丈夫だったじゃないか」
「……クサキは」
涙がぼろぼろとこぼれる。今更になって、やっと、それでも少しだけ、わかった。
クサキも、あんなに突然。
「ひどい……」
「……ミドリ?」
「ひどいね、こんなのってないよ。突然命が終わっちゃうことがあり得るなんて、ひどい。ゆ、ゆう君は骨を折った。そんなにだけど、でも、それだけ。でも、でも……!」
「ミドリ、俺もそう思ったよ。何度も思った。でも、あの死神に言われたんだ」
クサキの目が、うるんでいる。
「どうしようもないことだって。誰にでも、必ず起こることだ、って」
「……誰にでも」
私にも。
クサキにも。
クサキには、起こってしまった。
「……ひどいよ。早すぎる」
「遅すぎることもないよ。こうも言われた。髪の毛や目の色、考え方や笑い方、歯並びに好きなものや人……そういうのが一人一人必ず違うように、時期もまた、違うもんだ。それに、早いも遅いも、いいも悪いもないんだ、って。だから泣くなよ」
「……クサキは、夢を叶えたら、この世界からいなくなっちゃうの」
「もう、いないんだよ。本当は」
私は、両手で顔を覆った。
目の前に、真っ暗な闇が見える。死神は、こんな色の服を着て、魂を迎えに来る。
クサキを迎えに来ている。
「……知らなかった。私。ある日突然階段から落ちちゃうみたいに、突然やってくるなんて。今でも、よくわからないよ。お別れするなんてやだよ。でも」
私の答えは、出た。
覚悟もできた。
私だって、もしかしたら。
「私が明日階段から転げ落ちちゃって、この世界にいられなくなる可能性だってあるんだよね。そうしたら、私、絶対に後悔する。お別れするのが嫌で、クサキは苦しいってわかっているのに私が苦しくなるのが嫌で、絵本を作らないって決断をしたら……そっか、絵本を作らないって決断をしたら、記憶は消えちゃうから覚えてないのか。でも、でも嫌だ」
涙をぬぐう。
もう、泣かない。
「そんな生き方、いやだ。そんな私で生きたくない。だから、私はクサキの夢を、手伝うよ」
クサキは、ぎゅっと眉間にしわを寄せて、涙で目をいっぱいにして、それでも涙を流さずに、震える声で、言った。
「ありがとう、ミドリ」
私も、泣かずに、頷いた。




