1 俺は、おもちゃでは、ない
絵本の中に、男の子が立っていた。
驚いている私をよそに、男の子は私に向かってにこりと笑う。
真っ白の絵本。その真ん中にあぐらをかいて座っている、小さな男の子。図書室の窓から入ってくる夏の光が、スポットライトのように彼を照らす。
髪の毛は芝生の色、目は森の色。まるでアニメのキャラクターみたい。
「立体映像!」
大きな声を出してしまった。慌てて自分の口元を抑えながら、きょろきょろとあたりを見渡す。よかった、誰も近くにはいなかったみたい。
なんだって? と男の子は眉をつりあげる。私はもう一度、立体映像、とつぶやいた。物知りの友達に最近教えてもらった言葉だ。テレビみたいにぺったんこの映像じゃなくて、飛び出して見える映像のこと。でも、私が持っているのは、テレビではなくて、絵本だ。
「どういう仕組み?」
絵本のページをぱらぱらとめくる。男の子はあぐらをかいたまま、真っ白なページをすり抜けていく。
おもしろい!
「電池入れるところとか、あるのかな」
「ないよ、そんなもの」
男の子が、腕を組んで舌を出した。表情豊かだ。どこかにスピーカーがあるのかなと思ったけれど、見当たらない。男の子は、よく見ると少し透けている……。
「不思議ばっかり。最新のおもちゃかなあ。ユウ君が喜ぶかも」
「俺は、おもちゃでは、ない」
男の子が立ち上がって、どん、と右足を踏み鳴らした。
「怒ってる!」
「何で楽しそうなんだ! 俺は、おもちゃじゃ、ない!」
「うそだあ」
もう、と男の子は頭を抱える。
「おもちゃじゃないなら、何なの?」
「……俺は」
男の子が、にかりとわざとらしい笑顔を浮かべる。
「妖精だ。この絵本の主人公でもある」
「この絵本のお話に出てくる、妖精ってこと?」
「そういうことだ」
「そういう設定なの?」
「設定?」
「おもちゃの」
もう! と男の子が飛び跳ねる。からかうと面白い。
「違うってば!」
「わかった、わかったよ。妖精ね、絵本の。こんにちは、妖精さん」
「……クサキだ。草のキシって書いて、草騎」
「キシ?」
「ナイトだよ、知らねえの?」
ナイト、確か英語で……「夜?」
クサキは違う、と首を横に振る。
「そっちじゃない、後で辞書を引いてくれ」
難しいことを言う妖精だ。
「今引くよ。ここは図書室だもん、妖精さん」
「もう昼休み、終わるよ」
「えっ!」
壁にかかっている時計を確認する。本当だ!
「すごい、タイマー機能もあるおもちゃなの?」
「俺が妖精だって信じていないだろ! 俺は、おもちゃじゃ、な、い!」
「ごめん、そうだった」
音が大きい、このおもちゃ。後で音量を小さくする方法を探さなきゃ。
「それじゃ、また放課後に、ここにくるからね。えっと、絵本の棚は……」
私が絵本を閉じようとすると、待て待て、とクサキは大きく両腕を振った。
「なあに?」
「この絵本は教室に持って行ってくれ、そして家に持って帰ってくれ。あー……名前は?」
「ミドリ」
「俺の目の色とおそろいの名前だな」
「漢字は違うよ、魅力的な鳥」
「難しい字! 俺のキシの字といい勝負だな」
私の名前の漢字を知っているなんて、物知りな妖精だ。同じ学年の人で、この字を知っている人はほとんどいなかった。小学六年生では習わない漢字だから仕方がないけれど、でも、自分の大切な文字を知ってもらえているっていうのは、嬉しい。
私も後でキシを調べなくちゃ、と心に決めたところで、チャイムが鳴った。
「時間だ!」
「しまうなよ、持っていってくれ!」
「図書室の本だよ、しまわないとだめだよ」
「違うんだ。君に、ミドリに会うために、ここに俺が置いてもらったんだ」
「どういうこと?」
「いいから。先生も怒らないよ! わかった、絵本をほかの人には見えないようにしてもらうから、なあ、いいよな?」
クサキは、宙に向かって叫んだ後に、ちょっとだけ何かにおびえているような表情をみせた。私が周りを見渡しても、何か怖いものは見えない。
それって怖い。
「何が見えているの、クサキ」
「……見えないんだけど、怖いものだ。怖くないけれど、怖い……黒い人がいたら注意した方がいい」
「何? 何のこと?」
怖いよ、何のことを言っているの?
「多分大丈夫、やつらは俺たちのことをどこかで見ているはずだから、もうこの絵本もほかの人には見えないようになっているはずだ。絵本を閉じて、教室に戻るんだ!」
クサキの表情は真剣そのものだった。よくわからないことばかりだけれど、クサキが本気だってことはわかる。
よし。決めた。
私は絵本を閉じて、右手に抱えて、図書室を出た。図書室にいる先生にはばれなかった。廊下ですれ違った先生には、早く教室に戻りなさいと言われただけだった。
本当に見えていないのかな?
私はドキドキしながら、教室に早足で向かった。
教室に入って席につくと、前の席に座っている友達、まいまいが振り向いて、にやりと笑った。
「また図書室にこもってたの? 今日はぎりぎりだったね」
「……うん」
「何も借りなかったの?」
私は、机の上に絵本を置いたのに。
まいまいの手が、私の机に、とん、と置かれる。その手が、絵本を、すりぬけた!
クサキが言った通り、この絵本は私にしか見えていないんだ!
私は声をあげそうになって、慌てて視線を目の前の黒板に向けた。
「ミドリ、どうしたの?」
「……なんでも、なんでもない。それより、物知りまいまいに聞きたいことがあるんだけれど」
「なあに?」
「キシって知ってる?」
「キシ……チェスに出てくる?」
「チェス? ゲームの?」
「そう。ナイトのことかな、と思って」
クサキも言っていた、そうだ、ナイト!
「そう、それだと思う!」
「ヨーロッパの階級だよ、王様とか平民とかそういうやつ。馬に乗って戦う人も差したはず。鎧着てさ」
「あ、わかったかも! 映画で見たことある」
「本に出てきた?」
本「から」出てきた……とは言えない。おもちゃだと思っていたけれど、そうじゃないかもしれない。本当に妖精なんじゃないかって思いはじめてきた。だって、今でも、まいまいの右手は、絵本をすりぬけたままだ。
「そ、そう。本、に、出てきた」
「へえ、ファンタジーとかかな?」
確かに妖精は、ファンタジーだ。まいまいはエスパーなのかもしれない。
私が答える前に、先生が教室に入ってきた。まいまいはくるりと前を向く。
授業の間中、私は机に絵本を置いていたけれど、とうとうだれも、そのことについて触れなかった。