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ストーム ブレイン インシピット  作者: 田中 祐斉
第二章
9/11

察知

舞台袖の演壇が見える位置から、外務省大臣である園田はロシア駐在大使の磯貝と訪露スケジュールの再確認を行っていた。

首相のスケジュールは秒刻みと言っていいほど、過密であり、その全てを万事取り仕切るのが今回の園田と磯貝の務めであった。


演壇では記者団を前に、ロシア大統領ゲオルギー・バクーニンと、総理の吉田 晴人が互いにインタビューを受けていた。

ロシアはこれまでの外交政策を改め、融和的、且つ平和的な姿勢を取ることを表明し、世界中の首脳、国民から支持を取り付けつつ、反発する国内極右勢力に対しては、真の大国になる為には、これまでのロシアの世界への貢献を一層強化し、名実共に米国に並ぶ世界のリーダーになる事を強弁して、国家全体で取り組むべき使命であると論じていた。

だがそれは、裏を返せば、軍事面でも大国として相応の強化を図るという示唆であり、弁の立つバクーニンは国民、政界内からも歴代大統領で最も高い支持率を得ていた。

吉田は総理就任と同時に積極的にロシア側から訪露、訪日提案により、日露間の繋がりを強固にしたいという打診を度々受けていた。


一方で、吉田は米国大統領のアーカンソンとの、且て無い程の日米間の親密さが障害になり、実現までに非常に様々な根回しが必要だった。

それというのも、アーカンソンもバクーニン同様に、和平政策を前面に押し出し、貧富の格差是正や、紛争地域に対する武力を用いない、外交での解決を実現し、米国内ではアーカンソンこそが紛れもない世界のリーダーと支持を得ていたからだった。

板挟み状態になった日本は、これまで同様に米国とも同盟を強調していたが、それによって、バクーニンからの圧力がかかるのだった。


先の大戦以降、和平に重点を置き、類まれなリーダーシップを持った指導者が、二人同時に誕生するという、極めて稀な状況に、何かとマスコミはバクーニンとアーカンソンを比較する記事を書いた。

アーカンソン含め米国は、急激に世界から支持を集め始めたロシアを警戒し、尚且つバクーニンの和平政策により世界中の世論がロシアの政策を支持するなか、世界のリーダーは米国ではなくロシアになりつつあるという見方が強く、アーカンソン始め米国政府高官たちも自国の威信を維持するためにも、ロシアとの協力体制を前面に押し出しつつ、あくまでもイニシアチブは米国が持っているように、一層他国とも同盟強化を推し進めていたのだった。


そのような最中での吉田総理の訪露は、米国としては強固な日米関係の取り崩しを狙っている、ロシア側の意図が鮮明だった。

実際訪ロが決まった直後のアーカンソンとの電話会議では、ロシアも米国も共に世界の和平を推し進めるよう協力していくが、ロシアと米国のアプローチの仕方は異なる。

日本側が米国の方法を支援してくれる事を心から願うと、アーカンソンに釘を打たれたばかりだった。

つまりはロシアの飼い犬になるなという脅しとも言えた。


和やかな雰囲気で進む記者会見で、インタビュアーの一人がバクーニンに質問した。

「バクーニン大統領が日本に期待する、和平支援やその他の貢献は何でしょうか?」

バクーニンは質問を受けている間、穏やかな笑みを浮かべ頷きながら相槌を打っていた。

「日本はこれまでもロシアと親密な関係を築き、共に世界の和平実現を共にしてきた。しかし真に日本との信頼を築くために、我々は領土問題などこれまで暗礁に乗りあげてきた課題を、前向きに検討する準備が出来ている。我々が日本に期待するのは硬い絆のみです」

会場内から大きな拍手が湧き上がった。


拍手が鳴り止むと、別のインタビュアーが吉田に質問した。

「吉田総理もバクーニン大統領、アーカンソン大統領に次ぐリーダーシップで、国内問題を解消させましたが、今後ロシアと絆を深める上で、どのような取組みをお考えでしょう?」

吉田は多少の緊張からか、やや強張った表情ではあったが、落ち着いた口調で答えた。

「リーダーとは、数が多ければ問題や課題が解決するというものではありません。我々は米露大統領と慎重に協議を重ね、両国と共に茨の道を歩んで行く必要があります。我々はこれまで以上に、ロシアとの絆が深まっていると実感していますが、それは様々な国々が互いに信頼し合うのと同じ事です。ロシア同様全世界と絆を深める考えです」


舞台袖に控えていた、園田と磯貝は、記者会見終了後、クレムリンの中庭で立食パーティーが催される予定が控えていたので、磯貝は吉田に近づき、次のスケジュールを告げると、スーツから、カジュアルな服に着替えるために、バクーニン大統領、吉田首相、両名はSPらと共に、それぞれの部屋へ一旦戻って行った。

すると首相の部屋の隅に磯貝を連れて行き、小声で話しかけた。

「私はこれからアミーロフ外相と内密に会う、すぐに戻るが、パーティーの仕切りを宜しく頼む」

そう言って、そそくさと部屋を出て行こうとする園田の腕を掴んだ。

「日本外相がパーティーに遅れてくるなど、ロシア側の心象を悪くします。それにアミーロフ外相もパーティーに参加されるので、その時にお話するのでは駄目なのですか?」

磯貝は、“そのような勝手な行動はあり得ない”と言った表情で園田を止めようとした。

「内密な打ち合わせと言っただろう! オープンな場では話せない内容なのだ! 外相と大使では、職務の重みが違うという常識をわきまえ給え!」

園田は磯貝に掴まれた腕を、強引に振りほどき、部屋を出て行った。

大方、アミーロフと顔を合わせて外交交渉でもするのだろうが、勝手極まりない行動をする自己顕示欲の固まりの様な園田に、磯貝は怒りと呆れを感じた。

一方で、二国間での外交交渉は別に内密にする必要も無い、園田は一体何をしに行ったのだろうかと磯貝は不思議に思った。


時を少し遡り、記者会見の際に、園田の居た舞台袖の反対側、物陰に黒いスーツ姿にサングラスをかけた、背の高い男と、もう一人同じ出で立ちだが、やや猫背の男が立っていた。

背の高い男の側にSPらしき男がやって来て耳打ちした。

それを聞いた男は頷いて、二人共その場から去り、クレムリン内のロシア高官関係者のみ立ち入りが許されるエリアに向かった。

二人が、セキュリティゲートで身分証を提示すると、警備員は敬礼しながら恭しく言った。

「どうぞお通り下さい、ミハエル中将、ヨハン博士」

二人はゲートをくぐり、真っ白な大理石で出来た大広間を通りぬけ、広々とした真紅の絨毯が敷かれた廊下を歩いて行った。

廊下は延々と続き百メートルはあろうかという長さで、右側の壁には規則正しい感覚で絵画が飾られ、ところどころに重厚なソファが置かれていた。壁と反対側には大小様々な会議室の重厚な扉があったが、全て閉ざされていた。

廊下を真ん中辺りまで来た所で、ミハエルがふと立ち止まると、ソファに腰掛けた。

ミハエルはヨハンに何も声をかける事もなく、ヨハンはソファの横で立っていた。

「一体こんな所に来て、何をするつもりなんだ?」

ヨハンは昨日の事を思い出していた。


ミハエルが唐突にヨハンの部屋に入ってくるや否や、

「明日モスクワへ行く。貴様も着いて来い」

そう言い放って、目的も告げずさっさと出て行った。

そしてモスクワに到着すると、向かった先がクレムリンと気付いたヨハンは動揺した。

今日は、日本のヨシダ首相が訪露する予定だったからだ。

未だミハエルの真意が読めないヨハンは、尋ねる事も出来ず、ただミハエルに従うのみであった。

すると、突然ミハエルがソファに腰掛けたまま、ヨハンを見ず、時計を見ながら言った。

「これから、ある高官と会うが、大した者ではないので、貴様は私が質問した時にだけ答えればよい」

「分かりました……」


十分ほどすると、十五メートルほど離れた奥の会議室から、男が現れミハエルに近づいて来た。

相手を見てヨハンは驚き敬礼した。ミハエルは”大した者ではない”と言ったが、ヨハンは対面するのは初めてだった。男は一瞥くれただけで、その他何の反応も示さなかった。


ミハエルは、男が自分の側に来る前に立ち上がり、さりげなく左右を確認すると、正面の壁に近づいた。

すると手のひらにすっぽり入るほどの、小さなステンレス製の特殊な機械をポケットから取り出し、壁に近づけると、壁が横にスライドし、二十畳程の会議室が現れた。


ミハエルは男を先に通すと、続いて自分も会議室に入り、ヨハンが後に続いた。

ミハエルは部屋の中から開閉ボタンで扉を閉めた。

男は先に革張りの椅子にどっかと座ると、煙草に火を付けながら言った。

「クレムリン内にはこんな隠し部屋が他にもあるのかね?」

眉間にシワを寄せ、煙草の煙を吐き出しながら男はミハエルに詰問した。

「はい。至る所に」

隠し部屋は盗聴装置の類に関して、特に徹底した管理がされており、国家レベルの危機、または有事の際の極秘会議に使用されるのだった。


ミハエルは椅子に座らず、男の横に立ったまま言った。

「私だって高官だ。知らない部屋があるというのはいかがなものかね」

男は嫌味たらしく、煙草の煙をミハエルに吹きかけた。

ミハエルは不機嫌になる様子もなく、表情一つ変えずに言った。

「隠し部屋は他国から攻撃を受けた際の、防空壕の役割も果たします。米国のミサイルの精度は高く、部屋の存在や場所は、警護にあたるメンバーでも、ごく限られた人間だけが知っていた方が、機密漏洩防止に役立ちます」

男はフンと鼻を鳴らすと、吐き捨てるように言った。

「まぁ、いい。その内全てを教えてくれたまえよ。私が知らない部屋があるという事自体が威信に関わる」

男は煙草をミハエルに向けて口調を強めて言った。

二人のやり取りをみて、ヨハンは男の横暴ぶりに驚きを隠せなかった。


すると男は話題を変え、別の質問をミハエルにした。

「で、緊急な要件とは一体なんだ」

男はスケジュールが詰まっているので、ミハエルを急かした。

ミハエルは急ぐ素振りも見せずに、淡々と説明した。

「ストーム・ブレイン・プロジェクト ベータで、全ての被験者が実験失敗に終わったと思われていましたが、一件成功例の報告がありました」

男の顔が一変して、煙草を灰皿にもみ消した。

「何だと? ベータは既に約十年も前のものだ。しかも実験後の被験者の調査は全て終え、全員失敗と報告書を上げて来たではないか!?」

「サー、仰るとおり、調査上では失敗、つまり精神崩壊とされていたのですが、その一名は精神崩壊の様体が見られていたのですが、日常生活に支障は無く、同時に能力を身に着けているという連絡がありました」

「誰からの連絡だ?」

男は訝しげにミハエルを見た

「日本のプロフェッサー・サエキです」

「日本だと? 相変わらず日本の医者は詰めが甘いな、日本政府と同じだ」

男は椅子をテーブル側に回転させ、肘掛けを指でコツコツ叩きながら、しばし考えこむと、ミハエルに尋ねた。

「サエキの報告に確証はあるのか?」

「その点に関しては、ドクター・ヨハンから説明致します」


ヨハンはミハエルから何も聞かされないまま、連れて来られ、男に確証を説明しろと言われ、大いに動揺した。

「ドクター、早く説明しろ」

男がイライラしながら、二本目の煙草に火を付けながら催促した。

佐伯からのレポートは、メールで一通り目を通していたので、上ずった声で男に説明した。

「プ、プロフェッサー・サエキの、レ、レポートに目を通した、私の見解を……申しあげます」

「何を言っとるのかわからん! ちゃんと話せ!」

男が怒鳴ると、ヨハンは深呼吸して、気を落ち着かせた。

「脳力の兆候が見られたのは、八歳の男児で、プロフェッサー・サエキが、母親からの聞き取りで得た情報によると、どうやら“予知”と”読心”の脳力を得たようです」

「なんだと!? これまで一番力を注いで来た脳力ではないか!? サエキや日本政府は、何故今までマークして居なかったのだ?」

ミハエルが割って入った。

「出産後の検査により、精神崩壊と認定され、その後は放置されていたようです。日本は我が国と異なり、強制連行、または強制収容など行えないのが、発見が遅れた要因でしょう」

男は煙草を灰皿に放ると、

「日本側との共同研究に関して、証拠は残すな」

ミハエルは目で頷いた。

「直ぐに手配しろ、被験者が研究所に到着したらまた連絡をよこせ」

言いながら席を立つと、出口の脇に設置されている、廊下の様子を映し出す二台のモニターを確認し、人が居ないのを確認して、部屋を出て行った。


男の後ろ姿を眺めつつ、ミハエルは言葉に出さずに思った。

「我々が何をせずとも、向こうからやって来る」"

一方、ヨハンは今日ほどの悪夢の様な出来事は、二度と味わいたくないと感じていた。


 *


クレムリンの中庭では既にパーティーが始まっていた。

やや遅れてやって来たバクーニン夫妻は、吉田婦人に大きなロシアの国花と日本の国花であるヒマワリと菊の花束をプレゼントしていた。

恭しく礼を言った吉田夫妻は、官邸内のカメラマンに両夫妻揃って記念撮影が行われた。

両国のスタッフもカジュアルな服装に着替え、緊張もほぐれ、笑みを浮かべながら楽しんでいた。

ただ一人、眉間にシワを寄せて会場の端に目立たぬように立っている磯貝がいた。

記念撮影が終わるとアミーロフがやって来て、バクーニンを日本スタッフにアテンドした。

園田はアミーロフと打合せと言っていたのに、姿が見当たらない。

苛立ちが頂点に達しかけた時、磯貝の背後から園田が現れた。

「長官、園田総理のアテンドをいたしませんと……」

「分かっとる!」

磯貝に促され、横暴に答えた。

「交渉は上手くいきましたか?」

磯貝がひょうひょうと尋ねると、園田は疎ましそうに言った。

「内密だと言っただろう。お前に報告する必要はない!」

磯貝は無言のまま、園田と連れ立って吉田の元へ歩いて行った。


葵たちと分かれた村上は、再度佐伯の強制聴取の許可を取りに、署に戻って来た。


会議室の入り口に来ると、細身の長身刑事が捜査本部の張り紙を剥がしていた。

まさかと思い、会議室に駆け込むと、ホワイトボードから写真が剥がされ、メモが消されている最中だった。

署員も数名しかおらず、奥のデスクに丸山が座り、まだ優一の遺書を眺めていた。


村上は真っ先に丸山に駆け寄ると、村上に気付いた丸山が、その心中を察したように告げた。

「本店からの命令だ。本件はお蔵入りになったよ……」

村上が丸山の手にある遺書に目を落とすと、尚も丸山が伝えた。

「ムラさんが言っていたように、この事件は大きな組織、具体的に言うと外交問題が絡んでいると見える。警視庁に政府からの圧力がかかったんだろう」

村上は黙って遺書を見つめていた。

「ムラさん、何を考えているか大方想像出来るが、これ以上深入りすると、刑事人生どころか、命も危ないぞ」

そう言われ、村上は丸山の顔を見つめた。

「お気遣いは有難く頂戴します。しかし、現に民間人が拉致されているんです。命なんてこの商売をやっている限り、とうの昔に気にも止めていませんわ」


村上は予想していた展開にさして驚きもせず、尚も独自捜査を続けることを示唆した。

丸山はため息をつくと、立ち上がり両手を机に付き、村上の方に顔を寄せた。そして耳打ちするように村上に囁いた。

「本店もあてにならん。むしろ細心の注意を払って隠密に動かないと、ムラさんがしょっぴかれる。何かあればすぐに俺に連絡してくれ、内部から出来る限り捜査を支援してやる」

村上は丸山に両手を合わせると、踵を返して会議室を出て行った。


丸山は資料室に保管される、証拠品用のダンボールの最後に、優一の遺書を入れて箱に封をした。


佐伯は出張用の荷物を、スーツケースに詰め込み、機密書類を機内に持ち込むアタッシェケースに仕舞いこむと、引き出しから辞職願を取り出し、スーツの内ポケットに入れた。

デスクの鍵の掛かっている引き出しを開けると、ある書類が出てきた。

佐伯はそれを取り上げると、古い記憶が蘇った。


 *


十七年前、当時既に脳神経外科の権威として、世界でも指折りの医師として名を馳せていた佐伯は、まだ医師としての仁徳を持った人格者で、周囲のスタッフからの信認も厚かった。


しかしある来客が佐伯の人生を大きく変えた。

一人はロシア人科学者、もう一人は日本人で、政府関係者とだけ名乗った。

当初、新手の医療機関メーカーの売り込みと思い、訝しげに話しを聞いていたが、ロシア人科学者が取り組んでいる研究の説明を聴くに従い、少しずつ関心を寄せていった。


生後三十六ヶ月以内の幼児に、特殊な処置を加える事で、脳機能を飛躍的に高める研究を、十七年前からロシアで極秘に行われているという話しだった。

研究レポートサンプルを渡された佐伯は、その場で隅々まで読み、脳神経外科医として自身が密かに抱いていた研究テーマであったが、倫理的にも医の仁徳にも反するものであり、あくまでも夢でしかなかった。

それがロシアでは、既に十七年も前から研究が行われ、まだ成功例こそ出ていないが、研究レポートや数々のデータを読み進めるにつれ、佐伯の野心が、自身の手でそれを成功させたいと湧きつつあった。

しかしその瞬間、佐伯の内なる正義がそれを否定した。

「医師としても、人としても、このような研究に加担する気はありません。“人類の科学の進歩”という大義を掲げているが、その実、軍事的な利用が見え隠れ致します。ご足労を掛けましたが、このお話は無かった事として下さい」

研究内容に本心としては魅了されている佐伯の心を読み取って、それまでだまっていた日本人の方が口を開いた。

「本日我々が佐伯先生の元にお伺いしたのは、他でもない本研究分野の権威である、佐伯先生のご協力が得られないかという相談でした。教授のお考えを尊重致します。但しこの研究はロシアと日本の間で交わされた、超極秘プロジェクトであり、その点に関してご了承頂ければ、佐伯先生の元で成功例が出た際にはロシアの永住権、及び大した金額ではありませんが、ご功績を称えて両国からこの程度の功労金を進呈させて頂くつもりです」

男は内ポケットから二つ折りの小さな紙切れを取り出すと、佐伯に手渡した。

そこには日本円で数百億の金額が記載されていた。

研究に没頭するあまり、未だ家庭を持っていなかった佐伯には、野心を叶え、その上国家予算並の報酬を餌に出され、逡巡した。

「数日ほど、考えさせて頂く時間を貰えませんか?」

「勿論、結構です。但し繰り返しますが本件は超極秘事項です。研究内容をお知りになった以上、ご協力の可否に関わらず、先生は監視下の元におかれますのであしからず」

日本人の男は半ば協力する選択肢しか無いように畳み掛けると名刺を差し出した。そこには社名、氏名などは一切記されておらず、携帯の番号のみが記載されていた。

「ご決断されましたら、こちらにお電話下さい。細かい説明は要りません。”イエス“か”ノー”で答えて下されば結構です」

二人の来客者が去って行った後、佐伯は四六時中、この件のみしか頭に無かった。

三日間考え抜いた挙句、意を決した佐伯は与えられた番号に電話を掛けた。コールは殆どならずに、はい、とだけ相手が電話口で言った。佐伯は事前に伝えられた通りに答えた。


「イエス」


そう言うと、相手は無言で電話を切った。

二週間後、スイスから分厚い書類の入った大きな封筒が送られてきた。

開封すると、契約書と今後のコンタクトの取り方、そしてスイスの佐伯名義の通帳とセキュリティーカードが入っており、付箋が張られていた。付箋には功労金とは別に、契約金としてお受け取り下さい、とだけ記載されていた。佐伯は印鑑や署名などしていないにも関わらずどうやって口座を開設したのか疑問に思ったが、通帳の中身を確認して、驚愕した。

その残高には日本円にして、十億円が預け入れられていた。


 *


その時に交わした契約書がデスクの引き出しから出てきたのだった。

内容はシンプルなものだった。

1.研究の存在を関係スタッフ以外、如何なる者にも口外してはならない

2.日本チームが研究存続の危機に陥った際は、ロシア政府内の特殊任務部がサポートする

3.研究費用は隠し口座にて日本政府が手配する

4.研究の進捗・成果は逐一、ロシア研究本部に報告する

5.研究に関わる者が、研究内容を口外した場合にはロシア側が相応の措置を取る。

6.研究が成功した際には、ロシアへの亡命を受け入れる


六項目からなる契約書の内、五番目は脳神経系第一外科のスタッフ三名が密告しようとしているのを、偶然佐伯が密告計画書を見つけた為、ロシア側に連絡を入れると、数日後、三名が投身自殺を図ったような工作で、抹殺したのだった。

しかし、優一だけは違っていた。優一は佐伯やロシア諜報員の手に掛かったのではなく、自分の意思で投身自殺を図ったのだった。


佐伯には優一の遺書を初めて警察に見せられた時、すぐにその意図を読み取った。

極秘プロジェクトを遂行するにあたり、佐伯一人では研究を進める事は当然困難だった。

そこで佐伯が契約を交わした翌日、優一を含め、四名の有能なスタッフを選び、佐伯が手にするであろう、功労金から各自に十億円ずつ渡す約束をし、引き入れたのだった。

佐伯が手にする額からすれば、十億など雀の涙程度のものであったが、佐伯の取り分は伝えずに、参加の是非を問うた。

四人共家族がおり、医者といっても、金銭的に余裕があるわけではない四名は、目の前にぶら下げられた餌に食いついてしまったのだった。


さらに佐伯は、四名のスタッフに一つだけ条件を出した。

“自分たちの子供を臨床試験の被験者とすること“

既に、医の仁徳など消し飛んでしまった佐伯は、四人に大きな報酬の代わりに、大きな代償を要求したのだった。


優介もその子供たちの中の一人だった。

優一が美園に胎児の脳の検査を行わせたあの日、鎮静剤と称して投与したのは、麻酔薬で、胎児の居るお腹に照射した青い光は、ロシアが開発した母子の体内にいる胎児への麻酔であった。

そうとは知らずに美園が眠っている間に、佐伯を含むスタッフ四名がやってきて、美園のお腹の胎児の脳に、髪の毛の千分の一ほどの針を胎児の前頭葉、海馬、中枢神経に、日本で開発した新薬を投与したのだった。


その後、時期をずらして他の三人の妻も子供を身ごもり、優一のように妻を懐柔し、臨床試験を行った。

しかし、優一の子供以外は、皆流産する形で試験は失敗に終わったのだった。

生き延びた優介は健康診断と称して、脳力の検査を二年間に渡って行ったが、脳力の開花は見られず、躁うつ的な傾向が見られるとの検査結果を出し、全て失敗に終わったかに見えた。

その後も、ロシアと共同で研究が飛躍的に進みはしたが、依然成功事例は無かった。

そのような折りに、優介の脳力が開花している事を、美園から聞いた佐伯はロシアへの亡命準備をしていたのだった。


突然の秘書からの呼び出し音で、我に返った佐伯は応対した。

「警察の方がまたお見えになられていますが、如何いたしましょうか」

佐伯は舌打ちし、一瞬時間の都合がつかないと断ろうかと考えたが、ようやくここまで来られたのだ。変に警察に怪しまれてもケチが付く恐れがある。

それにどうせ、いつもの型通りの聴取で、五分もかかるまい。

「五分だけと伝えて通し給え」

秘書にそう告げると、スーツケースとアタッシェケースを机の奥におしやった。


程なく秘書が連れてきた二人の刑事は、いつもやってくる刑事ではなく、初めて見る顔だった。

「警察も私の容疑が固められず、焦って人選を変えてきたんだな」

佐伯は内心ほくそ笑んで応接ソファを勧めた。


 *


村上は警察内の圧力と葵たちからの話しを聞いて、“葵誘拐事件”と”連続投身事件”の間に符合する点がある事に気が付いた。

葵が誘拐された際の目的地がウラジオストク、佐伯が頻繁に出張していたのもウラジオストク

葵の母親も脳科学者、佐伯含め、四人の故人も脳科学者

葵の事件も、投身事件も隠匿行為またはお蔵入りが組織的に行われた

既に村上の手から離れてはいたが、最後にもう一度だけ、佐伯に揺さぶりをかけようと、東条大学付属病院を訪れたのだった。

しかし、村上が病院に到着したのは、二人の刑事が佐伯の元を訪れてから、二十分ほど経ってからだった。


勝手知ったる院内の受付で身分を告げ、佐伯教授との面会希望を伝えると、既に顔馴染みになった秘書に取り次いでくれた。

受付にやって来た秘書が村上に挨拶すると、

「何度もご迷惑をお掛けして恐縮です」

村上が詫びた。

「いえ、刑事さんのお仕事ですから、どうぞお気になさらないで下さい。既に二人の刑事さんたちがお見えですよ」

秘書は村上に丁重に伝えた。

村上は直感的に「しまった!」と感じ、秘書を置いて走って教授室へ急いだ。

教授室の部屋の扉を開けると、既に二人の刑事の姿は無く、佐伯が革張りの椅子に腰掛けていた。


しかしその姿勢は肘掛けにしなだれかかり、だらりと床に垂れ下がった左腕からは、ドクドクと鮮血が流れ、あたり一面が血の海と化していた。

村上を追いかけ走って来た秘書は、部屋に入らず、棒立ちになっている村上を不思議に思い、

「どうかされましたか?」

と、声を掛けながら村上の横に並び、教授室の中を見た途端、悲鳴を上げその場に座り込んだ。

村上は辺りにいたスタッフに、佐伯教授室に医師を呼ぶよう伝えると、すぐに院内の医師や看護師らが部屋に飛び込んで来た。

医師は手首の状況を見て、佐伯の首元に指を当てると、村上を見つめ首を横に振った。

佐伯の左手首は骨が見えるほど深く傷が入っており、右手が置かれた太ももの上に外科用のメスが乗っていた。

恐らくこれで自殺をされたと考えられます、と脈を見た医師が村上に伝えたが、自殺でないのは村上には明白だった。


現場を目の当たりにした秘書は看護師に鎮静剤を投与され、救護室のベッドで横になっていた。

村上が軽くノックをすると、か細い声でどうぞ、と聞こえてきた。

室内に入ると、秘書は目を閉じたままだったが、涙の跡が見て取れた。

「この度は何とも……。さぞやショックだったとお察しします」

村上が秘書に声をかけると、

「いえ、こちらこそ、取り乱してしまい、ご迷惑をお掛けしました」

普通一般人があのような現場を目の当たりにすると、一日は口も聞けないほどショックを受けるものだが、さすがは権威ある教授の秘書だ、このような状況でも礼節を欠かないのに村上は脱帽した。

「とんでもない、私こそ、もっと秘書さんに配慮すべきでした。誠に申し訳ないです」

「そういえば自己紹介がまだでしたね。遅ればせながら恐縮ですが、相沢と申します」

村上は手近にあった丸椅子をたぐり寄せると腰掛け、相沢に尋ねた。

「相沢さん、先ほどの件の直後に本当に申し訳ないのですが、職業柄どうしても二、三お伺いしたい事がありまして……。宜しいでしょうか?」

村上は相沢の心中を察して言葉を選びながら、優しく語りかけた。

「はい。大丈夫です。忘れてしまわない内に、どうぞ遠慮無く聞いて下さい」

相沢は目をつぶったまま、ささやくような声で応えた。

村上は頭を下げながら礼を言うと、

「私より先に来ていた、二人の刑事は面識がありましたか?」

「いえ、これまで室町警察署の刑事さんたちが何人も来られていましたが、今日来られたお二人は、初めてお会いする方たちでした」

相沢は秘書という職種柄、人の名前と顔は一度見ただけで暗記出来てしまうので、証言に謝りはないだろうと、村上は判断した。

「二人の様子、例えば挙動が怪しいとか、何か気になるようなものを持っていたとか、些細な事でも気になる点はありましたか?」

相沢はしばし記憶を辿っているのか、沈黙したのち答えた。

「お二人共特に変わった様子もなく、私に警察手帳を見せ、キムラとスズキと名前を名乗られました。お一方は手ぶら、もうお一方は銀色のアタッシェケースを持っていました」

村上はこの状況で、大した記憶力だと感心した。

「これが最後の質問です。二人が来訪中、相沢さんは何回ほど離席されましたか?」

「来客中は、教授の依頼などにすぐ対応出来るように、常に席におります。しかし村上さんを迎えに行った時だけ席を外しました」

村上は丁重に礼を言うと、お大事にと言葉をかけ部屋を出た。

村上は再度教授室へ向かった。


教授室のある階は騒然となっていた。

既に室町警察署の刑事や、鑑識官がやって来ており、教授室の出入りを禁じていた。


村上は教授室に入らず、相沢のデスクをざっと見渡した。

キチンと整理されたデスクには、ラップトップPC、分厚いシステム手帳、それと小型の加湿器が置かれているだけだった。

村上は相沢の椅子に腰掛けて、再度デスクまわりをゆっくりと見渡した。

すると通路側に置かれた加湿器の下部に、一センチ程の白いブロックのようなものが付いているのを見つけた。

顔を近づけると、超小型のレンズが取り付けられていた。

「やはり、そうか」

一人の刑事が佐伯に聴取しながら、恐らくもう一人がアタッシェケースの中に、パソコンかモニター付き受信機を隠し持ち、それを見ながら、相沢が離席するタイミングを見計らって、佐伯を襲い自殺に見せかける工作をしたのだろう。


偶然にも、タイミング良く村上がやって来て、相沢は離席したが、恐らく別の工作員が外部で待機しており、何らかの手段で相沢を離席させる算段だったに違いない。


村上は受信機を手にとり、ポケットに仕舞い込んだ。

立ち上がり、病院を去ろうとすると、不意に後ろからムラさんと声をかけられた。

振り返ると丸山が白手袋を外しながら近づいて来た。


「マルさん、随分と初動が早かったな。マルさんの方でも佐伯をマークしていたのかい?」

丸山は村上の側までくると、目で合図するようにエレベーターホールの方を見た。内密に何かを話すためだろう。

「とうとう、最後の物的証拠も消されちまったな」

丸山は持病の腰痛を庇いながら、ホールのソファによっこらしょと、ため息混じりにつぶやいた。

村上も横に腰掛けながら答えた。

「殺害の手口はどんな感じだ?」

もはや村上は佐伯の死を自殺とは微塵も考えていなかった。

丸山はソファに深く腰掛け、肥満気味の腹の上で両腕を合わせて答えた。

「間違いなくプロの仕業だな。確実に殺るために、手首は腱まで切られていた。刑事を装っていたとはいえ、手首を切りつけようとしたら、大抵悲鳴をあげるだろうが、教授室のすぐ外のデスクで業務をしていた事務員は、刑事が去っていくまで、物音一つしなかった供述している」

淡々と向かいのエレベーターを見つめながら、状況説明をしていた丸山が、不意に村上に顔を向けると、思わせぶりな顔つきで言った。

「佐伯はどうやら病院を退職する気だったらしいぞ」

「なんだって?」

にわかには信じがたく、村上は二の句がつげられなかった。

「着衣していたスーツの内ポケットに、“辞職願”が入っていた。自筆で署名入りのがな。しかも、出張か、高飛びか分からんが、近々国外に出るつもりだったようだ。大きなスーツケース二つに、野宿出来るほどの荷物が入っていた。アタッシェケースからは研究書類と、パスポートが見つかった」

丸山がため息をついた。

「第一容疑者の佐伯が消えた今、捜査は完全に打ち切り決定だろうな……」

丸山は足元に目を落とし、神妙な面持ちで言った。

村上はやおら立ち上がると、腕を組みながら丸山に振り返った。丸山は村上の表情が、共に捜査をして、村上が何かを掴んだ時の自信と決意を合わせた表情をしているのに気が付いた。

「貨物船の件や、捜査本部の本店移動指示を受けて、遅かれ早かれ、こうなる線も予期していた。しかし今回は先手を取られた……」

村上は下唇を噛みながら、自分の落ち度だと言わんばかりに、悔し気に言った。

「他殺の証拠は掴んだのか?」

丸山が村上の顔を見上げると、村上はポケットの中にしまった受信機を、ポンと丸山に放った。

「マルさん、このヤマは佐伯の死で終わるとは思えん」

「どういう事だ?」

丸山は怪訝そうに聞いた。

「佐伯が最後じゃないって事だよ」

村上はそういうと、エレベーターの下りボタンを押しながら付け加えた。

「俺の読みが当たっていたら、もう一人、いや二人狙われる可能性があるぞ!」

エレベーターが到着の機械音を鳴らして、扉が開いた。

「天間家か?」

村上は答えなかったが、扉が締まり際、敬礼で答えた。


佐伯は一足違いで間に合わなかった、しかしこれから向かう先は、仮に読みが外れていても、安全優先を考えればそれに越した事はない。

村上が病院の駐車場に停めた車のドアを開けようとした時、携帯が鳴った。

着信者名を見ると、美園からだった。

「はい、村上です」

「お忙しい所突然申し訳ありません。今宜しいでしょうか?」

村上はタイミングの良さに思わず笑みをこぼしたが、美園の声がいつにも増して生気が無い。それには触れず、快活に答えた。

「いやいや、恐縮なさらずに、実は私もこれからお宅へお伺いしようとしていた所なんですよ」

「まぁ、そうでしたか」

「ところで、そちらのご用件はなんでしょうか?」

「今朝、手紙が送られて来たのですが、村上さんに是非見て頂きたいと思い、お電話させて頂きました」

「なるほど、了解しました。ここからなら二十分とかからず行けますので、お待ち下さい」

「はい、どうもありがとうございます。お待ちしております」

電話を切りかけた際、村上がもしもしと切るのをさえぎった。

通話を切ろうとしていた美園がはい? と再度電話を耳元に寄せた。

村上は出来るだけ美園を動揺させないように、あっけらかんと注意を促した。

「私が到着するまでは、他の刑事が来ても、お宅に上がらせないようにして下さい。インターホンのモニターで確認して、居留守を使って下さい。まぁ、何というか刑事にも序列がありましてね。上司である私より先に部下が聴取にあたるのは、指導上よくないもんでして」

自分でもかなり苦しい理由だと思ったが、佐伯と同じ轍を踏ませないように、今できる最善の予防策だった。

美園は分かりましたと言って電話を切った。

村上は車に乗り込み、天間家に向けてハンドルを切った。


 *


丸山は村上が去った後もエレベーターホールに一人残っていた。

ホールの奥の窓から病院の駐車場が一望出来た。

丸山は村上が車に乗り込む前に、電話をしている様子まで見て、車で天間家へ向かうのを見届けると、携帯電話を取り出した。

電話の相手はすぐに出た。

「丸山です。はい、村上の件です。どうやら天間家に向かったようです」

電話の相手は丸山に何か指示を出した。

「えぇ、そのように仕向けるつもりでしたが、自ら出向いてくれましたので、こちらとしては好都合です」

丸山は村上が車を停めてあった、空の駐車スペースを見つめながら言った。

「佐伯の方の証拠品は私の方で始末しておきます。はい、村上の方はそちらでお願いいたします」

するとホールに近づいてくる鑑識官の話し声が聞こえた。丸山はやや早口で伝えた。

「大丈夫です。佐伯は自殺として扱いますので。申し訳ありませんが、現場に戻りませんとなりませんので。はい、承知しました、園田大臣」


丸山が電話を切るのと同時に、鑑識官たちがホールの角から姿を現した。

「どうだ? 何か出たか?」

いつもののんびりとした口調で鑑識官たちに聞いたが、大した証拠はなく、検死解剖の結果を待つしかないと報告してきた。

「そうかぁ。仕方あるまい。後は私の方で手配しとく。ご苦労さん」

そういうと丸山は佐伯の部屋へ向かった。

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