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ストーム ブレイン インシピット  作者: 田中 祐斉
第二章
7/11

出会

本堂システマ道場の入り口には、本日臨時休業という張り紙が風にはためいていた。

二階の住居にも人の気配は無い。

葵たちは、敵が再度葵を拐いに来ると警戒し、ニコライが宿泊しているホテルに身を潜めていた。


休暇を取って来日しに来ただけのニコライの宿泊場所は、安ホテルのシングル部屋だった。

昨日の銃撃戦の際に、ニコライの右腕を跳弾がかすめたらしく、深い傷ではなかったが念の為消毒し、由美が包帯を巻いていた。

手当をしながら室内のテレビを付けると、どの局も昨日の湾内のロシア船銃撃事件を伝えていた。


しかし、おかしな事に三人とも船の出向を確認したはずなのに、岸壁には貨物船が停泊していた。

テレビに映る船を良く観察してみると、よく似た別の船だというに気付いた。

状況を伝えるレポーターの背後には、所々ブルーシートで覆われ、警察が見聞を行っていた。

ヘリを飛ばし上空から貨物船を映している局もあった。

レポーターの伝える情報では痲薬密輸目的による、ロシアマフィアと国内暴力団による発砲事件と報じられていた。

「おぉ、これ違う船ですね。それにマフィアもジャパニーズヤクザも関係ありません」

ニコライが首をひねった。

「何コレ? どういう事?」

報道は警察からの報告を元に事件を伝えているはずなので、由美も事実と違う内容に混乱するばかりだった。


そんな中一人、左腕の治療を由美に済ませて貰った葵は、窓から外の風景を見ていた。

駅の近くの商業施設が立ち並ぶ、安ホテルから見える景色は、向かいの雑居ビルの広告と看板、ビルの間から時折通過する電車見えるだけだった。

自分が拐われた後、亮治の言動などを由美とニコライから詳しく聞き、亮治がこれまで葵を不安がらせないようにと、案じていた事を思い返していた。

父の寝室のパソコンや見たことも無い通信機器。葵も何でこんなものを買い込むのかと亮治に尋ねた事があったが、本人は趣味だと笑っていた。

しかし、今改めて考えてみると、あれもいずれ起こる何かを警戒していたのではないか、まさに今回の騒動のような事を。


また、葵がその点で一番確信を持てたのは道場だった。

本堂家は道場経営で成り立っていたが、生徒を増やすためのチラシ、ポスター、広告など、亮治は一切出さなかった。

葵が中学三年生の頃、門下生が二人になってしまい経営危機に陥った際、どうしてもっと道場の宣伝をしないのか、父に詰問した事があった。

亮治は笑いながら、

「地域密着、って奴ですかね。ご近所の人たちの防犯意識が高まれば、何か有っても護身術で我が身を守れるという事が、口コミで広がればいいじゃないですか」

とおどけていた。

その時は父の経営に対する危機感の無さに呆れてしまったが、今改めて考えてみると、自分たちの居場所を公にしたくなかったのではないかと思えてならない。


そして、葵はもう一つ気になっていた。

それは、貨物船で敵に発砲された時、銃弾の弾道を目で追えた事だった。

葵が物心ついた時には、既に亮治は道場を開いており、葵も門下生同様にシステマを習わされていた。

格闘技を行う上で、肉体的にその技量の決め手となるのは力や俊敏さ、数えきれない程あるが、動体視力は最も重要であり、相手の攻撃をかわす上で、特にシステマでは相手の攻撃を受け流す上で重視されている。葵は自分の動体視力の良さには自信があった。

だが、いくら自信があるといっても、秒速三百キロ以上のスピードで飛んでくる弾丸を見切る事など、人間には不可能だ。

だが、確かにあの時、自分は二発の銃弾の弾道を捉える事が出来た。幼い頃からシステマを習っていたから出来たというのは、理由としてはあまりにも弱かった。

自分が拐われた理由も含めて、これまで当たり前に過ごしていた平和な日常が一転して、襲いかかってきた事態や、亮治は無事なのか、この先どうなるのか、葵は不安のあまり自分の両肩を掴み、自身を抱きしめるようにして震えを抑えようとしていた。



「ねぇ、葵ってば! どう思うコレ?」

葵が振り返ると、由美とニコライは相変わらずニュースに釘付けになっていた。

「どう思うって、何が?」

葵が聞き返すと、由美が状況を説明した。

「何で本当の事を伝えないのかしら?」

葵がテレビを見て言うと、今度は由美が葵に顔を向け尋ねた。

「突然誘拐されて、亮治おじさんとニコライに着いて行って、テッポウで打たれて、何が何だか分からない事だらけで、今まで大事な事を忘れていたけど、何であいつら葵を連れてこうとしたんだろ?」

葵も由美と同じく混乱していたので、そう質問されても答えようがなかった。

ただ、今確かな事は、父がいつかこういう事が起こるのを予期していた事。そしてそれが現実になった事、そして、“父があいつらに捕まったこと”だった。


由美はニコライに向き直って聞いた

「ニコライ何か知らないの?」

「どうして私に聞くのですか?」

ニコライがキョトンとして聞き返した。

「だって、同じロシア人じゃない」

葵は同じロシア人というだけで、由美に同類にされたニコライを気の毒に思った。

ニコライも返す言葉が無いらしい。


しかし葵は“ロシア人”という言葉でふと思い出した。

「そうだ! ロシア人よ」

葵が声を張り上げて言うと、ニコライが葵センセイまでと困惑の表情を浮かべた。

葵はニコライの表情に気が付くと、

「違うわよ、私を誘拐したロシア人。スカイツリーの防犯カメラに残ってないかな? それを警察に持って行って、誘拐事件で捜査をしてもらうのよ!」

由美は両手の拳を合わせて胸に当てると、

「葵! 冴えてるー!」

しかしニコライが口を挟んだ、

「お二人共、テレビを見てなかったのですか? 別の船を用意して、これだけの情報を変えられるのは、とても大きな組織じゃないと出来ません。日本の警察は信用出来るのですか?」

由美は胸を叩いて言った、

「ニッポンの警察は世界一優秀なのよ!」


拘束を外された亮治が通された部屋には、上等なテーブル、チェア、ソファが設えられていた。天井自体が低いのもあるが、背の高い本棚にはビッシリとロシア語の文学、科学様々なジャンルの本が収められており、飾り棚には一本のナイフが豪奢な台に載せられていた。


亮治は二つある椅子の一つに腰掛け、相手の背中を見つめていた。

ナイフ傷の男がくるりと振り返ると、白いコーヒーカップを二つ持って来て、亮治の向かいの椅子に腰掛けて、カップの一つを亮治の前に置いた。

男は亮治を見つめたまま、カップを口元に持っていくと、ゆっくりと味わいながら二口ほど呑み、テーブルに置いた。

無言のままテーブルに両肘を付き、両手を合わせて無言のまま亮治を見つめ続けた。


沈黙を破ったのは亮治だった。

「何故、今更葵を狙う?」

男は尚も無言のまま、ただ亮治を見つめた。

亮治も一言尋ねただけで、それ以上何も聞こうとはしなかった。


暫く両者とも見つめ合ったまま、二つのコーヒーカップの湯気だけが二人の間でゆらめいていた。

「どうして軍を辞めたんだ? 中佐」

男は亮治の質問には答えず、逆に尋ねてきた。

「この男は私の最終階級を知っている。軍人なのか。しかし軍人独特のオーラを感じない」

しばし亮治は無言で男を観察していたが、男が更に質問を続けた。

「奥さんの死が原因か?」

男が少しだけ口元を上げ尋ねると、亮治の目つきが男を射抜くほど鋭くなった。


亮治の目を見ても男は表情を変えなかったが、一瞬背中から汗が僅かにでて蒸発するのを感じた。

いつの間にか動揺はしていないと自分に言い聞かせているのに気付き、悔しさを感じた。

男の名はサルマンと言った。亮治同様元アルファ部隊に所属していたが、得意のナイフ術で一般人を殺傷させ不名誉除隊させられていた。

しかし、事実は違った。サルマンが殺傷させたのは暴漢が女性を襲っていた所に偶然出くわし、女性を助けようとして暴漢が銃を抜いたので、止む無くナイフで応酬したと正当防衛を主張したが、唯一サルマンを弁護出来る当事者の女性が、サルマンが格闘している間に逃げ去ってしまい、更に殺傷された男の仲間は、突然サルマンが襲って来たと主張したためだった。


サルマンが助けた女性の捜索が三ヶ月程行われたが見つからず、上司からも正義感は強いが、衝動的な所が見られるという報告の元、サルマンは軍法会議にて、不名誉除隊を言い渡された。

サルマンの軍人としての正義と本分は打ち砕かれ、自分の主張に耳を貸そうともしない軍を、逆に憎むようになったのだった。


「軍人なんて国家の駒でしかない……。それも使い捨てのな。アンタなら良く分かるだろう? 軍上層部の既得権だけで、任務の是非を決定し、無謀な作戦立案で愛国心高い、若本が次々と死んでいった。奥さんがあんな目に合ったのだって軍上層部のエゴが原因だ。エレーナ……、だったか? 美しい人だっ……」

男が言い終わらない内に、亮治が冷静ながら相手を脅すように言った

「それ以上無駄話を続けると、お前の顔に二つ目の傷を作るぞ」

部隊の中でも際立って秀でた隊員だった亮治は、現役を退いても尚その気迫は未だ衰えていなかった。

二人でやり合えば自分に勝ち目が無いのは、元軍人のサルマンの直感でもはっきりと分かっていた。

だが、今の亮治は虜の身。自分自身の命を危険に晒すような事はすまい。お互い軍に利用された者同士、上手く取り入れる事が出来るはずだ、サルマンは高をくくっていた。


サルマンはコーヒーカップに再度口を付けると、亮治を挑発するように言った。

「あんたの質問は娘を拐う目的だったな? 要人の暗殺などを手掛ける我々のような現場の部隊に、目的の背景が何かなど知らされんよ。ただウラジオストクに娘を連れて来いという命令を実行しただけだ……」

亮治はしばしサルマンを睨みながら、思案した後再度尋ねた。

「まだあの実験は続けられているのか?」

亮治はサルマンの一瞬の反応を見逃さなかった。

「続いているんだな。今の責任者の名を教えろ」

サルマンも亮治を睨み返し知らないと応えた。


亮治はコーヒーカップを手にし、口元に持っていこうとするや否や、カップをサルマンの顔めがけて投げつけた。

サルマンはナイフ術で鍛え上げられた反射神経で、僅かに顔をそらしてカップを避けると同時に、亮治が蹴りあげたテーブルが襲いかかって来た、左肘でテーブルを押し返すと視界から亮治が消えていた。

その瞬間自分の首がきつく亮治の腕に絡めとられた。

「ぐぅ……!」

サルマンは必死に腕を解こうとするが、退役して十年以上経っているとは思えないほどの俊敏さと体術に愕然としつつ、解けないと察するとブーツの内側に隠し持っていたナイフを取り出し、亮治の腕に突き刺そうとした。

瞬間亮治は腕をほどき、バックステップで間合いを取り、間一髪ナイフを避けた。

サルマンは左手で首元をさすりながら、ぜぇぜぇと呼吸をし、亮治に向けてナイフを構えた。

「何故お前がそこまで軍を憎んでいるのかは知らんが、さるぐつわも付けず、サシで話しあおうとしたのは、私が寝返るとでも考えたのだろう。捕虜が大人しくしているかどうか、相手の性格、技術、経験値を見て判断しないお前は三流軍人以下だ」

挑発に乗せられたサルマンは自ら亮治の間合いに入って行った。

狙いは心臓。

ナイフの腕に自信のあるサルマンは、最高のタイミングで突きを繰り出した。最早避けられない所までナイフが到達しており、完全に仕留めた手応えを感じる寸前、亮治はギリギリの所までナイフが迫ったタイミングで、身体をサルマンの腕の外側へ水平方向に逸らした。

空を切ったナイフごとサルマンの腕を掴み、ナイフを手から払い落とした。再度サルマンの首に腕を回し、数秒で失神させた。

その瞬間亮治の腕からサルマンの抵抗が無くなり、正座するようなポーズでその場に崩れ落ちた。


出向してから既に三時間は立っている。

これから船を脱出して日本に戻るのは不可能だろう。

すると、床に転がっているコーヒーカップを拾い上げると、自分でコーヒーを注ぎ、サルマンの寝台に腰を掛け、ごくごくと飲み干した。

ふぅと吐息を吐くと、エレーナを思い出し、そしてどんなに消したくても消せない記憶が蘇り、そのまま寝台に仰向けになった。


霞が関に建つ外務省の外交会議用の一室で、外務大臣である園田はロシア外務省大臣のニキータ・アミーロフとテレビ会議を行っていた。

頭髪が薄く、腹回りが弛んだ園田とは対照的に、元軍人のアミーロフはロマンス・グレーの髪と骨太な引き締まった体つきだった。年齢もアミーロフより年下の園田は同じ外交職員として彼に劣等感を抱いていた。

しかし、そうした感情の原因は容姿の比較よりも、彼の交渉術の高さがあまりにも秀でており、園田の大臣としての自尊心を踏みにじられるような思いが、正直な理由だった。


「アミーロフ大臣、貨物船の入替えは万事こちらで対処しました。これは私の迅速な対応と各方面への働きかけによる所であり、“貸し一つ“として頂けると幸いですな」

いつもはアミーロフにこんてんぱんにやられる園田だったが、今回の騒動は園田の言うとおり、日本側の初動の速さが功を奏して、情報操作に成功したと言えた。


だが、アミーロフは感謝の言葉を述べるどころか、園田の思いもよらない返答をしてきた。

「ミスター園田。これはあなたが私に貸しを作ったのではなく、私があたなに貸しを作ったという点を誤解なさらないように」

唖然とする園田にアミーロフは尚も続けた。

「もし、私があなたに今回の貨物船入替えを“進言”しなかったら、どうなっていたでしょう? 分かりますか? ロシア人が日本人の少女を誘拐しようとした。これは貴国と我が国において、日本国民は反ロシアの姿勢を強めるでしょう。我が国の大統領は融和的な政策を推進し、領土問題に関しても寛大な措置を取ろうとしています。しかし、貴国の国民がそのような姿勢を強めたら、我が国の国民も反日姿勢が強まり、先ほどの政策は遠のくことになります」

園田はアミーロフが自国の保身のために、日本政府に依頼してきた事を自分の功績とした上、外交政策まで持ち出し揺さぶりをかけてきた。


園田は内心、腸の煮えくりかえる思いだったが、冷静さを装ってアミーロフに反論した。

「大臣の仰る意味は良く理解しております。今回の件で何も対応しなければ、事件は日露間の国交関係にも影響を及ぼしかねない。しかし、事実を公にすれば、米国の立場上、貴国を批判する姿勢を取るでしょう」

園田もこれにはアミーロフも反論出来まいと、自画自賛したが、やはりアミーロフが一枚上手だった。

「国交関係に影響など及びませんよ、ミスター園田。誘拐事件は我が国のマフィアが行ったものであり、政府としては遺憾に思っており、マフィア勢力弱体化に注力する意向です。言うなれば我が国と貴国とで治安を維持したのですから、米国が横槍を入れてくる事などありません。しかし、私の依頼に素早く動いて頂いた、ミスター園田の顔を立てて、予定していた訪ロは実現出来るように、私から大統領に進言しておきましょう。では次の会議があるので本日はこれで失礼します」

そう言って、アミーロフは一方的に会議を終わらせた。

アミーロフは終始“マフィアの犯行”と言い切ったが、それが事実でないのは承知の上だった。園田もそれを把握していたが、既に証拠を隠滅してしまった後になって、それを覆す事は日本側に取って何のメリットも無い。園田はアミーロフの手のひらで踊らされただけだった。

園田はやり場のない怒りを両拳にこめて、テーブルを思い切り叩いた。


園田はデスクの電話を引き寄せ、ロシア大使館に電話をかけた。相手が電話に出るや否や、あらゆる限りの罵声を浴びせかけていた。

相手はそれを黙って聞いていた、園田の癇癪は既に慣れきっていた。二十年以上ロシア日本大使館に務める磯貝は、受話器を手に天井の小さな穴の数を数えていた。

「例の事件は既に聞いているだろうと思うが、ロシアの貨物船員が日本国内で発砲するなど、一体どういう了見なんだ? 貴様の職務は何だ? 私が直接アミーロフと会議をしなかったら、国交断絶になりかけていた所なんだぞ!」

園田はアミーロフに槍玉に上げられ、怒り心頭の余り、在る事、無い事まで引き合いに出し始めた。

磯貝は何が本当で、何がハッタリなのか分からないが、今度は引き出しの中の整理を始めた。

「私のおかげで来月の訪ロは何とか実現出来そうだが! 首相に三時間もどやされた私に貴様はどう詫びるんだ? 言ってみろ! ロシア側からの正式な謝罪を取り付けられるように、これからどうするつもりか言え!」

磯貝はようやく口を開くと「善処します」とだけ答えた。

自分の常套区を部下に使われ、憤怒した園田は、

「貴様は死ぬまで極寒の地にいろ!」

といって投げつけるように電話を切った。


対照的に磯貝はそっと受話器を置くと、ロシアの現状を知らない、無能な大臣がロシア政府に何を働きかけても、良いように弄ばれるだけだ。一度シベリアの大地に赴き、且てそこで起きた凄惨な出来事を肌で感じ、実際に自身もそこで体験して欲しいと心底願った。

「いずれにしても事が事だけにロシア政府には大使館を通じて、今回の件に関しての見解を求めねばなるまい」

磯貝は目を閉じ想った。だが、既に磯貝には政府からの回答は分かっていた。いつも通りお決まりの回答があるだけだろう。

「誠に遺憾である。政府はマフィア勢力の弱体化に注力し、引き続き貴国との友好関係を維持する所存である」

特に捜査もせず、自分たちの関与を否定する、いつものパターンだ。

いや、ロシアに限ったことではない。誠意を尽くせば相手は分かるはず、と思っているのは日本の外交官ぐらいのものだ。

諸外国の外交官の抜け目ない駆け引きに、日本の外交官が対等にやり合えるようになる日が来るのか。磯貝は日本の未来を憂いた。


美園と手を繋いだ優介は、通りを歩きながらクリスマス・イリュミネーションの飾り付けを指さし、感嘆の声を上げて美園にもその驚きを分かち合うように、飾りの形や由来などを質問してきた。

優一の死から一週間と経っておらず、美園の心は未だ悲しみと寂しさにまとわり付かれていたが、優介が健気にも自分の気持ちを察して、幼い慰め方で懸命に美園を気遣う思いやりが、美園に“日常”を与えてくれた。


だが日を追う毎に少しずつ“優介が優一の死を知っていた”という発言の事が気になるようになっていた。

優一が優介だけに自分の死を伝えていたのだろうと考えていたが、子供に自分の死を伝えるなど、どんなに神経が衰弱していたとしても、やはり考えにくかった。

まして、優一の性格から、美園に話さないなら、優介にも話さないはずだ。

だとしたら、優介には人の死が分かる、第六感のようなものがあるのかと思うと、それもにわかには信じがたい思いが拭えなかった。


「ねぇ、お母さん! お母さんてば! 聞いているの?」

どうやら思っていた以上に考えにふけってしまい、優介の声に気が付かなかったらしい。

繋いだ手を両手で揺すり、気を引こうとしていた。

「ごめんね、ちょっと考え事しちゃったの」

美園は素直に謝った。

「見て! あのリース! 家の何倍ぐらいの大きさかなぁ?」

エントランスの上方に、直径十メートルはある巨大なリースが取り付けられ、地上にはそれをバックに写真を撮る人たちが溢れていた。

美園は極力家族連れから目を逸らすようにしていた。優介にこれ以上辛い思いをさせたくないという、母親としての意思と、優介の愛おしいまでの慰めのお陰で、優介の前でむせび泣くような事は無かったが、やはり満面の笑みを称えた家族連れを目にするのは辛かった。


美園は上方のリースに目をやり、さらに目線を上へ上へと上げていったが、最上部を見るには首を直角に見上げねばならない程の高さの鉄塔が、眼前にそびえ立っていた。

地上部分は三角の形状をしているが、上へ伸びるに従って円状になっていく、幾何学的な網状で作られた塔。

自宅のベランダからも見えたが、間近で見るのは美園も初めてだった。

昨晩の夕食時に、優介が突然展望台に行ってみたいというので、二人でスカイツリーの展望台に登りにやって来たのだった。


朝早くにやって来たが、展望台へ上がろうとする観光客の長い列が出来ており、三十分ほど列に並ぶ事になった。

二人は列に並び、クリスマスの歌をうたったり、なぞなぞをしたりしながら、順番を待っていると、チケットカウンターに到着した。

「早く! 早くー!」

優介は喜び勇んで美園の手を引っ張った。美園も三百メートルという高さがどれぐらいのものなのか、少々の期待を胸に二人はエレベーターに乗り込んだ。

エレベーターが昇降中は、灯りがほの暗くなり、綺麗なイリュミネーションが床と天井に現れた。優介は上下に首を振りながら目を輝かせて見ていた。

「まるで宇宙みたいだねぇ!」

優介が美園を見上げて言った。

「ホント! とっても綺麗ねぇ」

高速エレベーターは驚くほど早く第一展望台に到着すると扉が開いた。

既に展望台はかなりの混雑具合で、二人は人を縫うようにして、窓際に近づいた。

生憎快晴ではなかったが、遥か遠くの地平線が見渡せ、緩やかなカーブを描いていた。

「お母さん! やっぱり地球は本当に丸いんだね!」

知識では知っていたものの、それを目の当たりにした優介が目を輝かせて言った。

「これだけ高くまで登ると、凄く良く分かるわねぇ」

優一の専門書を読み漁り、特に大好きな宇宙関連の他にも、様々な大人向けの書籍を愛読していた優介は、並の大人以上の知識を持っていたが、それを体感して喜び、胸を踊らせている様子を見ると、美園はもっと色々な所に連れて行ってあげ、優介のこれまでの苦痛を感動に変えてあげたいと思った。


「お母さん、アレ観てもいい?」

優介が指差す方を見ると、窓際に大きな双眼鏡が設置されていた。

「いいわよ」

美園は優しく笑いながら言った。

優介は駆け足で空いている双眼鏡の前に立つと、美園に早く来るように促した。

美園が硬化を入れると、双眼鏡から小さかった地上の様子が些細に確認出来た。

「ここから僕の家は見えるかなぁ?」

優介は窓の外と双眼鏡を交互に見ながら、目をこらして探した。

美園は優介の一生懸命な様子を笑顔で見ながら、家が反対側だとは言えず黙っていた。

カシャンという音がして、双眼鏡の利用時間が過ぎるとフィルタが降り、見えなくなった。

「あぁあ、僕の家、見付けられなかったよぉ」

優介が心底残念そうに言うと、美園が屈んで優介の目を見ながら言った。

「優ちゃん、お家はねぇ。あっち側なのよ」

美園は指で展望台の反対側を指差した。

「えっ!? そうだったの? 僕、方角間違えちゃった……」

心底落胆している優介に、美園が笑顔で言った。

「優ちゃん、お腹は減ってない? お母さん、お腹減っちゃった。あそこのお店で何か食べたら、今度はあっち側の双眼鏡でお家を探しましょ」

優介は笑顔を取り戻し、感激しながら言った。

「もう一度やっていいの!?」

「えぇ、勿論。今度は見付けてね」

美園が優介にウインクすると、優介が力強く言った。

「僕、絶対見つけるよ! それにお腹も減っちゃった」

二人は笑いながら、軽食売場へむかった。


村上は昨夜のロシア船銃撃事件の現場に来ていた。

佐伯の身辺を調べあげた所、頻繁にロシアのウラジオストクに出張していた事が分かった。

村上は現場で鍛えられた直感で、この事件にも何か繋がりがあると踏んで、丸山に願い出て、現場の検証に一緒に当たらせて貰えるように手配していた。


村上が船の渡り周辺に張られたブルーシート入り口で、警備に付いている巡査の敬礼に答えて、中に入ると鑑識の真最中だった。

手袋をはめ、渡しを渡ろうとすると、岸壁のへりに緑色の破片のような物が、チョークで囲まれていた。

岸壁に戻り、屈んで破片を注意深く見ると、表面の緑色は塗料で断片は白い地が出ていた。

「コレ、何だと思う?」

村上は手近に居た鑑識に尋ねた。

「渡し板周辺に散らばっているのですが、船体の一部か、積み込み貨物が擦れて、その時に落ちた破片かと思います。破片の詳細は科研で調べないと分からないですね。ただ船体にキズは見当たらないので、貨物の破片かと思われますが」

村上は礼を言うと船体部分を見て回った。確かにどこにもキズは見当たらない。


次に貨物室を見て回った。

コンテナがビッシリとつまれているが、先ほどの破片と同色の荷物は一つも見当たらない。村上は船内の全部屋を見て回った。

「あの緑色の破片はどこからはがれたものだ?」

最後に操舵室に上がり、計器なども見てみたが、船など操縦した事のない村上には、計器類に異常があるのか無いのかさえ分からなかった。


操舵室を後にしようと振り返りざま、テーブルの上の海図の下から何かはみ出しているのが目に止まった。

引き抜いて見てみるとそれは一枚の写真だった。

恐らく乗組員の家族の写真だろう。写っているのは何処かの料理屋の前で取った日本人のようだが、背景の看板の文字が中国語で書かれており中国人のようにも見えた。写真を裏返して見ると、中国語で何か書かれていたが、撮影した日付はローマ数字だった。

「間違いない、これは中国人の物だ……」

中国人の家族を持つロシア人のものだろうか? 村上は写真を手に目を閉じてしばし考えこんだ。

村上は目を見開くと急ぎ足で、まだ一か所だけ見ていなかった、船内の厨房へ向かった。

厨房に入ると戸棚という戸棚を開ける。どこも空っぽだった。

村上は厨房中央の何もおかれていないテーブルを指先でトントンと叩いていると、再度厨房内を見回した。

すると壁に固定された背の高い食器棚の上から、紙片の一部が見えた。

椅子に乗り手を伸ばし、つまみ引いてみると、それは中国後のお札がだった。


中国語が読めない村上は、しばし考え込み、中国人の刑事が一ヶ月前から室町警察署に研修を受けに来ているのを思い出した。

村上は署に電話し、中国人の研修生に取り次いでくれと頼んだ。

暫くすると、

「はい、代わりました」

という流暢な日本語の声が聞こえた。


中国人の刑事な劉という名で、一度村上が講師として話をした事があった。

「あぁ、劉さん。村上です。忙しい所申し訳ないんですが、今から送る写真の中国語の意味を教えて貰えますかね?」

村上が頼むと、劉刑事は快諾し、一旦電話を切った。

村上は携帯で札の字が判読出来るよう、注意深く写真を撮ると、劉刑事の携帯にメールで写真を送った。

暫くすると劉刑事から、村上の携帯に電話がかかってきた。

「村上です。写真の字、読めました?」

「はい、読めました。これは航海の安全を祈願する、お札ですね」

「やはり……」

村上は更に質問を続けた。

「中国の船では、大抵こういうお札を置いておくものなんでしょうか?」

「信心深い船長などは置いたりしますが、最近ではあまり置きませんね。特にこのお札に書かれている文はかなり年配の人が使うもので、よほど信心深い船長が使っていたのだと思いますよ」

「なるほど。最後にもう一つだけ。こういうお札は中国では厨房に置くものですか?」

劉は笑いながら答えた。

「美味しい料理を作るためのお札じゃないので、普通は船長室か操舵室ですね」

村上は劉刑事に礼を言って電話を切り、そして確信した。

「この船は鑑識が入る前にすり替えられている!」

恐らく相当急いで中国船の痕跡を消そうとして、高い位置にある船長室、或いは操舵室の神棚を取り外し、その後厨房内で作業をしていた人物が、誤って厨房の戸棚に何かの拍子に置き忘れたのだろう。

村上は操舵室に戻って見回したが、何かを外した痕跡は無かった。続いて船長室を調べてみると、部屋の奥の隅に、一か所壁の色が周囲の色と異なる箇所があった。

底に神棚があったのを、取り外したのだろう。

だが、一体誰が? 何の目的で?

ロシアマフィアが痲薬以上に見られて困るものなどあるだろうか?

相手の暴力団も然りだ。

そもそも、一昼夜足らずに痕跡を消した上で、沿岸警備に気付かれずに、船の入替えを彼らの力だけで出来るはずがない。無論、賄賂を使った可能性もあるだろうが、胴型の船の調達、証拠隠滅までをやってのけるのは、それに精通した専門の人間でないと難しいだろう。


「この事件は裏で大きな組織が絡んでいる……。少なくとも日本政府、或いは更に多くの機関が咬んでいるのは間違いない」

村上は武者震いをした。

「こりゃぁ、本当に最後の捜査になりそうだな」


村上は船から出て、車に乗り込むと部下の一人から電話がかかってきた。

「何か出たか?」

村上はハンドルを指で叩きながら口早に尋ねた。

「ムラさんの睨んだ通りでした。例のスカイツリー誘拐事件の外人はロシア人のようです。スカイツリーのエレベーター内に居た犯人が、展望台内の別のモニタに写っている映像を、科研で解析してもらった所、唇の動きはロシア語を喋っている事が判明しました!」

村上はハンドルを平手でぴしゃりと叩くと、部下の功績を称えた。

「良くやった! 科研の連中にうな丼奢ってやるって伝えといてくれ! 勿論お前もな。それからな、外国人がロシア人だというのは、報道規制をかけるよう本部長に伝えといてくれ」

そう言うと村上は車のエンジンをかけながら電話を切り、車をスカイツリーに向かわせた。


スカイツリーの展望エレベーター脇にあるサービスカウンターで、由美が若い女性スタッフ相手に怒鳴っていた。

「何で見せてくれないのよ! 誘拐されたから警察に見せて証拠にするだけって言っているじゃない!」

エレベーターを待つ列に並んでいる人々が、皆カウンターの騒ぎを見ていた。

由美を相手にするサービススタッフも困り果てた顔で、同じ事を繰り返すだけだった。

「ですので、監視カメラはセキュリティの保安として記録しておりまして、プライバシーを含むデータになりますので、誠に申し訳ございませんが、関係者以外の方には、お見せする事が出来ない規則になっておりますので……」

サービススタッフは頑なに葵たちへの提供を拒んだ。

「もぉーう……融通が効かないんだからぁ」

疲れ果てた由美がそうぼやいた。

するとニコライが太い腕を突き出し

「亮治センセイを救うためなら、私が力づくでも……」

そう言いかけた所で葵と由美がニコライの腕を二人がかりで下げさせた。

「これ以上日本でロシア人が何か仕出かしたら、出禁になっちゃうよ」

ニコライも面目ないという顔で頭を掻いた。

「もういいよ。由美、ニコライ、ありがとう。せっかくここまで来たんだし、少し気晴らしに、また展望台に登ってから帰ろうよ」


日曜日のクリスマス前とあって、列は前回よりも一層混んでいた。

ようやく次のエレベーターで自分たちが上がれる番になった所で、葵がふと先ほどのサービスカウンターを見ると、茶色いコートを来た男性が、スタッフに黒い手帳のような物を見せて、バックヤードに通されていった。

間違いない、あれは警察だ!

列を出て男を追いかけようとした時、丁度エレベーターの扉が開き、

「さぁ、乗った、乗った~!」

と、後ろから由美に押されて、エレベーターに押し込まれてしまった。

エレベーターの扉が閉まると、展望台に上がるまでの間、証明が消え、エレベーター内に綺麗なイリュミネーションが灯った。スカイツリーの紹介音声が流れ始めると、

葵が隣に立っていた由美の耳元に口を近づけ、囁くように言った。

「さっきサービスカウンターの所で警察っぽい人がいたのよ」

「え? そうだったの? じゃぁ展望台に着いたらすぐ、下に降りて話を聞いて貰おうよ」

由美は同じように囁き声で言うと、葵に促した。葵は無言で頷いた。


高速エレベーターはほどなく下層展望台に到着した。三人は踵を返し、下り用エレベーターに並ぼうとした時、葵が少年にぶつかってしまい、少年は尻もちをついてしまった。

「きゃ! ごめんなさいね! 大丈夫!?」

葵は咄嗟にしゃがみ込み、少年を起こそうと手を取った、二人の手が触れた瞬間、互いの脳内で何かがパチンと噛みあうような不思議な感覚を受けた。

初めて合う見ず知らず同士にも関わらず、言葉やスキンシップなどとは異なる、親近感、或いは安堵感に近い、これまで経験した事のない不思議な感覚だった。


少年は尻もちを着いたまま、葵の顔を見つめた。恐らく少年も同じ感覚を受けたようだった。すると少年が葵に尋ねた

「お姉さんは……誰?」

「私は……葵。本堂 葵。あなたは?」

「僕は天間 優介」

二人はそういうと手を取り合ったまま、葵が手を引いて、優介を立ち上がらせたが、依然お互い見つめ合ったままだった。

「お姉さん、電話番号教えて貰えますか?」

突然少年に頼まれ、驚いたがカバンからメモとペンを出すと、少年に手渡した。

「名前も書いておいたから」

葵は少年にメモを手渡した。

「ありがとうございます。あ、メモをもう一枚下さい、あとペンも貸して下さい」

葵が手渡すと、優介も何かを書き始めて、葵にメモとペンを返した。

「これが僕の名前と電話番号です。僕は電話持っていないから、お母さんのですけど」

二人はそう言って笑顔で手を振って別れた。


由美とニコライは葵と少年の奇妙なやりとりを無言で見守っていた

「お待たせ」

葵が二人に言うと、由美が葵の耳元に手で覆いながら口を寄せ、反対の手で葵の脇を指先で突付きながら冷やかしっぽく言った

「何百人にプロポーズされても電話番号すら教えなかった葵様が、あんなボクちゃんに教えるなんて。もしかしてそういう趣味なの?」

葵は冷やかされたのに、真面目な顔で応えた

「違うの。あの子の手を取った時、今まで経験した事がない不思議な感じがしたの」

由美はニンマリと笑うと

「葵さん、それって一目惚れっていうのよ」

葵は尚も冷やかしに乗らず、真面目な顔で少年が去って行った方を見ながら言った。

「うぅん、本当にそういうんじゃないの。好きとかじゃない、“繋がり”って言うのかな?」

冷やかしに乗らず、真面目な表情で答える葵に、由美が今度は真剣な口ぶりで尋ねた。

「なら、何なのよ?」

葵はしばらく黙っていたが、ポツリと応えた。

「“親友” かな?」

するとニコライが下りエレベーターが来たと二人に告げた。


優介がツリーの反対側で、辺りをキョロキョロとしていた美園に飛びついた。

「どこに行っていたの? 人が多くて探せないから心配していたのよ」

「ごめんなさい。でもね、ボク、今日、本当の友達に会えたんだ。初めての親友!」

美園はどういう事か良く分からなかったが、嬉しそうに話す優介に言った。

「そう! それはとても良かったわね。お母さんもうれしいわ。でも、もう一人で歩きまわっちゃダメよ」

そういうと、優介の頭をくしゃくしゃになるまで撫でた。"


一方、葵たちの乗ったエレベーターが地上に着き、扉が開くと同時にサービスカウンターに走っていった。

「ついさっき、警察の人が来たと思うんですが、会わせて貰えないでしょうか?」

葵は早口で懇願した。

「それは警察の方に聞いてみませんと、我々ではお答え出来ませんので。ただ、掲載の皆さまでしたら、つい今しがたお帰りになられましたが」

カウンタースタッフはそう言うと、警察が去って言った方を指さした。

葵たちは急いで出口を飛び出すと、一台の車に乗り込もうとする、葵が先ほど見た茶色いコートを着た、色黒の刑事を見つけた。

「お巡りさーん! 待って下さーい!」

葵と由美が叫ぶと、村上が声の方に振り返った。

「何か用かい?」

村上が尋ねると、葵たちはこれまでの経緯を簡単に村上に伝えた。

驚いた村上は、もっと詳しく聞きたいが、ここではマズイからと、三人を車に同乗させ、室町警察署まで同行させた。


なるべく署内で目立たない会議室に三人を連れて行き、村上は敢えて調書作成署員を付けず、村上一人で事情を聞いた。

まず初めに、葵が誘拐され、船内で起きた事を話し、次に由美とニコライが葵救出の為に、亮治と貨物船で起きた事を、そして亮治を乗せたまま船が出港したことを村上に詳細に説明した。

三人からこれまでの経緯を聞いて、村上の中で腑に落ちなかった点と点が繋がった。

「なるほど……。良く分かったよ、どうもありがとう。ともかく葵さんが無事だったのが何よりだったが、おとっつあんの方が心配だな……」

村上は立ち上がると、眉間にシワを寄せ、腕を組んで言った。

「刑事さんたちが、今から貨物船を追いかけて、犯人を逮捕出来ないんですか?」

由美がお願いするように尋ねると、村上が三人を諭すように言った。

「ワシも一刻も早く、お父さんの救出に向かいたい。だが、犯人の逮捕というのはテレビドラマみたいに簡単にはいかんのだよ。まして、今回の犯人は外国人で、既に船は日本の領海を出てしまっている……。そして、更に難しいのは……」

村上はそこまで言って、自分にも言い聞かせるように三人に言った。

「君たちも知っての通り、貨物船を偽装させられるほどの力を持った者たちが、この事件に絡んでいるという事だ。それも一人や二人ではなく、組織的な規模だ」

三人は村上の一言一句を聞き逃すまいと、瞬きさえも忘れるほど村上の説明に集中していた。

「ワシが言うのもおかしいが、もはや警察も信用出来ん。当然日本政府もだ」

それを聞いた葵と由美は、改めて事態の重さに不安を感じた。

自分たちの国まで信用出来ないなんて、一体この先誰を信じて、何をすればいいのか途方に暮れた。

村上は三人の絶望的な顔を見て、特に葵にとっては辛いだろうが、敢えて念を押した。

「いいかい? これからワシの言うことを良く聞いて欲しい。今ワシに話した事は、他の誰にも、警察官だろうと家族だろうと、絶対に話してはいかん。もう一つは、お父さんの身柄を安全にする為と、君たち自身が危険に晒されないためにも、これ以上この件に深入りしちゃいかん。分かったかね?」

葵は自分たちの身に降りかかった出来事を疑いもせず、真剣に聞いてくれた村上だけは、警察の中でも唯一信頼出来る人物だと確信したが、亮治の救出に関しては、出来れば自分の力で、勿論自分一人ではなく、仲間の協力も必要だと感じていたが、何もしないでじっとしている事は出来なかった。


しかし、刑事である村上が協力してくれれば、とても心強い。葵は、ここは一旦村上の言うことを守ると言うのが懸命だと考えた。

「分かりました。ただ、父の救出方法が決まったら、教えて頂けないでしょうか?」

葵が村上に頼んだ。

村上は捜査に影響の出ない範囲で、出来るだけお父さんの状況は知らせると言って、自分の携帯番号を葵に教えた。

三人が署を出る際、村上は他の署員に出来るだけ見られないように、署の裏口へ連れて行き、くれぐれも気をつけるよう再度念押しした。


村上は三人が帰ったあと、先ほどまで使っていた会議室に一人戻ると、椅子に座り腕を組んで今後の捜査の方法を検討した。

三人から聞いた話しを捜査本部で報告したら、国交問題にも繋がりかねないだけに、このヤマは本店扱いになるだろう。

更に厄介なのは、日本政府も一枚かんでいる可能性があることだ。

本店扱いになれば、捜査は自分の手から離れ、体よくもみ消されるに違いない。

村上は刑事としての規則を破ってでも、このヤマの真相を、そして真犯人を挙げる事を、そしてこれが村上にとって最後の事件になる事を決意した。

それが村上の考える刑事としての職務と義務であり、自身の信念だったからだった。

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