混沌
天間 優介の母親である美園が、息子と他の子供たちとの違いに気付いたのは、優介が三歳の時だった。
優介が公園に遊びに行くと、同じ歳頃の子供たちが、砂遊びやブランコ、滑り台などの遊具を使って、満面の笑みで遊びに興じている中で、優介はベンチに座ってその様子をただ見つめているだけだった。
初めは美園も優介が遊具で遊ぶのを怖がっているのかと思い、自分も一緒になって遊具やかけっこ、縄跳びなど、様々な楽しみ方で優介を誘うのだが、すぐに優介はベンチの方を指さし、
「あっちが良い」
と言い、美園と一緒にピッタリと寄り添うように座っているのを好んだ。
たまに人見知りをしない、知らない子供たちが一緒に遊ぼうと声を掛けてきても、美園の手をぎゅっと握って、目をそらしてしまうのだった。
子供が出来たら、出来るだけ一緒の時間を過ごしたいと考えていた美園は、優介の出産を期に看護師を辞め専業主婦になっていた。
出来れば小学生に上がるまで、自分が遊び相手や文字、数字、などの勉強を見てあげるつもりでいたが、そのような優介の言動を憂慮した美園は、優介が四歳になったタイミングで幼稚園に通わせる事にした。
美園としては自分と接する時間が長すぎて、逆に友達とのコミュニケーションが上手く取れなくなっているのではと考えてのことだった。
初登園の日、送迎バスで優介を見送り、自宅に帰宅してから二時間ほど経って、幼稚園から電話がかかってきた。
すると、今から園まで来てもらう事は可能かと尋ねられた。
美園はすぐ行く旨を伝えると、自転車に乗り急いで幼稚園に向かった。
十五分ほど自転車を走らせると園の建物が見えてきた。
優介の通う事になった幼稚園は二年ほど前に開園された新しい園で、建物の作りも外観から子供たちに親しみやすい色使いや、動物の絵が描かれ、幼稚園の指導方針も”おおらかさと、優しさと、自立心を芽生えさせる“という、園児たちが就学前に人を想いやり、自分で率先して考えられるよう、先生たちも出来るだけ子供たちの意思を尊重した環境だったので、美園も優介がそこで多少なりとも変化を期待していた。
職員事務室の引き戸を開けると、
「天間 優介の母です。先ほどお電話を頂きまして参りました」
と告げると、事務室の中にいた優介が美園に飛びついてきた。優介は美園のロングスカートに顔を埋めた。
美園が担任の先生に事情を聞くと、美園とさほど年齢の違わない優しそうな担任が美園に説明した。
「わざわざお呼び出しして申し訳ありません。送迎バスが園に着いて、優介君が他の子供たちと一緒に部屋に入り、朝の絵本読み聞かせをしていたのですが、突然一人立ち上がって、部屋を出て行ってしまったんです」
「そうでしたか、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
美園も担任に詫びながら、美園から離れようとしない優介の頭を軽く撫でながら言った。
「いえいえ、初登園ではこういった事はよくある事なので気にしないで下さい。子供たちも今までずっとママと一緒に居たのに、急に離れてしまって寂しくなるのは良くある事ですので」
担任は美園を安心させるように、笑みを浮かべて言った。
しかし、担任は片手を頬に当てながら美園に言った。
「私たちも、そういった事は慣れていますので、しばらく様子を見て、若い先生が母親代わりになって、二人だけでオモチャやパズル、人形などで落ち着くまで遊んで、気持ちが切り替わったら部屋に移動するのですが……」
そこまで言って担任は、少々言いづらそうに会話を区切って美園に告げた。
「その……、優介君は担任と二人きりになっても、窓の外を見続けて、何を話しかけても言葉を返してくれませんものでして、今日は初日という事もありましたので、お家に帰りたい? と尋ねると頷いて答えてくれたので、お電話を差し上げた次第です」
多くの子供と接してきた担任も、優介のような子は初めてのようで、少々困惑した様子が美園にも見て取れた。
「そうでしたか。ご連絡頂きありがとうございました。では、今日はこのまま優介を連れて帰宅させて頂いて宜しいでしょうか」
美園が聞くと、担任は叱ったり、明日も無理に行かせたりしようとせず、徐々に慣らしていきましょうと、美園へアドバイスした。
優介を連れて自宅へ戻った美園は、おやつのクッキーを皿に盛り、応接テーブルに美園用のコーヒーと優介にはココアを淹れてあげた。
優介は嬉しそうに、バタークッキーとココアパウダーがまぶされた、茶色いクッキーを一つずつ両手に取ると、笑みを浮かべて美園に見せた。
美園は“あーん”と言って口を開けると、優介は両手のクッキーを交互に見て、
「こっちあげる!」
少し苦味のあるクッキーを自分の口に、バター味の甘い方を美園の口に放り込んだ。
美園は優介がココアパウダーのクッキーが苦手なのを知っていた。
優介は自分が苦手だから、美園も苦手だろうと思い、敢えて自分の好きなクッキーを美園にあげたのだった。
ココアを一口飲んで、カップをテーブルに置いた優介を、美園は思わず抱きしめた。
多少人とのコミュニケーションが苦手だからと言って、無理に幼稚園に入園させ、優介に寂しい想いをさせてしまった事を悔やんだ。
美園は自分に言い聞かせるように、過去には大きな業績を残した偉人も、幼い頃は人とのコミュニケーションが上手く取れず、学校にも通えなかったが、傍らで支える母のお陰で偉業を成し遂げた人物も居たのだ。
美園は優介に偉人になって欲しいとは微塵も考えていなかったが、これが優介の個性なのだと、自分は出来る限りそれを支えて、優介の苦痛にならないように少しずつサポートして行こうと決心した。
その日の内に美園は幼稚園に退園の連絡を入れ、優介の一日だけの幼稚園生活を終了させた。
しかし、義務教育である小学校はそのようにはいかなかった。
入学前に、優介の通う学校に出向き、優介のコミュニケーション傾向などを担任となる先生に相談した。同じ歳頃の子供を持つ女性担任も優介の性格を理解した上で、美園に言った。
「ご事情は分かりました。私の方でも優介君に対して他の子供たちと特別視しない範囲で、出来るだけフォローしていきますので、ご安心下さい」
そう言って、美園に同調した上で、“ただ”と付け加えた。
「言うまでもありませんが、小学校は義務教育ですので、幼稚園や保育園のように、先生たちが子供たち一人一人を世話する事は出来ません。少々厳しい言い方ですが、小学校は学び、体力を育み、自立への第一歩を踏み出す場です。お母様も出来るだけ過保護になり過ぎないように、気をつけて下さい」
美園は、ただ、はいと答えただけだった。
幸いにも六歳になった優介は分別が付くようになったのか、途中で学校を帰りたいと言う事は無かった。
しかし、集団登下校だけは優介は頑なに拒んだ。美園と一緒に登下校をしたいと言って譲らなかった。
美園も友達と一緒にお話しながら登校するのは楽しいよと言って聞かせ、稀に優介が折れて、集団登下校をさせても、集団から大きく距離を取って歩き、誰とも会話をする事はなかった。
結局美園は毎日一緒に登校し、下校時刻になると優介の通う学校まで迎えに行っていた。
学校側からは過保護過ぎると注意を受け、優介の自立の為にも集団登下校出来るようにがんばってみて下さいと言われていたが、学校側も優介に無理をさせ過ぎても逆効果だろうという事で、徐々に慣らせていこうという事になったのが三年前、状況は四年生になった今も変わらなかった。
そうした周囲の思いとは裏腹に、決して優介は人が嫌いというわけではなかった。
優介が胸にしまい込み、美園も知らない出来事があった。
ある日、優介のクラスに、父親の転勤で京都から引っ越してきた転校生が加わった。
“サクラ”という名前の子で、綺麗なストレートの髪が肩程まで伸びており、ほっそりとした身体つきの目の大きな女の子だった。彼女は優介ほどではないが、おとなしく、内気な子だった。
サクラちゃんは転校してくるまで、京都で産まれ育ち、京都訛りだったため、馴染みのない言葉使いをするサクラちゃんは、すぐにクラスの男子たちにからかわれた。
「止めなさいよ! サクラちゃんが可哀想でしょ!」
女子たちはサクラちゃんを庇ったが、男子たちは段々とエスカレートし、授業中にもサクラちゃんの喋り方を真似て、先生の質問に答える始末だった。
サクラちゃん以上におとなしく、校内外に一人も友だちがおらず、誰とも話さず、休み時間も校庭で遊ばず、一人教室で読書をして過ごし、更に母親と一緒に登下校している優介がサクラちゃんと同じようにからかわれたり、イジメられたりしなかったのには理由があった。
それは優介の学力、運動能力が他の子供たちよりもズバ抜けて秀でていたからだった。
また、それ以上に優介の放つ、人を寄せ付けない独特のオーラが子供たちに畏怖の念を抱かせていたことが一番の理由だった。そういった優介の持つ何かが、逆に他の子供たちの方が優介と関わりを持ちたがらなかったのだった。
「サクラちゃん、男子の事なんか気にしないでいいからね」
ある女子が昼休みにサクラちゃんを励ましていた。クラスの中でも一際大人っぽい女子が、サクラを心配しているようだった。
「それより、今日ミサちゃんとユキちゃんが家に遊びにくるんだけど、サクラちゃんも一緒に来ない?」
「え? あ…ウチはえぇわ。今日は早ぅ帰らんといかんねん……」
「そっかぁ。じゃぁ、また今度誘うね」
そう言って残念そうに彼女は去って言ったが、その様子をたまたま横で見ていた優介は、サクラちゃんが席に座って、俯きながら泣いているのに気が付いた。
優介はサクラちゃんに声をかけようか逡巡した。今まで自分からクラスメートに話しかけた事は一度もなかった上に、何と声をかけて良いか分からなかったのだった。
だが、その時なぜか優介は、サクラちゃんに声をかけずにはいられない気持ちになった。決して好意を抱いたからではなく、それは友達を作りたくても作れない、サクラちゃんの辛い気持ちに同調したのだった。
帰りの会が終わり、生徒たちは思い思いに友達に帰ろうと声を掛け合って、教室を出て行く中、サクラちゃんは一人、教科書やノートをランドセルに仕舞っていた。
優介はサクラちゃんの席の横まで近づくと、暫く無言でサクラちゃんを見つめていた。
サクラちゃんの方も優介の顔と名前は覚えていたが、話した事は当然無く、突然傍らにやってきた優介に少々驚いた様子で、しまいかけたノートを持った手が止まっていた。
「サクラちゃん…、宇宙の事とか…好き?」
優介の会話のきっかけは自分の趣味ぐらいしか思い付かなかったが、笑顔で尋ねた。
突然の質問に少し驚いた様子だったが、クラスの殆どの男子が自分の訛りをからかう中、優介だけは加わろうとはしなかった事と、優介の笑顔がサクラちゃんの心を僅かだが溶かした。
「宇宙って、地球の外にある、あれの事やろか……?」
「うん、そう。好き?」
小学四年生以上の学力を持っており、自宅でも優一の本を読むのが趣味の優介の質問は、サクラちゃんにはあまりにも漠然としており、回答に困ったサクラちゃんは、人差し指をこめかみに当て、少し考えてから答えた。
「好きか、嫌いか言うたら。好きかもしれへん」
「じゃぁ、これ貸してあげる! 面白いから読んでみて」
そう言って優介は自分が一番気に入っている、“宇宙の誕生”という大人向けの本をサクラちゃんに手渡した。
「僕はもう読んだから、返してくれるのはいつでもいいよ。じゃぁ、また明日ね」
そう言うと、優介は小走りに教室を出て言った。
サクラちゃんは優介に手渡された本の表紙を見ながら、少し頬を赤らめていた。
次の日の昼休み、優介はいつものように本を読んで過ごしていると、
「天間君……」
か細い声で自分の名前を呼ばれ、本から目を話すと両手に宇宙の誕生を持ったサクラちゃんが立っていた。
「もう読み終わったの?」
優介が意外そうに聞くと、サクラちゃんは首を横に振って、
「違うねん、昨日読もう思うて、中見たんやけど、全然意味が分からへんねん……」
優介は残念そうに、そうかぁ、と言って、てっきり返されるのかと思い手を出すと、サクラちゃんは優介にお願いをしてきた。
「ウチ、読めへんかったけど、色んな星の写真見ていたら、面白ぅなってきて、もっと知りたくなってん。天間君、ウチに色々教えてくれへんやろか?」
突然のサクラちゃんの頼み事に驚いた優介は答えに窮した。
「嫌やなら……、教えてくれへんでもいいんやで……」
サクラちゃんは俯いて、少し寂しそうに言った。
「嫌じゃないよ」
優介が言うと、にわかにサクラちゃんは笑顔になった。それを見た優介も、やや微笑んで言った。
「僕、あんまり話しが上手じゃないから、上手くサクラちゃんに教えてあげられるかが、心配なんだ」
サクラちゃんはそれを聞くと、空いていた優介の前の席に横向きに腰掛け、膝の上に宇宙の誕生を置き、その上に丁寧に手を置いて言った。
「ウチも話すの上手やないから、かまへんよ。天間君に色々教えてもろたら、それでえぇねん」
サクラちゃんは転校依頼、初めて見せる笑顔で優介に言った。今度は優介が少し頬を赤らめた。
それから三週間ほど、毎日お昼休みに優介は太陽系や銀河系、惑星の大きさ、宇宙の広さなど、出来るだけサクラちゃんに分かりやすく説明した。
サクラちゃんは思いの他聞き上手で、優介は時間を忘れて昼休みが終わっても話し続け、サクラちゃんに促されるほどだった。
そんなある日、急遽サクラちゃんがまた京都に戻る為、学校を去る事が担任の先生から伝えられ、今日が最終登校日である事が告げられた。
これまで友達に対して関心の無かった優介だったが、その話しを聞いて僅かながら寂しさを感じた。
帰りの会でサクラちゃんから短いお別れの言葉が述べられ、先生が小さな花束をサクラちゃんに手渡した。会が終わると、数人の女生徒が記念にと手紙や、自分たちの愛用品をサクラちゃんに渡して去って言った。
優介が帰ろうと廊下に出ると、
「天間君! 待って!」
サクラちゃんが廊下まで優介を追いかけてきた。
「ウチ、天間君と離れるの寂しいねん……」
突然の事に面食らった優介は無言でサクラちゃんを見つめたのち、考えるより先に言葉が出ていた。
「僕も……寂しいよ」
優介の目も、サクラちゃんの目もお互い同じように寂しさを宿していた。
「ウチ、東京の人が怖くて、転校しても自分から声かけられへんかったん。女の子は優しゅうしてくれはる子もおったけど、怖くて一緒に遊べへんかったん。でも、天間君が声かけてくれた時、ウチ、何でか分からへんけど、えらい偉い嬉しかったんや」
「あ、ありがとう…」
優介は俯きながらサクラちゃんにお礼を言った。サクラちゃんは続けて優介に言った。
「もっと天間君と仲良うなって、宇宙の話し聞きとう思っとったけど、京都に戻らなあかん事になってしもうた。天間君がウチに声かけてくれへんかったら、学校に来れへんかったと思うんよ。だから、天間君、おおきに…」
「僕は、お礼を言われるような事、してないよ……」
尚も俯いている優介に、サクラちゃんは目を赤くして尋ねた。
「天間君と話していて、ウチ気がづいてん。天間君、本当は友達と仲良うしたいんやって。でも、どうしてウチとは仲良うしてくれたのに、他の子とはそうせぇへんの?」
「それは……」
優介はまたも答えに窮した。するとサクラちゃんは優介に近づいて、両手を握って言った。
「お返しがしたいねん。天間君、何をそんなに我慢しているん? ウチに教えてくれはったら……、そんなに役には立たへんけど、お返ししたいねん……」
サクラちゃんの頬が濡れていた。
「サクラちゃん、ありがとう。僕にそんな風に言ってくれた友達はサクラちゃんだけだよ。サクラちゃんの気持ちだけで充分だよ」
サクラちゃんは首を横に振ったが、優介はそれ以上何も言わなかった。
「天間君、おおきに」
優介は軽く手を振って、くるりと向きを変え家路に着いた。
優介はサクラちゃんと過ごした三週間の出来事だけは、自分の胸の中にしまい続けた。
そしてサクラちゃんが去ってからは、また以前と同じ過ごし方に戻っただけだった。
下校時間、外靴に履き替えると、下駄箱から校庭の向こう側の校門に、いつものように美園が待っているのが見えた。
美園の元に来ると自ら手を繋ぎ、今日の出来事、特に楽しかった事や嬉しかった事を話した。
しかし、授業やテスト、友達などの話しは一切しなかった。勿論優介の学力の高さは美園も知っていたので、敢えて聞こうとはせず、ただ、目を輝かせながら美園に笑顔で話す優介を美園も笑顔で関心を持って聞くのだった。
夕食の買物を済ませ帰宅し、美園は夕食の準備、優介は自室ではなく、美園の顔が見えるリビングのソファに寝転がり、お気に入りの優一の蔵書である宇宙論を読んでいた。
七時を少し過ぎた頃、電話が鳴った。出ると優一からだった。今日は遅くなるから夕飯は先に済ませて寝ているようにとの事だった。仕事柄帰りが遅くなる事は頻繁にあったので、美園は優一の体調を労い電話を切った。
しかし美園は先ほどの優一の声になにか気になるものを感じた。
一ヶ月程前から自宅に居る際も、いつもと変わらぬ素振りで、優介から宇宙の事に関して浴びるような質問を受けても、笑いながら分かりやすく教えていたが、ふとした瞬間に思い詰めている表情を浮かべている事があり、それが日を追う毎に多くなっているのに美園は気が付いていた。
自分も医療に携わっていた人間だったので、プライベートで仕事の話しをするのはなるべく避けていたが、心配のあまり、とうとう一昨日、優一に声をかけた。
「あなたのお仕事の大変さは、良く分かっているわ。でも無理をしないで……。何か悩んでいる事があるなら、話して欲しいの……」
美園は優介の居ない所で優一に伝えた。
優一は黙って美園の顔を見つめ、何か言いたそうな目をしていたので、優一から切り出してくれるのをひたすら待っていた。
美園にはその沈黙が三十分程にも感じられたが、実際はものの五秒程だった、
「ありがとう、大丈夫だよ」
優一は、そう一言答えただけだった。
美園と優介が就寝してから何時間経っただろうか、静寂を破って枕元に置かれた携帯の呼び出し音がなった。
美園は上体をお越し、電話に応対するのと同時に時計を見ると六時を少し回った所だった。
電話の主は警察の人間だと名乗った。
反射的に優介の身を案じたが、夜中に勝手に出歩く子ではない。何故警察が電話してくるのか、間違い電話か、或いは聞き間違いかと思い、相手に聞き返した。
相手は間違いなく警察を名乗り、次の相手の言葉を聞きくと、美園は相手の言葉を頭の中で何度も繰り返し、理解しようと努めたが、言葉だけが頭のなかをぐるぐると回り続けた。
「旦那さんが、優一さんが、お亡くなりになりました」
*
その晩は厳寒が和らいでいたが、音もなく振る霧雨が弔問客の肩を濡らしていた。
弔問客の応対は美園の母、松枝と兄の和希が行っていた。
喪主である美園はリビングに続く和室の奥、優一の遺影がかけられた棺の脇に正座し、横には寄り添うように優介が正座し、その横に優一の母である佐江子が座していた。
突然の不幸にも美園は涙を流さず、丁重に弔問客の焼香に礼の辞を述べていた。
優介も突然の父の死にも関わらず泣いたり、喚いたりもせず、ただ遺影をぼんやりと眺めていた。
訪れる弔問客もまばらになった頃、松枝が美園の元にやってきて、美園の耳元で囁くように言った。
「刑事さんがお見えで、ご焼香をあげたいと言ってらっしゃるけどどうする? 今日はお断りするかい?」
夫の自殺に関して何故刑事がやって来るのか、松枝にも理解できず、美園も同様と考え、心中を察して聞きにきたのだった。
「お通しして差し上げて」
美園が言うと、茶色いコートを脇に抱えた、ダークグレイのスーツを来た色黒でアゴ髭を生やした年配の男性が入ってきた。
焼香をあげ、しばし優一の遺影を見つめているその姿を美園は見つめていた。
その男は正座のまま美園の方に向きを変えると丁重に悔みの言葉を述べた。
その後、そのまま少し美園との距離を縮めると村上と名乗った。
親しみを込めて美園を励ますと、改めて伺うと述べてその場を辞した。
*
浅草線の蔵前駅の階段を一段上がるにつれ、外気の寒さが少しずつ増してきた。
村上はコートの襟を立て、地上に出ると室町署に直接行かず、署の裏手にある煙草屋に寄った。
六十年以上前からほそぼそと続く煙草屋の主である、八十七歳になる老婆は村上の姿を見ると、いつものようにマルボロのボックスを二つカウンターに用意した。
狭いカウンターに着くと、村上もこれまたいつものように、何も言わずに、釣りが出ないように用意していた小銭を支払うと、礼を言い、隣の自販機で缶コーヒーを買い、立ち灰皿の横のくたびれた丸椅子、この椅子も老婆が村上のために置いてあげているようなものだった。そこに腰掛け、煙草を吹かし始めた。
まだ村上が駆け出しだった頃、刑事のイロハを叩き込んでくれた、父親ほどに歳の離れた先輩刑事がここを愛用していた。
「村上よぉ、捜査で壁にぶつかった時、それを無理して乗り越えようとしちゃいかんぞ。壁の上に登ったら、向こう側が崖になっとるかもしれんし、犯人がこちらに銃を向けているかもしれん。何が起こるか分からん時は、その壁を徹底的に調べろ。穴を開けて通り抜ける。トンネルを掘ってもいい。実は壁の幅が狭くて迂回出来るかもしれん。闇雲に考えずに、ひねりを入れんといかんぞ」
捜査が行き詰まると、先輩刑事は必ずここに来て、何度もそう村上に言い聞かせた。
若い村上もその通りだと思い、ほどなくして先輩刑事が退職し、六年前に故人となった今も、村上は同じように考え事をする時は必ずここへ来て、長い時は三時間以上も居座ることがあった。
村上はその言葉を、煙草をふかしながら一人ごとのように呟いた。
四人の被害者、一人の容疑者、証拠無し、目撃者無し、遺留品は一つだけ、現場は全て同じ場所。
村上は目を閉じて煙を吐き出しながら、頭の中を整理した。
「壁は越えるな……」
村上はそう呟きながら、何か見落としている点は無いか、聞き漏らしている事は無いか、そもそも捜査の方向性が間違って無いか、考えていた。
「もし、四人全てが自殺だとしたら、何故全員同じ場所から投身した? 同じ局内から四人の自殺者が出ているだけでも、事件性が高くなるというのに、同じ場所を選べば、より事件として捜査する事になる。四人はそれを望んでいたのか? 逆に他殺だとしたら、なぜわざわざ事件性の高い方法で殺した? 警察に対する挑戦のつもりか? いや、だとしたらもっと直接的な方法を取るだろう……」
村上の持っていた煙草から、長くなった灰がポトリと落ちた。
老婆は膝で寝ている老猫を撫でながら、背を向けて座っている村上に声をかけた。
「今回はいつにも増して大変そうだねぇ」
村上は身体を横に向け、
「ハナさんにはかなわないなぁ。分かりますか?」
苦みばしった顔の村上にゆっくりとした口調で、
「そりゃぁアンタ、三十年以上も殆ど毎日ここで、一服しながら仕事の事考えてりゃ、表情で分かりますよ」
村上は笑みを浮かべると、
「えぇ、今回は大変なヤマですよ。間違いなく私の刑事人生最初で最後になる、ドでかいヤマですかな」
「そうかい、そうかい、身体に気ぃつけんさいよ」
老婆がそう言って村上を労うと敬礼して煙草屋を去った。
署に戻ると会議室では他の署員がほうぼうで情報交換や経緯の洗い直しなど、騒然としていた。
会議室奥にある大きなホワイトボードには今回の事件の関係者の写真、概要、メモなどがビッシリと書かれている。
ホワイトボードの横のデスクに腰掛けて優一の遺書とにらめっこしている、丸山に近づくと、手近の椅子を手繰り寄せて向かい合って座った。
「天間のカミさんはどうだった?」
「今日は故人への挨拶と、面通しだけだったが。俺の感じゃ奥さんはシロだな」
「そうかぁ。内輪揉めの線は消えたかぁ」
丸山は顎を撫でながら、背筋を伸ばして言った。
程なくしてほうぼうで捜査を行ってきた捜査員たちが戻って来た。
依然として有力な手掛かりや目撃者も無く、脳神経系外科での患者の死亡歴、院内の怨恨の線も消え、最有力容疑者と見られている佐伯に、任意同行の方向と同時並行で動機、アリバイの再捜査を進めることになった。
一方村上は、佐伯が本件に関わっている点は考慮しながらも、四人のスタッフが居なくなるというのは、実務上佐伯にとってマイナス面が大きい点が気になった。
四人のスタッフは院内スタッフからの聞き取りで、非常に優秀で、特に助教授である優一は佐伯の右腕だった。
佐伯が犯行を行ったとして、脳神経系外科にとって、メンバーの抜ける痛手よりも、佐伯が犯行を行う動機とは何だ?
美園が落ち着き次第、記憶が鮮明な内に出来るだけ早く美園の聴取を行わなくてはならない。再度天間家へ訪問する事を考えていた。