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ストーム ブレイン インシピット  作者: 田中 祐斉
第一章
2/11

再来

東京下町、あまり賑わいのない寂れた商店街の一角に“本堂システマ道場”という名が、縦五十センチ、横三十センチほどの模造紙に筆で書かれていた。

元は白い厚紙だったのだろうが、陽射しや風雨に晒されて、薄茶に変色し、所々破けた所がテープで補強されていた。

その簡素な“看板”は、入り口の引き戸の窓に四方を透明のガムテープで貼り付けられていたが、道場が空いている時間は、常に戸が開け放たれており、一方のすりガラスの後ろに隠れて、読むことは出来なかった。


入り口を入ってすぐに看板同様に年期の入ったリングがあり、その左奥には三十帖ほどの畳が敷かれ、門下生たちが稽古をしていた。

門下生と言っても下は五歳から、上は七十歳まで、殆どが商店街の住人で、格闘技を身に付けたいというよりも、運動がてらに通っているような人々ばかりだった。

”システマ“は空手や柔道、ボクシングように知名度も無く、それらのジムと勘違いして訪れては、去って行く人が少なくなかった。

システマは“ロシア版合気道”のようなもので、一般人の間では護身術として習う人もいるが、ロシアでは特殊部隊の兵士が、実戦格闘術として用いられている。


道場の主は本堂 亮治という、まもなく五十歳になろうかという男で、髪には所々白髪が混じり、身長は高く、細身だが引き締まった身体をしていた。だが、ややタレ目に丸い眼鏡を掛け、ヨレヨレのセーターに、ダブついたスラックスを履いた風貌は、格闘家とは縁遠く、門下生たちに指導はしても、自身がシステマを見せる所は最古参の門下生も見たことが無かった。

道場でありながら、威勢の良い声や乱取りなどで叩きつける音も殆ど響かない。のんびりとした道場だったが、この日はこの道場開設以来の事件が起きていた。

壁際に錆びだらけのパイプ椅子に座った亮治の前に、亮治とは対照的な巨漢のロシア人が立っていた。


遡ること十分ほど前、突然道場に入ってきたロシア人が、

「本堂 亮治さんに会いたい。私はニコライといいます。ロシアから来た」

とロシア語訛りの流暢な日本語で怒鳴ると、狭い道場で稽古をしていた門下生らは、一斉に入り口を見やった。

黒いジャージを着て、金髪の神を短く刈り上げた大男が、大きなナップザックを片手に、道場内を見回していた。


パイプ椅子に座って、離れた場所から門下生の稽古を見守っていた亮治は、突然の珍客に対して尋ねた。

「私が本堂 亮治ですが、入門をご希望ですか?」

と穏やかな口調で言った。

ニコライが声の方を見ると、自身が想像していた人物像とあまりにもかけ離れていたのか、「あなたではない、私は本堂 亮治に会いに来た。試合をする為だ」

ニコライは亮治の言葉を頭から否定し、門下生の方を向き、自分の想像している人物に相応しい者を探し始めた。

亮治はどうしたものかと思いあぐねて、今に至っていた。


亮治は敢えて自分が探している人物だと再度告げず、なぜ本堂 亮治と試合をしたいのかをニコライに尋ねた。

するとニコライは亮治の方を振り返り、拳を突き出しながら一層声を張り上げて言った。

「私はロシア特殊部隊の一つ、アルファ部隊の隊員です。隊の中で私のシステマが一番強い。圧倒的です。アルファ部隊は世界一の部隊。つまり、私は世界一のシステマの達人です」

そう言うと、仮想の敵相手にパンチとキックを亮治に見せた。

「おぉ! 凄い」

亮治は感心したように腕を組むと、ニコライは目の前の男が自分の強さを認めたと思い、ニヤリと笑うと、突然ナップザックをリングの上に放り投げた。

「だが、私の隊の同僚が言った。十年以上前、アルファ隊に居た本堂 亮治という男が凄まじい強さだった。彼こそが世界一だと! だからそいつと試合をしに日本に来ました!」

ニコライは自分こそがシステマ世界一だと確信したいがためだけに、わざわざ日本にやって来たのだった。


亮治はニコライのシステマに対する情熱には感心したが、彼との試合はあまり気が進まなかった。

そこでしばらく考え、ニコライに提案した。

「ニコライさん、本堂 亮治と試合をする前に、まずあなたの腕を見せてくれませんか?」

「なるほど、まずは私の実力を見てから、本番ということですね。よいでしょう」

ニコライは、三十センチはゆうに超えるランニングシューズを脱ぐと、早々とリングに上がった。


すると亮治は座ったまま少し腰を伸ばすと、奥の門下生に声を掛けた。

「おーい、葵さん。この人と一つ試合をしてもらえませんかね?」

稽古場の隅の方で、しゃがんで四歳の女の子に構え方を教えていた、金髪の少女が振り返った。

大きな目に灰色の瞳、筋の通った高い鼻をした、彫りの深い顔立ち。その少女も見た目はロシア人のようだった。

「今、カナちゃんのトレーニング中なので、手が離せないんです」

カナちゃんとは四歳の女の子の事らしいが、手が離せないというのは口実で、その少女も亮治同様に、ニコライと試合をすることに気がのらないのが本音のようだった。

「まぁまぁ、そう言わずに。カナさんは私が見ていますから」

少女は明らかに不満そうに立ち上がり、ゆっくりとした足取りでリングに上がった。


少女とニコライが向かい合うと、その身長差は倍ほどもあった。

ニコライは実力を見るための試合で、本堂 亮治の次に強い者が自分の相手をするものだと考えていた。

しかし、同じロシア人とは言え、こんな華奢で、しかも女を相手にさせられる事に、見くびられていると思い、ニコライは激怒した。

「おい! あなたはこんな少女相手に、私の実力が見られると本気で思っているのですか?」

ニコライは顔を真っ赤にして亮治に怒鳴った。

「ニコライさん、見た目で判断してはいけませんよ。まずは彼女と一試合してみて下さいな」

亮治はニコライと対照的に笑顔で答えた。

「私はシステマの達人であり、軍人です。相手が誰であろうと手加減はしません。彼女は大怪我をすることになります? いいのですか?」

ニコライが忠告したが、亮治は聞こえぬ素振りでリングに上がり、試合開始を合図した。


ニコライは亮治が聞く耳を持たないので、少女に向かって出来るだけ冷静に忠告した。

「あなた、大怪我をします。止めたければ早くリングを降りなさい」

しかし少女はニコライの目を見つめ、降りようとはしない。

それどころか、深呼吸をすると、両足を肩幅ほどに開き、軽く両肩を振り、腕はだらりと下げたまま、受けて立つというような仕草をした。

挑発されたニコライは少女の態度に腹を立て、殺してしまわない程度に軽く傷めつけるつもりでいた。


少女は立ったまま、ニコライを見つめ続けた。ニコライは左手を前に出し斜めに構え、拳を軽く広げ、両手を少女に向かって突き出した。

二人はしばし睨み合っていたが、早く終わらせてしまいたいニコライは、左手で少女の右肩を掴み取ろうとした。

自称世界一を名乗るだけあり、その動きは巨漢に似合わず俊敏で、亮治も驚いた。

大きな手は少女の肩を簡単に砕いてしまいそうな力強さがあった。

リングの下で試合を見ていた門下生たちは、ニコライの手に少女の肩が掴まれたと思った。ニコライ自身もそれを実感していた。少女の来ているジャージに、指先が触れた感触を確かに感じたからだった。

しかし、手を握りしめた時、その中には何も無かった。

何事も無かったかのように、少女は始めのポーズのままで目の前に立っていた。


ニコライは確かに少女のジャージに触れていたが、その瞬間ニコライが拳を閉じるより早く、少女は横に数センチステップして避けたのだった。

驚いたニコライは左手を突き出したまま、右手を固く握って拳を少女のみぞおちめがけてパンチを繰り出した。

すると少女は自身のみぞおちまで二センチ足らずに迫った所で、ニコライの腕に沿うように側面に回りこみ、ニコライの腕を右手の手刀で払いのけた。

空を殴ったニコライの拳は、少女の払いで勢いを増し、そのまま前のめりにつんのめって、両手をリングについた。

二度も少女を捉えたと思った所でかわされた挙句、自分がリングに両手を付いている事が信じられないニコライは、そのままの姿勢で、顔を右に振り向け、少女を見た。

少女は試合開始時と同じように、両足を肩幅に開き、腕を垂らして立っていた。

ニコライは即座に反転し、両腕を広げて少女の両足の膝を掴みかかった。

少女は身体を九十度反転させニコライの両腕をかわすと、ニコライの身体に合わせて身を沿わせ、ニコライの右肩に駆け上り、両足で首を締め上げると、両手を合わせた拳でニコライの頚椎に振り下ろした。

ニコライの動きがピタリと止まり、ガクンと両膝をリングに付くと、少女はふわりとリングの上に着地し、ニコライはそのままうつ伏せに倒れこんで失神した。

少女はニコライに向き直ってお辞儀をすると、リングを素早く降りてタオルを濡らし、うつ伏せになったニコライの首、少女が殴った箇所に当ててやった。


すると少女は壁の時計を見て、早口で亮治に言った、

「ごめんなさい! 由美と約束があるから出掛けるね! 彼の事お願い!」

亮治はニコライが道場に入って来た時の表情でコクリと頷いた。


東条付属大学病院は、早朝から何台ものパトカーと、報道陣、そして多くの野次馬でひしめき合っていた。

北棟の壁際は広いブルーシートで覆われていた。そこから半径十メートルは立ち入り禁止ロープが張られ、ロープ越しに点々と警察官が立っていた。


茶色いコートの襟を立てて、寒そうにポケットに手を入れた、色黒の中年男が、ロープ越しに立っていた巡査に声をかけた。

「十二月だってのに、なんでこんなに底冷えするのかねぇ」

男は巡査に警察手帳を見せた。手帳には「村上 源三 警部」と記載されている。

「エルニーニョか、もしくは地球温暖化の前兆ですかね」

巡査は敬礼し、律儀に答えた。

「何とかーニョだか分かんないけど、ワシは寒いの苦手でね」

既に巡査からは遠く離れていたが、村上は独り言のように呟いた。


ブルーシートをくぐると、鑑識が現場検証を行っており、遺体もまだ運ばれていなかった。

「お疲れ、ムラさん。ブルーシートの中はいくらか暖かいだろ?」

先ほどの独り言を聞かれたのか、丸山 英二 警視がおどけて言った。

「マルさんは歳取っても地獄耳だなぁ。しかしさぁ、ホトケさんの前で寒い、暖かいだなんて不謹慎だろ」

丸山にからかわれ、村上もやり返した。

丸山は村上より階級も歳も上だが、二人共警察内の官僚的な所には執着心が無く、二人揃って現場叩き上げの、ノンキャリアであり、互いにムラさん、マルさんの通称で呼び合っていた。


丸山はうつ伏せに倒れた遺体を見つめながら、村上に説明した。

「今回のホトケさんも脳神経外科だ。身元は天間 優一 助教授、三十八歳。遺体の損傷から見て、これまでと同様屋上からの投身と見て間違いないだろう。死亡推定時刻は午前三時から五時頃だそうだ」

丸山が顎を撫でながら言うのを聞くと、村上が険しい顔で言った。

「それにしても立て続けに四人とは、事故としては扱えんな」

天間助教授の自殺は同院で四人目であり、この一ヶ月で東条付属大学病院 脳神経外科から、天間助教授を含め四人も投身自殺者が出ていたのだった。


村上が屈んで遺体と地面の間をぐるりと見て回った。その様子を見た丸山が村上の探しているものが何か気付き、知らせてやった。

「今回も遺書、その他事件の手がかりになりそうな遺留品は出てない」

所轄の室町警察署では、今回の一件により、極めて事件の可能性が高いと判断し、これまでの投身自殺扱いから事件として扱う方針に変え、捜査本部を設置する事が決定していた。


村上は考えこみながら丸山に質問した。

「今日は佐伯教授の事情聴取は済んだのか?」

「もちろん朝一番にしたさ。だが秘書さんは、”本日も佐伯は時間が取れませんので“の一点ばりで会えず終いさ」

丸山は苦虫を噛み潰した様な顔で、時間の無駄だと言いたそうだった。

「お百度参りと行くか?」

村上が言うと、丸山は気を取り直して頬を両手で叩くと、二人でブルーシートから出て行った。


院内の十字が交差するサービスカウンターで手帳を見せると、要件を伝え、佐伯教授の秘書に取り次いで貰うよう依頼した。

五分ほど待つと、分厚いシステム手帳を持った秘書が足早にやって来た。

「お待たせ致しました。改めて佐伯に確認させて頂きましたが、生憎本日は終日スケジュールが詰まっておりまして……。来週の水曜日でしたら五分ほどお時間を割けるとの事です」

申し訳無さそうに何度も頭を下げる秘書を見て、村上と丸山は刑事と教授の板挟みになっている秘書を健気に思った。


すると村上は秘書に再度懇願した。

「これだけの大病院の教授さんですから、お忙しいのは良く承知しております。しかし今回の一件で自殺ではなく、事件として捜査が行われる事になりました。尽きましては、天間さんを一番よくご存知の、佐伯教授にお話を伺うのが早期解決に繋がりますので、五分で構いませんので、お時間を工面願えませんでしょうか」

村上は秘書に対して、丁寧だが軽く捜査の協力という印籠をかざして粘った。

秘書も“事件”という言葉に多少動揺したのか、サービスカウンターの電話から直接教授室の内線に連絡を入れた。


秘書は佐伯にも小言を言われたのか、申し訳ありませんと三度ほど言って電話を切った。

「五分程度でしたら、今ならお会い出来るそうですので、教授室までご案内いたします」

丸山は村上の肩を二度叩いて、やったなと言いたそうな笑みを見せた。


教授室の前まで来ると、秘書が扉をノックして、刑事さんがお見えになられましたと告げた。

すぐに中からどうぞ、と返事が返ってくると、秘書が扉を開けて二人を通し、自分は出て行った。

村上は佐伯と初対面だったので、名刺を渡そうとすると、佐伯は革張りの椅子から立とうともせず、宜しくと言って片手で受け取り、すぐ名刺を隅に追いやった。

殺人課の刑事は、何かと敬遠されがちなので、佐伯の対応にも村上は平然としていた。

しかし、村上の佐伯に対する第一印象は、殺人犯が持つ特有の匂いは感じられなかった。

佐伯の横柄だが警察に疑いを掛けられないように振る舞おうとする、ぎこちなさを感じさせる対応。

そして何より、佐伯の目が物語っていた。

佐伯のように、高い権威を持った犯人も居たが、殺人を犯す人間には皆共通して、目に特徴が現れるのだった。

それは村上の刑事としての天性のような、ある種の資質と経験によるものであり、勿論百パーセント言い当てられる訳では無かったので、印象に囚われず、慎重な捜査を心がけていた。


「どうぞお掛けください」

佐伯が言うのとほぼ同時に、秘書がホットコーヒーを持って、佐伯のデスク前にある応接テーブルに置いた。

村上と丸山は、それぞれテーブルを挟んで長椅子に向かい合って腰掛け、三人が三角形のような配置で話せるようにした。


いつ佐伯からタイムオーバーの宣告をされるか分からないので、村上が単刀直入に聞いた。

「昨晩午前三時から五時までは、どちらにおいでになられましたか?」

「私は犯人ではない!」

いきなり容疑者扱いをされて憤慨した佐伯は、質問に直接答えなかった。

「気に障られるのはごもっともです。ただ事件となると、関係者の方には皆伺わなくてはいけない質問ですので、ご容赦下さい」

村上は佐伯とは対照的に、笑顔で佐伯に回答を促した。

「自宅で寝ていた。家族も一緒だが、どうせ身内はアリバイにはならんのだろう?」

村上は首を振り充分なアリバイですと言い、続けて別の質問をした。

「天間さんの最近のご様子で、何か変わった事や、気になられた事などは無かったでしょうか?」

「医者は患者を診るものだ。部下の細かい点まで見ている暇はない」

相変わらず丸山が言っていた様に、聴取に非協力的な態度だったが、村上は更に突っ込んで尋ねた。

「仰るとおりですな。ただ、上司が部下の言動を仔細に観ていないというのは、監督不行き届きなんじゃありませんかね?」

ずけずけと質問する村上の質問が佐伯の逆鱗に触れ、

「君たちにマネジメントの説教をされるいわれはない! 私には大勢の部下がいるのだ! 全員の公私の状況まで見られるわけがなかろう!」

そう言うと、次の会議があるのでこれで失敬する、と言い二人を残して佐伯は書類を携え出て行ってしまった。

「こりゃ、出直しだなぁ」

丸山が言うと、村上も同意し、秘書に礼を言い病院を後にした。


署に戻るパトカーの中で、村上と丸山は後部座席に座り、これまでの状況を振り返っていた。

「二人目が出た時点で、佐伯からは任意聴取したんだろう?」

村上が、聴取に立ち会った丸山に尋ねた。

「あぁ、部下の勤務状況による超過労働に関しての聴取という体で切り込んだんだが、さっきと同じようなもんだ。自分の部署では残業を強制させるような事は行っていない、仮にあったとしても、それは付属病院の医者として診察、教育、研究という信念の元、本人の意思でやっているものであって、自分としては貴重なスタッフを二人も失って被害者のような気持ちだ、と来たもんだ」

「三人目の時はどうだったんだ?」

村上うなりながら続けて質問した。

「二回目と同じだよ。俺としてはその時から事件性有りと睨んでたから、佐伯をマークしていたんだか、物的証拠もなければ、アリバイもしっかり有る。それに何より動機がない。これじゃぁ手も足も出せん」

「動機と証拠かぁ。四人も投身して、遺書も何も出てこないというのが怪しいな。害者の四人が何か佐伯の医師生命に関わるような弱みでも握っていたんだろうか?」

村上が言うと、丸山は村上に顔を向けて言った。

「そこなんだ。四人共全員家族持ち。普通だったらどんな精神状態だろうと、家族に対して何か一言ぐらい残してもいいものだが、全ての件でそれが無いのが解せん。となるとやはり自殺に見せかけた殺人の線が濃厚になる」

丸山が腕を組んで前方を見ると、室町警察署の公用車入り口に着いていた。


三十名ほどが入れる会議室の入り口に「東条大学付属病院 連続投身自殺事件捜査本部」と大筆で書かれた紙が張られていた。

捜査本部長は丸山が担当し、第一回目の会議が執り行われた。

若手の刑事が一人目の事件が発生してから、今朝の自殺に至るまでの背景を詳細に説明し、今後の捜査方針が決められた。


第一容疑者は佐伯 龍一郎、現在はその他に容疑者は浮上していないが、家族、友人と捜査範囲を広げ、更に病院外での交友、及び四人の病院側への怨恨なども含めて広範囲で捜査が行われる事が決まり、会議は終了となった。


しかし、その日の夕方に事態が一転した。病院から五百メートルほど離れた民家の庭で、優一が手放した紙切れを住人が発見し、警察に届け出たのだった。

早速捜査本部の関係スタッフに遺書の内容が報告された。


「どんなに後悔しようと、どんなに謝罪しようと、私の罪は消えない。罪を消すには私自身の命で贖うしかないと思う。だが愛する妻や息子に、それが償いになるのか、今の私には考える理性もない。美園、優介、本当に申し訳ない」


証拠や容疑者を特定出来る内容は記載されていなかったが、遺書は万年筆による手書きだったので、科研に筆跡鑑定と、文章からの精神分析を依頼していた。


科研からの報告は本人直筆の遺書で間違いないというものと、文章の内容から人の命を扱う事が仕事である医師などが、患者を救えなかった時に陥る精神状態、つまり鬱状態の傾向が見られる、というものだった。

捜査本部では科研の報告に基づき、過去の患者の死亡ケース、または医療ミスなどで、患者を救えなかった事例などの線でも捜査にあたる事となった。


しかし村上だけは、この遺書には言葉の裏に秘められた、何か別の意味が込められている気がしてならなかった。


三十分ほどして、ニコライが目を覚ました。

リングの上で仰向けになって見知らぬ天井を見つめ、ここが何処なのか、自分は何をしているのか、しばし呆然としていた。

「おや、ようやく気がついたようですね」

声の方に顔を向けると、ニコライの顔のすぐ横で亮治が正座していた。

少女に殴られた首の下にはアイス枕が敷かれ、亮治はニコライの額の手ぬぐいが温まらないように、ずっと冷やしていた。


ようやく記憶が回復し、少女に負けたのだと理解したニコライは、横になったまま両の拳を固く握り、閉じた目から涙がこぼれ落ちた。

「ニコライさん。一度負けたくらいで泣いていたら、私なんか既に身体から水分が無くなっていますよ」

快活に笑う亮治にニコライが、拳を自分の顔近くに持ってきて言った。

「私はシステマで本堂 亮治よりも強い自信がありました。それなのに、あんな少女に……、一分足らずで負けてしまうとは……」


ニコライのプライドが、ぽっきりと折れてしまっているのを気の毒に思った亮治は、出来るだけニコライを傷つけないように、且つ理解しやすいように、そして自分が本当に本堂 亮治だと納得させるためにロシア語で説明した。

「あの少女は私の娘の葵です。彼女が三歳の頃からシステマを教えています。まぁ、技のキレなどは、まだまだ未熟ですがね。そして私は正真正銘、本堂 亮治です。父は日本人、母がロシア人。二十才の時にロシア陸軍に入隊、その後アルファ部隊に抜擢され、二〇〇四年に退役。最終階級は中佐です」

ニコライは額の手ぬぐいを取り、上体を起こして聞き返した。

「あの少女は……、葵さんは、あなたの娘だったのですか? それなら私が勝てなかったのも分かる。そして亮治、あなたは更に強いに違いない」 

ニコライは自分の拳を見ながら、葵の拳を思い出し、そして試合の内容を思い出し、素直に認めた。

葵は本気を出していなかった。

「伝説のシステマの達人がトレーニングした子に、勝てるわけがありませんね」

ニコライが達人の一人と手合わせ出来た事に感激していると、亮治が付け加えた。

「いや、葵には、あなたは負けて恥じる必要はありませんよ……」

亮治が最後に言った言葉は感無量の感覚に浸っていた、ニコライの耳には届いていなかった。


 *


私服に着替えた葵は、白いブラウスにグレーのジャケットと、白いセミロングのタイトコートを羽織、赤いバーバーリチェックのスカート、赤いフェイクレザーのロングブーツを履いて、自転車を立ち漕ぎで目的地へ急いでいた。


目的地が見えてきた。待ち合わせ時間に二十分ほど遅れていた。

親友の由美が葵に気が付くと、わざとらしく腕をくみ、右のつま先を地面に打ち鳴らしながらこちらを見ていた。

「コラー! 遅いぞ葵―!」

「ごめんなさい由美! 出ようと思ったら、お父さんに看板やぶりのロシア人の試合相手をさせられちゃって……」

由美は葵の遅れた理由が、あまりにも取ってつけたような言い訳だったので、腹を抱え、しゃがみ込んで笑い始めた。

そんな由美に気が付かず、葵は、由美が危険な目に合った葵を想い、しゃがみ込んで泣き出したのかと思い、試合の結果を話した。

「あ、でも私勝ったから大丈夫よ! 試合時間一分!」

葵が右手の親指を立ててガッツポーズをすると、由美が葵に手の平を向けて、もう止めてと頼み込んだ。

「何を止めるの?」

由美が泣いているのではなく、笑っている理由が分からなかった葵は、由美を覗き込んだ。

「だって、どんな遅刻の言い訳するのかと思ったら、夢でも見ないような言い訳で、おっかしくって!」

由美は思い出してまた笑い始めた。

由美の笑っている理由が分かった葵は、信じさせようとニコライとの試合の様子を実演して見せようとした。

「分かった、分かった。葵は嘘なんかつかない子だって知っているから信じるよ。朝から大変だったのねぇ。それより葵、アンタ、またいつもの格好なの?」

「だって、この格好好きなんだもの」

葵はコート、上着、スカート、靴を眺めて言った。

「それにしたって、夏と冬で当然違うけど、毎シーズンいっつもその服じゃん」

葵は何故同じ服ばかり着るのかは、親友の由美にも話していなかった。

それを由美が聞けば、この服を見る度に、由美にも切ない思いをさせてしまうと考えていたからだった。


 *


葵の父、亮治は日本人の父とロシア人の母の間に産まれた、ロシア人のハーフだった。

亮治は父親の遺伝子が強かったのか、殆ど日本人にしか見えない。

そして葵もまた、亮治と、エレーナ・イワノフスキーというロシア人女性二人の間に産まれたハーフだった。

葵はエレーナの遺伝子を強く受け継ぎ、見た目はロシア人そのものだった。


亮治とエレーナの出会いは意外なものだった。

軍人だった父は、ある要人の警護任務を与えられた事があった。

軍の研究センターに来る学者を、無事センターに送り届けるのが任務内容だった。

学者は二十代にして脳科学、遺伝子工学の天才と呼ばれる程で、民間病院から軍事科学センターに招聘されたのだった。


警護にあたったのは父を含め三人。

三人は“脳ミソなんぞをいじくり回す科学者なんて、きっとマッド・サイエンティストな爺さんだ“と言って笑っていた。

しかし、警護の引継ぎで紹介されたのは、三人の想像を良い意味で裏切った。

大きな優しそうな瞳に、美しい金髪ロングストレートをなびかせ、周囲から天才ともてはやされているにも関わらず、自分たちのような粗野な軍人に対しても、決して見下すような言動はせず、寧ろ挨拶のそこそこに、自分一人のために、亮治ら三人の仕事の邪魔をして申し訳ないと謝ってきたと、葵は以前父に聞いた事があったのだった。


父はエレーナに一目惚れし、プロポーズをしようと考えていたが、日本人で、しかも自分は粗野な軍人、エレーナが自分に好感を持ってくれるとは到底考えられなかった。

だが亮治のエレーナへの想いは日増しに強くなり、事ある度に警護だといってエレーナの周辺にはびこっていた。


警護にあたっていたある日、エレーナがセンターから外出して、医学専門書を購入しに行った時だった。

軍の黒い大きなセダンを亮治が運転し、後部座席にエレーナが座って、読書をしていた。

勇気を振り絞って亮治がエレーナに話しかけた。

「イ……イワノフスキー博士、今お読みになっているのは、研究のための本でしょうか?」

エレーナは本に向けていた目を、亮治に向け、上目遣いで答えた。

「いいえ、医学書ではないんです。笑わないと約束して下さったら、何の本かお教えしますわ」

エレーナは上目遣いのまま、微笑んで言った。

「勿論、笑いなど致しません!」

「これ、“植物の育て方”という本なんですの。私、花が大好きで、自分で種から育てるのですが、直ぐに枯らしてしまって……。水のやり過ぎなのか、日当たりがいけないのか、それとも愛情が足りないのか。困ってしまって、この本で勉強中ですのよ」

「天才科学者と言われる、イワノフスキー博士でも、上手く出来ない事があるんですね」

亮治が心底意外そうに言うので、エレーナは微笑んで言った。

「上手く出来ない事の方が多いわ。いつからか、皆さんが天才だなんて呼び始めて、周囲の期待が大きい分、毎日ビクビクしていますわ」

エレーナは両肩を手で掴み、震える仕草をした。

その様子を見た亮治は、研究室で凛としてスタッフを率いる科学者とは思えない、愛らしく、美しい普通の女性にしか見えなかった。

「本堂さんは、植物を育てるのは得意ですの?」

「私ですか? うーん、育てた事が無いので、得意か不得意かは分かりませんが、でも食べられる植物は見分けられますよ。あ、勿論毎日食べているわけではなく、サバイバル訓練の一貫ですが」

エレーナはそれを聞いて、大きな目を一層大きく丸く見開いた。すると笑いながら亮治に言った。

「では、今度私が上手に育てられるようになったら、食べられる花を、ご馳走しますわ」

「楽しみに待っております。あ、でも枯れた花は止めて下さいね」

二人は車中で大笑いして、専門書店に到着した。


少しずつ二人は打ち解け合って、エレーナが手の空いている時、短い時間ではあったが、たまに二人でお喋りをするようになっていった。

エレーナは、人の感情の機微にも鋭い女性だったので、亮治の自分に対する気持ちはすぐに分かった。

エレーナも始めは科学者と警護兵という関係以上にはならないと考えていたが、亮治の誠実さ、純粋さ、そしてエレーナに対する強い想いが、エレーナの心を次第に溶かしていった。

二人が初めて出合ってから、二年後にめでたく結ばれたのだった。


更に二人を喜ばせたのは、その二年後に葵を身ごもった事だった。

二人は家族が増える事を心から喜び、無事葵が産まれ、名前を決めようと話し合った時、エレーナは日本とロシアが同じ青い大空で結ばれている様に、亮治とエレーナが結ばれて子供を授かった。

そう感じていたエレーナは空の色にちなんで、日本語で「アオイ」という名前を付けたいと言った。

そこで亮治が日本の漢字の「葵」をエレーナに教えてあげると、エレーナはその漢字をとても気に入り、大喜びで葵を祝福した。

三人で過ごす日々は毎日が愛と幸福で満ち溢れていた。それもエレーナの持つおおらかで清らかな心があったからだった。


エレーナが非番のある日の事だった、まだ二歳になったばかりの葵とクッキー作りをしようと考えたエレーナは、葵が作りやすいようにと、広いキッチンの床にレジャーシートを敷き、二人で座りながらおやつ作りが開始された。

「葵、今から一緒にクッキーを作りましょうね」

エレーナが向かいに座っている葵に、笑顔で話しかけた。

何にでも興味を持って、触ろうとする歳頃の葵の回りには、魅力的な物が沢山置かれていた。

クッキー作りが開始されて一分と経たない内に、葵がクッキーの型抜きに興味を持ち、取ろうと身体を伸ばすと、バランスを崩して大量の小麦が入った大きなボウルの上に横倒しになってしまった。

ボウルも葵もひっくり返って、辺りは小麦粉だらけ、葵も全身小麦粉まみれで真っ白になってしまい、驚いた葵は大泣きしてしまった。


折角の楽しいクッキー作りが台無しになってしまったが、エレーナは真っ白な葵を抱き上げると、まだボウルに残っていた小麦粉を手ですくい、葵の額あたりからサラサラと少しずつ手から落としていった。

葵の美しいグレーの瞳を見つめ、サイレント・ナイトをハミングしながら。


葵は泣くのを止め、母の手からサラサラ落ちる白い粉を見て、エレーナの歌で、“雪“と拙い言葉で言って、笑顔を見せた。

葵はエレーナの腕から降りると、自分でもボウルから両手で小麦粉を掴み、空中めがけてパッと舞い上がらせた。

舞い上がった白い粉は、葵が期待したように雪のように舞い降りてはこず、四方八方に飛び交っただけだった。

床が汚れないようにエレーナが敷いたレジャーシートは、小麦粉で覆われ、もはや床との境目も分からない有様だった。

「あらら、大変な事になっちゃったわねぇ、葵」

エレーナは笑いながら葵に言った。

クッキー作りよりも、小麦粉を舞い上げる楽しさを知った葵は、キャッキャと笑いながら、小麦粉を舞い上がらせている。

それを見たエレーナは怒るどころか、新しい小麦粉袋を取り出してきて、ボウルの小麦粉を補充すると、両手で小麦粉をすくい、高く舞い上げ、葵に語りかけた。

「王女様! 綺麗な雪が降ってきましたよー!」

天井近くまで舞い上がり、葵が期待するような雪が降ってきた。

それから二人は心ゆくまで雪遊びを楽しんだ。


仕事を終えて帰って来た亮治は扉を開けて仰天した、一階のキッチン、リビング、ダイニング、至る所が真っ白に雪化粧されていた。

部屋に入ると一歩歩く度に、小麦粉が舞い上がる。エレーナと葵の姿を探すと、キッチンから楽しそうな笑い声が聞こえた。

亮治がキッチンに向かうと、二人は全身白い衣を纏って、白い粉にまみれた金髪は照明を受けてキラキラと輝いていた。

寝転がって、曲げた膝の上に葵を乗せて遊んでいたエレーナが、亮治の帰宅に気付き、葵を胸に抱き上体を起こすと、お帰りなさいと笑顔で言ったあと、はにかみながら亮治に詫びた。

「ごめんなさい、葵と遊んでいる内に、こんな事になってしまって……」

葵は亮治の帰宅を喜び、

「とーたん、いっしょに、ゆきー」

と言って亮治を誘った。


亮治は二人を見ながら、真っ白な衣をまとった、澄んだグレーの瞳と、美しく輝く金髪の髪を見て、もし天使が居るならば、きっとこういう姿なのだろうと想像した。

「いや、二人共本物の天使だ!」

亮治は満面の笑みでボウルに僅かに残った小麦粉を両手で掴み、

「それー! 大雪が降ってきたぞー!」

自分も小麦粉にまみれながら、二人の頭にサラサラと雪を降らせた。

そんなエレーナの愛情の元、葵も笑顔を絶やさない、元気な子に育っていった。


しかし、そんな幸せな日々は、儚くも長くは続かなかった。

エレーナが重要な実験の最中に、葵が急に苦しみだし、呼吸がし辛いのか、顔が徐々に紫色に変わりつつあった。

すぐに緊急入院させなくてはならなくなり、エレーナは葵に付き添いたい想いで、居ても立っても居られない状態だったが、プロジェクト責任者のエレーナが抜けてしまうと、一年かけて準備してきた実験が全て無駄になってしまう。

そこで亮治が別の兵に警護を代わって貰い、葵の搬送を軍の救急病院まで付き添った。エレーナは実験を終え次第病院に向かう事になった。


二時間後、実験が無事終わった。外出する際は必ず警護を伴う規則になっていたが、早く葵の元に行きたい一心で、エレーナはそれを怠った。

急いで自身の車で病院に向かおうと、駐車場に出た所を、運悪く物取りの暴漢に刺殺され、帰らぬ人となったのだった。


 *


その時葵はまだ三歳だったため、エレーナと過ごした記憶は全くと言っていいほど残っていなかった。

エレーナの姿や声を見聞き出来るのは、写真やビデオの中の亮治との結婚式や、生前家族と共に過ごした時間、他愛無い日常の様子を収めたVTRだけだった。

葵はエレーナを失った悲しみは亮治も同様だと考えていたので、亮治にも言えない辛い出来事などがあった時は、エレーナとの思い出の中に浸ることで自身を癒やした。


幾度と無く思い出を見ている内に、葵はあることに気がついた。

エレーナはあまり服に対して頓着する方では無かったようで、例えば冬の写真やビデオを見ると、毎冬、今日葵が身に着けている服か靴、スカートのどれか一つを必ず身に付けていた。

葵は思い出を何度も見直し、エレーナの夏と冬の服のレパートリーを調べあげたのだった。

そこで、全く同じものではないが、エレーナが好んで来ていたと思われる服に似たものを購入し、それを自分が纏う事で、常にエレーナが側に居てくれるような気がした。


「でも葵はハーフで美人だから、何を着ても様になるから良いわよねぇ。私だって自称美人だけど、葵と並ぶと天と地ほどの差だわ……。あ! 行けない早く列に並ばないと! 急いで、着たきり雀の葵ちゃん!」

由美にからかわれながら、二人は世界一の電波塔、スカイツリーの展望台へ上がるエレベーターの列に並んだ。


高速エレベーターで第一展望台に着くと、エレベーターを出るや否や、葵と由美は目を見張った。

三百メートル以上の上空から見る展望は、まるで空を飛んでいるような気にさせられるほど高く、眼下の人や車が米粒ほどの大きさに見えた。

しばし二人は眼前に広がる景色に圧倒され、窓伝いに歩きながら展望を眺めていた。

「お茶でものもうか?」

由美が提案し、ラウンジに向かおうとした時、二人連れの男性外国人に声をかけられた。葵のその容姿から、よく外国人と間違われ、訪日外国人に母国語で話しかけられて、日本語しか喋られない旨を伝えることが度々有った。

英語ならカタコトで更に身振り手振りで切り抜けられる事もあるが、先ほどの外国人は英語ではなく、ロシア語だった。

葵はエレーナが亡くなって程なく三歳で日本に渡り育ったので、ロシア語を喋ることは出来ないが、エレーナの思い出ビデオで彼女が喋る発音と同じだったからだった。


由美が体よく外国人をあしらうと、葵の手を引いて急がせた。

「早く行かないと良い席が無くなっちゃうわよ!」

展望デッキラウンジでドリンクを購入し、二人は展望を見ながら一息ついた。

その日は抜けるような雲一つない青空で、冬の澄んだ空気のおかげで、遥か遠くの景色までも見通す事が出来た。


すると唐突に由美が葵に熱っぽく尋ねてきた。

「そういえば、葵! 今朝のニュース観た?」

その最中、葵はロシア人と格闘中だったので観られるはずがない。葵が目を細めて由美に言うと、

「そうだったわね。ゴメン、ゴメン」

自身の頭をげんこつで軽く叩きながら由美が詫びた。

葵は何かあったのか由美に尋ね返した。

「それがさぁ、私たちが進路を決めている東条付属大学あるでしょ?」

葵は頷きながら相槌を打った。由美の家は家族代々医師の家系で、自身も脳外科の医師を目指し、東条付属大学を第一志望で受験する予定だった。

葵もまた、エレーナと同じく研究者になりたく、由美と同じ東条大学付属高校に進学していたのだった。

「昨日また同じ事故があったのよぉ。何だか第一志望から外そうかと考え直しちゃった」

由美は頬付けを付きながら、指先でグラスのストローをもて遊びながら呟いた。

葵はあまりテレビを見ないので、「事故」というのも「また」というのも分からなかった。

由美に詳しく教えて欲しいと頼むと、同病院から二週間の間に三回投身自殺が起こっており、今朝新たに四回目の自殺があったとの事だった。

「それは嫌ねぇ。入試に合格しても学校に行ったら、コレが出るかもよー」

葵は両手の平を胸元でたらんと垂らし、幽霊のような仕草をした。

「止めてよぉ! 人が真剣に悩んでいるのにぃ。私オバケ嫌いなんだから!」

医師になりたいという高い志を持っている由美を尊敬する一方で、オバケが怖いから行きたくない、というのはいかがなものだろうか。そんな医者には診て貰いたくないものだと、葵は由美を気の毒に思いつつも、可愛らしい医師の卵だと思った。


由美は第一志望を変えるとしたら、何処があるだろうと一人で喋り始めたが、葵は話半分で聞きながら眼前に何処までも広がる青い空を見ながら、

「お母さんもこの空を見ていたんだよね。ロシアからも同じ空が見えるかなぁ。なんだか、ここに居るとお母さんの側に来たみたいな気がするよ」

葵は澄み渡る空を見ながらエレーナを想っていた。


由美がひとしきり喋った頃合いを見計らって、葵がグラスのジュースを飲み干して言った。「折角だから展望台を降りて、 “ソラマチ”で買い物して行こうよ」

「それ良い! 着たきり雀の葵ちゃんに、新しい服を由美様が選んで差し上げましょう」

と、またからかい、葵が冗談半分でもう許さない、今朝のロシア人みたいにしてやる、と由美を追いかけると、丁度開いていた下りエレベーターに乗り込んだ。

すると扉の閉まり間際に、同じく先ほどの外国人二人が乗り込んで来た。


二人連れの外国人は葵と由美がロシア語を話せないと分かったのか、カタコトの英語で話しかけてきた。

「マイ ネーム ワズ イワン」

英語なら多少自信のある由美が、聞き取れたのがうれしかったようで、同じくカタコトの英語で「ワズ」ではなく「イズ」だよ。それじゃぁ、昔イワンだったって事になっちゃうよと伝えると、相手も理解出来たようで、仲間のもう一人のロシア人に指を刺されて笑われ、間違えた方は顔を赤くしていた。

和やかな会話はスカイツリーの高速エレベーターで僅かな時間に終わり、地上階に到着した。


由美が葵に、

「“シー ユー アゲイン”は分かるかな、そしたらまた会ってくれて、合コンとか出来るかも!」

葵の耳元で言うと、葵は笑って、言ってみればと由美を応援した。

由美は後ろを振り返って二人組のロシア人を探すと、見当たらない。

すると、突然葵が上ずった声で由美と呼ぶので、振り返ると二人組が葵の左右から一般人には分からないように腕を掴んでいる。

「ちょっと! あんた達! 葵を話しなさいよ!」

由美が日本語で怒鳴ると、左側に居た男が胸元から拳銃のようなものを取り出し、葵の首元に押し当てた。

「葵! 逃げて!」

由美が叫んだ時には既に引き金が引かれていた。


由美は葵の首から血が吹き出すものと思い、一瞬目を逸らしたが、葵はどこからも出血しておらず、意識を失って男の胸にしなだれかかっていた。

その様子は周囲からはロシア人の恋人同士が、抱き合いながら歩いているようにしか見えなかった。

「葵をどうするつもりよ!」

由美が後を追おうとすると、もう一人のロシア人が、いつの間にか自分の右側にピッタリと寄り添っていた。

左手を由美の腰にまわし、右手には拳銃が握られ、自分の上着の内側から由美の脇腹に銃口が押し当てられていた。

「これは麻酔銃じゃなく、本物の銃だ。騒ぐと引き金を引くぞ」

ロシア人は流暢な日本語で由美を脅した。

「何よ! あんた日本語話せるんじゃない! 離してよ!」


葵を連れた男は地上出口付近に停めてあった、盗んだ宅配便業者のワンボックスカーの荷台に葵を押し込んだ。

由美は十メートルほど離れた場所から、その様子を見ていた。

銃口を突きつけられたまま、少しずつ車の荷台に近づいていく。

「こうなったら、一か八かよ!」

男が由美を荷台に乗せるため、担ぎあげようと由美の腰に回していた手を話した瞬間、由美は両手で拳を作り、拳銃を持っている男の右手首に向かって振り下ろした。

子供同然の娘が、銃を突き付けられ、このような行動に出るとは予想もしていなかった男は、突然の反撃に油断し銃を落としてしまった。

すかさず由美は男の足の間をくぐって、地面に落ちた拳銃を遠くに蹴飛ばした。

そしてありったけの大声で叫んだ。

「誘拐されるわー! 誰か助けてー!」

思わぬ抵抗に驚いたロシア人は、慌てて車に乗り込み、まだ完全に閉まっていない荷台の扉をばたつかせながら、葵だけを乗せて大通りへ逃走して行った。


ようやく辺りにいた人たちが異変に気付き、由美に怪我はないか尋ね、救急車を呼べ、パトカーだ、犯人は外国人らしいぞ、と騒然となった。

そんな中、まだ地面に座り込んでいた由美は葵……、と小さく呼びながら、ハッと我にかえり、急いで携帯を取り出した。

「亮治おじさんに連絡しなきゃ。でも私も月に一回、道場に通っていて良かったわ! 意外と私って才能あるのかも」

つぶやきながら、携帯の電話帳から本堂 亮治を選び、発信ボタンを押した。

しかし、コール音だけが延々と鳴り続けた……。

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