第一章 桜花乱満 PART3
3.
「すいません。主人はどちらに?」
……主人、誰のことだろう。
今日の故人様は85歳の親方だ。彼女の年齢は少なく見積もっても30代、どこからどう見ても夫婦には見えない。もしかすると他の方と間違えてここに来たのだろうか。
……ここはどう対応すべきか。
初日の研修生である俺には何もいうことができない。もちろんこの花屋の2人が知るわけがない。
「失礼致します。この度はお悔やみ申し上げます」
俺が黙っていると、秋尾さんが先ほどと変わり笑みを消しながら前へ進む。
「こちらは橘家の葬儀会場となっておりますが……ご遺体はもうすぐ到着する予定になっております」
「そうでしたか。ありがとうございます。ではこちらで待たせて頂きます」
喪服の美女は姿勢を正していう。どうやら本当に橘さんの奥さんらしい。
秋尾さんの機転のおかげで場の空気が落ち着く。再びエレベーターが点き、社長が棺を搬入すると、喪服の女性はその姿を見て大声で泣きだした。
「もう会えんとやね、あんた……。まださよならしたくなかったとよ……」
綺麗に見繕っていた化粧が大粒の涙で消えていく。手に握っているハンカチに口紅が塗りたくられ、パレットのように様々な色を残し歪んでいく。
「……また私を一人にするんね? こげん思いをするなんて、あんたはズルい人ばい」
空気が引き締まり、声を漏らすこともできなくなる。先ほどまで和やかなムードにあった空間がたった二人によって塗り替えられていく。
……そうだ、俺の仕事は葬儀屋なんだ。
彼らの姿を見て再び思い返す。内定を得るために入ったのだが、これが俺の日常になるのだ。
《《人の死》》が、《《俺の日常》》へと変わっていく――。
「この度はお悔やみ申し上げます。葬儀を担当させて頂く大村と申します。奥様に喪主を務めさせて頂くということでよかったでしょうか?」
彼女の泣いている姿を見ながらも社長は鋭く切り込んでいく。
「ええ、もちろん務めさせて頂きます。よろしくお願いします」
「かしこまりました。お坊様が間もなく来られます。その時にはこちらにいて頂いて……」
彼女は顔をぐしゃぐしゃにしながらも頷く。社長も取り乱す様子もなく冷静に打ち合わせを続けていく。
……本当に、俺にもできるようになるのだろうか。
胸の中で緊張が走り続ける。この後のスケジュールはすでに決まっているのだ。自分から動かなければ、葬儀は成り立たない。
……できるようにならなければ。できないと《《仕事》》にならない。
葬儀という日は一度しかない、失敗してもその次はないのだ。無意識に体が震えていく。今になって、自分が選んだこの道が正しかったのか、迷い始めていく。
社長の円滑な誘導により、棺が祭壇の近くへと移動していく。故人の妻も涙をとめながらも夫に話しかけることを止めない。
……社長のようにならなければ。兄貴の思いを知るためにも。
社長の姿に亡くなった兄の姿を見る。この人と同じくらい仕事ができるようになれば、俺は兄貴の思いを知ることができるだろうか。
エリートといわれ続けた兄貴が《《自殺》》した理由を――。
故人の妻の姿が3年前の自分自身へと変わっていく。
大手の結婚式場で副支配人まで出世した兄貴が、何もいわずに事務所で火を点けて自殺をした。過労で精神病と判定され、大勢の人に弔われながら兄貴はこの世を去った。
兄貴のおかげで大学を卒業したにも関わらず、俺は就職できずフリーターとして過ごし、彼の死から逃げ続けてきた。
……ここで変わるんだ。兄貴のためにも、自分のためにも。
震える右手を左手で掴みながら姿勢を正す。人の死に携わればきっと、彼の思いに近づくことができるはず。
3年が経った今でも、俺はまだ兄貴が死んだ《《本当の理由》》を知らない――。