てめえらみんな働けよ!⑥
彼は正気です。
*
静かな月の夜。
手にした獲物を素早く回転させ、おれは鋭く息を吐いた。戦うためにと鍛え上げた肉体が、蒸気を発しながらわずかに軋む。
「ふー……、終わった……か……」
この得も言われぬ達成感たるや、きっと我が人生に於いては、一、二を争う充足感だろう。
おれの足元では、あれほど手に負えなかった魔王アシュタロトが泥にまみれて力なくうつ伏せに倒れている。微かに背中は上下しているが、もはや自力で起き上がることはないだろう。
「いい夜だ……」
戦いを終え、おれは獲物を肩に乗せた。
そう、ついに畑が完成したのだ。あたりまえだが魔王が殺せたわけではない。
あぁもう! おれはこんな魔王城くんだりまで来て何をしているんだっ!? 生命を育む喜びを感じている場合かバカ!
頭を掻き毟り、畦道で両膝をつく。
首に巻かれていた汗拭き用の手拭いが、はらはらと地面に落ちた。
「ふふ、まあいい……。こいつらも楽しそうだったしな……」
昼夜を問わず蠢く魔物どもも、今夜ばかりは深い眠りについている。皆、疲れているのだろう。農業は、やり慣れている戦争などよりも、よほどこたえたと見える。
どいつもこいつも、なかなか頑張ったじゃないか。
畦道や畑の真ん中、城の入口で力尽きて眠っているバケモノどもに視線をやって、おれは少しだけ頬を弛めた。
ゴイルの旦那は石像化したまま真横になって転がっているし、ウンディーネたちは城庭園の大きな池に溶け込み、ポチ子は城横の犬小屋に上半身を突っ込んだまま力尽きている。その他大勢の猿や牛や豚どもは雑な種族らしく、そこら中に大の字になって眠っていた。
「……フフ……ぜ~んぶ………………あたしのもの……っ」
おれとアシュが戻ってくるまで指示を出し続けていたリリンが、畑横の木の洞で膝を抱えて瞳を閉じたまま、不穏な寝言を呟いた。
「……………………だって魔王だもの…………」
魔王にでもなりたいのだろうか。まあ、リリンの性格のことはどうでもいい。
おれは幸せそうな顔で眠っている足元の魔王アシュタロトを眺めた。
こいつも途中までは頑張っていたが、採ってきた貝殻を魔法で焼いて砕いている間に限界がきたらしく、側で眠ってしまっていた。だからおれは一人で貝殻の灰を畑に撒かなきゃならなかった。
「……」
起きているとき以上に隙だらけだ。
もしかしたら眠っている間であれば、この剣で首を掻き斬ることができるかもしれない。たとえ安物の剣でも、人類を超越した勇者であるこのおれが魔力を込めれば、立派な刃となる。
剣の柄をつかむ手に、労働とは別の汗がジワリと滲んだ。心臓が鼓動を早鐘のように打ち鳴らす。血管が拡張されて、一気に体熱が上昇した。
……殺れる。くく、マヌケヅラして寝やがって。
いや、だが失敗したら次こそ生命はない。
また目潰しをされ、鼻の穴を一つに繋げられ、ケツの穴を二つに増やされ、あまつさえケツの割れ目を横にも作ら――あわわわわっ!?
「んぁ~」
突然何の前触れもなく、寝ボケ眼のアシュが目を擦りながら上体を起こした。
おれはとっさに剣を畑の向こう側へとぶん投げる。くるくると夜空に舞った剣が、畦道で眠っていたオークの頭部へとミラクルヒットした。
「ぶぎゃんっ!? な、ななななんだブヒ!?」
オークの悲鳴が聞こえたけど気にしないぞ。刃部分じゃなくてよかったな。
アシュが眠そうな表情でおれを見上げた。
「あ……。アルカン、ずっと起きてたの?」
「え? お、おう、そりゃあもう」
バレてない? ……バレてない。バレてな~いっ。生きてるって素晴らしいっ!
胸を撫で下ろし、震えながら息を吐き出す。
「うあ~、アシュのせいだな~。途中で寝ちゃってごめんね」
「いやいや、いいってことよ。今日はおまえも頑張ったからな」
「ん~……」
立ち上がったアシュが、泥だらけの両手でおれの右手をつかんで引っ張った。つんのめるおれに背を向けて、アシュはウネとウネの間を進んでゆく。
「お、おい?」
「こっちこっち」
アシュに連れられるままリリンの眠る大樹を通り過ぎ、石像化したゴイルの前を走って、ポチ子の犬小屋――部屋を通り過ぎ、魔王城の大門をくぐる。
物音一つしない廊下に、おれとアシュの靴音だけが響いていた。
普段であれば夜に蠢く魔物らによって不夜城と化す魔王城も、今日ばかりは静かだ。みんな慣れない農作業に疲れ、深い眠りについている。
「どこまで行くんだよ」
「まおーの部屋だよー」
魔王の部屋だと!? くっ、願ってもない機会だ!
魔王の部屋の場所や間取りを覚えておくことは、暗殺には大いにプラスとなるだろう。アシュの寝所は何度か探し回って、結局見つからなかった場所でもある。
アシュはおれの手を引きながら、地下へと続く階段をどんどん下ってゆく。
魔王城最深部。最上部ではなかったのが意外だ。
やはり魔物となれば、天を目指す人間とは正反対に、偉くなればなるほど地の底に近い場所に行きたがるものなのだろうか。やつらの故郷と言われている地獄や煉獄は、地の底にあるという伝説ばかりだしな。
最深部廊下の行き止まりにあった大鉄扉を、アシュが細い両手で押す。歯を食い縛り、裸足を何度も石の床で滑らせながら。
「ん……! んん……!」
重いのか? 自分の部屋なのに。
「手伝うか?」
「いい……! アシュが開けるの~……!」
低く重く、擦れるような音がし始め、少しずつ扉が開かれてゆく。大人一人が通れる広さにまで開けると、アシュがおれに目で合図をした。
おれは身を屈めてアシュ両腕の下をくぐり抜け、室内へと滑り込む。続いてアシュが飛び込んできた直後、大鉄扉が大きな音を立てて閉ざされた。
「ふ~」
内心、アシュが挟まれなくてホッとした。
当然、心配だからじゃないぞ。挟まれて怪我でもされたら、あいつは魔王化してしまうからだ。そうだとも。そうに決まっている。
「危ねえ扉だな。重すぎんだ。おれが木の扉にでも直してやろうか?」
「だめー! まおーの部屋はこれでいいの!」
アシュが歯を剥いて、イーっと舌を出した。
使いづらいだろうから言ってやったのに。ま、おれにとっちゃあ、どうでもいいことだが。
アシュがぱたぱた走って、ランプに炎を灯す。室内が明るくなるにつれ、おれは驚きを禁じ得なかった。
凄まじい量の蔵書だ。
壁という壁すべてが本棚になっている。そいつが霞むほど高い天井まで列なっている有様は、まさに圧巻だ。
おれは本棚に手を入れて、何気なく数冊を引っ張り出した。
「すげえ……」
すでに失われたはずの古代の魔導書や、セラトニア王国門外不出であるはずの禁書の写本。数世代前に他国の王によって焚書されたはずの書物まである。
「これ……」
異世界の書だ。異界文字が刻まれている。他にタイトルすら読めないものは、純魔種族のものだろうか。とにかく多い。
ここは賢者の書斎だ。
そして広い。並べられている家具はもっと衝撃的だ。
「でけえ……」
アシュはもちろん、おれですら扱えないほど巨大な机に、椅子。
たとえば椅子などは、座面がアシュの身長ほどの高さほどもあり、机に至っては何が置かれているか覗くことさえできない高さだ。現にベッドはキングサイズどころの大きさではない。
どれもこれも、ミノタウロス族並の身長がなければ使い物にならない家具ばかりだ。
とてもではないが、アシュの体格では扱いようもない。重厚な鉄製の調度品や蔵書も、目の前をパタパタ走る小娘にはすべてが不似合いだ。
大きすぎるベッドに置かれた枕だけが、アシュのサイズだが……。
「こっちこっち、こっちだよー、アルカン」
「あ、ああ」
アシュに招かれるまま、おれは広い蔵書の部屋を抜けた。
「んしょ……」
アシュが木製扉を両手で押した。
例に漏れず巨大扉ではあるが、先ほどの大鉄扉ほどの重量はないらしく、アシュでも簡単に押し開けられた。
おれは再び目を見開いた。
彫刻の部屋。緻密に彫り込まれた石の調度品。
磨き抜かれた岩肌は砂粒一つなく、セラトニア城と同様に真っ平らで、何より部屋の中央部が大きく窪んでいて、そこには澄んだ水が溜められており、湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
天上は吹き抜け、満天の星空が見える。
「……魔王城にこんな場所があったのか……」
一人分の風呂。たった一人のための風呂だ。
ただし、それはここに棲まう賢者にとってのサイズであって、アシュのサイズではない。
おれたちが二人揃って足を伸ばしたところで、どこにもつっかえることはないだろう。それどころか、浴槽中央部まで行けば足がつかないほどの深さだ。
湯は掛け流しらしく、女神像の壺の中から注ぎ続けられている。
この部屋の主が人間の文化を蔵書から学んで造ったのだろうか。
おもしろい。会ってみたいものだ。
「へへー、すごいでしょ~」
「おう、……おう?」
振り返ると、すっぽんぽんのアシュが立っていた。
手足は今にも折れそうな細枝のようで、色は不自然なほどに白く、胸は……まあ、微かにあるっちゃあるが、まだおれの胸筋のほうがあるくらいじゃないだろうか。
う~ん。
「…………え、なに? おまえ、今から入んの?」
「入るよ? どろどろだもん」
まじまじと見つめ、おれは顎に手をあてて考える。
胸部や局部を隠すという発想は、アシュのなかではないらしい。
ガキだ。美しくはある。けれどそれは女性的なものではなく。そうだな、言うなれば遙か太古に滅んだとされる、幼児の容姿に白い翼を持つ天使のそれか。
もっと端的に言えば、正直ピクリともこねえ。
天上から吹き込む風が、湿気を含んだ長い白髪をわずかに揺らした。
「……くしゅ」
「入ったら? 素っ裸で突っ立ってたら風邪ひくぞ」
おれが浴槽を指さすと、アシュが指さしたおれの手を再び両手でつかんだ。
「アルカンも一緒に入るんだよ」
「……え、いいの? つか、ここ誰の部屋なんだ?」
魔王の部屋とは聞いていたが、この部屋にある魔王アシュタロトの痕跡といえば、ベッドの枕だけだ。
このバカさ加減ではおそらく本は読まないだろうし、こんな巨大な風呂もキングサイズをはるかに凌駕するベッドも必要ない。机の引き出しに入って眠っているとかならわからんでもないが。
アシュはいつもの無邪気な笑顔で返す。いや、わずかに寂しげか。
「アシュのとーちゃんの部屋だった」
「だった?」
「もう死んじゃったんだー」
やっぱりか、先代の南の魔王はすでに亡くなっている。
謝らないぞ、おれは。こいつは自軍で多くの人間を屠った史上最悪の魔王なのだから。
「だから遠慮するなー。アルカンは今日、アシュの次くらいに頑張ったからご褒美だよ」
「いや、おれのが頑張ったし。おまえ途中から寝てたじゃねえか」
「それは仕方ない。だってアシュはまおーで、アルカンは参謀だもん。アルカンはアシュの配下でしょー」
アシュがぐいぐい腕を引っ張る。
「だから命令だよ。アルカンはアシュとお風呂に入ること!」
おれの手が自分の胸にあたっていることなんて、まるっきり気にも留めない。だからこそ余計にピクリともこねえんだが。
「わかったわかった。おれも汗だくでどろどろだし、遠慮なくもらうよ」
こんなことなら着替えを持ってくればよかった。ま、自室に浴槽はないし、いつもみてえに魔物どもと一緒になって河で身体を洗うよりはずっといい。最近、寒くなってきたしな。
鮮血色のマントを外し、上衣と下衣を脱ぎ捨ててから下半身装備に手を伸ばしたとき、おれは自分の下半身をガン見しているアシュに視線を向けた。
「おい」
「んぇ?」
アシュの視線が、おれの下半身から顔へと上がった。
「先に入ってろ」
「待ってるー」
視線が下がる。
「おい」
「んぇ?」
再び視線が上がった。
「……あんまり見ないでくれる?」
「うん、わかった。ごめんねー」
アシュが掌をぴたっと自分の両目に当てた。
あからさまに存在する指の隙間が気になるところだが、こんなやつを意識するのもなかなかにバカバカしい。
フ、おれとしたことが。気にするようなことでもあるまい。
おれは下半身装備を一気にズリ下げる。
「ほぁ!?」
アシュから変な声が聞こえたが、こんなガキなんて一切気にしないぞ、おれは。
さて、と。
アシュに視線を戻すと、彼女の鼻からは大量の血がボタボタと溢れ出ていた。
「……あ」
「……く……」
アシュの視線の質が変化してゆく。
そう。いや、そんな可能性など微塵も考えていなかった。
「――っ!?」
あか~んっ!!
無邪気だった瞳が三白眼に変化した。身体的変質はそれだけだ。目の下の隈も消えない。だが、わかる。わかってしまう。
中身が全然違うっ!!
今こいつ、魔王化してる。
「あ、あの……ですね……」
「……」
ヤバい……装備外しちゃった……。
魔王は自らの裸身に気づき、さりとて隠すでもなく、仄かに膨らんだ胸で両腕を組んだ。堂々たる仁王立ちだ。
ちなみにおれはといえば。
剣は畑に起きっぱなしだし、魔法で編み込まれた金属糸の上衣は足元に脱ぎ捨てられ、あまつさえ最大弱点である下半身はぶ~らぶら。
「え……ええぇ~……」
汗が一気に全身から噴出した。目玉の栓が抜けたかのように、涙がアホほど流れた。
死んだな。うん。
今度はケツの穴を二つに増やされても、おれをセラトニア王国まで担いで逃げてくれる仲間はいない。
「何をしている、参謀」
声質は変わらない。だが、およそアシュから発せられたとは思えないほどのハキハキとした物言いで、魔王はおれに言葉を投げかけた。
「んぇ?」
そして、およそおれの口から発せられたとは思えないほどの情けない返事。半殺しにされた恐怖は未だに深く染みついている。
「まったく……」
魔王があからさまにため息をついて、足元にあったバスタオルで自らの鼻を拭い、無造作に投げ捨てた。そうして堂々たる姿でおれの前にまで歩み寄り、おれの手をつかむ。
筋肉を骨ごと軋ませ、強く、強く。
「何をしているのかと聞いている」
「そ、そそ、そそそれは」
脳内は混乱状態で、おれはもはや為すがままだ。
「風呂に入りに来たのであろう。ならば早く入れ。ゆるす」
「ほぁ?」
魔王がまたしてもあからさまにため息をついた。
長い白髪を耳にかけて、アシュがそうしたようにおれの手を引き、石造りの浴槽の横に座らせた。
戸惑うおれに、置いてあった桶で頭から湯をかけて泥を流させ、続いて自らもまた湯を浴び、泥と鼻血を排水溝へと流した。
「浸かれ」
「え、あ、ああ」
「浴槽は石を磨いてある上に傾斜になっておるゆえ、少々滑る。気をつけろよ、アルカン」
「あ、は、はい……」
魔王が薄く微笑む。
「ふふ、父の凝り性も困ったものだ。だが、この風呂というものは存外に悪くない」
き、気づいていないのか、おれが勇者だということに。
そうだ。気づいているわけがない。こいつと戦ったとき、おれは可能な限り防御力を上げるため、騎士鎧を全身に纏っていた。こいつにとっては紙も同然の装甲だったわけだが、おれの素顔を隠すという意味では役に立っていたに違いない。
ぐびっと喉を鳴らして唾液を呑む。
浴槽に両足を入れたおれを見上げて、魔王は少女の微笑みを浮かべた。
だがそれは、アシュがおれに向けるような無邪気なものじゃない。リリンのように蠱惑的な危うさを孕み、さらにそこに暴虐を付け足したかのような、深みのある恐ろしい威圧だ。
「くく、何を縮み上がっている?」
「い、いや、これはその――」
何より、瞳には知性の光が宿っている。
「ふふ、冗談だ。座れ」
「は、はい」
浴槽のなだらかな傾斜に背中を預けて足を伸ばすと、自然と視線は吹き抜けの天井に向いた。湯は胸まである。
空は一面の星。
状況が状況じゃなければ最高の気分になれそうだが、あいにく今はそれどころじゃない。
「どうだ、アルカン? 悪くないだろう?」
「え、ええ。……はえっ!?」
おれが伸ばした二本の足の間に臀部を入れて、魔王がおれの胸に背中を預けてきた。
ぬるめの湯のなかで、別のぬくもりが全身に広がってゆく。
「~~ッ」
おれは総毛立つ。
今おれに無防備な身体を預けているのは、あの魔王アシュタロトだ。彼女がその気になれば、世界を死滅させることも可能だ。
おれは戦士であり、勇者だ。だが、この魔王は戦士ではない。騎士でもなければ魔法使いでもない。最も彼女に適した言葉があるとするなら、それは災害や災厄といったものだ。
おれと魔王との間にある力の差は、それほどまでに絶望的である。
顎に濡れた白髪があたり、少し冷たい。接触面は暖かいが、それが寒気の原因でもある。柔らかく、暖かく、だが同時に骨張っていて冷たい少女の身体だ。
「ふう……」
魔王が、気持ち良さそうに瞳を閉ざした。
「心音が高いな。鎮めろ」
「す、すみません」
「私を無用に恐れるな。私はこの城に棲まう貴様ら全員を愛している。貴様らの考えつくような少々の無礼など、私にとっては稚児の悪戯を見る程度の楽しみに過ぎん」
だからシエルは、アシュに対してヒドい無礼を働く魔物たちを罰さないのか。
「はあ……」
だが、おれだけは特別だ。
正体を知られたら殺される。忘れかけていたが、おれはこの城唯一の人間で、魔王を殺しに来た勇者なのだから。
おれの胸に後頭部を預け、魔王が意地の悪い笑みを浮かべた。
「それと貴様。もしかしてアシュと私を別人格のように考えてはいないか。だとしたら、それは浅慮、阿呆の思考だ。アシュの考えは私の考えであり、アシュの心は私の心だ。すなわちアシュが貴様をこの魔王城に受け入れたということは、私の決断でもある。わかるな?」
「ええ、そこはかとなく……ってことは――」
おれは自分の顔を片手で覆った。今さら演技は通用しない。
「そうだ。今さら敬語など無駄だぞ、アルカン。自己弁護などしたくはないが、アシュは決して阿呆ではない。知識も私と等しく共有している。だが、その知識を収納した引き出しに至る道を、アシュは見つけられんのだ。私がアシュであるとき、思考にはいつも靄がかかっている。もっとも、貴様も知る通り血液が外気に接触すれば、その瞬間より思考の靄は晴れ――」
アシュが薄い胸に手を置いて、不敵な笑みを浮かべた。
「――シエル・アシュタロトになる」
おれは喉を動かし、唾液を呑み下す。
魔王の真名は、シエル。そしてシエルとアシュは記憶を共有している。
いいぞ。このまま魔王の情報を引き出せば、決定的な弱点も見えてくるかもしれない。こいつの力の源を探るのには絶好の機会だ。
「なら、アシュであるときに力がスライム以下になっているのはどういうことなんだ?」
魔王シエルがおれの足の間で、少しだけ居心地が悪そうに臀部を動かした。そしておれの太ももに腰を乗せ、馴れ馴れしく背中を預けたまま、片腕をおれの肩に回す。
「私に興味があるのか? くく、この状況でずけずけと恥知らずにも質問をするか」
シエルがおれの耳元に唇を近づけ、甘く囁く。
「――だが、そういう無礼な輩は嫌いではない。決して嫌いではないぞ、アルカン」
おれは再び唾液を呑み下す。全身を鳥肌が覆い、体毛が総毛立つ。
この体勢では、シエルがほんの少し腕に力を込めただけで、おれの首など簡単に折れ曲がってしまうだろう。それで済めば御の字、下手をすれば……もぎ取られる……。
……震えるな、震えるなよ、おれ……。
だが、シエルはそんな葛藤など意にも介さず、まるで恋人がそうするように胸をおれの胸部にすり寄せると、言葉を紡いだ。
「アシュの非力もまた、引き出しに至る道を知らんだけのこと。見て分かる通り、私は肉体には恵まれなかった。ゆえに力の源は、すべてが魔力だ。貴様が敵を殴る際、拳に魔力を込めていたのと同じ原理で全身を強化保護している。貴様の数百倍の魔力でな」
おい……おい……。
魔法術式は人類のお家芸だと思っていたのに、魔物のなかにも扱えるやつがいるってことか!? ただでさえ人間は魔物に比べて肉体の基本性能で劣るというのに、絶望的じゃないか!
唇が耳に押し当てられ、吐息のような声が直接頭蓋に染み込む。
「どうした、アルカン? ヒドい汗だ。案ずるな。仮に貴様が何かを企み、ここへ来たのだとしても、私はこの城に棲まうすべての者を愛すると決めている。私は、貴様がこの城の魔物どもに手をかけぬ限り、何をしようがゆるす。すべては自由だ。貴様らがどのような決断をしようともかまわん。たとえばヒトという種を絶やしたいのであれば、私もまた全力で掃討しよう」
「おまえ……!」
瞬間的に、全身の筋肉が固まった。
「どうした、アルカン? 殺気が漏れ出ているぞ?」
シエルが耳から唇を離し、自らの舌をおれの頬に這わせる。生ぬるい粘膜と己の頬の接触する音が頭蓋内に響き、湯のなかにあってさえ寒気を覚えた。
「……ふふ、おもしろい味がするな。貴様は。ただの魔物ではないな?」
恐怖と同時に別の感情が鎌首をもたげ、おれの心臓はこれまで以上に跳ね上がる。
おれはあえて不敵な笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「ただの魔物ではない、か。買い被りだな。少なくとも魔王種じゃねえよ」
「ふふ、まあいい。話を戻すぞ、アルカン。逆に、貴様がヒトという種を守りたいと真に願うのであれば、この城に棲む魔物どもの意志そのものを変えてみろ。そうすれば私は全力でヒトという種を守ってやろう。仮にその決断が間違っていて、この城が滅亡の危機を迎えたとしてもかまわん。遠慮なくやれ。どのような危機に瀕しても、私が必ず覆してやる」
水面を波打たせ、シエルがわずかにおれから顔を離し、挑むような目つきをした。
「愛する貴様らのためであれば、私はいつだって自ら進んで貴様らの尻を拭ってやる。だから安心して決断するがいい。そのために魔王シエル・アシュタロトはここにいる」
不敵な笑みを浮かべるシエルの額と、間の抜けた表情をしたおれの額が、音を立ててあたる。唇すら触れ合いそうになる距離で魔王が続けた。
「魔王とはな、アルカン。己の意志など持たぬものだ。ただただ、この城の自由意志を叶えるために存在している。それは無償の愛に等しい」
額を離し、シエルがおれの目の前で湯から立ち上がった。堂々と、何一つとして隠さずに。小さな肉体の何もかもを、おれに見せつけるかのように。
シエルが長い白髪を、片手で掻き上げた。
「ま、偉そうに語ったところで、すべては父の受け売りだ。それでも私が貴様を愛しているというのは真実だぞ、アルカン」
「話半分に受け取っとくぜ。けど、先代魔王は、……いいやつだったんだな」
少なくとも、ここに棲む魔物やアシュにとっては。
口にするのは抵抗のある言葉だった。だが、ここの魔物や、遺言を必死で守ろうとしているシエルを見ていると素直にそう思えた。
シエルは少しだけ驚いたように目を見開いたあと、苦々しく表情を歪めた。
「まったく、貴様というやつは。そういうところは好きではない。愛してはいるが、先のような言葉は好きではないぞ。……見抜いた真実は胸にしまっておけ」
その照れたような顔がとても魅力的で、おれはほんの少しだけ面食らう。
「お、おう」
シエルがおれの横を通り過ぎ、浴槽から上がった。肩越しに振り返り、無邪気に微笑む。まるでいつものアシュのように。
「だがな、アルカン。貴様は私をそのようなカタチで愛さなくてもかまわんぞ?」
湯のなかにある、おれの股間を指さしながら。
「あえ? おわっ!? あわ、あわわ……う、嘘だろ~……」
いつの間にか股間が反応していた。
ガキみたいなアシュには無反応だったというのに、よりにもよって同じ姿の、しかも魔王シエルなんかに。そうか。だから湯のなかで、もぞもぞ体勢を変えてやがったのか。
お、お、大恥だ~……。
おれが両手で顔を覆うと、幼い姿の魔王が肩を揺らして豪快に笑った。
「ハッハッハ! いいぞ、ゆるすっ!! 貴様のその恥知らずな無礼は嫌いではない! 決して嫌いではないが、節操は持てよ、参謀?」
おれを半殺しにしたときとまったく同じ高笑いをしながら、今さら裸身を隠すかのように、シエルが背中を向けた。
「またいつでも語りに来い。ただし、場所はここだ。私はそれをゆるす」
シエルは岩肌に掛けられていたタオルを指先でひょいとつまみ上げ、今さらのように身体に巻きながら木製扉の向こう側へと姿を消した。
おれは言い訳のしようもないほどに屹立した股間を眺め、独りごちる。
「あぁ~……くそったれ……」
あの小さな魔王はとてつもなく大きい。これ以上ないほど強大な敵だ。肉体はもちろん精神においても、まだまだ敵う気がしない。
それに、アシュとシエルの意志が本来一つであるとするなら、アシュに色々と喋ってしまうことも危険だ。これからは気をつけなければならない。
あれ? だとするなら、アシュがおれのハダカを見て鼻血を出したということは?
彼女は狂気です。
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