てめえらみんな働けよ!⑤
ちょっとだけまじめです。
*
のどかだ。
日が傾いて仄かに赤く染まった空と、透き通る青の海の境目はわずかに紫だ。寄せては返す波の音が耳に心地いい。潮の匂いも悪くない。
「もう少し暖かければ最高なんだがな~」
魔王城に来るより以前も、農業や海は知識として知ってはいた。だが、実際に触れたのはいずれもセラトニア王国を旅立ってからのことだ。
後継者にもなれない無用と言われる第三王子とはいえ、庶民の暮らしがどういったものかを学ぶことは、上に立つ王族の義務だと教えられてきた。だから意味などないと思いつつも学びはしてきたのだが、今はその知識が役に立っている。
実際に土に触れるのは、机の上で学ぶよりもはるかに楽しかった。それにも増して、この雄大な海というものには感動すら覚える。
勇者として旅をしていたときでさえ、こんなにものんびりと眺めたことはなかった。セラトニア城にいた頃からは考えられない暮らしだが、なかなかどうして悪くない。
「百聞は一見にしかずか」
異世界の格言らしい。
異世界の書物が、稀にセラトニアにも流れてくることがある。もっとも、おれは異界文字を読めないから、解読のできるセラトニアの賢者から教えられたのだが。
世の中には体験しなければわからないことが多い。机の上や人づての情報で知った気になるのは、いつの世も愚か者のすることだ。
潮風が髪を揺らし、ゆっくりと時間が流れる。
そんな静寂を打ち破って、少女は無意味に叫ぶ。
「ほああぁぁぁ! みんな待っててーっ! アシュがいっぱい肥料拾って帰るからねー!」
長いワンピースの裾を両手でたくし上げ、貝殻をスカートの前部にたらふく溜めて、アシュが駆け寄ってくる。裸足の足が海岸の砂を蹴るたびに貝殻がポロポロと零れ落ちているけれど、本人に気にした様子はない。
「よい……しょっと」
アシュはおれの傍らにある荷車に貝殻を流し込むと、踵を返してまた走り出した。さっきからこれの繰り返しだ。
海や農業よりもわからないのは、この魔王アシュタロトだ。こいつは本当に人類にとって排除せねばならない存在なのだろうか。
アシュは無差別に拾いまくった貝を選別している。どうやら中身のあるやつは海に捨てているらしく、貝殻だけのものを選り分けて集めているようだ。
「はあ~……」
ため息が出る。
最初に言っておくべきだった。中身のある貝は貴重な食料だから、それも集めろと。
ちなみに貝殻は、焼いて砕いてから撒く予定だ。こいつは肥料というよりは土壌を正常化させる働きなのだが、魔物たちに細かい説明は無意味だろう。そういうものだとだけ覚えさせればいい。あとはおれが帰国しても、自分たちで続けるだろう。
そこまで考えて頭を振る。
バカな。何を考えているんだ、おれは。やつらは敵で、滅ぼすべき相手だ。
「でも、な~んか気が進まねえんだよなあ……」
アシュがワンピースの裾に貝殻を溜めて、また走り出す。
ちなみに、いくらスカートをたくし上げたところで、見えるものは貧相にも程がある野生の大根だ。あれがリリンだったなら、それはもう最高だったのだが。
「ぎゃうっ!?」
あ、こけた……。……泣いた。……起き上がり~……散らばった貝殻を拾っている……。
子供だ。どこから見ても。見かけの年齢は十二、三歳といったところか。
髪や瞳の色を除けば、容姿は極めて人間に近い。
だが、東国あたりの魔物のなかには変身をする輩もいると聞く。魔物の容姿ほどあてにならないものはない。が、こいつがそんな回りくどいことをする意味もないだろう。
「んっしょ~」
貝殻をリヤカーに移す。
転んでばかりだからか、足がもう傷だらけだ。それでも元気に走り出す。おれが一切手伝っていないことなど気にも留めない。
魔物というのはリリンのような上位を除いて大体があまり賢くないようだが、アシュはそれに輪をかけておかしい。
加えて、要領も相当悪い。長い髪も寝癖だらけだし、目の下の隈は消えたことがないし、泣き虫だし、ちょっとびっくりしただけですぐに小便を漏らす。下位の魔物からもバカにされ、けれど本人はそういう扱いをされていることに気づいてすらいない。
脳天気。これに尽きる。だが、毎日が幸せそうだ。おれとは違って。
ちょっと頭が悪いことを除けば、人間の子供と違う部分を探すほうが難しい。
だが、それはあくまでも通常時の話だ。ひとたび出血すると、突如として豹変する。
あの小さな身体にアークデーモンを凌ぐ魔力を漲らせ、拳で大地を叩き割り、その咆吼を天まで轟かせ、すべての生物に恐怖と威圧を与える魔王となる。
やはりここで殺しておくべきか。
「アシュ、もういいぞ。これ以上集められても荷車が重くて引けねえよ」
アシュが足を止めて振り返る。
「アシュ、力持ちだよー?」
「それ、血が流れてるときだけだろ」
顎に人差し指をあてて、アシュが首を傾げた。
「そーかも? でもでも、そーでもないのかも?」
「おまえ、自分のことなのにわかんねーのかよ」
アシュが駆け寄ってきて、おれの隣りに膝を抱えて座った。
もぞもぞ動いてにじり寄り、ピタッとおれに身体をくっつけ、おれの顔を見上げて真っ白な歯を見せる。
「へへ~」
表情は見た目の年齢よりも、さらに幼い。リリンに負けず劣らず綺麗な顔立ちをしてはいるものの、さすがにガキすぎてなんとも思えない。
ただ、最も危険な敵であるとわかっていたはずなのに、おれは彼女のその行動が少しだけ嬉しかった。そうだな、妹がいればこんな気持ちになっていたのかもしれない。
この笑顔には全幅の信頼が潜んでいる。
しかし、魔王だ。
勇者として戦いを挑んで半殺しにされたときは、おれは頭部を含む全身に騎士鎧を装備していたから正体はバレていない。だから、いつだって隙を衝いて刃を彼女の首に振るうことが可能だ。
それに、今はあのときのような戦闘状態ではない。魔王アシュタロトだって油断をしているはず。見るからに隙だらけだ。
心臓が早鐘のように動き出す。汗が額から頬を伝う。筋繊維がギュっと縮まる。
おれはそっと懐に忍ばせた短剣の柄に手を伸ばす。
「アルカン、ありがとねー」
アシュの首がぐるりと回り、大きな瞳でおれの顔を斜め下から見上げてきた。
「ンふっ!?」
び、び、びっくりして変な声出ちゃった!
思惑がバレたかと思い、恐ろしい量の汗が全身から噴出する。半殺しに遭ったときの恐怖が蘇り、身体が震えだそうとするのを止めるだけで精一杯だ。
「ほあ? あはは、変な顔ー!」
バ、バレてない……?
おれは大慌てで懐から手を抜いて、頭を掻いた。
「い、いや、なんでもないぞ。……そ、それより何がありがとうなんだ?」
落ち着け。やはり正攻法では魔王は殺せない。
刃が彼女の首の皮膚を一枚斬り裂いた時点で、アシュは魔王化したじゃないか。ケツの穴をこれ以上増やされてたまるか、チキショウ。
こいつを魔王化させたら、もはや地上の誰にも彼女を殺すことはできない。それでも殺せる可能性があるとすれば、東西北の各魔王との共闘くらいのものだろうが、当然人間の勇者であるおれに、そんなことができるはずもない。
……今日はやめとこ。
アシュが嬉しそうに身体を左右に揺すって、コテンとおれの肩に頭を置いた。
「うふふー。アルカンが来てから、魔王城のみんな、すっごく楽しそーだよ」
「はぁ? そうかあ?」
嬉しくもない話だ。あいつら敵だぜ? 魔物だぜ? で、おれは人間で勇者だ。
「そだよー。そ、それでね」
アシュが言い淀み、ぐびっと大きく喉を動かした。
「ア、アシュも、えっと、わたしも嬉しいよ」
「はあ。ま、ありがとよ」
一人前に赤くなってやがる。
好意を向けられるのは嫌いではないが、残念ながらこいつは見るからに子供だ。
胸はペタンコで尻も貧相、行動も頭も稚拙。オシャレなど皆無な服装に、髪はボサボサ。目の下にはいつも濃い隈があり、手足は細くて色気もない。
人間年齢でいえば四~五年は早い。
それに何より彼女は魔物であり、人々を恐怖のどん底に叩き込んだ魔王でもある。
複雑な感情をぐっと押し殺し、おれはアシュの頭をぐりぐりと撫でて尋ねる。
「おまえさ、なんで魔王なんてやってんの?」
アシュが子犬ように、気持ち良さそうに瞳を細めた。
こういうところはちょっと可愛い。くそ、魔王の分際で。
「ほぁ?」
「向いてないんじゃないのかって話だよ。魔王種は稀少とはいえ、他にやりたいやつなんて山ほどいるだろ」
おれは何を考えているのか。こいつにこんな質問をするなんて。
わかってる。わかってはいるんだ。バカな話をしていると。おれは、アシュが魔王を辞めたら殺さなくて済むって思ってしまっている。
一ヶ月前は殺す気満々で潜入したというのに、腑抜けたものだ。
アシュが額に縦皺を刻んで、珍しく熟考するかのような面持ちをした。
「んー……先代のまおーに任されちゃったからなー……」
「先代魔王?」
アシュが頬を紅潮させて無邪気に笑った。強い海風に白髪が巻き上がり、彼女はあわてて両手で押さえつける。
「アシュのとーちゃんだよ」
「魔王って代替わりしてんのか?」
アシュの笑顔が曇る。
さして眩しくもない夕陽に、似合わない物憂げな表情で瞳を細め、何かを言おうとして――しかし、彼女は唇を結んだ。
しばらく待ってもアシュからの言葉はない。波の音が少し大きくなった気がした。風が強くなっているんだ。
少し肌寒い。質問の返事もなさそうだし暗殺も不可能となれば、もうここに用はない。
おれは立ち上がり、適当に砂を払った。
「帰るか」
「ふぇ?」
いつの間にかうつむいていたアシュが顔を上げた。
おれは荷車の持ち手をつかみ、呆然としているアシュに声をかける。
「帰るんだよ、城に。さっさと後ろから押してくれ。おまえが貝殻をバカみたいに集めたから、おれだけじゃ重くて動かん」
「あ、は~い!」
アシュが立ち上がり、荷車の後ろを細い両手で押した。
魔王化でもしない限り、さして力があるわけでもないアシュが押したところで、おれの負担は変わらない。
だけどおれは少しだけわざとらしく荷車を重そうに引く。
「よいっしょっと」
「ほああぁぁ!」
荷車のタイヤがゆっくり転がり始めると、アシュに無邪気な笑顔が戻った。
「どうだぁ、アルカン。アシュは力持ちだぞー。まおーだからなー」
誰かの役に立つことがこの魔王の最大の喜びであることは、もう調査済みだ。殺すことは少々困難ではあっても、笑顔にしてやることなど造作もない。
「おーおー、助かるわ。ありがとよ、魔王様」
あぁ、ほんっとに何やってんだかな、おれ。