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思春期

「不破ってさ、卒業出来ないんじゃないか、って言われてる」

 昼休みの屋上で、遼太は校内の売店で買ったパンをかじりながらフルーツ牛乳のパックにストローを刺した。

「1年ときから欠席ばっかだったからさ」

「そうかー……。だから見たことなかったのかな……」

 誠は思案顔のままパックのコーヒー牛乳を飲んでいた。

「誠は学内の女に興味無さすぎ。つーか、まだ引きずってるのかよ」

「引きずってるっていうか、次に進めないだけだよ」

「そういうのが引きずってるって言うんだよ」

 なるほど、と妙に納得しながら誠はサンドイッチのビニールパックを開けた。

 この屋上に来る途中、職員室前の廊下を通った。そこで足を止め、絵を観ていた誠に気付いた遼太は、昼食を食べながら美莉の話をした。

 昼休みの屋上は、昼食をとりに来た生徒があちらこちらに見られた。夏の間はコンクリートの照り返しで灼熱地帯となり、誰も近寄らなかったが、秋を迎えた今、心地よい風が吹き抜けるちょうどいい休息、憩の場所となっていた。

 フルーツ牛乳のパックが原型を留めない程まで中身を吸い上げた遼太はそれをクシャッと手の中で潰し、話を変えた。

「そういやさ、夏の準決勝も決勝も、神宮まで来てたよな、お前の兄貴と……その……例の彼女。すげー美人なんだよな。あの兄貴にはもったいねー」

遼太はキシシと笑いながら頭の後ろで手を組み、そのまま仰向けに寝転がる。

「篤に言っとく」

「わぁおっ! やめてー! 兄貴こえーんだよ」

 慌ててガバッと起き上がった遼太に誠がハハハと笑う。

「俺、準決勝の後兄貴に掴まってよ。すげーダメだし。リードが悪いだの、あのキャッチングはなんだ、だの、スローイングはこうやれ、だの。まぁ、監督でも気付かねー事を延々と。彼女が困った顔して見てたっけ」

「篤はキャッチャーとしての能力は折り紙付きだからね」

 そう言いながら誠は苦笑いした。

「僕なんてさ、クールダウンと称して家帰ってから五十球は投げさせられた。もちろんダメ出し付き」

「……決勝投げられなくなったらどうしてくれたんだかな」

 半ば呆れながら遼太が言った。

「野球バカなんだよ、ウザいくらいね。でも、夏奈子……彼女も篤の事理解してるんだ」

 そう、全てを。そんな篤の何もかもをひっくるめて好きだ、と夏奈子は言っていた。

 何もかも、自分の良い所も悪い所も理解し、包み込む。そんな相手に出会う確率など、どれほどのものなのだろう。自分には現れるのだろうか。

 どうして篤ばかり。誠が微かに唇を噛んだ時だった。

「なんか、あの兄貴さ……」

 不意に思い出したように話し始めた遼太がキシシと笑う。

「‘アノテのこと’には奥手な感じに見えるんだけどよ。ちゃんとやる事やってんのかね」

 はい? と、誠の中が一瞬真っ白になった。

 あのてのこと。

 その一言から諸々の妄想が一気に噴き出した。誠の心拍数が急激に上る。

「さ……さぁ……篤は昔から硬派だから……そういう話は一切しない……し……」

 しどろもどろに答える誠の中で、激しく脈打つ鼓動が止まらない。ちょっと待て、とフル回転の脳内思考が加速する。考えた事も無かったのだ。篤が夏奈子に……いや……夏奈子が篤に……等々。

 夏奈子の、篤と一緒にいる時の笑顔が、誠には未だに直視出来なかった。十年越しの想いをやっと実らせた夏奈子。今彼女の全ては篤に向けられている。全身でその幸せを表現しているようだった。それが誠には辛かった。だから、それ以上の事など考えた事も無く――いや、そこに至る思考を無意識にシャットアウトしていたのだ。

 茫然とする誠の顔から、初めて直面した事実にたった今ショックを受けた事を察した遼太が飽きれ顔で彼の肩を叩いた。

「誠くん。思春期のお目覚めには遅すぎです」



 屋上から階下への階段を下りて行きながら遼太が誠に聞いた。

「誠はもう野球は続けねーの?」

「うん、もうやらない」

 元はと言えば、篤に張り合う為に始めたような野球だ。本当に好きかどうかも分からないものをこの先続けていく自信はない。

「誠……弁護士目指すんだっけ?」

「んー、そのつもりー」

 そうすれば、祖父との間にも、母との間にも、摩擦が生じないから。面倒な事も起こらないだろうから。

「遼太は上に行っても頑張って神宮でやってよ」

「もち。俺にはそれしかねーし」

 四、五段飛ばして踊り場に飛び降りた遼太は誠を見上げ、クシャッと笑った。

いいよな、遼太は……と誠は思う。

 日に焼けた精悍な顔立ちの中で、笑うと白い歯を覗かせる遼太。真っ直ぐ前を見据えた強い瞳。ピッチャーというポジション柄、注目されたのは誠だったが、甲子園という大舞台で、いかんなく持てる力を発揮したのは遼太だった。

 遼太がキャッチャーだったから自分はあのマウンドに立てた。本当は、自分はそんなに強い人間じゃない。誠の中にあるのは、遼太という無二の友人に対する 信頼と羨望。

 踊り場から見上げる遼太は、その爽やかな笑顔のまま誠に話しかけた。

「俺は……お前とバッテリーを組めて光栄に思うよ」

 え? と、目を丸くした誠に遼太は照れくさそうに頭を掻いた。

「緒方誠の最後の恋女房だからな。お前は自分が思っているより凄くいいピッチャーだったと俺は思ってるよ」

 目頭が、と、ぎゅっと目を閉じ、片手で目頭を押さえた誠に遼太はクッと笑った。

「泣くなって」

 ニヤつく遼太の顔が誠の視界に映り込む。

「泣かないよっ」

 ハハハッと笑った遼太は踊り場の窓から外を見、そのまま固まった。

「あのさ、誠」

 遼太は窓の外に視線を向けたまま、誠に話しかけた。

「ん?」

 誠も、なにかな、と外に目をやった。

「不破とはあんま関わらねー方がいいぞ」

 窓から見えたのは――正門前に停まった黒塗りのスポーツカーの中で運転席に座る茶髪の男とキスをし、車から降りてくる美莉の姿だった。



 誠の通う高校は、都内にある私立大学附属高校。三年生でも成績にさほど問題がなければ受験の苦労はない。しかし、部活引退後の、誠の放課後の日課は図書館での勉強だった。大抵は、学校近くの市立図書館に立ち寄る。

 本質的に、誠は体育会系ではなく、静かな環境を好むタイプだ。静寂の中。空調の音。乾いた空間に響く足音。全てがその風景と同化し、気持ちを沈め雑念を飛ばしてくれる。家よりもずっと落ち着くここが、彼は好きだった。

 一頻り問題集や参考書とにらめっこをし、ふと顔を上げた誠の視線は絵画関連の本が並ぶコーナーへ移った。机の上に拡げた参考書類をそのままにして立ち上がった彼はそのコーナーの前へゆっくりと歩いて行き、端から眺めていった。

 ルノアール、ドガ、モネ……ゴッホ。絵に馴染みのない者でもその名だけは耳にした事かある、そんな画家の名が並ぶ洋画コーナーの隣に、日本画のスペースがあった。

 知らない名前ばかりだったが、誠は画集を幾つか手にしてみた。

 風景、植物、動物……。淡く柔らかな色に繊細な線使い。心に優しく温かいものが浸透する印象のものが多かった。

 絵を見てゆく誠の脳裏にあの絵を描いた彼女の姿が浮かんだ。彼女は、他にどんな絵を描くのだろうか。どうやって描くのだろうか――誠の想像が膨らんだ。

他のは……と再び棚に目を走らせた誠は、平山郁夫、という名を見つけた。ああ、この人は名前だけならと、その背表紙の隣の名前を見た時、誠の胸がドキリと跳ねた。

 不破楷山、という名が並んでいた。あの、彼女と同じ苗字。

 誠は恐る恐る手を伸ばし、その画家の画集を手に取った。表紙を開くと、見開き部分に簡単な略歴が書かれており‘ふわかいざん’と平仮名で書かれた読み名に続き、東京芸術大学美術学部准教授という肩書が綴られ、近年は作品の発表がない、という記述で締められていた。

 ページをめくるとその先には、一度観たら忘れられない、そんな絵が溢れていた。

 他では観られなかった強烈な個性の放出。その独特な色も構図も、観る者を惹きつけてやまない魔力のような魅力を放っていた。殆どが風景画だったが、一点だけ、裸婦画があった。そのタイトルに誠の目が釘付けになった。


 みり


 平仮名たった二文字の、裸婦画のタイトル。トクントクンと脈打つ鼓動が次第に早くなる。誠はまるで何か、いけないものを覗き見してしまったような緊張と不思議な高揚感に呑み込まれてゆくのを感じていた。静かな館内に響き渡ってしまいそうな自らの脈動を、深呼吸で整えた。

 立ち膝の後ろ姿に、見返る姿勢。表情までは分からないが……通った鼻筋が印象的だった。細かい編み目まで繊細に描き切ったレースのショールが腰元を覆う。薄暗い色合いの背景が、肌の白さを妖しげに演出していた。

 血流が、ダム決壊直後の激流となったような感覚に誠は目を閉じ、そっと画集を閉じた。

 誠の脳裏を駆け巡るのは、憶測と推測。

 この絵の女性は、彼女か。

 この絵を描いた不破楷山とは、彼女の父か――。



 爽やかな秋風が窓から吹き込む、日曜日の穏やかな朝。磨き抜かれたフローリングが艶を放つ広いリビングでは、大きな窓に掛けられた白いレースのカーテンがゆらゆらと揺れていた。

 心地よい朝の陽射し溢れるリビングに、あくびをしながら入って来た誠はソファーに腰を下ろした。壁時計を見、ボンヤリと考える。ひと月くらい前は部活で汗を流している時間だった。

 今時期は、世の中の高校三年生は予備校通いで受験対策に本腰を入れる頃だ。付属高校で受験とは無縁の、誠の野球部仲間達は皆、週末は夏の間練習に明け暮れた為ほったらかしにしていた彼女孝行に時間を費やす。誠の相棒、遼太も例に漏れず、今日は彼女と映画デートと言っていた。相棒に思いを馳せながら、はあ、とため息をついた誠はリモコンを手に取りテレビを点けた。

 休みの日はいつも、朝早くから篤はランニングとトレーニングに出掛けてしまう。出たら軽く二時間は戻らない。今日は他の家族もそれぞれ所用で外出。今この家は誠一人だった。

 観るでもなく聞くでもなく、テレビを眺めていた誠だったが、開け放たれた窓から吹き込んだ秋風に煽られたカーテンに、ふと視線が行った。次の瞬間、誠は目を見開いた。

 リビングの窓からは、道路に面した門から玄関へと続くレンガ敷きのプロムナードが見える。そこに、こちらへ向かって歩いて来る女性の姿があった。庭で咲き誇るコスモスに目を細め、歩く彼女は、朝の柔らかな陽光を浴び、光り輝いているように誠には見えた。

 ピンポーン、とインターホンが鳴った。誠は一瞬躊躇いながらも、玄関に飛んで行った。



「うん、いないのは知ってる。篤が家で待ってろ、って」

 これはある意味、拷問だ。

 ニコニコと健康的な眩しい笑顔を見せる木原夏奈子をリビングに通した誠は軽い眩暈を覚えると同時に、胸の中にムカムカと黒い何かが湧いてくるのを感じていた

 何が「家で待ってろ」だ。バカ篤! 天然も大概にしとけよ!

 くーっ! と唸りたい気持ちを押さえ、冷蔵庫から缶コーヒーを出した誠は夏奈子に渡し、ソファーを勧めた。

「ありがとね」

 まるで後光が射しているかのように眩しい笑顔に、誠は立ち眩みしそうになった。

 ショートカットのヘアスタイルは細い首筋を常に露にしている。中学からやっているソフトボールを、大学に入った今でも続ける夏奈子。小麦色の肌がとても健康的で、誠は彼女のそんなところもたまらなく好きだった。

 窓からの心地よい秋風に目を細める夏奈子を見て、どうしても聞いてみたい事が誠の頭にもたげてきた。形の良い小さな唇を盗み見る。それは、全部篤のもの。

「夏奈子、ちょっと変な事……聞いてもいいかな」

 何聞こうとしてる? と、突如として胸中に現れたもう一人の自分が冷静に問いかけるのを誠は聞いた。

「なぁに、まこ?」

 二重瞼で黒目がちの大きな目が素直にこちらを見、質問を待っていた。

「あの……さ……篤と何処まで……?」

 自分は何故こんな事を聞きたいのだろう、それは気になるからに決まっているじゃないか、と、誠の内に存在する、相反する感情がせめぎ合い、自問自答する。

 突然、予想もしていなかった質問をされた当の夏奈子は、

「まこのバカ!」

 という一言と共に一気に顔を赤らめてうつ向いた。少なくとも篤とは違い勘が良い彼女は、誠が聞かんとする内容を即座に察したのだろう。

 大学生にもなってこんな事聞いたくらいで――誠の中に、沸々と良からぬ感情が湧き上がる。そのウブさ加減が篤と大して変わらない、という事にも無性に腹が立った。

 奪ったら篤はどんな気持ちになるかな。

 後になって思えば、その行為が夏奈子を、大好きな彼女を深く傷つける行為だと、どうして思うに至らなかったのか。

「夏奈子!」

 誠は、ソファーに座りうつ向いたままの夏奈子の腕を掴むと、彼女が驚いて顔を上げた瞬間、その唇にキスをした。誠を慌てて押し退けた夏奈子は声を上げる。

「まこっ? やめ……きゃあっ」

 誠は夏菜子をそのままソファーに押し倒した。そして抗う彼女の両手をその頭の上に片手で押さえつけ、ブラウスに手を掛けた。

「いやっ!」

 夏菜子はそう叫んだと同時に、誠のみぞおちにニードロップを喰らわした。

「うっ!」

 声にならないほどの激痛に我に返った誠は押さえつけついた夏奈子の手を離した。その直後、頬に平手打ちが飛んだ。リビングに響き渡った、パアン、という乾いた音が、誠の耳にはエコーがかかったような余韻を残した。

「私、帰る。篤には……用事思い出したって言っておいて」

 そう言った夏菜子は両手で顔を拭い、そのまま出て行った。

 静かになったリビングで誠は座り込んだ。帰っていく夏奈子の背中も見られなかった。

 元来、気の強い夏菜子は、滅多な事は涙を見せない。その彼女の涙を今日、誠は久しぶりに見てしまった。

 夏菜子を泣かせてしまった。

 呑み込まれてしまいそうなくらいに大きな波となった後悔。呆然とした誠はソファーの背もたれに寄りかかった。

 誠が大きなため息をついた時だった。頭を掻きながら眠そうな顔をした長兄の忍がリビングに現れた。ぎょっとした誠は上擦った声を上げる。

「に、兄さん! いたのか!」

「ああ」と平然と答えた忍はキッチンへ行き、冷蔵庫からガラスの冷茶ポットを出していた。愕然とした表情で身じろぎもせずみつめる誠に気付いた彼は、グラスに冷茶を注ぎながらニヤッと笑った。

「俺なら確実に仕留められるな」

 仕留める、という言葉に込められた意味をあれこれと考えた誠は、どんな鬼畜だ、と心の中で吐き捨てた。同時に、一部始終黙って聞いていた兄に対し、悪趣味だ、と恨めしく思った。

 市内にある全寮制の医科大に通う忍は、土日だけ家に戻る。彼が昨夜遅くに帰って来ていた事を、誠はすっかり忘れていたのだ。

 忍はグラスを片手にダイニングテーブルに新聞を拡げ、それに目を通し始めていた。スラリとした長身で、誠を大人にしたような容姿だが、決定的な違いがあった。それは大人の男が持つ色香、芳香。単純単細胞の篤よりもずっとタチの悪い、隙のない侮れない兄だった。

 忍は、何か言いたそうな顔をしている誠に一瞥くれるとクククと喉の奥で笑い、口を開いた。

「かなちゃんは黙ってヤラれるようなタイプじゃないと分かってたし、お前にはあそこで強引に押し切れるほどの度胸はないと思ったから止めに入る気はサラサラなかったよ」

 誠はガックリと肩を落とす。そんな彼に追い討ちをかける言葉を、忍は浴びせた。

「自分に気の無いと分かりきってる女を強引に堕とすにはな、キス一つで昇天させるくらいのテクがいるんだよ。相手がヴァージンなら尚更だ」

 なんとも言えない惨めな感情に情けなさが加わり、誠に襲いかかる。

 流しにグラスを片し、キッチンからリビングへ来た忍は誠の肩を軽く叩いた。

「これはあくまでも俺の推測だが、篤はまだかなちゃんにキスすらしてないと思うね。だとしたら、お前重罪だな」

 クックと肩を震わせて笑いながらリビングを出ていく兄の背中を見、誠の胸はどうしようもない後悔の気持ちで一杯になっていた。

 玄関から「アレ、夏奈子は?」と忍に聞く篤の能天気な声に、「何か用を思い出したそうだ」と答える忍の声が聞こえた。誠はただ、夏奈子に平手打ちをされた頬に手をあて、呆然とソファーに座り込んでいた――。



 その日の夕方、誠は自室で、自分がずっと愛用してきたキャメル色のグラブを右手に嵌めた。感触を確かめるように左拳で数回叩いた。

 暫し続けていた動作をふと止めた誠は、握っていた左拳を開き、その手で左頬をそっと摩った。ニードロップをお見舞いされたみぞおちはマッハで痛覚を刺激したのに、平手打ちをされた頬はじわじわと熱を帯び、後になってじんじんと痛み出した。その痛みは半日たった今でも消えない。

 傷ついた夏奈子の心の苦痛とリンクする痛み。誠が背負うべき罰。熱を帯びた頬の疼痛は心の奥底まで侵食するようだった。

 自分はいつからこんなにひねくれてしまったんだろう。本当は真っ直ぐに突き進むような、そんな気持ちを持ちたかったのに。

 頬を押さえ、考えを巡らしていた誠は、そうだ、と思う。

 年が近く、生まれた時からずっと傍にいた篤は、いつしか誠にとってライバルとなっていた。幼い頃から互いに負けじと様々な事を張りあってきたが、次第にその関係は変化していった。

 自分とは真逆の、何事にも前向きでいつだってどんな事にも体当たりでぶつかっていく兄。そんな、不器用なまでの兄の姿に誠はいつしか対抗心を超えた苛立ちに似たものを覚えるようになっていた。

 そんな感情は、想い人であった夏菜子が好きなのは篤だ、という事実を知っていまった中学生の時、決定的なものとなった。

 誠はグラブと一緒に置いてあった硬球を左手で握った。縫い目に指を這わせ、握りを確認した。思えば、無心に白球を追いかけた記憶はない。

 誠は以前、忍に怒鳴られた事があった。

「篤への当て付けでやっている野球なんてやめろ!」と。

 父も母も、祖父すらも気付かなかった自分の心。兄は完璧に見透かしていた。

 その厳しい言葉が放たれたのは、篤が予選で早々に負け、誠は決勝まで行った昨年の夏。

 篤は必死にやってその程度。僕はそんなにがむしゃらにやってない。センスがあるのは僕の方だね。

 そんな邪な心を抱いて優越感に浸る、篤を見下す心、必死に隠していたつもりだったが忍にはお見通しだったのだ。

「だから兄さんは、苦手なんだ……」

 誠は小さく呟いていた。



 明日の晴れを予感させる茜色に染まる空を見ながら誠は庭に出た。

 緒方家の、屋敷の広い中庭には野球少年だった二人の息子の為に作られた簡素なブルペンがあった。ネットが張られ、的が作られていたが、誠が部活を引退してからそこは殆ど使われておらず、雑草に覆われ始めていた。

 プレートが嵌め込まれたマウンドに誠は立った。足元を、蹴りながら成らす。彼は右手のグラブをはめ直し、左手に握る硬球の縫い目に指を這わせた。遼太に何度も言われた言葉が誠の脳裏をかすめていく。

「左であんなにいいストレート持ってるのにな。もったいねぇな」

 グラブの中に、ストレートの握りで硬球を握った左手を入れ深呼吸。誠はそのまま、振りかぶった。右足を上げ、左腕を振り上げ、左手から離れた球はネットの的に突き刺さり、その球威を吸収され下に転がった。

 勢い余って前に出た軸足と振り下ろした腕をそのままに的を見つめる誠は、もう無理なんだ、と口の中で呟いていた。

 醜い感情をエネルギーにやってきた。虚しさしか残らないものをこの先続けていけるわけがない――誠は転がる球を拾い上げ、右手から外したグラブの中にしまった。



 

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