それぞれの横顔
日が落ち、辺りが暗くなった頃自宅に戻った誠は、昔ながらの引き戸の玄関を開けた。玄関は、八畳ほどもある広い三和土となっており、上がり框は横幅、奥行きを存分に取った檜だった。年月を重ね磨かれた檜は美しい艶を放つ。
昭和の初めに宮大工が建てたという総檜造りの豪勢なこの家は、大幅なリフォーム施工により、今では現代人向けの造りとなっている。しかし、外観にも内装にも、日本家屋特有の趣や重厚感は残していた。広い三和土はタイル張りにこそなってはいるが土間の名残を感じさせるものだった。
誠は靴を脱ぎ、上がり框に足をかけながら「ただいま」と家の中に声を掛けた。奥から、母の「お帰りなさい」という声が聞こえた。
リビングのドアを開けると、一間続きのダイニングの、カウンターキッチンの中で食器を片付ける奈緒の姿が目に入った。彼女は誠を見、言った。
「遅かったじゃないの」
「うん。今日はちょっと図書館にも寄ってきたから」
ダイニングテーブルの上には蚊帳が掛けられた夕食がと二人分用意されていた。
「母さん、篤は?」
「さあね……あの子、夕飯はどうこう、とか言わないから、いつも」
篤、と聞いた途端、声に不機嫌な色合いが滲む奈緒の声に誠は苦笑いした。
「とりあえず、着替えてくる」
「じゃあご飯よそっておくわね」
「ああ」
自室でジャージに着替えた後ダイニングに戻った誠が席に着き、テレビを観ながら食事を始めると、年子の兄、篤が帰って来た。食卓に準備されているもう一人分の食事は、篤の分だった。
玄関まで出迎えた母と篤が言い合いを始めていた。少々乱暴な母子のやり取りに、相変わらずだ、と誠は眉を潜めた。そのうちどかどかと廊下を歩く足音が聞こえ、篤が風呂場に直行する事が分かった。その足音に篤の心情が窺えた。
篤も母さんの事は適当にあしらっておきゃいいのに、と誠は苦笑する。
「あつしっ! ご飯はどうするの!」
「夏奈子と食ってきたからいらねーよっ!」
脱衣室のドアがバタンッ! と乱暴に閉まった。
――夏奈子と食ってきたから。
篤のその一言は誠をどん底に突き落とした。
誠は箸を置いた。ため息混じりにダイニングに戻ってきた奈緒は、まだブツブツ文句を言っている。
「母さん、篤はもう社会人だよ。あんまりうるさく言う事ないよ」
「でもね、高校の部活並みに洗濯物出すんだから文句の一つも言いたく……あら? 誠、もういいの?」
立ち上がり、食器を流しに片付ける誠に奈緒は声を掛けた。
「うん、僕も帰りに少し食べてきたから」
それだけ言うと、誠はダイニングを出た。
階段を登る足が重かった。
誠は、一年前の夏、失恋した。幼い頃からずっと好きだったその人の名前は、木原夏奈子。快活で聡明で、その名の通り、夏が似合う、輝く太陽のように眩しいひとだった。その彼女が選んだのは、兄の篤だったのだ。
夏奈子はずっと篤を見てきた。彼女の目には、篤しか映っていなかった。それは誠も知っていた。しかし、鈍感で女心もわからないような男など、いつかは諦めてくれるかもしれない、そう思っていた馬鹿さ加減に誠は自分の事とは言え、うんざりした。
夏奈子は誠の告白に対し、困惑とすまなさを綯い交ぜにしたような表情を浮かべ、言った。
「ごめんね」
その言葉が何よりへこんだ。
誠は自室の机に向かうとスクールバッグから勉強道具を出し参考書を開きながら宙を睨んだ。
篤になど負けたくなかった。負けてるつもりもなかった。勉強も、運動も。なんだって自分の方が上だった。身長だってとっくに抜いていた。篤が夢見て叶わなかった甲子園。市内の県立高校に行った篤と違い、都内の、文武両道の有名私立高校に通う誠は、その夢舞台の切符を掴んだ。マウンドにだって立った。
なのに。何故か、少しも勝った気がしなかった。
階下から、今度は仕事から帰った祖父の大介と言い争う篤の声が聞こえてきた。誠はため息をつく。
篤は要領が悪いのだ。いつだってそうだった。将来プロになれる訳でもないのに、祖父や母の反対押しきって彼は今、社会人野球チームに入っている。適当に親達の言う事を聞いておけば、とりあえず波風を立てる事もないのに。バカみたいだ、と誠はずっと思っていた。
階下の言い争いにはいつの間にか母も参戦し、ド派手な三世代親子喧嘩に発展していた。気が散るな、と開いていた参考書を閉じた誠は、机の引き出しからポータブル型のゲーム機を取り出し電源を入れた。
触らぬ神に何とやらだ。結局、何時だって自分は傍観者だった。二人の兄がやってきた事を見てきたから。
机に両肘を突きゲーム機を持ち、小さな画面を眺めながら漫然とボタンを操作する誠は、夕暮れの廊下で美莉が言った言葉を思い出した。
――緒方君は男兄弟の末っ子じゃない?――
彼女はやはりエスパーか?
*
ラブホテルのバスルームはさながらテーマパークのようだ。広く丸いバスにはジャグジー。周りの壁には目がチカチカしそうな装飾が施されている。
「美莉よぉ、ジャグジーに石鹸はまずかったんじゃね?」
「やっぱりー? でもナオヤ~、ちょー楽しくない? バブルバス」
泡が溢れ出して止まらないバスの中で美莉はキャハハとはしゃぐ。一緒にバスに入っていたナオヤはそんな美莉を背後から抱き締め、顔を上げ振り向いた彼女にキスをした。
紫の照明がホテルの薄暗い部屋を独特な空間に演出している。広いベッドは、どんなプレイでもどうぞ、と言っているようだった。バスから出て来た二人はベッドに身体を投げ出した。仰向けになったナオヤはタバコを手に取り火を点けながら言う。
「なぁ美莉、明日はガッコ行かねーの?」
うつ伏せで枕を抱く美莉はクスクス笑いながら言った。
「うん、行かない。明日は朝からナオヤの家でこうやって過ごすんだから」
冗談とも本気ともつかぬ美莉の言葉。彼女はいつも、掴み所のない謎めいた雰囲気に包まれていた。
「美莉は今一人暮らしなんだろ? 今度は美莉ん家でヤりてーなー」
軽い調子のナオヤの言葉に、一瞬顔をこわばらせた美莉だったが、直ぐにいつもの笑顔に戻った。うつ伏せのまま足をパタパタとさせる。
「うちはダメ~。アトリエ兼用だからね、夏の間に放置してた膠が腐っちゃってねー。もう、鼻が曲がりそうな匂いが充満してるんだよぉ」
「えー、どんなだよー!」
タバコを灰皿に押し付けたナオヤは美莉を背後から抱き寄せ、首筋にキスをした。
「……ふ……ぁ」
彼は、首を竦めた美莉の耳元に囁く。
「美莉はこんなにいい匂いするのに?」
身体の向きを変えた美莉はナオヤの首に腕を絡めてしがみついた。
「美莉?」
「肌が、いいの……」
――人肌が……。
美莉は目を閉じた。ナオヤはそんな彼女の背に腕をまわし、抱き締めると静かに呟いた。
「少し寝るか」
「……うん」
夜が、闇を呼ぶ。狭山湖畔にあるホテルは静けさの中に浮かんでいるようだった――。