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出会い

「故郷、か……」

 放課後、再び絵の前に立った誠は、小さく呟いていた。

 廊下には、西に傾き低くなった太陽の光が作る、長細い窓枠の影が映し出されていた。絵の前に立つ誠の影も、細く長く、廊下から壁に伝って伸びていた。茜色が滲む陽光は、絵の中の風景にも射し込んでいた。

 富士が望める茶畑の風景で有名なのは静岡だ。しかし、ここに描かれている場所は静岡じゃない。富士が、遠いのだ。手前に続く連山に注目していた誠は、これは秩父連山だ、と胸中で手を叩いた。誠の家からは、秩父の山々が見渡せた。 幼い頃から見てきた山の稜線は目にも記憶にもしっかりと焼き付いている。

 絵の中の連山の見当がついた誠だったが、この風景がどこから見たものなのか、は分からなかった。少し高台から望んだ風景であるようだが、見覚えはあっても、曖昧な記憶は入れた引き出しが見つからず、確かな風景として眼前に広げる事が出来なかった。

 誠は、描いた当人の故郷がここなのだろうか、と考えを巡らせた。この絵は、遥か遠くに望む富士が美しく絶大な存在感を放っている。そこに、手の届かないものに対する羨望、渇望のようなものが滲んでいるように見えた。

 故郷、茶畑、富士――。

 誠の脳裏にふっと何かが過る。それは、風のような、何か。

 匂いだ、と誠は鼻をクンと鳴らした。実際に匂いがする訳では無い。ただ、この絵から、胸の奥底に眠る記憶をくすぐる心地良い匂いがしたのだ。匂い立つものの正体が、郷愁にも似た、胸に迫る懐かしさである事に、誠は気づいた。

 腕を組み、食い入るように絵を見つめていた誠はその中に点在する屋敷林と、その合間に見えた赤い屋根のお社に、あ、と小さな声を上げた。これだ、と思う。お茶農家である本家の広大な茶畑の一角にある誠の自宅。その近くの風景が、絵の中の風景にピタリとはまった。

 うちの近くだ、きっと。だから見覚えがあったんだ、と誠は改めて絵の風景を見渡したが、やはり、どこからの風景かは分からない。こんな高台が、近くにあったかな、と考えながら今度は少し顔を近づけて、じっと見つめた。

 見れば見る程繊細な、微細に渡って丁寧に描かれた絵。筆で書かれた細い線が絵の中の対象物の骨格を形成し、色を形にして浮かび上がらせ、風景に息吹きを与えていた。

 これは、なんという絵なのだろう。どんなものに描かれているのだろう。尽きない興味に、誠がより顔を近づけた時だった。

「それはね、日本画っていうの」

 背後から突然聞こえた、ちょっとハスキーで高い女の子の声に誠は驚き振り向いた。

 濃いめのブラウンにカラーリングした、肩にかかるくらいのカールした髪。品行方正で名が通っているこの学校には珍しい、ちょっと崩れた制服の着方をした女子生徒が、壁に寄り掛かるように腕組みをして立っていた。彼女は真っ直ぐに誠を見ていた。

 ニホンガ?

 頭に、カタカナの4文字が浮かんだ誠は真っ先に思いついた事を口にしていた。

「浮世絵みたいな?」

 誠の言葉に一瞬目を丸くした彼女は直ぐに髪をかきあげる仕草をし、アハハハッと声を上げて笑い出した。

 バカにされてる? と、僅かにムッとした表情を見せた誠に気付いた彼女は拝むような恰好をし、ゴメンね、と言う。

「うん、確かに日本画といえば浮世絵、ってイメージだよね。端的に言うとね、絵の具の違いなの。油で溶いた絵の具で描く油絵。膠という糊みたいなもので溶いた絵の具で描くのが日本画、かな。もっともそんな簡単な違いだけじゃないけどね」

「そうなんだ……あ、もしかして、この絵は君の?」

 誠は絵の方を向いた。

「そ」

 短い返事。誠は改めて絵、描き主の名前を見た。固い音の無い柔らかな名。誠は、その名札をジッと見た。もっとこう……柔らかな――心の中でそう呟いていた。

「イメージと違う、とか思ったんでしょ?」

 えっ、と誠が目を丸くして彼女を振り向くと、してやったりの顔がそこにあった。エスパーか? などと、ありもしない事を考えてしまった誠は身構えた。

 クスクスと笑う彼女は、薄化粧をした、大人びた雰囲気。だが、その笑顔にはあどけなさも滲んでみえた。

 制服のブラウスは第3ボタンまで開いている。緩く――少しばかり悪い言い方をすればだらしなく――締めたリボンはまるで首に引っ掛けているかのよう。確実に、今まで誠のまわりにはいなかったタイプだった。この学校にこんな生徒がいた事に僅かながら衝撃を受けつつも、胸の中に不思議な感情が湧いてきている事に誠は気付いた。緊張の鼓動にも似た――これは、興味か?

「緒方君って、意外と天然?」

「えっ?」

 予想外の言葉に意表を突かれ、誠はたじろぐ。

「そ、そんな事言われた事はないよ。それに……僕の事知ってるの?」

 ぷ、と左手を握りしめ口に当て、上目遣いに美莉は誠を見た。

「やっぱり天然。この学校で緒方君知らない子はいないでしょ」

「あー……」

 誠は困ったように眉尻を下げた。

「それから」

 美莉はいたずらっぽく肩を竦めながら誠を見た。

「前から聞いてみたかったんだけど」

 誠は、え? と美莉の次の言葉を待った。


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