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誠と美莉

プロローグ


 茜色に染まる校舎。

 聞こえる喧騒は遠い。

 ほんのわずかなスリルは、興奮に変わる。

 互いの鼓動と微かに汗ばむ肌を感じて……。

「緒方君……ずっと、大好きだったの……」

 君の、吐息まじりの柔らかな甘い声は、僕の心をくすぐった。


 君はあの時、僕に何を言いたかったんだろう――。




風景画


    1

 それは、富士を望む風景だった。

 蒼い葉が茂る茶の木が連なる緑の畝を作る茶畑。地平線をなぞるのは美しい稜線を描く山並み。その向こうに冠雪を残す富士が見えていた。所々に点在する、薄紅色の花を咲かせる桜の木立が、季節が春である事を語り掛けていた。

 横長の、パノラマの風景画だった。優しく柔らかな色を縁取るような細く繊細な線が風景の骨格を形成している。薄墨のような淡い色彩が全体を覆う絵は、幾重にも塗り重ねられた厚ぼったい絵の具が艶を放つ油絵とは違って見えた。観る者に強烈なインパクトを与え迫る感はないが、胸に響き、心に残る、そんな絵だった。

 職員室前の壁に、東京都知事賞、という栄誉ある賞を取った作品として立派な額に納められ飾られていた風景画にはタイトルと名札が付いていた。

  私の故郷

  3―B 不破美莉

 昼休みの喧騒に包まれる校内で、緒方誠は一人、絵の前に佇んでいた。ふわみり、と読むのか。一風変わったこの名前に誠は小首を傾げた。

 制服のスラックスのポケットに両手を突っ込む、背筋の伸びた姿勢の良い立ち居姿。野球部員であった名残の、短く刈られた髪型が頭を小さく見せ、八等身近い体躯を強調していた。廊下を行き交う生徒達の中には、誠に視線を送り「緒方先輩だ」と嬉しそうに囁き合う女子生徒の姿が時折見られた。

 誠は、廊下の喧騒とは断絶された静寂の空間に立っているかの如く、暫し食い入るように絵画に見入っていた。この絵に、完全に、魅入られていた。

「ふわ……みり……」

 描いたのは、同じ学年なのに顔も浮かばない知らない生徒。その名前を口にしてみた誠は、あれ、と思った。記憶のどこかを引っ掻くような感触を覚えたのだ。

何処か覚えがあるのは……変わった名前だから? より心に残る柔らかな響きだから?

 腕を組み、その名に思考を巡らせながらも誠は絵から視線を外し、窓の外を見た。残暑の厳しかった晩夏の日差しもようやく秋の色を見せ始め、窓から射し込む光も厳しく強いものから柔らかなものへと変わっていた。

 やっと夏が終わる、と日差しを反射しながら揺れる木々の葉に誠が目を細めた時、廊下の向こうから歩いてきた、日焼けで真っ黒な顔をした男性教諭が手を挙げた。

「緒方。悪いな貴重な昼休みに」

「あ、いえ……」

「校長室で記者さん達がお待ちかねだぞ」

 その言葉に、ふぅ、とため息を漏らした誠の肩を男性教諭が叩く。

「そんな顔すんな。今や緒方誠は甲子園のスターだ!」

 そう言った男性教諭は人差し指を天井に向け突き立てた。彼は誠が三年間世話になった野球部の監督だった。

「二回戦で負け投手ですけど」

「……まあそんなのは関係ないんだ」

 関係ない? 胸中に複雑な感情が去来し、誠は苦笑を浮かべた。

 一枚板の重厚な校長室のドアが開けられその中に向かって一礼した誠が一歩足を踏み入れると。

「キャァ! 緒方君!」

 軽いノリの明るい女性記者の黄色い声に誠は固まった。南側に大きな窓がある校長室。その応接セットのソファーに女性記者が三人。声を上げたのはその中で一番の若手だったらしく、他の二人にたしなめられていた。

「失礼しました」

 すかさず、もっとも先輩格と思われる女性記者がソファーから立ち上がり頭を下げ、入口に立ったまま固まる誠に詫びた。彼女は、そそと誠の前に来ると、

「私、日京スポーツ新聞社雑誌編集部の城田と申します。今日は緒方君のお話を伺わせてもらう為に参りました。貴重なお時間、申し訳ありませんがよろしくお願いします」

 と恭しく頭を下げ、名刺を差し出した。

「あ……いえ……」

 放課後の時間を取られるよりはよっぽどいい、そんな事を考えながら誠は会釈をし、女性記者から受け取った名刺を見た。

 真っ先に‘輝け! 高校球児’という雑誌名に目がいった。女性の野球ファン向け雑誌だ。本格的な野球雑誌になど、ほとんど見向きもされないのに、と誠は苦い気持ちを噛みしめた。

自分の実力はそんなもの。投球内容を認めてもらえたわけじゃない。こんな取材を受けている事自体が、誠には恥ずかしい事に思われてならなかった。



「お前は贅沢なんだよ」

 やっと解放され教室に戻ってきた誠は真っ先に、野球部でバッテリーを組んでいた相棒の平田遼太に憂鬱な心情を吐露したが、たった一言で一蹴された。遼太は窓に寄りかかり腕を組みながら言葉を継いだ。

「お前みたいなルックスの高校球児が甲子園で一度でも勝ち投手の名乗りを上げりゃ、いやおう無しに注目されるっつぅの。俺らにしてみりゃ、イヤミにしか聞こえねーよ」

 誠に、イヤミのつもりなどなかった。本当に、心底憂鬱だったのだから。

 遼太の横に立った誠は内心でため息をついたが、取材前に観た絵の事を思い出し、そうだ! と声を上げた。同学年、いや、全学年の女子生徒をその頭にほぼ網羅している遼太なら、と誠は聞いた。

「遼太さ、B組の不破さん、って知ってる?」

 唐突な質問に面喰らったらしく、遼太は組んでいた腕を下ろして誠を見、ただでさえ大きな二重の目をさらに大きく開き、パチクリした。

「知ってるけどよ。なんで誠が突然不破の名前を?」

「ん……職員室前にさ、彼女の絵が飾られていたから、どんな人かな、って思ってさ」

「そういう事か」

 遼太はポリポリと頭を掻いた。

「誠には……あんま合わねーと思うわ」

「合わない?」

 首を傾げた誠に、遼太はそれきり彼女の話はしなかった。ちょうどその時、昼休みの終わりを告げる鐘が校舎に鳴り響いた。


   2

 始業五分前の予鈴の音を聞き、中庭で遊んでいた生徒達がぱらぱらと校舎に戻って行く様子が教室の窓から見えていた。

「みーりー、今日は珍しく朝からガッコ来てたんだよねー」

「悪い?」

「相変わらずだこと」

 日当たりの良い窓際も席で、昼休みの間中、ずっと顔も上げずスケッチブックに鉛筆を走らせていた不破美莉に、友人の工藤香織が声を掛けた。香織は窓から中庭を見下ろし、言った。

「今日は緒方君、出てこなかったみたいだね」

 美莉は、うん、とだけ答え、スケッチブックの中に描くデッサンの仕上げにかかっていた。その絵を香織がそっと覗き込む。

「緒方君だね」

 昼下がりの淡い光が射しこむ美莉のスケッチブックの中で、一人の少年が眩しい笑顔を見せていた。その表情に、描き手の想いが込められているように見えた。

「ホントに好きなんだね」

 その言葉に美莉は顔を上げ、窓の外に視線を移した。

「うん。好き。でもね、別に彼とどうなりたい、とかはない。ファンクラブにイビられたくないしね」

 冗談めかした口調で言った美莉はクスクスと笑って首を竦め、スケッチブックをめくり、新しいページを出した。

「でも美莉は一年の時から……」

「緒方君って、いっつもお腹空いてる顔してるな、って初めて見た時に思ったのがきっかけ」

「オナカ? ……は?」

 美莉は、不思議だ。彼女には時折、常人の理解を超えた言動が見られた。また理解不能ワールド突入か? と香織は美莉を見た。

「お坊ちゃんお坊ちゃんしてるくせに、妙に斜に構えてるように見えるんだ、私にはね。緒方君の事、何も知らないけど……」

 そう言いながら彼女はビシッと鉛筆を友人の目の前に立てて見せ、ウインクした。

「あれは絶対に末っ子よ!」

「はぁ」

 美莉自身、充分斜に構えた人種でしょう。そんな事を言いたげな、複雑な表情を浮かべた香織に美莉は言った。

「似てる気が、したんだよ……」

 まるで自分の心の声を聞かれたかのような美莉の言葉に、香織はドキッとした。

 美莉の目にはいつも何が見えるのだろう。肩を竦めた香織からフッと視線を切った美莉は再びスケッチブックに鉛筆を走らせ、独り言のように呟いた。

「私は小さな頃から周りの顔色ばかり伺って生きてきたから……」

――読心術には長けているのよ。

 スケッチブックに目を落としたまま美莉は、口を噤み、その一言は呑み込んだ。

「美莉……」

「ん?」

「お父さんとこから連絡は来てるの?」

 一瞬の間があった。

「ぜーんぜん。死んだって、恐らくすぐに私のとこには連絡なんて来ないね」

 カラカラと笑いながら言う美莉の声は香織に耳に、悲しいくらいに乾いて聞こえた。




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