思惑の交差は困惑の中で
夜が明けるまで続いたパーティに、彼女はついぞ顔を見せなかった。
華やかな場にはいつでも華やかな装いで現れ豪奢な振る舞いに興じ座の耳目を集めたがる女であるはずが、こと昨夜の催しにマリザヴェーラの姿はなかった。
しかしこの事実は後にコウガの口から語られたもので、当事者であったシーノには全くその記憶がない。何故なら一晩中続いたパーティはシーノの宰相就任、同時にカシの婚姻を城下に遍く知らしめるための披露宴であり、場のヒロインであった彼女にはマリザヴェーラを気にかけている余裕は露ほどもなかったためである。
女官や僕従などの下働きから国政に携わる官吏やそれを束ねる大臣に至るまでの城下に連なる者が一堂に会した宴で、カシは一同にシーノを紹介した。女官らの好奇心に満ちた眼差しや、宰相としての力量を値踏みするような官吏らの視線にシーノが萎縮する間もなく、カシは彼女の来歴や己との馴れ初めをさも事実らしく語った。王家と遠い縁戚にあたる貴族の娘であり生業は学生であったシーノと市井で偶然出会い恋に落ちた──当のシーノが唖然とするようなチャチな筋書きであるが、あまりに堂々と吐かれた嘘は真実以上に真実然として聞こえた。
「怪我をした小鳥をね、介抱してあげる姿が優しくて。それに川に落ちた子供を助けるために飛び込んだこともあったかな。……シーノも泳げないのにね」
目を細め喉を鳴らして笑う。カシが浸っているのはありもしない思い出で、あくまで架空の思い出し笑いである。シーノは王の怪演技に内心仰け反った。
「見ての通り本当に可愛らしい方だけど、可愛いだけじゃないんだよ。私の宰相は」
ちらりとシーノに視線を投げて幸せそうに笑うカシを見ていると、なんだか何が真実なのか分からなくなってくる。本当に街角で出会い頭にぶつかって恋に落ち、身分を越えたゴールインを成し遂げたような錯覚に陥りそうだ。
「彼女はまだ若い。しかし心の優しい、芯の強い、そしてとても聡い女性だ。彼女なら宰相の責務を十分に果たしてくれる」
彼女を選んだのは単純な恋愛感情だけではないよ、とカシは場に言い放つ。もちろんそれはぐるりを取り巻く官吏らに対する牽制であることがシーノには分かった。素性の知れない小娘が宰相として彼らの上に立つのだ。面白くないものも舐めてかかるものもあろう。カシはそれを分かった上で敢えて言っている。
「無責任に選んだわけではない。私の国を預けるのだからね」
やはり、美貌も度が過ぎればただの迫力である。にこりと笑ったカシに官吏らが姿勢を正し、シーノに向かって一礼した。
──夜通し続いた宴の中、気付いたことがいくつかある。
まず、カシ・ダティータはどうやら臣下に愛されている。
もちろんカシは王である。今日からこの国で一番偉いわけで、心にもない阿諛追従を言う者もあるだろうことは分かっている。そんなやつは残念ながらどこにでもいる。だが、集うほぼ全ての者が自らの主に畏怖と敬愛、信頼を感じているようにシーノには見えた。マリザヴェーラが現れなかったように、そもそもカシを疎ましく思う者は宴に参加していないという可能性はあれど、取り巻く人々からはカシへの好感情が感じられた。さほど長くは生きていなくとも、たとえ所詮学校という閉じられた世界であろうとも、シーノがこれまでに社会に交じり他人と関わって生きてきた中での「この人は好かれている」という直感である。宴の後にコウガにそう告げたところ、彼は何故か誇らしげに頷いた。
「カシ殿は名君であらせられるからな。昨日までは宰相でいらっしゃったが、優れた治世を敷かれると民の支持は厚くその手腕を慕う官吏も多い」
但し──。シーノが心に深く刻んだのはコウガが得意顔で言ったことではなく、むしろその後少し目を伏せて口にしたことのほうであった。
「ただ、どこにでも黒い腹を巧妙に隠す奸臣っていうのがいるものだ。どんな綺麗な城も一皮剥けば伏魔殿……気を付けることだな」
(確かに、コウガの言う通りなんだろうな。……色々ありそうだもの)
もうひとつ、宴の晩に気付いたことは正にこの類であった。大臣や数々の官吏──これから宰相として彼女が関わっていく主たる人物をカシが紹介してくれたが、彼らの間の派閥のようなものが垣間見えた。もっとも、わずかな時間の会話の中での雰囲気、あの人とこの人は多分仲が良くないのだろうというレベルの感覚である。しかし、シーノはこの類の直感にはそこそこ自信があった。現代を生きる──生きてきたというべきか──現役女子高生のコミュニティでは必要不可欠な能力である。
とは言え、少なくとも表面は綺麗に取り繕われた場で裏の事情までは分からない。もしかしたら役人同士の単純な権力争いだけではなく、王への忠心や複雑な利権が絡み合っているのかもしれない。王家に関して先王が亡くなった以外の情報をシーノは持たないが、王弟や叔父、従兄弟などがいるとすればそれらを推戴する勢力があるかもしれない。時代劇でありがちな御家騒動がこちらの世界で存在しないとは限らない。
「派閥が色々ありそうで、あたしなんかに上手に仕切っていけるのか不安っていう感じです」
宴が捌けた後に王の自室に招かれ感想を求められたシーノがそう告げると、カシは優雅に目を細めた。きゅっと上げた口角も上品である。
「思った通り、君は聡いね。あんな場の短い時間でよく見抜いた」
くすくすと小さな笑いを漏らしながら新王は手にしたティーカップを傾けた。かすかに喉が鳴る。少し離れたところでは相変わらずの無表情でコウガが茶を啜っていた。彼が持つのはカシと同じカップのはずであるが、華奢な取っ手を持たずにカップ全体を握っているせいかどうにも湯呑のように映る。
「お見立て通り、彼らは皆百戦錬磨の官吏だ。シーノが仕切っていくのは難しいだろうね」
「ですよねぇ……はぁ」
シーノが溜息を落とす。手にしたカップが揺れて、中の液体に映り込んだ己の姿がゆらりと揺らいだ。輪郭が歪に震える。
「気負う必要はない。突然飛び込んだ世界ですぐに官吏人心を掌握して政を取り仕切ることが出来る人間などまずいない」
シーノを宰相に任命した張本人はそう言い放つと実に爽やかな笑顔を見せた。しかし気負わずともよいと言われてももはや無理難題の類である。
宰相になって欲しいというカシの申し出に──勢いとは言え──自ら頷いたこと、即位式で王の隣に立ったこと、城を挙げた盛大なお披露目の宴で新任宰相として扱われたことの意味がどんなものであるのか、シーノは既に己の中に飲み下していた。こうして既に関わってしまったことに対して発生する責任というものは、保健委員だろうが日直だろうが宰相だろうが──異世界だろうが現代日本だろうが変わらないはずだ。
もはややらざるを得ない。とは言え百戦錬磨の官吏とやらに混じった一介の女子高生に、一体何が出来るというのだろう。途方に暮れるしかない。
「完璧を求めて君を選んだわけじゃない」
心細さは顔に出ていたのだろう。カシがシーノの頭をそっと撫でた。鳶色の眼差しはひどく優しい。絶世の色男に髪を撫でられるなど夢のようなシチュエーションであるが、ときめいている場合でないのが残念である。事実、何の素敵な感情も沸いてこない。
「政など家庭の拡大版のようなものだ。限られた財源をどのように分配し使うのか、どのようなルールを設定するのか、誰が何の役割を果たすのか──色々な事案を、構成員各々の幸福のために構成員各々が考えて決めていくという意味では家庭となんら変わりない」
「そうは言っても……家庭とはスケールが違うと思うんですけど」
「私の、王の妻として、私たちの家庭に等しいわが国の民の暮らしを守るつもりでいてくれたらいい。民は我が子で官吏は父母を手伝う年長の子だと思えば多少は気が楽だろう。子も年長になれば己の意思や意向なども主張するものだしね」
「子沢山にも程がありませんか? それ」
「違いないね。万を優に超える」
シーノのツッコミにカシは楽しそうに笑った。その向こうではコウガが無言で椅子に正座している。平常運転だ。
「心配はいらない。なにしろ王が後見人なのだからね。コウガも君を助ける。──コウガ」
「は」
「シーノの力になってくれ。同じニッポン人同士、シーノが何に困るのかコウガならば分かるだろうから」
「御意」
姿勢を正したコウガが深刻な顔で頷く。シーノを振り返り、愛想が多少不足した生真面目な表情でもう一度頷いた。
「おれに出来ることならどんなことでも力になる。あんたがカシ殿の国を豊かにするために」
──国を豊かにする。
コウガの言葉を胸の内で反芻すると、シーノは小さく頷いた。出来るかどうかはともかく、ここまで来たらやるしかない。
この未知の世界で居場所をくれたのはカシだ。それならばやっていくしかない。
「分かりました。上手く出来ないかもしれませんけど、あたし頑張ります」
「ありがとう」
シーノの表明に、王はきらびやかに笑った。
「君はこちらの世界のことが分からないから不安なんだと思う。でも、こちらの人間だって案外自分の世界のことなど分からないものだ。君なら心配いらないと私は思っているよ、シーノ」
「……とは言ってもねーえ……」
大きな机の上に乱雑に紙を広げたシーノは頭を掻いていた。数分置きに漏れてくる溜息混じりの独り言が宙に消えていく。シーノただ一人しかいないこの部屋の空気中溜息濃度はおそらくかなり高いだろう。唇を噛みさらに追加で一つ溜息を吐くと、シーノは立ち上がって大きく天に向かって伸びをした。
「どこから手を付けたらいいものか」
散らかった紙々の中には、ある程度の枚数を重ねあわせ糸のようなもので縫い合わせるように留めた冊子状のものがいくつか混じっている。そのうちの一冊が紙の山の上で広げられていた。冊子には短い単語が箇条書きに書き連ねられていて、よく見ればずらりと並んだ文字の下に別の文字が几帳面に並び、さらにその下にやや乱雑に書かれた日本語が綴られている。一番下の文字を書いたのはシーノ自身であるにも関わらず、時折字が汚すぎて読めないのが悲しい。
シーノがまず突き当たった壁は言語であった。引き継ぎのために前宰相、つまりカシから仕掛り案件の書類を受け取ったはいいものの書かれていることが全く理解できない。話し言葉は何故か日本語として初めから認識出来ていたため、言葉に関しては不都合ないのだと根拠なく思っていたが果たしてそうではなかった。書き言葉に関して言えばそう甘くはないようで、英語やハングルのような故郷で見たことがある文字列ですらなく、手渡された紙に書かれているのは意味不明な記号の羅列でしかなかった。これを読んで何事かを判断するなど、第六感をフル活用しても不可能だろう。
「何とかなる。気力はいるが」
らしくない精神論とともにコウガが差し出したのが、机上に広がる冊子である。彼がこちらの世界に来て数年、カシの側近くに仕えながら作り溜めたいわゆるお手製辞書であった。
「無論全ての言葉を網羅しているわけではないが、ある程度事は足りるはずだ」
上段に書かれた記号がこちらの文字。その下に書かれた文字がコウガ訳の日本語のはずなのだが、シーノには二段目の文字も読めなかった。時折見知った文字のような形が混じっているので最上段よりも馴染み深いものの、理解に至らない。草書体が流麗すぎるのかそれともコウガの使う文字と現代日本文字とが実は異なるのかは不明だが、事実としてこれでは辞書の意味がない。よって、作成者であるコウガに教えを請いつつ訳の訳──下段の走り書きを埋めることでどうにか辞書の体を整えたのであった。
数冊にも及ぶこの辞書を片手に都度溜息を吐きながら、シーノは受け取った書類の解読に掛かっていた。時は夜中。宰相としての初出仕が数日後ということを考えると、時間はまったく足りなかった。
「あいつ、涼しい顔して意外とやるよね……」
あちこちが破れかけた辞書を捲りながらシーノは再び溜息混じりにぼやいた。受け取った段階でボロボロだった辞書には訳が追記された箇所が点在し、幾度も捲った跡が残っている。実際にカシから受け取った書類を見せればコウガには大体それが読めるようだったが、こんな辞書が必要な段階から文章が読める──それも子供向けの草紙ではなく曲がりなりにも政治文書が読めるようになるまでには、一方ならぬ苦労があったであろう。辞書の状態からもそれは十分に伝わってくる。
「……よし」
もう一度大きく伸びると、シーノは椅子に腰掛けた。あと一部読んでから寝よう。同じ──中世日本人に出来るのならば現代日本人だって出来るはずだ。DNAは似たようなものだろう。
幸い文法は英語や漢文に似ていて、ある程度頻出単語を覚えれば確かに気力で乗り切れる──かもしれない。若干希望的観測寄りではあるが、多少は希望を持たねば気力も沸かない。こちらに来たときに持っていた鞄の中に入っていた愛用のペンケースからボールペンを取り出し、握り締める。
そして──。
「……?」
机に向かおうとした矢先微かな物音が聞こえた気がし、シーノは動きを止めた。今は真夜中である。窓の外では円く黄色い月が燦然と輝き青白い光で闇をごくわずかに薄めている、そんな時間帯だ。もちろん己は鋭意活動中であり、他にも夜中に起きている人間がいないとは限らない。もしくは夜中にふと目が覚めてお手洗いに行きたくなることもあるだろう。そんなことは分かっている。分かっているが時間が時間なだけに、怖い。
(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空──)
心の中で般若心経を唱えながらシーノは背筋を伸ばした。幼い頃から祖母と一緒に毎朝毎夕仏壇の前で手を合わせて経を唱えていた影響だろうか、怖いことがあると経を唱える癖がある。
──キィ……
内心の般若心経に合いの手を入れるかのように、金属が擦れ合い軋むような音がごくかすかに聞こえた。音は遠く、気のせいだと言えなくもない程度に小さい。夜陰の静けさに乗じ忍び寄った音はシーノの耳の奥で奇妙に響いた。
薄手でありながらいかにも上質なカーテンの端をそっとめくると、大きな窓から外が見える。シーノに与えられた居室は城の裏手に位置するようで、こんもりとした木々が織り成す森のような裏庭が眼下に広がっている。見下ろす高さから勘案するとおそらくここは三階あたりで、ぐるりを囲む城壁はシーノの目線よりわずかに低い。
城の正面側にならば今この時間にも焚かれているはずの篝火も、こちら裏手側には見当たらない。柔らかな月明かりだけが辛うじて灯りとしての役割を果たす。目を凝らしても木々を彩るはずの花実の色は分からないが、時折の風にざわめく梢の輪郭は辿れる程度に。
正面側にある庭園と比べると手入れははるかに甘いが、かといって荒廃しているわけでもない裏庭を少しの間眺め、シーノはめくっていたカーテンを戻そうとした。そしてその瞬間、一瞬の違和感が視界と脳裏を掠めた。
「……?」
再びカーテンをめくる。おそらくはしんと静まり返った世界が玻璃の向こう側に広がっている。おぼろげに揺れる木々の間を蛍火が縫う。かすかな、そしてさやかな柔らかい光が照らす鮮やかな赤い──。
(──赤? なに?あれ)
ガラスに掌と額を付けシーノは闇に目を凝らした。ほんの短い間に過ぎった何かは茫洋と広がる雑木と宵闇の中に紛れ、すでにどこにも見えない。気のせいであったのだと、もしも誰かに言われれば飲み下してしまうだろうほどに、見えたものの痕跡はどこにもなかった。
時間にしたら一呼吸分ほど。シーノはいくばくか逡巡し、大窓にくるりと背を向けた。形状は大層シンプルながら却って落ち着かないほどに上質な生地のワンピースの裾を足で大袈裟に捌きながら、半ば勢いで扉に手を掛ける。やや建付けの悪い実家の扉とは違い、重そうな扉は音もなく外側に開いた。左右に長く伸びる廊下の壁には等間隔でランタンが取り付けられているが、その仄暗く揺れる橙色の光はどこかホラー映画の演出を思わせる。それともそれは真夜中、終わりが見えぬほど長い無人の廊下というシチュエーションのためだったろうか。
無意識に生唾を飲み下しシーノは廊下に一歩を踏み出した。ベルベット調の絨毯が薄く敷かれた足下は案外柔らかく、硬い足音が響かない事実は踏み出すもう一歩にわずかな安堵を添える。衣擦れの音を連れてシーノは廊下を真っ直ぐに歩き出した。そっと閉めた扉を背に左へ。日が昇る方向──故郷の概念で言えば東へ、ひたすら進む。壁の上に居並ぶ灯りが生み出す影法師がひょこひょこと後を追うように揺れている。後ろを振り返る気がしないのはホラーテイストな背景のせいで、それでも引き返すことなく突き進めるのはまだこの世界が非日常寄りだからなのだろうか。
(──色不異空。空不異色。色即是空。空即是色)
再び心の中で般若心経を呟きながらシーノは僅かに足を速めた。歩き続けた廊下の果ては右へ折れさらに通路が伸びており、その手前に他よりもやや小作りな扉があった。扉の上部にはひどく小さな嵌め殺しの窓が付いていて、その玻璃を透かしてほんのりとした月明かりが見える。
近づくとその扉は居室のものとは少し材質が異なることが分かった。触れればそれはどうやら金属製のようで、ぴりりと痺れるような冷たさがごくわずか指先に走る。そして廊下に散在する他の扉とはもう一つ違い、こちら側つまりシーノの立つ廊下側から閂が下されていた。頑丈そうな閂は、しかしきちんと手入れされているのかシーノの力でも滑らかに持ち上げることが出来る。派手な音が立たぬようそっと閂を外し肩で扉を押してみると、蝶番はかすかに軋みながらゆっくりと回転した。土や草、木々や花などといった外部空間の匂いが少し開いた扉からふわりと鼻腔に届き、春の夜の柔らかな空気がシーノの髪を撫でた。
扉の外側は人が一人二人立てる程度のごく小さなバルコニー状になっていて、片側には下方に向かう階段が伸びていた。幅はかなり狭いが壁も蹴込みもしっかりとした石造りで、故郷で言う屋外非常階段のような怖さはない。シーノはワンピースの裾が踏み板部分に触れぬようほんの少しだけスカートをたくし上げると階段を降り始めた。豪奢なドレスでもなければベルベットが敷かれた中央階段でもないが、この動作はシンデレラか何かにでもなった気分になれる。現代日本の女子高生にとってはあまり経験のない仕草ではある。
当然ガラスではない靴が地面に触れると、眼前には先ほど部屋から眺めた裏庭が広がっていた。宵闇の風景は現代日本都市とは異なり、電灯やネオンに彩られていない。背後の城の窓から光源が漏れなくはなかったが、ランタンや蝋燭がもたらす灯りは月明かりと同様に頼りない。一歩を踏み出せば柔らかい草の感触が足裏から伝わる。シーノは城のぐるりを囲む森へと歩を進めた。先刻何かを見たかもしれない方角へ恐る恐る踏み出す。
正直なところ、真夜中に一人きりで知りもしない森に立ち入るのは中々に勇気がいった。都会育ちのシーノはそもそも山林の類に慣れていない。人気のない山の中──山ではなくあくまで城の敷地付近ではあるのだが──思い出すのはテレビや新聞のニュースである。変質者に殺されて埋められる、誘拐された挙句殺され山に捨てられる、云々。ブルーシートと紺色の制服を着けた警察官が脳裏に浮かぶ。それでもなお、見たかどうかも分からない何かが気になってふらふらとここまでやってきてしまったのは──性分であろう。気になったら最後、どうしても気になるのである。その性質が学問に向いていたら東大でもハーバードでも行けるものを、というのは祖母の言である。
ええい。ままよ。
一旦死んだ身と思えば怖いものはない。シーノは一人頷くと森に一歩を踏み込んだ。そもそも確かめようとしているものに命を賭す価値があるかも分からない状況下、非常に向こう見ずかつ無意味かもしれない行動ではあるのだが、ノリと勢いと好奇心は恐怖に打ち勝った。ひょっとすればファンタジーじみた異世界のこと、見たこともない生物の一体も出てくるかもしれない。
高低さまざまな木々が織り成す森の足下は腐葉土状に柔らかく、雨後のような匂いがした。あまり草木に造詣はなく名前や種類など分からないがどれも故郷にありそうな植物ばかりで、特別奇妙なものは生えていないようだった。シーノは辺りを見回しながら数歩を踏み込み、そしてすぐに立ち止まる。
「……いくらなんでも、無理か」
ひとりごちて嘆息する。ようやく気付いたことに、森の中が暗いのだ。懐中電灯はないとしても、灯りの一つもなければ探索は不可能であろう。勢いひとつで飛び出したため、灯りはおろか何一つ持って来ていない。ハンカチやヘアゴムの類の特にこの場では役に立たなさそうな代物ですら手元にはない。
気にはなる。
気にはなるが、節くれた根や蔓が見え隠れし四方八方に枝が伸びる森の中を灯りなしで探索するのは、許せる無鉄砲の上限を超える。そもそもこれでは「探索」にならないことにシーノはようやく気が付いた。
もののついでにもう一つため息を吐くと、シーノはくるりと反転した。諦めて部屋に帰ろう。そしてもう寝よう。ほぼ入り込んでいないので当然ではあるが、森からはすぐに出られた。花の姿のない花壇がいくつか並ぶすぐ向こうに城がある。月に照らされた城はこうして見上げるととても大きい。大きな建物ならば故郷にもたくさんあったが、ショッピングモールや学校、総合病院などとは違い、月に照らされた姿はひどく荘厳に見える。
これが、このフィルヴィという国を治める王がいる場所なのだ。そして、それを助ける宰相とが。
シーノは唇を引き結び、短くはない間この城を見上げていた。
だから背後の気配には、その声を聞いてやっと気が付いた。
「この城の簒奪でも夢見ておられるか?」
刺すような、とは少し違う。迸らない代わりにじわじわと滲み出るような敵意が多分に含まれた声。否、敵意というよりもこれは──揶揄だろうか。散りばめた悪意ゆえか、その声色はなお華やかであった。
「のう……宰相閣下殿」
振り向けばその声音に違わぬ印象の女が立っていた。組んだ両腕の上に乗る大ぶりな胸はドレスからこぼれそうで、現代日本とこちらで人間(女)のカテゴリーが異なるとでも考えたくなる圧倒的存在感である。シーノは思わず己のまな板を見下ろした。つま先がばっちり見える。
シーノの視線がちらりと下に向いた理由が己の胸部にあるとは思わなかったのだろう、女──マリザヴェールは大きな目を大仰に瞬かせ紅い唇を歪ませた。
「おや、図星かえ」
「え? あ、いや、別にあたしはそういうのは特に。大変そうだし。掃除とか」
「──掃除とな。意に染まぬ者の排斥も容易い立場におろうに」
掃除機とかないですよねここは──などと続ける前にマリザヴェールが吐き捨てるように言葉を割り入れた。他意は全くなかったのだが、どうやら政治的拡大解釈をされてしまったらしい。ワイドショーを賑わす政治家の失言も実態はこんなものなのかもしれないと、シーノは一人得心した。発言など受け手次第でどうとでもなってしまう。よもやこんな異世界で歴代首相や大臣に共感する日がくるとは、人生は分からないものである。
「そういうつもりでは──」
「逆に寝首を掻かれませぬよう、ご用心たもれ」
「いや、あの……」
目を細めた妖艶な笑みは明らかにシーノを小馬鹿にした笑みである。ここにコウガでもいればまた一触即発の臨戦状態にでもなるのかもしれないが、いかに見下されようともその根拠が過剰な妄想であり、シーノとしては腹よりも困惑が先に立つ。
「こんな夜更けに出歩くなど、腹に一物あると勘繰られても已む無いゆえ」
それはお互い様だと突っ込む間もなく、マリザヴェールはシーノを追い越し城へと歩き出した。手に下げたランタンが照らす真紅のロングドレスがこの裏庭に似つかわしくなく鮮やかに揺れ、花のない裏庭にある意味華を添えている。
(……変な人。あんなに美人なのに)
シーノは小さくため息を吐くと、彼女の後姿をぼんやりと眺めた。驚くほどくびれた腰からすらりと長く伸びた脚に続く曲線が歩みに合わせて悩ましく揺れる。密着するようにタイトなドレスは彼女に恐ろしく似合っていた。歩くたびに裾からちらりと見えるピンヒールとそこに乗る踝が美しく、女のシーノでも見惚れてしまう。なるほどこれは傾国の美女だ。
──あれほどまでに腹がどす黒い女を美しいとは世辞にも言えん。
コウガの憎々しげな声がふと耳朶に蘇る。シーノらへの敵意やそれを隠す気もない気性の荒さ、先王との関係、そして彼女を斥けようとした現王の態度を考えれば、腹黒いかはさておき一筋縄ではいかない女性であることは間違いないだろう。もう少し言えば、可愛いではなく冷たい美形であるだけに凄みがある。
あたし、本当にやっていけるのかしら。
今度は深々とため息を吐きシーノは空を見上げた。月は無言で闇を彩り、フィルヴィの城を照らしていた。