第一章 それはこの世のことならず
それは遡ること十数時間。
椎野杏子は途方に暮れていた。理由は単純明快だった。
――自分を取り巻いている全てが分からない。それだけのことではある。
記憶喪失になった記憶はない。記憶喪失になった記憶というのはそれとも、あるはずがない記憶なのだろうか。椎野杏子は眉を顰めた。
否、記憶の有無は問題ではない。現実として、目の前にあるものが理不尽であるということが唯一にして最大の問題であろう。風景そのものはひどく和やかに、彼女のふくらはぎほどまで伸びた青々とした草が視界一面に広がり、風にそよそよと揺れている。日差しは円やかに降り注ぎ、鳥の囀りは春の訪れを告げるように軽い。
「うーん……」
風景としては悪くない。辺りを取り囲むように生えた樹木には薄桃色の花が開いている。風が吹くと柔らかく揺れる梢から、はらはらと舞い散る花弁が美しい。花弁の一枚が、肩甲骨あたりまで真っ直ぐに伸びた彼女の髪に落ち、黒い中に彩りを作る。
「あたし、……学校にいたと思うんだけど……」
そうだ。学校にいた。少なくともこんな絵画のような風景の中にはいなかったはずだ。
六限目は古典の授業で、先生が読み上げる漢文はいつも通り眠気を誘発して、でも何とか授業は終わって、今日はバイトの日だから早く学校を出ようと思って、鞄を掴んで教室を出て、下駄箱へ向かって――それで。
「それで……あたし……」
それはあまりにも日常だった。日常でしかなかった行動を記憶に蘇らせるのは難しい。ありふれた日常の光景に、それでもひとつ、特筆事項があったことを椎野杏子は思い出す。
「階段から、落ちたような」
彼女が通う高校の二年三組の教室は校舎の三階にあった。下駄箱は一階にある。だから下校するためには階下に降りねばならない。小走りで駆け下りようとした階段の最上段が、おそらく濡れていた。そうだ、足を滑らせたのだった。椎野杏子はスリッパの裏がつるりと滑った感触を遅ればせながら思い出した。
滑って、前傾した身体が地面から離れて、階段にダイブするように跳んで、刹那に脳裏に浮かんだ言葉は『廊下は走るな』――昔の人が言うことはある程度正しいのだと呑気に思いながらも感覚が麻痺してきて、頭が真っ白になってきて。ここまでは思い出した。そしてその先は全く思いだせない。記憶がない。ないが、おそらく踊り場の床に頭か身体を強打したのだろう。
「……っていうことは、あたし、死んだの?」
眼前に広がる光景は、確かにそう思ってみれば天国と言えなくもない気がしてきた。もちろん天国見聞録などこの世――ここから見たらあの世かもしれないが――には存在していないので確証はないが、穏やかに頬を打つ風は確かに心地良い。
階段から落ちて死ぬなんて。間抜けすぎて親も泣くわ。でも、痛いって思う間もなく死んだならちょっとラッキーかも。あぁでも、あたしまだ十六歳なのに。やりたいこといっぱいあったのに。天国行ったら短かった人生取り返せるかなぁ。
はたと、椎野杏子は肩に掛けたままになっていた鞄を開けて財布を取り出した。財布の中身はあまりない。千円札が三枚と、小銭が少し。あとはポイントカードとかレシート、学生証。小銭の内訳は十円玉が二枚と一円玉が一枚、百円玉が二枚。
「六文銭って、硬貨六枚だったわよね。足りないじゃない。千円札でもいいのかな」
祖父が亡くなった時に祖母が教えてくれたのを思い出す。人が亡くなったときは三途の川の渡し賃として棺にお金を入れるのだと。硬貨六枚だから六文銭と言うのだと言っていた。足りない場合はまけてくれるのだろうか。三途の川の渡し賃ということはそもそも渡し船に乗れないのか、行き先の融通が利かなくなるのか、どっちだ。
椎野杏子はポケットを漁ってみたが、出てくるのはガムの包み紙だの丸まったレシートだのばかりで小銭の類は出てこない。空を仰いで嘆息し、彼女は財布を鞄にしまい直した。
「ないものはないんだから仕方ないよね。交渉してみるかぁ」
とはいえ、辺りを見渡しても川らしきものは一向に見当たらない。せせらぎや濁流の音というような水音も聞こえてはこない。ただ穏やかな小春日和が一面に広がっている。椎野杏子は鞄を肩に掛け直すと足元の草を掻き分け歩き出した。どこへ向かえばいいのかは分からないが、死んだなりにもある程度の道標が欲しい。誰か――同じように死んだ人なのか鬼とか仏とか天使とかそういうものなのかも分からないが、ともかく誰かに会うことが先決だ。否、死んだのだから先決もなにもなく無限の時をこれから生きる――死んでいる――のだろうか。
「わかんないや。死んだの初めてだし」
理屈を諦めたその時、背後から声がした。たぶん、さほど若くはない男の声。
「──よう姉ちゃん」
元来順応性が高く楽観的な椎野杏子だが、初めての死後の世界にはやはり気が張っていたのだろうか。言語として認識できる音声が背後から聞こえてきたことに幾分ほっとした気持ちで振り返り――言葉を失った。
声の第一印象通り、四十代と思われる男がそこには立っていた。がっしりとした肉体はひどく浅黒い。顔には無数の切り傷がある。下卑た顔つきはどう見ても堅気のサラリーマンではないだろう。
しかし、椎野杏子が目を見開いたのはそこではない。傾き者なら特段珍しくはない。そうではなく、明らかに現代日本の日常では目にすることのない装いを、彼がしているからである。肩パッドのようなものやゲートルのようなもの、手甲のようなものなど男が身につけている名称すら良く分からない全てはゲームのキャラクターか悪役レスラーの衣装でしか見たことがない。そしてそれよりも、男の手には抜き身の刀身が光を浴びて鈍く光っていた。麗らかな陽光を以ってしても跳ね返す光が鈍いのは、その身に赤黒い錆が浮いているからだ。赤黒い錆の正体は――もちろん、血液だろう。
「あ、あのぉ」
ここは天国ではなくて地獄だったのでしょうか。椎野杏子は喉元まで出かかった言葉を呑み干し、にこりと愛想笑いを作る。さしていいことはしていないけれど、そんなに邪悪な人生も送っていないつもりだ。死んでなお殺されるなんてごめんだ。
「おまえ変な格好してるな。難民か? その割にゃあ小奇麗な格好だから金はあるんだろう。有り金出せ」
何の変哲もない一般的なセーラー服ではあるが、確かにこの男のファッションを基準にしたら変な格好に該当するかもしれない。すでに着倒している感のある学校制服だが、この男のごとくあちこちに血痕らしきものが付着してはいないという意味では、美品と言えるかもしれない。基準をどこに置くか、というのは物事を判断する上で大事なことだと椎野杏子は改めて思う。あまりに突飛な現実を突き付けられると却って冷静になるものだということも。
しかしそれはさておき金はない。六文銭すら足りないのに、カツアゲされている場合ではないと椎野杏子は意を決し口を開いた。
「いや……、あたしぃ、やっぱり三途の川はちゃんと渡りたいっていうかぁ、そのー」
「あぁ? 何だ? サンズの川ぁ?」
男の目がぎらりと光った、気がした。これはもしかしたら鬼の一種で、閻魔の部下だったりして、地獄への客引きなのだろうか。椎野杏子は思わず一歩後ずさる。彼女がよろよろと後ずさった数倍の歩幅で男は前進し、彼女の腕を掴んだ。
「きゃっ」
「金がなければ作らせてやる。変な格好でも若い女は高く売れる」
「え、そ、そんなシステムなのっ!?」
地獄へ死者を送り込むとバックマージンが発生するなど、あの世というのも意外と世知辛いものだ。椎野杏子は驚愕の声を上げた。しかも年齢性別で額が変わるなど、まるで人買いではないか。
「えぇっ、嫌、いや!! 血の池なんていやぁっ」
掴まれた腕を振りほどこうと暴れてみるも、逆に男に絡め取られ引き寄せられた。首筋に当てられたひんやりとした感触の正体は容易に想像が出来、椎野杏子は身体を強張らせる。
「大人しくしねえと血の海に沈むぞ。死んでたって売りさばくことは出来るんだぜ。好事家はいっぱいいるんだからよ」
「も、もう死んでるのにっ、やめてっ」
「ワケ分かんねえこと言ってんじゃねえよ、死にたくなければさっさと――」
「──憲兵っ、こっちです!! 人買いが女の子を――!!」
「――!!」
硬直した椎野杏子の首筋に赤黒い染みのあるナイフを当てたまま、今度は男がびくりと固まる。それほど遠くない位置から届いた若い男の声に重なるように、がさがさと草を掻き分ける音が聞こえる。何かが近づいて来る。
「くそッ」
「あっ」
舌打ちをすると男は椎野杏子を突き飛ばした。悲鳴を上げて地面に転がった彼女には一瞥もくれず、新たな闖入者と反対方向へ駈け出す。武骨で大柄な割には素早い動きで、男は木々の間を縫うように走り去る。
「痛っ……なんなのよ、あれ」
肘を擦りながら椎野杏子が立ち上がった時にはもう、男の姿は視界のどこにもなかった。そして男が逃げた逆方向から近づいてきていた草を掻く音が止む。振り返ると、先ほどの男とは幾分ベクトルが違うながらも、やはり非日常的な男がそこには立っていた。
「大丈夫?」
「あ、はぁ……まぁ」
先ほどの男と比較すると、まず若い。年の頃は二十代半ばを過ぎたあたりだろう。容姿は非常に整っている。ピカピカの美形である。ただし――彼もまた堅気のサラリーマンの類ではない。鳶色の目に亜麻色の髪を持った美青年というのは映画俳優かヴィジュアルバンドメンバーのどちらかではないか。衣装もまた先ほどの男とは様相が異なるものの現代日本で普通には見かけないようなマントを羽織っている。やはり演劇関係者だろうか。
「女の子がこんな国境付近を一人でうろうろしてちゃいけない。君、フィルヴィの子かい」
「国境って……天国と地獄って独立国家だったの? あ、そうじゃなくって、その……助かりました。ありがとうございます」
青年の問いに答えないのは質問の意味が分からないからである。質問に質問で返答をする非礼に気付いたのは口を開いたその後で、さらに中年アウトローと美青年ではおそらく後者が天国関係者であり、危うく地獄に引きずりこまれるのを助けてくれたのだと見做した上でのお礼を椎野杏子は述べた。
「いや、礼には及ばない。あのような者に好き勝手されても困るのでな。しかしたまたま私が通り掛かったから良いものの、残念ながらフィルヴィもまだまだ治安は悪いのだ。君はどこから来た」
あの世に治安と言う観念があるのかと軽く瞠目しながら、椎野杏子は半ば麻痺してきた頭を回転させる。フィルヴィというのはなんだ。憲兵がどうとか言っていたが――おそらく発言自体はあの男を追い払う体の良い嘘だったのだろうが、天国に軍隊制度があるのだろうか。ありがちな発想だが、天国と地獄は交戦状態にあったりするのか。
「あたしは日本から来ました。ここはどこなんですか」
「ニホン? それはニッポンと同じものか?」
外国人のような色素を持つ青年が口にする『ニッポン』は、どこか古めかしい匂いがした。少しも似てはいないのに、世界史の教科書に載っていたペリーやフランシスコザビエルの顔が脳裏に浮かぶ。
「多分同じものだと思いますけど」
「……そうか。ようこそ、わがフィルヴィ国へ。君の名前は何と言う?」
では天国の別名はフィルヴィ国というのだろうか。わが、というからには青年は天国に属する人物であろう。ともかく、フィルヴィなる場所への渡りがついたことに椎野杏子は安堵した。
「椎野……杏子です」
「シーノか。私はカシと言う」
青年――カシが発音したそれは椎野ではなくシーノと聞こえた。カシという名前も、樫や河岸などという日本的な発音ではないように聞こえる。つまり、ここはどちらかというと国際的なニュアンスの地なのだと椎野杏子――シーノは結論付けた。とはいえ、言葉が通じているのだから不思議だ。
「……これはこの世のことならず、よね」
「なにか?」
「いえ、独りごと」
カシは不思議そうにシーノの顔を少しの間見て、そして笑った。
「君はニッポンから来たのだろう? あまり取り乱していないね。順応性が高いというのか、柔軟性があるというのか」
「よく言われます」
小学生のころから通知表に毎学期末書かれている言葉である。但し、家人に言わせればそれは「杏子は図太いのう」であるが。
「ということは、他にも日本から来た人をカシさんご存じなんですよね?」
「その通りだ。君は聡いね。……気に入った。ついておいで。彼にも会わせたい」
「彼?」
「君と同じように、ニッポンから来たやつがいる」
カシは懐に手を入れるときらりと光る何かを取り出した。銀色の小さな笛がカシの手の中に収まっている。それを唇に当てると、カシは大きく息を吹き込んだ。
「……? 鳴ってないですよ」
甲高い音が鳴るというシーノの予想に反し、笛の音はちっとも聞こえない。訝しげに窺うと唇の端を上げたカシと目が合った。
「この音域は人間には聞こえない」
がさがさと草を分ける音がやがて近づいて来る。馬だ。艶やかな黒毛の馬がカシの元へ走り寄って来た。カシが鼻面を撫でると黒馬は嬉しそうに鼻を鳴らす。
「馬?」
「そう。あの笛は人間には聞こえないがレオにはきちんと分かる……ああ、こいつの名前だよ。ここから歩いて帰るのは難儀だからレオに乗って行く。シーノは馬には?」
「……多分落馬します」
子供のころに一度だけポニーに乗せてもらったことがある。しかしそんなものは乗馬経験には含まれないだろう。そのうえどちらかと言うと運動神経は悪いほうである。見も知らぬ場所で見栄を張るとろくなことになるまいとシーノは正直に述べた。死んでまで骨折したくはない。
「女の子だから無理もなかろう。私が抱きかかえる格好で乗るが構わないか? 安心してくれ、妙なことはしない。可愛い女性は大好きだが無理強いはしない主義だ」
言うが早いかカシはシーノを抱き上げると手慣れた様子で乗馬した。
「ひゃ……」
「レオ、行け!!」
レオに跨らせたシーノを包むように抱きかかえ、カシが手綱を取る。一声高く嘶くと、黒馬はその前脚で力強く大地を蹴った。いきおい、シーノの身体は慣性力で後方に引っ張られる。後頭部がカシの胸に当たった。カシの胴体と両腕に囲まれていなければ落馬していたに違いなく、シーノは残る前方からの落下を防ぐべく必死で鞍の縁を掴んだ。ここで置いていかれてはまた振り出しに戻ってしまう。
時代劇では馬に乗った侍は前傾姿勢を取っていたような記憶に辿り着き、シーノは身体を少しだけ前に倒してみた。背後のカシも合わせて身体を倒す。初対面の異性の身体がごく近距離にあることに対する緊張よりも、芳香を放つ衣類を纏った美男に抱きかかえられた華やぎよりも、騎乗に際する安心感が大きかった。
「いいよ、そのままちょっと我慢してて。そんなに長い距離じゃないから」
蹄音と風の音に混じってカシの声が聞こえた。華やかな容姿の割に落ち着いた声だとシーノは思う。なんだか良く分からないが、天国(多分)への案内人がいい男なのは悪くない。
「カシさん、天国はどんなところなんですか?」
だが、レオが速度を上げたせいかシーノの声はカシには届かなかったようで返事はなかった。もう一度大きな声を張り上げてまで聞く程の事でもないと思い、シーノは黙って前を見据えた。どうせ着けば分かるのだ。そんなに長い距離ではないとも聞いた。
馬が疾走する速度に合わせて周りの風景が背後に流れて行く。青々とした木々の間を縫うように、シーノとカシを乗せたレオが走り抜ける。白雪姫や赤ずきんちゃんの物語の舞台にそのまま使えそうな森を抜けやがて辺りの風景が変わる頃には、シーノにも左右を見回す余裕が生まれていた。もちろん背後をカシに守られている安心感があってのことである。
「……なんか、すごいファンタジーな感じ」
くりくりとした目を左右に忙しなく動かし、シーノは率直な感想を呟いた。馬が走っているのはどうやら舗装もされていない道だが、その左右には建物が並び始めた。森ではなく街だと言える様相になっている。その建物の壁や屋根の素材はコンクリートやサイディングではなく、木や石や煉瓦で造られているようだ。ゲームの中の街に紛れ込んだようだとシーノは思う。その辺を歩く人に話しかければきっとこう言うに違いない。――ここはナントカの街です、と。
「もうすぐ着くよ」
不意に耳元で声がした。カシの声はあまり低くない。甲高いわけでもなく、どこか甘い。優しい喋り方のせいだろうか。
「ほら――」
「えっ、あれ? あれなんですか?」
そのカシが視線で示した先を見て、シーノは目を瞬かせる。
なぜならそれは、城であった。
ディズニーランドの中心にあるような水色の城とは少し違う。しゃちほこが大棟の両端に鎮座ましましている和城とも違う。石で組まれた枯れた色の城壁に囲まれたその城は、強いて和洋で言うならば洋――中世に聖ヨハネ騎士団が本拠地とし防衛拠点としたかの有名なクラク・デ・シュバリエ城のごとくに重厚な存在感を放っていた。
「そう、あれだよ。――レオ」
カシが手綱を二度引くと、黒馬はさらに脚を速めた。街の中心に位置する城と思しき建築物へ一直線に駆けて行く。そのゴールはやや小高い場所にあり、坂道を軽やかに駆け上がる馬の背から少し振り返ると、背後は思った以上に沢山の家が立ち並んでおり、色とりどりの洗濯物や屋台に並ぶ果物、活気のある人々の動きが目に映った。天国ではなく地獄でもなく、そうではなく人々の生きた暮らしの気配が、目下の風景には詰まっているようにシーノは感じた。
「ここは、どこなの?」
ぽつりと呟いた独り言を拾い、手綱を一度強く引きながらカシが答えた。
「ようこそ、フィルヴィへ。さあ――着いた」
黒馬が脚を止める。見上げるほどの高さの城壁の一部に出入り口らしき空間が開いており、そこには鉄格子が下ろされている。その両脇を固めた衛兵がカシの姿を見て一礼し、鉄格子を開いた。
「レオを戻しておいてもらえるかな。飼い葉も食べさせてやって」
「は」
衛兵の一人に黒馬を預けると、カシはシーノを振り返ると手招きをした。シーノは恐る恐る城壁の中へ足を踏み入れ、不安げに衛兵の顔を窺った。このやりとりを見る限りでは、この城においてカシにはある程度以上の身分があるようだ。しかしシーノ自身はまごうことなき身元不明人物である。城の城壁を守る兵士の役割は、概ね不審人物および敵の排除と決まっている。ここが天国であればいきなり手にした槍で貫かれることもないだろうが、シーノはこの時点ですでにここが俗に言う天国とはおそらく違う場所であろうことに気付いていた。フィルヴィというのがどういう世界なのか分からないが、明らかに武装している者が守る城が地獄でないという保証はない。
「シーノ、こちらへ」
カシは一度振り返ると、シーノの不安をよそに敷地の奥へと歩いて行く。シーノは慌てて後を追う。取り残されては堪らない。
「あ、あの。カシさん」
「ん? まあ疑問は色々あるだろうけど。とりあえずついておいで」
だだっ広い前庭らしきところを抜け、建物の中に入る。広く伸びた廊下には無数の分かれ道と扉が散在している。カシは迷う素振りもなく右へ左へと進んで行く。置いて行かれては間違いなく迷子になると悟ったシーノは、とりあえず言いたいことも聞きたいことも飲み込むこととし、カシの背中を見失わないことに全力を注ぐ。
やがて、ひとつの扉の前でカシがようやく足を止めた。そこは廊下のどん詰まりに位置していた。木質でありながらひどく重厚そうな扉にカシが手を伸ばしたその時、背後から声がした。
「カシ殿。お探ししておりましたよ。いつお戻りに」
「ああ、コウガ。丁度いいところに」
気配もなく背後に現れた男に驚いたのはどうやらシーノだけだったようで、カシは声のトーンを微塵も変えることなく首を巡らせた。振り返った先には仏頂面の青年が立っている。突然現れたことに驚きはしたものの、シーノは彼の姿に僅かな安堵の溜息を漏らした。何の変哲もない黒い衣服に、目も髪も黒い。年代はシーノと同じくらいであろうか、カシと比べるとまだ幼さを残す。とりあえずではあるが、ようやく普通の人に会えたという感じがする。一方青年はその仏頂面を崩すこともなくシーノをちらりと一瞥した。
「コウガも入ってくれ。シーノも。さあ」
迎え入れられるままに入った部屋はさほど広くはなく上品に整えられた居室だった。飾り気はないが、調度品のひとつひとつが繊細さを持ち合わせている。ここがカシの居室だとすれば、これほど外見にそぐう部屋もないとシーノは頷いた。「英国王子」だの「貴族ナンタラカンタラ三世」だの、そういった単語が脳裏を過る。カシの華やかな外見と優雅な部屋はこれ以上ないほど調和している。
「……せめて、ワンピースだったら良かったかしら」
但し、セーラー服に身を包んだ自分と黒づくめの青年は明らかにこの部屋において異分子である。今シーノに一番似合う場所はおそらく学校の教室あたりが妥当であり、青年――コウガの醸し出す雰囲気ははっきり言って畳と障子である。和服を身に纏っている訳ではないのだが、その硬質な気配はどこか塵一つ落ちていない畳を連想させる。
「――あ。ていうことは、あなたが? 日本から来たって言う」
カシの言葉を思い出し、シーノはぽんと手を打った。コウガの眉間に一筋皺が寄る。
「あんたも日本人か。どこの者だ」
「どこって……別に大層な家柄でもなんでもないですけど。ただの愛知県民」
「どこに仕えている」
「あたし学生です。だから、別にどこにも……」
「──?」
「?」
二人の間に沈黙が下りる。どうにも噛みあわない会話にコウガの眉間に刻まれた皺が一層深くなる。
「彼はコウガ。数年前フィルヴィに落ちてきた。ニッポンというところから来たんだそうだよ。君と同じようにね」
沈黙を破ったカシの一言に、今度はシーノの眉間に皺が寄った。
「落ちてきた? 日本から? どういうことなんですか」
「……たまにね、来るんだよ。この世界じゃないところから、この世界へ落ちてくる人が」
辺りの風景だけでなく、目の前の男の風体だけでもなく、その発言が正にファンタジー過ぎて、シーノはこめかみを押さえた。ありがちな設定だと思う。思うが、設定としてありがちだとしても現実としてはありえないのではないだろうか。
「えーと。所謂異世界召喚ファンタジーってこと?」
「……?」
そうなれば一番気にかかる事項はひとつだ。首を傾げたカシに答えられるかどうかは疑問ながら。
「で、どうすればあたしは帰れるんですか? ここは様式美として、悪い奴を倒せばいいのかしら」
「さあな」
答えたのはしかし、コウガのほうだった。黒い眼光が鋭く光る。
「おれは気付いたらこんな訳の分からない世界にいた。今も帰る手段は分からない」
「訳の分からないとはひどいねえ。これでも私の大切な国なのだが」
言葉とは裏腹に楽しそうに笑うカシに、コウガは姿勢を正した。
「いえ、カシ殿。そういう意味ではありませぬ」
「もう――五年くらいになるか。だいぶ訳も分かって来ているだろう? 少なくともシーノよりはフィルヴィにも詳しい」
シーノにちらりと視線を向けると、カシは端正な笑顔を不意に真顔に変える。
「シーノ……彼女に、色々教えてやってくれないか。私は彼女にサイショウになってもらいたい」
「――!!」
自分のことを話されているのに内容が分からないというのはなんとも居心地が悪いものだと思いながら、シーノはその意味を理解しようとした。サイショウというのは最少か最小かそれとも宰相、まさか妻妾?
「その顔は『出会ったばかりの子に即断していいのか』って顔だね。シーノは順応性が高いし、馬鹿ではないよ。可愛いしね。それに私はあの人をサイショウにするのはどうしても嫌なんだよ。美人だけどね。……時間はあまりない。今日シーノを拾ったのは私の運命だと思うよ」
真面目な表情と声色だが、どうにも軽さが拭いきれないのはその言葉の端々に出てくる容姿に言及する言葉のせいだろうか。シーノはカシとコウガの顔を窺う。二人は何の話をしているのだ。自分に何をさせようとしているのか。
「あの女をサイショウにするくらいなら犬のほうがまだマシだとは思いますが。……その女は、本当に俺と同じなのですか。ガザの密偵だという可能性は――」
「シーノがガザの密偵だったとしても、犬よりは嬉しいな。可愛いから」
「ちょっと。何だか良く分からないけど、犬以下みたいに言わないでよっ」
シーノの言葉に振り向いたカシはにっこりと微笑んだ。整った顔に相好を崩され、シーノは一瞬気圧される。ハリウッドスターもかくやの笑顔である。
「シーノ」
「は、はい」
おもわずごくりと喉を鳴らしてしまう。日常生活で接する男――父親や先生、同級生や先輩などとは明らかに一線も二線も画する迫力の美貌なのである。
「この国のサイショウになってもらえないだろうか」
「は、はい」
「――シーノ!!」
美男の迫力に訳の分からないまま思わず頷いたシーノの名を、鋭く呼んだのはコウガであった。同世代らしく同郷らしいとは言えここまでろくに会話もしていない男に突然名前を呼ばれ、シーノはほんの少し──ムッとする。
「……なに」
「あんた、分かってるのか」
「分かりませんけど」
「この国のサイショウになるってことは、あんた、カシ殿の」
コウガの言葉を遮るように、扉を叩く音がした。その忙しない叩き方にコウガが眉を再び寄せる。
「カシ様」
返事を待たず開いた扉の向こうには、非常に切羽詰まった表情の若い男が立っていた。着崩したところの少しもない服装と佇まいは、ボーイという言葉がよく似合うとシーノはぼんやりと思う。
「――ああ、分かっている。すぐに支度にかかるから。ところで、女官長を呼んでくれないか」
「マーリィ様をですか」
「そうだ。この子の身支度を頼みたい。彼女が私のサイショウだから、式典にも出て貰うから」
「はい――はい? この子……いや、この方が? ええと、こちらは」
カシが指した先を見て青年は目を白黒させる。彼の慌てた様子には少しも動じることなく、カシは悠然と微笑んでいる。おそらく──少し楽しんでいる。
「こちらはシーノ・キョーコ殿。私のサイショウとなっていただく方だ」
「そ、そうだったのですか」
「ああ。つい先ほど、正式にお受けいただいた。式典で公式発表する」
美貌の勢いに飲まれて頷いたサイショウ着任はどうやら、公式発表される類のものであるようだ。シーノは頭をフル回転させてその意味を紡ぐ。やはりこれは、最小でも最少でもなく、宰相──君主に任ぜられて宮廷で国政を補佐する役割を指すのだろう。
──ようこそ、フィルヴィへ。
──私の大切な国。
──私の宰相。
と、言うことは。
平成の世に生きる日本人椎野杏子としての見識に照らせば、この美貌の主は天皇陛下に類する存在である。宰相を指名出来るいわゆる君主だと考えられる。異世界でのしきたりは不明だが、本人の言動や周りの立ち居振る舞いを勘案すれば、少なくとも無位無官の者ではない。
そして、うっかり頷いてしまった己が職務は。
「総理大臣?」
口の中で呟いた声は誰にも届かなかったようで、優雅なカシの背後には無表情なコウガが控えており、慌てた男はまろぶように廊下へ飛び出していく。女官長を呼びに行くのであろう。
「シーノ」
呆然とする間もなく、カシがシーノの名を呼ぶ。振り向いたその輪郭さえ洗練されている気がする。
王族らしいと思えば確かに、髪の一筋から爪の先まで気品に満ちている。優美だとは思っていたが、まさか本物のロイヤルとは。そもそもシーノが生まれ育った世界では一般市民と統治者が直接接することはまずない。ゲームの中だけの話である。天国か地獄かと思った世界はゲーム的ファンタジーワールドで、なおかつ総理大臣的なものに任命されようとしている。もはや──意味が分からない。
「あの、あたし──」
「とりあえず私の隣でニコニコしてくれていてくれればいい。余裕があれば民に手でも振ってもらおうか」
「えっと」
「事情は後で話すし、質問も後で受け付けよう。──ほら」
カシがちらりと背後に目を遣ると、ちょうど扉をかつかつ叩く音がした。
「カシ様」
飛び込んできたのは、エプロンドレス姿の女性だった。年の頃は五十を回ったくらいだろうか。若かりしころの栄華が偲ばれる美人だが、気の強さはその目元にしっかり現れている。
「ああ、マーリィさん。急にお願いして悪いんだけど」
「はい」
マーリィと呼ばれた彼女が女官長であろう。呼びに来た男にカシの要請の概略を聞いているのかいないのか、僅かに息を切らせてカシの言葉を待つ。
「こちらはシーノ殿。シーノ・キョーコさんと仰る。宰相として式典に出てもらうことにしたから、着飾らせてやってくれないか」
「カシ様、失礼ながらシーノ様はどのような」
「あまり時間がないだろう? 詳しくは式典が終わってから、私から皆に説明する」
「ですが」
「もう決めた。宰相はシーノだ。皆には後で必ず説明する。今は何も聞かないで準備を頼む」
「──承知仕りました」
膝を付き頭を垂れたマーリィの表情は見えない。やり取りに不安を覚えたシーノがカシの顔を伺うと、カシは唇の端を上げた。
「シーノ。マーリィさんや城の者には後で私からきちんと話をしたい。だから、君は何も答えないように」
シーノに告げたような体でありながら、「シーノに詮索を入れても無駄だ」ということをマーリィに聞かせたのだということはすぐに分かった。おそらく、マーリィにも分かっている。顔を上げた彼女の瞳にはある種の押し殺した感情が映っていた。
「私も支度をせねばならないからマーリィさん、後はお願いする」
「承りました。晴れの舞台に相応しく華やかに飾らせていただきます」
「それは楽しみだね」
元々こんなに可愛らしいのだからね、と普通ならば歯が浮きそうな台詞をあっさり吐いてのけると、カシはシーノの背中を押した。
「さあ、行っておいで。すべては私から話すから、くれぐれも女官たちのお喋りに乗せられてしまわないで」
「あの」
「シーノ様。私についてきてくださいまし」
シーノはマーリィに半ば急かされるように、何か言いたげなコウガの視線と麗しいカシのウインクに見送られながら部屋を後にする。無言で廊下を進むマーリィの背中を早足で追いかけながら、シーノは極力今の状況を把握しようとしてみた。
おそらく、これから何らかの祭典があり、そこで自分は宰相として国民に紹介される。しかしどれほど脳をフル回転させてもそれ以上の予想は出来なかった。出会ったばかりの素性の知れない娘に頼む程度のこと、宰相の仕事は多分に形式的なものなのだろうが、本業は高校生でしかない自分に形式的な取り繕いが出来るのか。最低限のマナーとて、現代日本とは異なっているかもしれない。
否、問題はそんなことではない。
暴漢から助けてくれた流れでここまで来てしまったが、どうやらここは天国ではない。フィルヴィという国──いわゆる異世界だ。元の世界にはどうやって帰るのか。帰れるのか。
同じ境遇にあるらしいコウガという男は少なくとも五年ここにいる。帰る手段は分からないと。
「……」
ゲームやアニメではインフレを起こす程度にありふれた展開である。ごく普通の学生がファンタジー世界にご招待されて、冒険したり戦ったりする。そうして、何らかのミッションをクリアすると元の世界に帰れるのだ。
ただし、これはゲームでもアニメでもない。シーナ──椎名杏子の身に起こった現実である。実際のところ何がどうしてこうなって、何をどうしたらどうなるのかがさっぱり分からない。階段から落ちてこの世界にやってきたのだから、この世界でも階段から落ちてみれば向こうに帰ることが出来るのだろうか。しかしその保証は一切ない。知らない世界でうっかり死んでしまうなど、冗談ではない。
「……よし」
とりあえず、物事は前向きに考えるべきだろう。
幸い暴漢に売り飛ばされずに国の偉い人に拾われ、詳細不明ながら職業らしきものが与えられることとなった。働き口さえあれば、最低限の衣食住はなんとかなるだろう。何より幸いなことに、言語が通じる。日本人らしいコウガはともかく、カシやマーリィなど名前も横文字の上に見た目は完全に洋風である。なのに、不自然なほどに自然に会話が出来ている。もちろんシーノは日本語以外喋れない。
いつ帰れるかは分からないが、とりあえずは今この世界で生きていくことが先決だろう。一旦はあの世に来たと思ったのだ。一度死んだと思えば諦めも付く。
いやに高い順応性に自身でも少し呆れながら、シーノはマーリィの背中を追う。考え事をしながらいたせいか、既にどこをどう歩いてきたのか分からなくなってしまっている。もう随分歩いたのではないか、そう思ったときマーリィの足が止まった。
「シーノ様、こちらへ」
白い木肌の扉を開けると、マーリィは部屋の中を示した。促されるままにシーノが足を踏み入れたその部屋は、大きな窓からの採光に明るく照らされていて、マーリィと同じエプロンドレスを着けた女性が何人も慌しく動いていた。四角い部屋の一面には大きな鏡台が据えられており、様々な化粧道具が所狭しと並んでいる。鏡台の対面側の壁はクローゼットになっていて、色とりどりの衣装が下がっていた。無造作に置かれたいくつものトルソーには様々なデザインのドレスが着せられている。
「マーリィ様、おかえりなさいませ」
「おかえりなさいませ」
忙しそうに立ち居振舞う女性らは顔を上げたが作業を中断することなく、マーリィの戻りを歓迎する──と思われたが、はたとその手が止まる。視線は自らの上長ではなくその横、部屋の中を物珍しそうに見回しているシーノに注がれていた。部屋中の疑問と好奇心を己が一身に集めていることに気付いたシーノは慌てて姿勢を正す。途端、女官一同が目を逸らしたところを見ると、どうやらこちらの世界でも初対面の人を無遠慮に眺め回すのはマナー違反であるらしい。
「よく聞きなさい。こちらはシーノ様と仰ります」
さほど大きくないのにとてもよく通る声でマーリィが話し出すと、部屋は一瞬で静まり返った。人の声はもちろん、作業の雑音──衣擦れや物のぶつかる音などの一切が凍結する。女官のマーリィに対する心構えを表す光景だろう。
「シーノ様はカシ様の宰相になられます。本日の式典にもお出ましになられます。従って──」
ざわ。
室内の音量が僅か一瞬大きく膨らんだ。それでもすぐに静けさを取り戻したのは日頃の教育の賜物だろうか。ごく短い時間のざわめきは、女官長の眉間を小さくひくつかせただけで済んだ。咳払いをし、マーリィは居並ぶ女官達を見回す。
「従って、大急ぎでお支度をいたします。正式なご紹介は後日カシ様からいただけるそうですから、口ではなく手を動かしてご用意差し上げるように」
あれだけの短時間のざわめきの中にシーノに対する好奇心を嗅ぎ取ったのだろう。女官らのそれに予め釘を刺す手腕はさすが長と呼ばれるだけはある。
「ではシーノ様、こちらへ」
「シーノ様、まずはお着替えなさいましょう」
「ドレスはどちらにいたしましょう。お召しになられたいお色などは」
「やはりこのような式典には白ではありませぬか」
「しかし本日はあくまでカシ様のお式、白はシーノ様のお披露目まで取っておいたほうが」
「でもカシ様は正装でお出ましになるでしょう? やはりお色は合わせたほうが見映えがしますわ」
女官の一人に手を引かれ、シーノは部屋の中央へと連れ出される。わやわやと取り囲まれ髪やら服やらを弄られるままに、あれよと言う間に衣装とヘアメイクを施される。
されるがままに服を着せられ髪を結ってもらうのなど、七五三以来ではないだろうか。シーノは鏡に映る己の変遷をぼんやりと見つめていた。マーリィの忠告が効いているのだろう、眼差しがいかに好奇心に満ちていても興味の赴くままにシーノの素性やあれこれを尋ねてくる女官はいない。てきぱきと手を動かし、彼女の見目を飾っていく。
「肌が白くていらっしゃるから、淡いお色がよろしいわ」
「あら、案外濃いお色も素敵と存じますの」
「髪は烏の濡羽色ですもの、赤い髪飾りがお似合い」
女官の言葉遣いと会話がこそばゆい。たくさんの女官に傅かれる美姫になった気分になり、シーノは照れくささが僅かに混じった困惑に鼻の頭を掻いた。己は芸能人のような美人でもなんでもないと思うと居た堪れなく恥ずかしい。
「シーノ様! 動かないでくださいまし」
「あ、はい、すみません」
叱られ、慌てて前を向く。綺麗に結い上げられた髪に様々な種類の飾りを当てられ、度に女官らのきゃらきゃらとした歓声がシーノの頭上に飛ぶ。瑠璃玉が枝垂れのように散りばめられた簪、花を模ったガラスのコサージュ、繊細に編まれたレースのリボン、色とりどりの生花をあしらったブーケ。シーノの黒髪に次々に彩りを添えていく。
「やはり赤い玉飾りが良いのではないかしら」
「ええ、とてもよく映えますもの」
「桃色の花飾りも捨てがたいですけれど、赤がやはりお似合い」
「では唇にお注しする紅も赤がよろしいですわね」
「それはきっと素敵だわ」
シーノには些か面映いことを口々に言いながら、女官は結い上げたシーノの髪に赤い簪を挿した。玉簪の一種なのだろう、真紅の見事な玉が主役となり、玉を留めた部分からごく小さな宝石を紡いだ飾りが垂れている。動く度に揺れる様はきっとたおやかに美しい。
「まあ、なんてお似合い」
「おきれいですわ」
「ああ、紅もお注しいたしましょう」
鏡の中には見慣れない己が少しずつ組みあがっていく。シンプルなマーメイドラインの白いドレスに白い手袋。首や耳や髪を飾るアクセサリーは赤で統一され、華やかでありながらも上品な輝きでシーノを彩る。瞼と頬が薄紅色に染められ、つやつやと赤い唇は装飾品ともよく似合っている。
真っ先に浮かんだ単語が「馬子にも衣装」であることを悲しく思いながらも、シーノは唇の端を少しだけ上げてみる。壮麗でありながらも品位のある華やかさを纏わせてもらった姿は、白いドレスと相まって結婚式の花嫁のようだ。宰相という堅そうな職務就任の紹介をされるにはどうにも相応しくない。しかし、舞台は違えどテレビ中継で見る国会では、男性議員は燕尾服を着ていることもあったような気がするし、そうであるならばドレスアップ自体は間違いではないのだろう。まさか議会──のようなものがあるとして──で毎回ドレスを着るということはないだろうが、今回はお披露目として特別おめかしをさせてもらっているのかもしれない。
シーノは自身の中で納得し、頷いた。しかし、全ての支度を終えた彼女に向けて女官の一人が放った言葉を噛み締めることが出来ないまま、この後のシーノは式典に出席する羽目になるのだった。
「おきれいです。──シーノ様、ご成婚おめでとうございます」