人間ぎらい(モリエール)
三十七歳のぼくが書くモリエール「人間ぎらい」の読書感想文
モリエールの戯曲「人間ぎらい」は古典主義を代表する作品のひとつである。古典主義というものが何を指すのか、それはぼくのつたない文学知識で想像するならば、植民地主義により繁栄した近代ヨーロッパで主な大衆娯楽となった演劇における古典である。植民地主義の大衆娯楽の代表作にモリエールの「人間ぎらい」は数えられている。
その内容はというと、人の欺瞞を嫌がる主人公が恋敵全員に、さらには想い人そのものに文句をつける話である。
主人公アルセストはセリエーヌという女性に恋をしている。そして、セリエーヌという女性は美しく、大勢の男に言い寄られている。まず、物語は女性セリエーヌが主な言い寄ってくる男にダメ出しをするところから始まる。お洒落な流行り男も、気高い学者も、みんな文句をつけられ、恋人の座に値するとはひと
こともセリエーヌはいわない。だが、セリエーヌは自分が好きな男が誰かをいうこともない。
その後で、どちらが好きかを告げてくれと迫る主人公とその恋敵に、あいまいなことばで逃げようとするセリエーヌを追い詰め、告白を要求し、明確な解答を得られなかった主人公は自らふられたのだ、セリエーヌはひどい仕打ちを自分にしたのだと文句をいい、劇は終わる。失恋劇である。非常にみやびなことば運びに魅了された。これはぼくが想像していて実態を知らなかったお伽噺の正体であ
る。
主人公アルセストは、恋に打ちのめされている。この恋物語というものがたいていの古典的演劇というものである。恋人役に告白するかと見えて、実は父の死が病死ではなく、他殺であったことを知って悩んでいたシェイクスピアの「ハムレット」は変格的物語である。最後、登場人物がみんな死んでしまうと
いうのも、最も大胆な変格であるといえるだろう。現代に生きる我々が創作や思考の基礎となすべき古典はシェイクスピアの「ハムレット」よりモリエールの「人間ぎらい」であるといえるだろう。
最後、失恋劇で終わるのが「ハムレット」も「人間ぎらい」も共通する点であるが、人生を三十七歳まで生きたぼくには、失恋劇を見せられた時の感動は、ハッピーエンドの物語より、訴えかけるものがある。この、失恋でなおハッピーエンドという物語が作れたら、それは新時代の恋愛劇となるであろう。
了




