夏の庭
暇なので、三十二歳のおれが書く「夏の庭」の読書感想文。ネタバレあり。
作中でいちばん面白かったのは、河辺がいった「天才だよ」というセリフだ。これには笑った。
死にそうな年老いたじいさんが死ぬところを観察するというこの物語において、じいさんを山下が毒殺しようとしたと思ったことに対する河辺の反応である。この反応において河辺は、殺人を容認しているわけである。
死について考えるはずのこの物語において、いちばん面白いのは、死そのものではなく、殺人を容認する河辺の反応なのである。
実際は、山下がじいさんに差し入れしようとした刺身に毒は入っておらず、読者であるわたしも、山下の刺身に毒が入っているとは予想していなかった。だが、その固定観念を打ち砕く河辺の毒殺するという発想は、常識外れの無軌道すぎて、笑いを与えるのである。
笑いはいいものだ。だが、毒殺はいけない。ここで、あえて、毒殺をすることを思いつく河辺に罪はあるだろうか。河辺は残酷か
おれは思う。笑いとは、してはいけないことをすることから引き出されることが多い。ただの迷惑行為には、反吐が出るが、笑いをかもしだす迷惑行為には、賞賛を感じてしまう。ここに、人類の先天的な罪があるのではないだろうか。いわば、河辺の毒殺という発想こそ、不条理な罪を背負いし良心だといえるのだ。
あえて、罪をかぶることにより、笑いをとる。それは英雄にも似た道化士の技で、この世を幸せにするために必要なものだ。許される笑いと、許されない笑いの境界線はどこにあるのか。それは理想郷を模索する我々を深く悩ませる。笑いのない理想郷など必要ない。ただの効率のよい社会は、理想とはいえない。笑いを許容する社会こそが、理想である。では、じいさんを毒殺すると思いついた河辺の罪はどう裁かれるべきなのか。
もし、山下が毒殺に成功していれば、河辺のセリフは笑えるだろうか。書いていた感覚では、笑える気がする。
だが、死んだじいさんの死体を前にしたら、その笑いも凍りつくだろう。ここに、まだ現代科学では未解明の笑いのからくりの問題がある。
被害のない違反行為は笑える。これが、今のわたしに思いつく結論である。よって、毒を入れなかった山下のおかげで、悪人である河辺は、笑いをとった英雄となるのである。
死について描かれたこの物語の結論は、被害なき死は笑いをとる、である。
了




