最終話後編 『だから、あたしは』
屋上に行けと言われたものの。
何だか、踏ん切りがつかない。自分が弱いのはわかってる。でも、足がうまく動かない。そう思ったあたしは、気が付いたら携帯で電話をしていた。
「もしもし?」
『もしもし、朱音、どうしたんだい?』
今、中国にいるという父さんに、だ。
「聞きたいことがあるんだけど」
『急ぐかい?』
廊下をゆっくりと歩きながら、屋上へと向かいながら。
遠い地にいる父さんに、手助けを願った。
電話の向こう側は、何だかガヤガヤと騒がしい。どこか、市場か駅にでもいるのだろうか。仕事中なのに、何だか申し訳ない気持ちになった。
「うん」
『わかった。……すみません、息子から大事な連絡が』
「……」
取引先の人と一緒にいるのだろうか。ほんの少しの時間を経て、ガヤガヤとした騒音が消え、やがていつもの父さんの声だけが耳に響いてきた。
『うん、いいよ。何だい?』
「えっと、紗希センパイのことなんだけど」
『ああー。可愛い子だね』
とぼけた笑い声が携帯越しに聞こえる。
「母さんに言いつけるよ」
『ごめんごめん。それで?』
気持ちを和ませようとしてくれたのだろうけど、あんまり余裕がなかった。その空気を一瞬で察知したのか、父さんはすぐに話題を転換させる。
「ちょっと、言いくるめられちゃって」
『あの子は、朱音より賢そうだからね』
「それは俺がバカってことでしょうか」
『いやいや、朱音は自慢の娘だよ。息子? 息子か』
娘なのかなあ。息子なのかなあ。怪しいところだけど。
今、そんな問題はどうでもいいんだ。
「……父さん」
『はは。でも、どうしてそんなことを言うんだい?』
「父さんが女の子だったって、母さんから聞いたんだ」
『あー、言ったんだ』
「うん」
『幻滅したかい?』
「ううん」
とことこと歩きながら、首を横に振る。
『そっか』
「だって、同じだもん。幻滅なんてするわけない」
『はは。それもそうだね』
少し、衝撃を受けたけど。
自分が男の子になったときの衝動に比べたら、全然大したことはなかった。
そこで、本題を切り出す。
「それで父さん、聞きたいことがあるんだけど」
『うん』
「相手が望んでないのに、相手を助けるのって、どう思う?」
『誰かが助けを望んでいないのに、無理やり朱音が助けようとしてる、って解釈でいいのかな?』
言い方がストレートだ。でも、その通りだ。反対するかなあ。
「う、ま、まあ」
『いいんじゃないかな』
でも、父さんは反対しなかった。優しい声で、あたしを肯定してくれた。
「いい、の?」
『うん。朱音がそうするべきだと思ったのなら、そうするべきだと思うよ』
「でも、望んでないんだよ?」
『望みたくても、望めない人だっているんだよ。朱音』
そう語る、父さんの声は真実味に満ちていた。
まるで、自分が経験したかのように。
『世の中全ての人が、望み通りに生きられるわけじゃない。でも、そのせいで本当は、望めば手が届くところにある人も、手が届かないって、錯覚してしまってるんだ』
「……難しいよ、父さん」
『星は手が届くようで、届かない距離にあるって言うだろ?』
「うん」
『でも本当は、届くかもしれない。届かないって、思い込んでるだけだ。だから、誰も手を伸ばさないんだ。届くって、信じないんだ』
絶対に、ありえない。星に手が届くなんて考えられない。
それが、常識だ。それが、当たり前のことだ。でも、それは思い込みだ。
「……」
だから、思い込んでるだけじゃ、何も変わらない。
実際に行動しろ、と父さんは言いたいのか。
『だから、手を伸ばしてから考えろ。問題は、そこから考えればいいってね』
「何か、凄い名言っぽい」
『母さんの受け売りなんだけどね。そうやって告白されたんだ』
「え?」
『僕たちは、許されない関係だった。今よりも、世間の目は冷たかったしね』
「……」
そうだろう。今よりも、昔のほうが同性恋愛には冷たかった。苦労を乗り越えて、今にたどり着いた彼女たちの言葉が、今のあたしにはとても重く深く思えた。
『でも、母さんは告白してくれたんだ。勇気を出せなかった僕と違って』
「断られたら、どうするつもりだったんだろう」
『わからないけど、母さんのことだからね。他の娘を探してたかもね』
「そうかなあ」
多分、口説き落としてたと思うけど。あの調子なら。
屋上へと至る階段を、あたしはゆっくりと登り始める。
『色々とあったけど、詳しい話はまた今度。今は、朱音のことが大事だ』
「……うん」
『もう、答えは出たんじゃないかな?』
「何となく、だけど」
『なら、後は頑張るだけだよ。手を伸ばさせるために、頑張るだけだ』
そうだ。
あたしの仕事は、黒崎姉妹に手を伸ばさせること。
そうすれば、あたしが手を取ればいいんだ。彼女らには、手を伸ばさせるだけでいい。
「わかった。ありがとう、父さん」
『健闘を祈るよ。朱音』
携帯をポケットに突っ込み、正面のドアを見据える。
本当に、ありがとう。
父さん。
――そして、ドアノブを回し、屋上へと至る。
夕暮れの屋上でフェンスにもたれながら、一人想いに耽っている、しおりんがいた。俯き、何かをぼうっと考えているようだ。
「しおりん」
話しかけると、しおりんはフェンスから離れ、ぱっと目を手で拭いこちらを見つめる。
「っ、何ですか」
「目、赤いよ?」
「そんなことありません」
「はいはい」
強気だなあ。
まあ、いつものことなんだけど。
「……それで、どうしたんですか。英研に行ってるのではありませんの」
「紗希センパイに、しおりんと謝ってこいって言われた」
「なるほど」
「別に、喧嘩してないんだけどね」
これは、喧嘩じゃない。
単に、方向性が違っただけだ。
たった、それだけのことだ。
「そうですわね」
重圧が、場を支配する。
「……」
「……」
あたしとしおりんは、ただ黙って向かい合っていた。何を喋るわけでもなく、相手を責めるわけでもなく、ただ夕焼けの輝く屋上で立ち尽くしていた。
お互いの目を見つめながら、お互いの譲らない意思を主張しあうように。
でも、口に出さなければ伝わらない。
「あのさ、しおりん」
だからあたしは、しおりんに語りかける。
「はい」
「やっぱり俺、紗希センパイを助けたい」
「……」
すると、『またか』と言わんばかりに、あからさまに落胆を表情に浮かべて、彼女は地面に視線を落とした。
「やっぱり、好きなのはやめられないし。紗希センパイが嫌だ付き合いたくない、て言うならまだしも、その前に諦めたくないんだ」
「わたくしの忠告には、聞く耳を持たないということですの?」
「ううん。そうじゃない。しおりんの忠告は、聞く。聞くけど、俺にも思いがある」
「黒崎の家は、朱音くんが思っているよりも複雑なんです」
「そうかもしれない」
ややこしい関係。
普通の家庭育ちの、あたしにはさっぱり理解できない。
「だから、触れてほしくない。特に、あなたには」
「俺は、紗希センパイを傷つけるために、助けるんじゃないんだ」
でも、その気持ちだけは本当のものだ。
傷つけるつもりがないのに、傷つけてしまうことはある。
それでも、このまま放っておいたら、取り返しのつかないことになる。
だから、あたしは助ける。手を取りたいのだ。
「でも、結果的に傷つけることになる」
「それは、そうなってみないとわからないだろ? 紗希センパイに言われて、助けずにいて、誰も助けることがなくて、そのまま今に続いてるだけじゃないか」
「それは、そうですけれど」
あたしに言われて、しおりんは黙り込んでしまった。
しおりんは、紗希センパイに関わるな、放っておけと指示されていた。
そして、姉が好きなしおりんは、姉の意向を全面的に受け入れていた。
でも、それが正しかったのか?
本当に、それで良かったのか?
「皆が皆、気を遣って傷つけないようにして。俺も、男の子になる前は、それが正しいと思ってたよ。あの状況が異常だなんて、全く思わなかった」
あのまま、現状が続いていれば、あたしは変革を望まなかった。
英語研究会の部室に行くのでも、決して人に見られないように、こっそりと行動していた。それは全て、紗希センパイの意向を受けてのことだ。
いじめを救済したことはある。それでも、積極的に救済することはなかった。
あくまで、通りすがりの人間で、偶然にいじめ現場を発見していたから、助けだしていただけだ。それが正しいと思ってたし、おかしいとは思わなかった。
「……」
「でも、今は違うんだ。それはおかしいって思うんだ。英研の部員であることを隠すのも、部室外では一切紗希センパイと話さないのも、おかしいんだ」
全部がおかしい。
こんな常識、間違っていた。
今まで受け入れてきた感覚は、受け入れるべきじゃないものだった。
だからこそ、あたしは主張する。
「おかしいんだよ、しおりん」
自分に向けるように。世界に向けるように。
言葉を紡ぐ。
「何が、あなたをそこまでさせるのですか」
「このままは嫌だって、そんな意識」
「ヒーロー気取りは、やめてくださいませ」
「ヒーローなんかじゃない。俺は、ただの人間だから」
「……だから、気取るなと言っているのですわ」
不機嫌そうに、しおりんは言葉を紡ぐ。
さっきから、地面ばかりを見つめて、あたしを見つめてくれない。
「しおりん」
「何、ですか」
小さく、今すぐに消え入りそうなほど小さな声で、彼女は答えた。
「俺一人じゃ、何もできない。よわっちい人間だから」
「わたくしもですわ」
「黒崎家みたいな力もない、山岡みたいに全てを笑い飛ばすこともできない」
誰かに頼らないと、何もできない。
誰かに縋らないと、決断もできやしない。
ヒーローでも、ヒロインでもない。主人公でも、全てをひっくり返すことの出来る超人でもない。
「……」
「だからさ、しおりん。お願いがあるんだ。何でも聞いてくれるんだろ」
「何ですか」
しおりんは、あたしが男の子になったとき。
面倒事は処理してやる、と語った。
なら、今がその時機じゃないのか。
「俺と一緒に、紗希センパイを助けよう」
だから、あたしは言葉を叩きつける。
しかし、しおりんの反応は薄く。
「……それを、紗希ねえは望まないのです」
未だ、俯いたままだ。
ダメか。これじゃダメなのか。
「今、紗希センパイの環境は最悪だ」
「ですわね」
「このまま続ければ、どうなるかわからない」
「……そうですわ」
紗希センパイが、自嘲気味に語っていたように。
彼女に対するいじめは、エスカレートを続けている。いずれ、身体を汚されたり、傷つけられたり、もしかするともっととんでもないことに発展するかもしれない。
それは、しおりんもわかっているはずだ。
「じゃあ、変えてやろうぜ。どうせこれ以上悪化しないんだ。やることやってみようぜ。何でもやって、助けてみようぜ」
実際は、悪化するかもしれない。
それでも、今はしおりんを説得するしかない。
まずは、しおりんをこちらの味方に引き入れ、手を差し伸べさせねば。
「……でも、紗希ねえが」
「しおりんに聞いてるんだよ」
シスコンと自称するしおりんの意思は固い。
この期に及んでも、紗希センパイの顔が頭に浮かんでいるのだろう。紗希センパイの言葉を断固として守ることが、妹としての責務だと考えているのだろう。
「でも」
「しおりんは、紗希センパイじゃねえだろ。しおりんの気持ちを、聞かせてくれ」
でも、それじゃダメだ。
それじゃ、何も解決しない。
しおりんは、紗希センパイの言いなりになってはいけない。紗希センパイはしおりんのためを思い、自らを犠牲にしているのだから。
しばらく、重い沈黙が続く。
体育会系の部活生徒たちが、大きな掛け声をあげて、グラウンドを走っている声が聞こえてくる。しかし、屋上では依然として沈黙が続いていた。
お願いだから、首を縦に振って欲しい。
このまま、横に振らないで欲しい。
そうなってしまったら、紗希センパイを救うための、一歩が踏み出せなくなる。
やがて。
何かを決断したしおりんが、ゆっくりと顔を上げ。
「……わかりましたわ」
こくりと、頷いた。
「よし」
「でも、前に言ったことは忘れていませんよね」
姉に何かあったら、絶対に許さない。そんな趣旨のことだ。
そんなこと、わかりきっている。紗希センパイを傷つけるために、助けようとしているわけじゃないんだから。
「ああ。絶対に大丈夫だ」
「……賭けてみますわ。あなたに。朱音くんに」
「ああ」
よし。
一歩前進だ。
しおりんは、あたしの手を取ってくれた。
そして、あたしたちは屋上を去り、廊下を歩き始める。向かうところは、理事長室だ。
「紗希ねえに、興味を持っている人はそれなりにいます」
「そうなのか」
歩きながら、紗希センパイに関する情報を尋ねると、さすがと言うか、しおりんは十分に情報を集めていた。
「はい。容姿端麗才色兼備才気煥発。幻想的な姿と、知的な振る舞いに感銘を受けているのでしょう」
若干、姉を褒め称えすぎ気味だと思うけど、その通りだと思う。
あの容姿は、嫌でも目を引くし。しかも、素材がとんでもなく美しいのだ。
「だよなあ」
「でも、紗希ねえはいじめのターゲットです。誰も近寄れません」
「いじめてるのは、誰だ?」
「主に二年女子、それから男子が数人ですわ」
男子は、力でねじ伏せれば何とかなる。そういう生き物だ。
でも、女子か。面倒だなあ。
「男子は何とかなる。女子はどうすればいいかなあ」
「退学にさせますか」
「最終手段だな、それは」
退学ということも、手段の一つとしてはある。
いじめっ子全員を、退学させれば話は全て片付く。
しかし、そうなれば退学させた奴らの親が面倒くさい。将来のしおりんや紗希センパイのキャリアに傷がつくことも考えられる。
でも。
「和解なんて、甘ったるい結末は許しませんわよ」
「……しおりん」
怒りに満ちた、妹の声。
自らの思いを押し殺して過ごし、やがて解き放った彼女自身の思い。
「やると決めたら、二度と立ち上がれないようにしてやります。今まで、紗希ねえが受けた苦しみを、百倍にして返してやりますわ」
「怖いなあ」
「紗希ねえが受けた苦しみは、そんなものじゃないのですわ。……本当に、本当に苦しいものなのです」
何が起こったのかを知っており。
何故起こったのかを知っている。
紗希センパイに対するいじめを詳しく知る、しおりんだからこその思いだ。
「早く、解放してやろうぜ。しおりん、お願いがある」
「はい。何ですの」
「生徒総会として、少し職権濫用してみないか」
「紗希ねえのことなら、ぜひ」
職権濫用なんて、バレたらとんでもないことになる。
「よし。じゃあ、やろう」
「何をするのです?」
「まず、俺が――」
でも、これくらいなら問題ないだろう。
あたしは、紗希センパイを救うための計画を、二人で話す。
ここは、理事長室の近く。
もう、決行の時は近づいている。
――そして再び、所は変わり、英語研究会。しおりんは今、理事長と話をしており、ここにはいない。あたしが来たのは、とある目的を果たすためだった。
ここで、あたしは紗希センパイと話をつけようと思った。
思ったのだけれど、誰もいない。
帰ってしまったのか?
いや、違う。
鞄が、まだ置かれたままだ。
どうしたというのか。何があったというのか。
トイレならまだいいが。少し嫌な予感が脳裏をよぎる。
そういえば、あの時、英語研究会に入るとき。何か、嫌な視線を感じた。
「まさかっ……!」
予感を頭の中で整理するよりも先に、あたしは回れ右をして、英語研究会のドアを思いっきり乱暴に開き、廊下に飛び出してゆく。
廊下を思いっきり全速力で走っていると、ポケットの携帯がブルブルと震える。一体誰がかけてきたのか。見てみると、例のヤンキー元ボスだった。
「もしもしっ!」
『青木か。俺だ』
「ああ、何だ!」
このタイミングで、何の用事だろう。
いらいらしながら、用件を尋ねると、深刻そうな声色で彼は答えた。
『センパイさんが、ヤベエことになってる。そっちの学校の男子から連絡があった』
「マジかよ」
心臓が、どくんと鼓動を立てる。
そして、高速でリズムを刻み始める。
『やばいぞ、かなりやばい』
「どこにいるんだ、どこに、誰が!」
『高校校舎の屋上だ。ナイフを持った女が、何かしようとしてるらしい。殺気立ってて、近寄れねえ、とそっちの男子は言ってた』
ナイフ、殺気。
それは近寄れないな。仕方のないことだ。
屋上か。さっきまで、あそこにいたのに。すれ違ってしまったのか。
「くそっ……!」
『倒して、見せつけてやれ。お前は学内でセンパイさんを守れよ』
「ああ、ありがとな」
『ああ! 負けんじゃねえぞ!』
こいつからも、エールを貰ってしまった。
もう、やるしかない。後には引けない。やってやるしかない。
「おう!」
面倒なことになった。
頼むから無事でいてくださいよ、紗希センパイーー。
――あたしは走る。
廊下を走り。
階段を駆り。
教師にどなられながら。
生徒に、おかしな目で見つめられながら。
それでも、何も聞き入れず、まるで風になったかのように、自らを飛翔させ続ける。
屋上に、紗希センパイがいる。
屋上に、紗希センパイを虐げる人間がいる。
あたしは今まで、何度も彼女を救ってきた。助けてきた。
でも、それを紗希センパイが嫌がっているということも、わかっていた。
自己満足だ。
そんなものは、自分の勝手な思いに過ぎない。
「紗希センパイっ……!」
助けるということで、自己の愛を満たそうとしていた。
そんな薄っぺらい感情だから、しおりんに論破されてしまった。
救おうとしていた、紗希センパイ自身の言葉にも、揺るがされてしまった。
どうしようもなく、あたしは弱い人間だった。
「もう少しっ……!」
もうすぐ、屋上へと至るドアだ。
あの扉の先に、紗希センパイがいる。
「っ……!」
ナイフを持った女。
何が怖いのか。銃でもバズーカ砲でも、何でも持ってこい。
今のあたしには、怖いものなんて何もない。
あたしを支えてくれる、大勢の人たちがいるのだから。
「よし」
深呼吸して。
ドアノブに手をかける。
そして、ゆっくりとそれを回し。
力いっぱいに、扉を開く。
「……」
まあ、いつものことだ。
目の前に展開されている光景は、今まで何度も見てきたもの。
「朱音……くん……?」
「紗希センパイ」
一人、二人、三人、四人……八人。
皆が皆、おとなしそうな、おしとやかそうな顔をしていらっしゃる。
おとなしそうな顔をしているくせに、やることはえげつない。
それは、手に持った果物ナイフから感じ取れたことだった。
「何、してんだよ」
彼女たちは、紗希センパイを中心にして、その周囲にぐるりと円を構成していた。
いやらしい、逃げられないようにしている。
精神的に、紗希センパイを追い詰めるためだろうか。
それなりに有名になってしまった、不良少年であるあたしの姿を見つけたいじめっ子たちは、目配せをしながら、動揺の表情を浮かべたり、今度どうするかを相談しあっているように見えた。
情けない。
群れないと、何もできないのか。
「何してんだよって、聞いてるんだけど」
怒りに震えながらも、何とかトーンを押さえながら。
あたしは、奴らに尋ねる。
「何って、お前こそ何だよ」
こいつがボス猿か。
茶髪ロングの少女が、一人だけサークルから抜け出して、あたしの目の前に立つ。
身長はある。身体の作りも悪くない。あたしの女の子時代のスタイルそのまま、顔のレベルを落とした感じだ。自分で言うのもアレだけど。
「俺の先輩に、何してんだよって聞いてんだ」
「お話」
「お話かー」
お話なら、こんな不穏な空気は流れない。
騙されるバカもいないだろうが、あえてスルーしてやる。
「そうだよ。わかったら消えろよな」
「そうなんですか、紗希センパイ?」
あたしは、紗希センパイを見つめる。
怒りに震えて、笑顔がうまく作れたかわからないが。
「……」
彼女が、ふるふると首を横に振ったことだけは、確認できた。
「違うみたいですね」
「てめえ」
「紗希センパイの服脱がして、何するつもりなんですか?」
どうして、あたしがここまで怒っているのか。
単に、周囲を取り囲んでいるだけなら、まだしも。
紗希センパイの上着は脱がされ下着姿にされ、真っ白で新雪のようで、幻想的な肌色が周囲に晒されていたのだ。上着はどこに行ったのか、見当もつかない。
スカートは大丈夫だ。どうも、上半身を晒させたかったらしい。
「関係ねえだろ」
「何するつもりなんだって聞いてんだよ」
手に持ったナイフを見つめながら、あたしは言葉を乱暴に叩きつける。
「……お仕置きだよ」
すると、いじめっ子たちはビビっているのか、ボス猿すらも小さな声色で答えた。
「お仕置き?」
「ああ。こいつ、調子乗ってるからな」
「どこがどう、調子に乗ったんですか」
紗希センパイは、あるがままでいただけだ。
何も、自らの容姿を鼻にかけることはしてなかったし、何もしてなかった。
それなのに、この言いぐさはなんだ。
「ちょっと外見がいいからって、チヤホヤされてさあ」
「誰も、チヤホヤなんかしてないでしょう」
「うっせーな」
指摘すると、ボス猿は口角を吊り上げて、嘲るように笑う。
「てかお前何? いちいちうぜーんだけど。ほっとけよ」
「……」
「この化けもんの後輩なんて、よくやってられるな」
化けもん。
その言葉は、聞き捨てならなかった。
「あ?」
だからこそ、怒りを露わにして彼女たちを睨み付ける。
「こいつ、理事長からも嫌われてるんだろ? そんなのと、よくつるめるよな?」
「何を根拠に、そんなことを言うんだよ」
「だって、副生徒総長も助けねえじゃん。嫌ってるからだろ?」
「それは」
事情がある。
特別な事情があるのに、こいつは。
何も知らないくせに。
「嫌ってないなら、普通は助けるっしょ。あたしら退学にして、追い出すことだってできるっしょ。それなのに、やんないってことは、嫌いなんだろ? こいつのことが。出来損ないだから、見捨ててんだろ?」
出来損ない、と言われた瞬間。
紗希センパイが、視線を自らの靴へと落としていた。
くそが。
「ほら見ろ。何も反論できねえだろ。お前も、こんなセンパイに構ってないで、他のことやってろよ。めんどくせえだろ」
何だろう、うまく言葉にできない。
言いたいことは山ほどある。相手を罵倒するための言葉は、腐るほどある。
でも、怒りって通り越すと何も言えなくなるんだなあ。
「ほら、お前、迷惑かけてんだよ。な?」
「……」
「何とか言えよ……な!」
それを、あたしの敗北宣言と間違って受け取ったのか、いじめっ子連中は紗希センパイの頭を叩こうとしていた。
「っ……」
そして、紗希センパイが反射的に頭を庇おうとしたとき。
「その辺にしとけよ、先輩方」
やっと、頭の中で言葉の整理がついた。
何を言うべきか。何が言いたいのか。
その答えはあまりにも単純で、人が見ればあたしを非難するかもしれない。
それでも、外道相手にはこれでいいと思った。
「あ?」
「調子に乗ってっと、ぶっ殺すぞ」
叩きつけるように、ゆっくりといじめっ子を見据えながら、あたしは言葉と紡ぐ。
「な、何だよお前」
明らかに動揺し、こちらを見つめる彼女たちに、
「センパイは、俺の女だ」
加えて、言い放つ。
「は?」
「朱音くん……?」
紗希センパイも、一緒になって動揺していた。
まさか、突然の転校生に、彼女扱いされるのだ。そりゃ動揺もするよ。
「何やるつもりかしんねーけど、何かやったらぶっ殺すぞ」
「はあ? お前、この化け物と付き合ってんの?」
「今何つった」
「……」
茶化そうとするいじめっ子を、あたしは牽制しておく。
「今何つったんだって、聞いてんだよ。先輩さん」
「何が化け物なんだよ。少し人と違うだけじゃねえか。真っ白な肌だって、ワインみたいな目の色だって、何か問題があるのかよ。何にもねえだろ」
何にも、人と変わらないのだ。
ただ、見かけが違うだけ。
たった、それだけのことなのだ。
そんな些細な理由で、彼女を迫害する連中が許せなかった。
「……何だよ、お前」
「理解してもらえなくてもいい。でも、一つだけ覚えとけよ」
でも、それはあたしの考えだ。
絶対に、皆が皆、イエスと答えるものではない。
だからこそ、あたしはあたしの信じる道を進む。
「……」
「紗希センパイには、手を出すな。俺の女だ」
「もしも出したら、どうなるかわかってるだろうな。先輩だろうが、女だろうが、俺は容赦しねえぞ」
「……わかった」
たとえ、誰に嫌われようとも。
たとえ、間違っていると言われようとも。
あたしは、ただ進み続けるだけだ。その先に、何があるのかは進まないとわからない。
「なんで上から目線なんだよ」
「……わかりました」
「ああ。早く散れよ」
あー、スカっとした。
でも、あたしがスカっとするだけじゃ、ダメなんだ。
「……」
紗希センパイが、どう思ってるのか。
それだけが、ただ心配だった。
「ふうー……」
ひとまず事態が終わり、いじめっ子たちが退場してゆく後ろ姿を見送り。
とりあえず、紗希センパイの上着がどこにもなかったので、あたしは上着を脱ぎ、それをふぁさっと、紗希センパイの肩にかけた。
「あの、朱音くん……」
「はい。助けにきました」
「あ、ありがとうございます」
戸惑いながらも、紗希センパイはそれを受け入れてくれた。
良かった。地面に投げつけられるんじゃないかって、ちょっと心配だったんだ。
「もう五月なのに、夕方はちょっと寒いですねえ」
まあ、上着脱いだからね。
Tシャツ着てるけど、ちょっと寒いよね。
「そう、ですね」
「大丈夫ですか。紗希センパイ」
「大丈夫……に見えます?」
力なく笑う、紗希センパイ。
笑えるような状況じゃないだろうに、必死に笑おうとするこの人の姿勢に、あたしは思わず胸が痛くなってしまった。
「見えません」
「です。どうなるのかなって、諦めてました」
「ナイフで、何をしようとしてたんですか」
髪の毛を切ろうとか、そんなしょうもないものだろうけど。
と思っていたら。
「肌を切って、血の色を見ようとしてたみたいです」
さらっと、言い放つ紗希センパイ。
えげつない。
あまりにも、人としてどうかしてる。
動揺して、うまく言葉にできない。
「……」
そんな、ありない。
紗希センパイは人間だ。人間の血は赤いに決まってるじゃないか。緑とか黒だとか、そんなことを本気で思っているわけじゃないだろうけど、冗談にしても笑えない。笑えなさすぎる。
「言いませんからね。わたしは誰にも言えませんから」
そう語る彼女の紅い瞳には、涙が浮かんでいた。
何が原因で泣きそうになっているのか。理由はあまりにも思い浮かびすぎて、一つに特定することができない。
「紗希センパイ、辛いなら泣いてもいいんですよ」
でも、これだけは言える。
泣きたいなら、泣けばいい。
笑いたければ、笑えばいい。
「……」
そのために、あたしはいる。
その役割を担いたくて、あたしはここにいるのだ。
「胸、貸しますよ」
「ごめんなさい、朱音くん」
いつものような、余裕の色を見せず。
「いいえ」
紗希センパイは、すぐに小さな身体をあたしの胸に預けてきた。
顔は見えない。でも、身体だけは小刻みに震えていて、恐怖を感じていたのだろうと推察することは簡単だ。
「っ……怖かったよっ……」
「大丈夫です。大丈夫ですから」
そんな彼女の髪の毛を、ゆっくりと撫でる。さらりとしていて、触ると瞬間にふわりとシャンプーの匂いが漂い、鼻孔をくすぐる。
「今は、思いっきり泣いてください」
やがて。
感情のダムは、小さく決壊し始める。
最初は微かだが、徐々に大きく。徐々に、幅を拡大し始める。
「……はい……」
こんな姿、初めて見た。
悲しみと、憎しみとの混ざり合った感情。
いや、それ以外も混ざっているのかもしれないけど。
「どうして……私ばっかりこんな目に……っ……」
その言葉を皮切りに、紗希センパイは嗚咽を上げて、悲しみの滴を流し続けた。
数秒ではなく、数十秒でもなく、数分間だったが、それ以上の時間にも感じられるほど、彼女の感情をむき出しにした泣き声は悲しくて、切なくて。
同情の言葉をかける? そんな選択肢は、あたしにはなかったし、紗希センパイはそんなことを望んでいないと思う。
だからあたしはただ、抱きしめた紗希センパイの頭を子供のように、撫で続けることしか出来なかった。
一生分は泣いたんじゃないか、というくらい泣きはらしたあと、あたしの胸からゆっくりと離れてゆき、そして。
笑顔を浮かべて、紗希センパイはあたしを見つめながら。
「ん。もう、大丈夫です」
と、笑った。
その気持ちに、多分嘘はないだろう。
「そういえば、しおりんと仲直りしました」
「そうですか。それは良かったです」
すると、紗希センパイはもっと笑った。
やっぱり、妹が大事なのだ。どんな時でも。
「紗希センパイ」
「はい?」
「肌、綺麗ですよね」
そういえば、紗希センパイの上半身の肌を、まともに見たのは初めてだった。
腕と同じように真っ白で、透き通るような幻想的な色をしていて、宝石みたいに綺麗だったなあ。
「触ってみますか?」
「え、いいんですか?」
ちょっと、それは、触ってみたいぞ。
すべすべしてるんだろうなあ。
腕は触ったことあるんだけど。
でも。
「うそです」
ぺろ、と小さく舌を出して、悪戯っぽく笑う。
冗談か。あーあ。
「何だ……」
「そんなこと言ってくれたの、朱音くんが二人目です」
「はは……」
二人目。多分、一人目はあたしだけどね。てへ。
「でも、朱音くん」
「はい」
「俺の女ってどういうことなんですか? わたし、いつの間に朱音くんの彼女さんになってしまったんでしょうか」
「えーと、その、あのですね」
どう説明しようかなあ。
紗希センパイは、変な理由とか、筋の通らない話じゃ絶対に納得しないし。
正直に話すしかないか。
「はい」
「気分を害されてしまったのなら、申し訳ないんですけど」
「いいえ、害してはいませんが」
何だか安心してしまった。
でも、まだまだ安心はできない。
「こうするのが、良いんじゃないかなって、しおりんと決めたんです」
「汐里と?」
「はい。俺と付き合ってることにすれば、誰も迂闊に手が出せないですし」
あたしは、この学校では何かもう有名人になってしまっている。有名人の彼女ともなれば、早々手出しはできない。
それに、学校の外にも仲間がいる。彼らが守ってくれる限り、紗希センパイは学校の外では安全だ。
それでも、手出しをする人間がいれば、しおりんが退治する。
この三重の構えで臨むつもりだった。
疑似カップル化案は、まあ、半分くらいあたしの意向。訂正、四分の三くらい。割と自己満足も入ってるけど、これくらいはいいよね。
「そう、なんですか? でも」
「しおりんが出したアイデアです」
「あの子は、どうして」
不思議そうに、紗希センパイは首を傾げる。
今まで、従順にお願いを聞いてくれたしおりんが、突如として、紗希センパイとの約束を破り、紗希センパイを助ける側についた。
それが、不思議でしょうがないのだろう。
「紗希センパイのお願いを破るほうが、紗希センパイ自身のためになると、気づいたんですよ、しおりんは」
「……」
他人から見れば、笑われるかもしれない。
他人と比べて、不器用と言われるかもしれない。
それでも、しおりんは必死だった。姉の頼みを聞き入れ、自らの思いを殺し、ただただ日々を生きてきた。
「わけのわからない関係はやめましょうよ。姉妹じゃないですか。先輩後輩じゃないですか。もっと、頼ってください。紗希センパイ」
「でも……」
「信じられないですか」
「……すみません」
無理もないか。
彼女の身体に染み付いた不信は、言葉なんかじゃ説得して拭いきれない。やっぱり、実際にあたしたちが動いてる、というところを見せないとだめか。
でも、ちゃんと手は打ってある。
「まあ、そろそろですよ」
「……何がです?」
「楽しみにしていてください」
「……?」
あたしの意味のわからない自信に、紗希センパイは首を傾げていた。
一体、こいつは何をするつもりなのか。
そんな感じの視線で、こちらを見つめていた。
その時。
『校内に残っているみなさん、こんにちは。生徒総会からの連絡事項を、取り急ぎお知らせいたします』
校内放送が、放課後の学校に流れる。生徒総会放送、つまり全体放送だ。
「生徒総会?」
「はい。しおりんが、必死に走り回ったんです」
しおりんは、あたしと別れてからずっと、理事長。つまり、彼女たちの父親と話をしていた。かなり困難な交渉になると予想していたが、この放送が流れたということは、しおりんの交渉は成功に終わったのだ。
『北宮学院生徒総会は、北宮学院理事長の承認を経て、高校二年三組、出席番号十二番、黒崎紗希を、副生徒総長として任ずることになりました』
「え……?」
生徒総会の決定を、最終的に学校としての決定に変化させるのは、理事長の仕事だ。
理事長の許可さえ下りれば、副生徒総長の発議は生徒総会をほとんどの場合通過する。
紗希センパイを、副生徒総長にすることだって可能だ。何だって可能だ。
それが、この学校における黒崎家の力なのだから。
『現副生徒総長、黒崎汐里と共に生徒総会の運営を行ってゆきますので、生徒諸君についてはこれまで通りの、手厚い支援をお願いしたく思います。以上、生徒総会からでした』
そして、放送部による生徒総会連絡は終わった。
大半の人間は、こんな放送を気にしていない。
黒崎の人間が副生徒総長になった。何もおかしいことじゃないからだ。
でも、当の黒崎本家の長女は、困惑の視線を浮かべて、メガネ越しに輝くワインレッドの瞳をくりくりと動かしていた。
「どういうことですか……?」
「これで、関係は対等ですね」
「どうして、わたしが副総長に?」
おずおずと尋ねる紗希センパイ。
一度は拒絶され、決して就くことはなかったであろう、副生徒総長の座。将来の黒崎家を運営するための、学びの場。そこに何故か、自分がいる。疑問に思うのも、おかしなことではない。
「こうすれば、紗希センパイは出来損ないじゃなくなりますよ。そんなこと、誰も口が裂けても言えなくなります」
「でも」
「紗希センパイは優秀なんです。生徒総会で、活躍してください」
紗希センパイは、非公式にしおりんを手伝っている。しおりんは何度も窮地に追い込まれたが、その度に紗希センパイがアイデアを提供して、困難を乗り越えてきた。
それならば、生徒総会に入っても、絶対に活躍できる。
むしろ、出来ないという理由がない。
「でも、わたしはできそこ……」
しかし、紗希センパイは視線を落として、再び自らを貶め始めた。
まあ、予想していた。
でも。
「じゃあ出来損ないだって、証明してくださいよ」
アプローチを変える。
「え……」
すると、紗希センパイは、顔を上げて、あたしの瞳をじいと見つめる。
よし、いけそうだ。
「いつも、自分のことを出来損ないとか言いますけど、俺はあなたが出来損ないだってところ、見たことないんですよ」
「……」
これは、心からの思いだ。
女の子だったときから、ずっと思っていた。
容姿端麗、才色兼備、才気煥発。黒崎家のお爺様がどう思っているのかはどうでもいいが、この学校にいる人間で紗希センパイを知っている者の中に、彼女を出来損ない呼ばわりする者はいない。もちろん、気に食わないから貶している人間はいるが。
「だから生徒総会で、散々クソな仕事やってくれたら、紗希センパイが出来損ないだって、認めてあげますよ。ボロクソに貶してあげますよ。この出来損ないがって」
「でも、それだと黒崎の名前に泥が」
「泥を塗らないのなら、紗希センパイは優秀なんですよ。出来損ないなんかじゃない」
「……朱音くん」
正直、屁理屈のようなものだ。
論理としては、紗希センパイを無理やり動かすもので、最低の作戦だ。
それでも、これくらいはやらないと、紗希センパイの意識は変えられない。
「あなたは、出来損ないなんかじゃない。可愛くて賢い、女の子です。黒崎のお爺様がなんですか。打ち勝ってくださいよ。それができる人ですよ、あなたは」
「そんな……わたしは……」
「そんなに、自分を卑下しないでください」
紗希センパイは。
可愛くて、賢くて、頭もよくて、優しくて、人思いで、世の中を恨んでも妹のことを恨まず思って、自分のことよりも他人のことを優先する人で、あたしがずっと憧れて。恋焦がれてきた人だ。
「……そんな、優秀なんて言われる価値もないんですよ……」
「どうして、そこまで言うんですか」
だからこそ、あたしは反発する。
彼女が自らを貶めようとすれば、そうじゃないと否定する。
だって、それがあたしの隠せない思いで、本当の気持ちだから。
「わたしは、大切な人を失ったんです」
大切な人。
彼女が、物憂げな表情で語る大切な人。
紗希センパイに手を差し伸べて、それゆえに去っていった少女。
「……」
「何も求めなければ、その人は失われなかったんです。朱音ちゃんは、汐里と仲良くここで暮らせたんです」
「……そんなこと、ないですよ、多分」
だって、それはあたしだから。
でも、まだそれを明かすことはできない。
ウソを明かすことで、紗希センパイに嫌われたくない。身勝手だけど。
「そう……ですかね」
「その人だって、絶対に紗希センパイを嫌って、離れたわけじゃないですよ。だって、紗希センパイは優しいし、楽しい人ですし」
「……」
「何かあったんですよ、きっと。紗希センパイのせいじゃないです」
絶対に違う。
だって本当は、離れていないんだから。
紗希センパイが大切に思ってくれる、『朱音ちゃん』は、『朱音くん』となって、今ここにいるのだから。
「どうして、そんなことがわかるんですか」
「その人、紗希センパイと喧嘩別れしたわけじゃないんでしょう?」
「そう、ですけど」
「なら、いつか戻ってきますよ。それで、説明してくれますよ」
本当は、戻れないかもしれない。
本当は、二度と説明できないかもしれない。
もう、女の子には戻れないのかもしれない。
それでも。
「……」
いつか、機会が来たら。
いつか、話すときが来たら。
あたしは、自分の存在を明かす。
そして、想いを直接伝えたい。
「だから、信じてあげてください」
「……そう、なんですかね」
「ええ、きっと」
きっと、直接伝えたい。
しおりんを通してじゃなくて、自分から。
やがて、紗希センパイはゆっくりと唇を動かし。
「……朱音ちゃん、待ってるから」
あたしに背を向け、夕陽の彼方を見つめて一人、透き通る声で呟く紗希センパイ。
紡がれた言葉は、ひんやりと冷たい夕空の下でゆっくりと広がってゆく。
「……」
その背中と様子を、あたしはじいと見つめ続けていた――。
――何分が経っただろうか。紗希センパイはやがて、こちらに振り返り、そしてやんわりとはにかんだ。あたしも落ち着き、状況を客観的に見つめられるようになった。
だからちょっと、言いたいことがあるんだけどなあ。言いづらいんだけど。
「ありがとう、朱音くん」
「いえいえ」
「わたし、今不思議な気持ちです」
余計に言いづらくなってしまった。
真面目な話の最中だけど、やっぱり気になってしまう。
「どういうことですか?」
「こんなに、温かい気持ちになったのは、久しぶりです」
「……それは、良かったじゃないですか」
「はい。本当に」
ほんわりと笑いを携える紗希センパイ。
ああ、やっぱり言ってしまおう。やっぱり隠せない。
「で、あのー、えっとですね」
「はい」
「えっと、ブラがですね、見えてるんです。ここからだと」
くだらないことだと笑うかもしれない。
それでも、あたしの着ていた大きめのだぶだぶなシャツを身に纏い、はだけた衣服の前部分からちらりと見える白い肌、そして下着というのは非常に扇情的であって。
どうも、視線がさっきからちらちらと、そちらに移ってしまうのだ。
さっきは集中していたし、熱中していたから気づかなかったけど、気づいてしまった今は、どうしようもなくなってしまった。
「ふふ。可愛いですね、朱音くん」
そんな様子を、くすりと笑って紗希センパイは見つめていた。
「純粋なんです。俺」
どんな顔をすればいいんだろうなあ。
胸なんて、自分のものを見飽きていたから何とも思わないけど。
紗希センパイのものとなると、話は別だ。
「胸、触ってみますか?」
ちょっとちょっと、どういうことですか。
「えっ?」
「どうせ、冗談とか言うんでしょ? わかってますよ」
たちの悪い冗談だなあ、ハハハ。
「……いいえ?」
「えっ」
思わず、声をあげてしまった。
どういうことですか? どういうことなんですか?
「助けてくれた、……お礼です」
「え、えっと、え?」
何か、少女マンガにこんな展開あったような。
とんでもないシチュエーションだなあ、ハハハと笑っていたのに、まさか自分にそのシチュエーションが降りかかってくるなんて。
いざ、そんなチャンスがやってくると、頭がパニックに陥り、どうしたらいいのかわからなくなる。えっと、本当にどうしたらいいんだろう。
「……嫌なら、いいですよ?」
「じゃあ、いただきます!」
「だーめ。時間切れ、です」
すると、くすりと紗希センパイは笑った。
「あー! また弄ばれたー!」
そういうことか。
紗希センパイは、茶目っ気のある人だ。
最初から、からかうつもりで言ったのだ。
あー、そこを読み取れなかったのが辛い。本気にして、どきどきしてしまったのが何だか勿体ない。
「可愛いですね、朱音くん」
そう言いながら、紗希センパイはシャツのボタンを留めはじめた。彼女もあたしと同じで、話に集中していたのだ。そんなことを気にする余裕はなかった。
「……むう、面白くないですよ、そういうの」
「でも、わたしはあなたの彼女さんですから」
「へ?」
「疑似的に、付き合ってくれるのでしょう?」
「そ、それはそうですけど。いいんですか? 好きな人、いるんじゃ」
何か、聞いてしまった。勢いで。
紗希センパイの好きな人。一体誰なんだろうなあ。
誰であっても、絶対に紗希センパイは譲らないけど。負ける気はないけど。
「あの子は勝手にどこかに行ったんです。仕返し、です」
え?
勝手にどっかにいった?
好きな人が、勝手にどっかいった?
「その、まさかなんですけど」
「はい」
「紗希センパイが好きなのって、その転校していったっていう……」
もしかして。
え、もしかして?
「女の子、ですか?」
尋ねてみると、紗希センパイは。
「ち、ちがいますよっ! そんなわけないじゃないですかっ!」
雪のように真っ白な耳たぶを赤くして、声を甲高く上ずらせて。
あからさまに視線を左右に動かして、動揺を表現して。
両手をぶんぶんと左右に振り、必死に否定をして。
「で、ですよねー」
「は、はい。違いますよっ! 汐里には絶対に言わないでくださいね!」
あー。
これは、あれだ。
好きなんだ。露骨すぎる。
「は、はあ……」
でも、やばい。
やばすぎるぞ。
転校していった、あたし(女の子)に。
紗希センパイは、恋してた。
考えられないなあ。どういうことなんだろうなあ。
でも、一つだけ言えることがある。
最悪だー! 最悪すぎるー!
本編は、これで終わりです。
次はエピローグになります。
あと少し、どうかおつきあいくださいませ。