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おとこのおんなのこ  作者: 平山ひろてる
第1巻 『センパイの愛した、おもいびと』
5/7

最終話前編 『それでも、あたしは』

 頭が混乱している。

 何てことをカミングアウトしてくれるのか。

 母さんはまだ帰ってこない父さんに電話をし、

「……お父さん、中国に出張だって。帰ってくるのは明日だわ」

 そして、残念そうに肩をすくめてあたしを見つめた。

 肝心のあたしはと言うと。

「……」

 あまりのことに、何も言えずにいた。

「お父さんの事情は、またお父さんに聞きなさい」

 真実味を帯びた、母さんの言葉。

 本当に、父さんは女の子だったのだろうか。

「母さん」

「なあに?」

「本当なの?」

 尋ねてみる。

「朱音は、どう思う?」

「信じられない」

「でも、朱音も男の子になったでしょう?」

「そうだけど、そうなんだけど」

 何もおかしいことじゃない。

 おかしいことだけど、つい最近、自分の身に起きたことだ。

 だから、認めざるをえない。そして、他の人にもこの現象が起こっていても、おかしいことじゃない。

「理由はわからないわ。何にもわからない」

「……」

「突然、男の子になったのよ。本当に、突然ね」

「それは、いつの話?」

「そうね……高校生のころ、かしら」

「お爺ちゃんたちは、何て言ったの?」

 父さんと母さんが、あたしを受け入れてくれたように。

 彼と彼女の両親は、受け入れてくれたのだろうか。

「ただただ驚いてたわ」

「そうなんだ……」

 そりゃそうだろうなあ。

「まあ、理解のある親で良かったわ」

「なかなかいないと思うけどね」

「そうね」

 少し、あたしは気になることができた。

 父さんと、母さんのれないについての話だ。

「……その、父さんと母さんは付き合ってたって言ってたけど」

「ええ。女の子同士よ。今まで隠していて、ごめんね」

「……ううん、話してくれてありがとう。でも、そうだったんだ……」

 今まで、知らなかった。

 父さんと母さんは恋愛結婚で、小学校のころからの幼馴染だとは知っていた。

 けれども、まさか女の子同士だっただなんて。誰も教えてくれなかったし。

 だから私が、『女の子が好きだ』、と言っても反対もされずに、あっさりと受け入れてくれたのだろう。

「禁断の恋っていいよねー、きゃあー、とか言ってたら、お父さんが男の子になったんだもの。そりゃ、焦ったわ」

「そんなあっさり?」

「ええ、あっさりね」

「それから、一度も戻ってないの?」

「数日間とか、たまには戻ってたわね」

 数日間。

 あまりにも短すぎる。

 今まで、ずっと女の子のままだと思っていたのに、あの環境はもう戻って来ない。過去の日々の中に沈んでしまった。

「本格的に元通り、にはならないんだ」

「そうね。今じゃあもう、ずっと男のままよ」

「じゃあ、戻れないんだ……」

 何とも言えない感覚が胸を支配する。後悔ではない、不安だ。不安が全身を支配した。

「そうね」

「そうなんだー……」

「朱音」

 気持ちを沈めるあたしに、母さんが語りかけてくる。

 その声色は、優しく包容力に満ちていた。

「うん?」

「あなたは、センパイが好きなのでしょう?」

「うん」

「好きという気持ちは、変わらないのでしょう?」

「そうなんだけど、でも」

「でも?」

 気持ちは変わっていない。

 変わっていないはずなのだけれど。

「あたしは本当に、紗希センパイが好きだったのかなあ、って」

 しおりんの顔が、あたしの頭の中に浮かぶ。

 あたしは本当に、紗希センパイが好きだったのか。見せかけの姿だけを好きになったんじゃないのか。本当は好きじゃなかったんじゃないか、と。

「どういう意味かしら?」

「よくわかんないの。わかんないけど……」

「とにかく、朱音」

「うん」

「何とも言えないわ。あたしには、何とも言えない。だから、ゆっくりと考えなさい」

「そんなー」

 救済を求めていたのに、与えられた言葉は突き放すものだった。

 ゆっくりと考えろと言われても、何をどう考えればいいのかすらわからない。どん詰まりの中にいるのに。

「あたしは、元々あの子が好きだったわ。あの子も、あたしを好きでいてくれた。誰に何と言われようと、あたしたちは思い合ってたわ」

 あの子、父さんのことだろう。

 正真正銘の、女の子同士のカップルだ。

 周りからは、悪口や陰口を叩かれただろう。

「……」

 それでも、二人は寄り添ってきたのだ。

「だから、あの子が男の子になってからも、関係は変わらなかった。だって、あたしが好きになったのは、あの子だもの。女の子だろうが、男の子だろうが、あたしは構わなかった」

「でも、女の子以外に興味あったの?」

「そうね、朱音」

「うん」

 どうして尋ねてみたのか。

 それは、単純な疑問だった。

「全くなかったわ。男の子になんて、興味はなかった」

「だよね……。なら、父さんのことは嫌いになるんじゃないの?」

「どうして、そう思ったの?」

「ええと、何となくなんだけど」

 女の子好きの女の子が、男の子を好きになる。

 ありえないんじゃないか、と思ったのだ。

「人間が好きになるのは、人間でしょう。あなたは、性別を好きになるの?」

「……そうじゃない、と思うけど」

 世間には、様々な人がいる。

 トラウマがあって、男の人が嫌いな人もいる。その逆もしかり。

「好きになった人間が、たまたま女の子か、男の子だった。性別なんて、後からくっついてくるものじゃないの?」

 母さんの考えは、多様な考えの一つだ。

 異を唱える人だっているだろう。

 ありえないだろう、と叫ぶ人もいるだろう。

 それは、あたしだって例外ではなかった。

「それは、どうなんだろう」

「共感してもらえるとは思わないし、させるつもりはないわ。でも、少なくともあたしはあの人を愛してたし、今も愛してる」

 でも、一つだけ感じ取ることが出来た。

 真摯に想い人のことを語る、気恥ずかしいばかりの母さんの姿を見つめて、あたしは何だか、暗い気分に微かな光が差し込んだように思った。

「……」

「結局、二人の気持ち次第なのよ。気持ちが通じてさえいれば、どんな相手でもうまくいくわ。異性同士でも、同性同士でも、ね」

「母さん……」

 好きになったのは、性別なのか。それとも本人か。

 二人の気持ち次第。

 その言葉は、あたしの背中を押してくれた。

「だから、考えなさい。朱音。それで、悩みなさい。悩み続けた先に、あなたの素晴らしい未来があると思うわ」

「……うん。ありがとう、母さん」

「あなたは、あなたの道を進めばいい。一度しかない、短い人生ですもの。楽しんで、あなたがやりたいように生きればいいわ」

「ありがとう、母さん!」

 女の子にはもう、戻れないかもしれない。

 それでも、悔やんでばかりではいられない。

 たった短い、それこそ数十年の人生なんだ。

 やりたいようにやって、生きればいいじゃないか。今までそうしてきたんだ。

「本当、親子で手間のかかる子だわ。でも、そこが可愛いんだけどね」

 そう語ると、母さんは唇をにいと上げ、温かい笑みを浮かべた。

 でも、まだ完全には、想いが固まらない。

 後一歩、何かが必要だった。


 ――翌朝。教室でのこと。

 しおりんは迎えに来てくれなかったし、目を合わせても逸らされる。いわゆる無視という状態だ。

 今までずっと二人で行動していたのに、突然の決別に、クラス中は訝しむ視線をあたしに向けていた。

『ああ、ヤンキーがやらかしたのか』。とか。

そんな感じの。

「おい、ヤンキーがやらかしたのか」

 茶化す、山岡の声。

 こいつ、テンプレートそのままじゃないか。

「ちげーよ、バカ」

「そうなのか。何があったんだよ」

「何もねーよ」

 山岡に話したところで、状況は何も変わらない。

 だから、何も話すつもりはなかった。

 でも。

「ウソつけ。あいつのあんな顔、久しぶりに見たぞ」

「わかるのか」

「そりゃ、友達だからな」

「……そうか。なあ、山岡」

 少し、聞いてみたいことが出来た。

「ん?」

「もしも、もしもだけどな」

「おう」

「お前、女の子になったらどうする?」 

「なんだよ、切り取るってことか?」

 股間を指さしながら、笑い飛ばす山岡。軽く流してやろう。

 ここで反応しても仕方ないし。

「いや、そういうことじゃない」

「? どういうことだよ」

「そのままの意味だよ。身体が女の子になったら、お前はどうする?」

「いいじゃねえか、おっぱい揉み放題だぜ」

 楽しげに語る彼に、

「すぐに飽きるぞ。大したもんじゃねえよ」

 あたしは、素直な感想を伝えてやる。

「マジで」

「ああ」

 すると、何だかがっくりと肩を落として落ち込んでしまった。なんで落ち込んだのかはわかるが、なんであたしに言われて落ち込んだのかは不思議でならない。

「まあいいや。何だか気が晴れたわ」

 とにかく、しょうもない話を交わしただけだけれど。

 それは、気晴らしになった。やっぱり、息抜きって大事だ。

「おう。それなら良かった。何だかお前、顔白いからな」

「寝てないんだよ。考え事してて」

「そうか。チンピラのボスはちげーなあ」

「その話もう広まってんの?」

 流れで、引き受けてしまったボスの話。

 まさか、本当にやることになるとは思わなかった。

「おう。かなり広まってるぞ」

「マジかー」

「なるようになるだろ。頑張れよ」

「ああ……」

 まあ、その通りだ。

 なるようになるだろうし。でも危険はある。危険はあるから、助けを求めておかないといけない人がいる。

 安全を確保するためにはまず、しおりんと仲直りしないとなあ。


 ――そして、放課後。

 いつも通りに、こっそりと英語研究会の部室に入る。何だか視線を感じた気がするけれども、しおりんのものだろうか。

「あれ? 来てないんだ」

 中を見てみると、紗希センパイはいない。

 しおりんがいないのは、多分副生徒総長の仕事があるからだろうし。

「……ふう」

 椅子を引き、とりあえず着席。

 うん。せっかくだし、考え事をしていよう。

「……朱音くん?」

 と思ったら、来客だ。

 望んでいた人が、やってきた。

「こんにちは、紗希センパイ」

「はい。こんにちは。……あの」

 いつも通り、あたしの向かい側に座るやいなや、口を開いて語りかけてくる。

 何だろう。

「どうしたんですか?」

「汐里と、喧嘩してますよね」

「へ? 喧嘩?」

「えと、汐里と、朱音くんです。喧嘩してますよね?」

「ど、どうなんでしょう。どうしてそれを、紗希センパイが?」

「……汐里、昨日はわたしに泣きついてきたんです」

 びっくりした。

 しおりんが、紗希センパイに泣きつくなんて。

「そんな大げさな」

 去り際、確かにしおりんは泣いていたけど。

 正直、泣きたいのはあたしのほうだぜ。泣かせてくれよ。

「朱音くん」

「は、はい!」

 冗談で言ってるつもりかと思ったけど、紗希センパイはマジだ。これは本気で怒っている目だ。深い血のようなワインレッドの瞳は、静かな怒りに満ち溢れていた。

「わたしは、怒っています」

「……」

「大切な妹なんです。大切に扱ってあげてください」

 やばいなあ、紗希センパイ勘違いしてる。

 あたしとしおりんが喧嘩して、それでしおりんが泣かされたものだと思ってる。

 実際は、紗希センパイのことで言い争いをして、負けたのはどっちかと言えばあたしなんだけどなあ。

「……大げさ、ですよ」

「何があったんですか」

「それは、えと、あの……その……」

「言えないんですか?」

 言えるわけがない。

 訝しみながら尋ねてくる紗希センパイに、罪悪感を覚えながら。

「……すみません」

 とにかく、拒絶するしかない。

 だって、言えないんだから。想いを伝えることは、まだできないし。

「朱音くんは、きっと優しい人なんです。そんな優しい朱音くんが、どうして汐里を泣かせたりなんてしたんですか」

「違うんですよ、それは」

 だめだ、勘違いしてる。

 あたしが、しおりんを攻撃したと思っている。

 そんなことはないのに、それを説明するには、相手が悪すぎた。

「何が違うんですか?」

「……やっぱり、言えません」

「汐里、泣いてました。理由を尋ねても、『わたくしが悪い』の一点張りです。何があったのですか。どうして汐里は、そんなことを言ったのですか」

 怒り心頭、といった感じに紗希センパイは、机に乗せた手を震わせながら語る。

 その怒りを、もう少し外に向ければいいのに。自分に向ければいいのに。そんなことを思わせるくらい、静かだけれども嵐のような憤怒の様相だった。

「しおりんは、理由を言わなかったんですか」

「ええ。何も」

「何度も、尋ねたんですか」

「ええ。そうでなければ、朱音くんを責めたりなんてしません」

 喧嘩の理由は、大きく分けて二つ。

 一つは、紗希センパイを救済しようとしたこと。

 二つは、紗希センパイを思い続けることへの彼女の異論。

「……ありがとう、しおりん」

 でも、しおりんはどちらも隠してくれた。

 ただ、想いをひた隠しにしてくれた。

 トラブルを回避出来たこと、そこは不幸中の幸いだった。

「はい?」

「何でもないです。えと、紗希センパイ」

「はい」

 さて、どうやって説明しようかな。

「喧嘩じゃないんです」

「わかりました。では、何なんですか」

「方向性の違い、です」

「今は、そういうギャグを飛ばす場面ではありません」

 ギャグじゃないんだけどなあ。

 割と、本気の話なんだけどなあ。

「違うんです、本当なんです」

 でも、どう説明するか。どこまで説明するか。

「……説明していただいても?」

「詳しく、説明することはできません」

 訝しむ紗希センパイを前に、あたしは悩みながら考えていた。

 どうしようかなあ。どのようにしようかなあ。

「なぜ」

「……」

「どうしてなんですか、朱音くん」

「……」

 悩むあたしを前に、紗希センパイは厳しい視線と口調で問い詰めてくる。大事な妹の問題だ。それは、気が気でならないだろう。

 あたしはあくまでも、転校生。しおりんの友人ということにはなっているが、紗希センパイとはそこまで親密な仲ではない。

「わたしには、聞かれたくないこと、なんですか?」

「率直に言うと、そうです」

 やっぱり、素直に話すべきか。

 話さないと、もっと話がこじれてしまいそうだ。

「わたしの、容姿のことですか」

「違います。でも、近いかもしれません」 

「わたしの、将来についてですか」

「立派なお嫁さんになってください。違います」

 少し、気を紛らわすためのジョークだったが、軽くスルーされてしまった。

 紗希センパイの顔が怖い。

「……じゃあ」

 やがて、ワンクッション置き。

「……いじめのこと、ですか?」

 彼女は、小さな声で、小さな唇から言葉を紡ぎだす。

「そう……です」

「それで、汐里と揉めたんですね」

「それもあります」

「それも?」

 まずい。

 まだ、想いを伝えるべきじゃなかった。

 誤魔化さないと。

「いえ、そうです」

「先にあの子のために言っておきますが、わたしがあの子に何もするな、と言っているのです。もしも、あの子が冷たい子だと思っているのなら……」

 悲しい表情を浮かべて、紗希センパイはあたしに忠言してくる。

 が、そんなことは問題じゃない。しおりんは、そんな子じゃない。よく知ってる。

「知ってます」

「どうして……」

「何もかも、知ってます」

 どうして、しおりんが、紗希センパイを庇わないのか。

 普通に考えれば、しおりんは紗希センパイを庇うはずだ。姉だから。

 しかし、しおりんは庇わない。それは、紗希センパイの願いだからだ。

「聞いたんですか」

「はい」

「教えたんですか」

「はい」

「朱音くん、あなたは本当に……」

 これは、黒崎家の病理だ。

 どうしようもない、病理現象だ。

 まさか、しおりんがそれを語るとは思わなかったのだろう。紗希センパイは、驚きの表情を浮かべていた。

「俺は、そんなことは間違ってると思います」

 でも、そんなことはどうでもいい。

 あたしは、想いを伝えるだけだ。

「……」

「紗希センパイには、幸せになる権利がある」

「ありませんよ、そんなもの」

「ありますよ」

 ない人が存在するはずがない。この世界中に存在する、どんな人でも、幸せになる権利はある。幸せになる機会が、与えられないだけだ。

 紗希センパイには、幸せになる機会も権利もあるのに。

「ありません。わたしは、黒崎の出来損ないですから」

「出来損ないなんかじゃないです。紗希センパイは、立派な人です。一人前の、俺の尊敬する先輩です」

「そんな価値、ありませんよ。こんなものに」

「いいえ、あります」

 すると、紗希センパイは自嘲の笑みを浮かべた。

「……朱音くん、もういいでしょう」

「はい?」

「わたしのことは、もういいでしょう。汐里と早く、仲直りしてください」

 どうして、この人は自分の問題をどこかへと、放り投げようとするのか。

 苦しんでるのは自分なのに、どうして、しおりんの事ばかりを考えるのか。

「嫌です」

 だから、あたしは即答する。

「え……?」

「このまま、しおりんと仲良くするわけにはいきません。だって、考えも一緒じゃないし、このまま妥協するなんて、俺はヤです」

 妥協なんてしたくない。

 あたしは、あたしの信じる道を進みたい。

「そんな、だめです。わたしのせいで、そんなことは」

「偉そうなことを言わないでください。これは、あなたのせいじゃない。俺が、俺の意思で選んだことですから」

「……意地悪しないでください」

 屁理屈に聞こえるかもしれない。

 意地悪に聞こえるかもしれない。

 それでも、あたしは、この選択が正しいと信じている。

「意地悪じゃないです」

「……」

 だからこそ、強気に主張し続ける。

 やがて、紗希センパイは視線を机に落として、俯いてしまった。表情は見えない。、見えないが、ひるむわけにはいかない。

「もしも、仲直りしてほしいなら、しおりんに助けを求めてください」

「……」

 助けて欲しいと、言ってくれ。

 お願いします。紗希センパイ。

 心の中で、強く願い続けるが。

 彼女は、俯いたままあたしの目を見ずに言葉を紡ぐ。

「その後に、俺に助けを求めてください。俺はあなたを全力で助けます。何があっても、何が起きても、絶対に助けます」

「……嘘ですよ」

「嘘じゃないです。全部、本当のことです。絶対に助けます」

 あれ、何だかうまくいくような気がする。

 声のトーンも、そこまで悪いわけじゃない。どこか、希望に縋ろうと悩んでいるような、そんな声だった。もう少しだと、あたしは思っていた。

 でも。

「何にも、知らないくせに」

「……はい?」

「何にも、黒崎の事情を何も知らないあなたが、そんなことを気軽にのうのうと言わないでください!」

「……ですけど」

 顔を上げ、あたしを見つめる紗希センパイの顔は。

 今までに見たことがないくらい、世界を恨む表情に満ちていて。決して救われることがないと知っている、死刑宣告後の囚人のようだった。

「黒崎本家の人間は、優秀で優美で可憐でなくてはならないんです! わたしみたいな出来損ないなんて、黒崎に置いてもらえるだけありがたいんです。それなのに、汐里に迷惑なんてかけられないんですよ!」

 透き通った、水晶の声が英研の部室に響く。

 感情をこめて、叩きつけるように叫ぶ紗希センパイ。

 瞳には、微かに水分が含まれていた。

 頬を赤く染めて、力いっぱいに言葉を紡ぎ続ける。

「……」

「汐里は、これから当主を目指すんです。いずれ、わたしなんて遠くに捨て去って、大空に羽ばたくでしょう。それを、わたしみたいな足かせが邪魔することで、この輝かしい未来が失われてしまう。そんなこと、わたしは嫌なんですよ!」

「どうして、そんなことを思うんですか」

 絶対に、しおりんはそんなことを思わない。

「姉ですから。役立たずの、姉ですから」

「……」

 でも、紗希センパイはかたくなに、自分が荷物になると感じている。

 こんなの、絶対に間違ってる。

「わたしのせいで、汐里が泣く。そんな姿なんて、微塵も見たくないんです」

「でも」

 だから、反論しようとするのだけれども。

 有無を言わせぬ態度で、彼女は迫ってくる。

「朱音くん」

「……はい」

「わたしは、尊敬されるような人じゃありません」

 即座に否定したい

 だって、この人は尊敬に値する人物だから。

「でも、いじめに耐えて」

 自己犠牲の精神だろうが何だろうが、持った思いを貫き通すのは、簡単なことじゃない。それをやりきっているのだから、どんなことであれ尊敬に値する。

 でも。

「耐えられていると、思ってるんですか?」

「え?」

「妹のことを思って、全部押し殺してるだけなんですよ」

 紗希センパイは、乾いた笑みを浮かべて、あたしを嘲笑する。

 今までに見たことがないような、憎しみと悲しみに満ちた笑みだ。ワインレッドの瞳から毀れ落ちかけているのは、水晶のように透き通る涙。

「筆箱を隠されて、ノートを破られて。それでも耐えていたら、今度は服を脱がされて。身体に攻撃できないからって、心を削ってくるんですよ。それでも、押し殺すしかないんです。わたしは、それしかできないんです」

「……」

 悲しみを通り越して、全てを諦める。

 その姿が、ありのままだと自分に思い込ませる。

 諦観の塊が、目の前の紗希センパイだった。

「あなたが助けてくれなければ、わたしは汚されていたでしょう。でも、遅かれ早かれそうなるんですよ。わたしにはわかるんです」

「……なんで……」

 でも、そんなことを彼女の口から聞きたくなかった。

 あたしは、言葉にならない言葉を必死に紡ごうとするが。

「わたしはもう、どうしようもない、どうしようもない人間のクズなんだって。だから、しょうがないんだって」

「なんで、そんなことを……言うんですか……」

 うまい反論が頭に浮かばない。

 こんな全てを諦めきった人に、あたしは何を言えばいいのか。

 苦しみに心を傷つけていると、紗希センパイが更なる追い打ちをかけてくる。

「あなたよりも前に、わたしを助けてくれると言った人がいました。同じ名前の、女の子です」

 青木朱音。

 ただのチンピラで、ただの暴力女で、ただのよわっちい、見栄っ張りの女。

 まさか、どうしてここであたしの名前が出るのか。

「……」

 身構える。どんな言葉が飛び出すのか。

 やがて、紗希センパイは息をのんで、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

「でも、その人はいなくなってしまった。わたしを助けたことで、制裁を受けたのでしょう。わたしを見捨てて、どこかへと行ってしまった」

 制裁?

 そんなもの、受けていない。

 見捨てたんじゃない。だって、あたしはここにいる。

「責めるつもりはないんです。彼女はきっと、転校先で幸せにやっているでしょう」

 転校なんてしてない。

 でも、見せかけはそうだ。見かけ上は、あたしは転校した。

でも、それは紗希センパイのせいじゃないし、誰のせいでもない。

「ただ、わたしは後悔してるんです。もしも、わたしが助けてと言わなければ。彼女の差し出す手を取らなければ、あの子は転校していかなくても、良かったんじゃないかって」

「その人は、いじめられていたわけじゃないと思います」

「誰が、それを証明できるんですか」

「しおりんです」

「あの子は、朱音ちゃん……その人の親友ですから。きっと庇うでしょう」

 だめだ。そう言われてしまったら、どう言い返せばいいのかわからない。実際しおりんは庇ってくれるだろうし、嘘だって取り繕ってくれるだろう。

 猜疑心に満ちた、今の紗希センパイを説得することなんて出来やしない。

「……」

「だから、わたしはもう誰の手も取りません。誰の手も、決して借りたりしません」

 こうなったら、あたしの言葉は届かない。

 彼女は耳をふさぎ、目を閉じ、全ての救済を拒絶した。

 過去のあたしが、紗希センパイを苦しめている。心が弱る思いがした。

「それが、わたしの存在理由。存在価値なんです」

「それで、いいんですか。紗希センパイは本当に、そんなのでいいんですか」

 それでも、このままなんて終わりたくない。

 だから、必死に抵抗を続ける。

「いいんですよ。朱音くん。あなたが気を病むことはありません。あなたたちが笑っているだけで、わたしは幸せなんです。心を押し殺せるんです」

「……」

 だめだ。どうして、紗希センパイはこんなに嬉しそうに笑うのか。

 そんな表情をされてしまったら、あたしは何も言えなくなるじゃないか。

「汐里と、仲直りしてきてください。多分、今、あの子は落ち込んでるので、屋上にいますよ」

「……はい」

 あたしだけの力では、何も変えられない。何もできない。

 席を立ち、英語研究会の部室を出ようとしたところで、

「どうして、あそこまで感情的になってしまったんでしょう。わたしはやっぱり……」

 紗希センパイは一人、小さく言葉を呟いたが、よく聞こえなかった。

 聞き返すと、

「どうしました?」

「いえ、何でもありませんよ。行ってらっしゃい」

 そう語り、彼女はにっこりと消え入りそうなほど小さく、頬を緩めて笑んだ。


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