第三話 『もしかして、一緒だったの?』
リビングで、ゆったりと朝の時間を過ごす。
一日元気に頑張るためには、朝はしっかりとしておかないとね。
「そういえば、母さん」
「どうしたの?」
テーブルで、あたしは母さんと一緒に食事をとる。パジャマはもう男物だし、化粧もやめた。髪の毛はぱっと整えるだけで、朝の余裕がかなり生まれた。楽だなあ。
そんなことを思いながら、母さんに話しかける。
「その、性転換? の申請って終わったの?」
「終わったわよ」
「じゃあ、あたしってもう男の子?」
「そうなるわね」
「そうなんだー……」
何だか、改まって考えてみると凄い話だなあ。
「まあ、頑張りなさい」
「あっさり言うなあ。あれ、父さんは?」
「有給使ったから、溜まった仕事を片付けるってもう出ていったわ」
「そうなんだ」
父さんはそれなりに忙しい会社員だ。
「そういえば、母さん」
「ん?」
父さんの名前が出たので、ちょっと聞いてみよう。
今まで、勇気がなくて聞けなかったことだ。この機会だから、聞いてみよう。
「父さんとは、その、どうして付き合ったの?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
どうして聞いてしまったのか。
その意図は自分でもわからなかった。
「いや、その……えっと……」
でも、気になってしまったのだ。
「女の子が好きだったのに、どうして男と付き合ったのか、って?」
「……うん」
母さんも、あたしと同じで女の子が好きだった、らしい。
だから、カミングアウトする勇気も出たし、だから母さんは、あたしが紗希センパイとくっつけるように、応援もしてくれていた。
でも、どうしてだろうか。父さんと付き合い、そしてあたしが生まれた。
何だか、矛盾なようなものを覚える。父さんが中性的な顔つきだから、妥協して結婚したとか、そういうものなんだろうか。
「気になる?」
「気になる」
「教えてあげなーい」
「えー!」
ぺろ、と舌を出して悪戯っぽく笑う母さんに、思わず拍子抜けしてしまった。
「いつか、教えてあげるわ」
「むう……」
ほんのちょっぴりの勇気を出して損した。勇気損。
テンション降下気味のあたしに、母さんは微笑みかけ。
「でもね、朱音。一つだけ覚えておきなさい」
ゆっくりと、口を開いた。
「人を好きになることに、権利なんて必要ないの。好きになる権利がないとか、好きになっちゃだめだとか、そんなことは考えちゃだめだからね」
「……どういうこと?」
母さんの言葉は、深く、意味が大きそうなもので。
自分に言い聞かせるような、そんな自戒の念を込めたような言葉だった。
「思いは伝えるもの。心の中で押し殺すものじゃないわ」
「母さんも、伝えたの?」
「ええ。伝えたわ」
伝えた。
「そしたら、どうなったの?」
「さあ、どうなったんでしょうね」
でも、結果は目に見えている。
断られてしまったのだろう。想い人である少女に告白し、断られた。
「……」
それを深く掘り下げる勇気は、あたしにはなかった。
それを望んでもいないだろう。
「後悔はしてないわ。信じてたから」
どこか、吹っ切れたような笑みを浮かべながら、母さんは語る。
やりきった人間の顔。想いを伝えきった人間の顔。
失敗したのに、朗らかな笑みを浮かべ、過去に思いを馳せている。
「そう、なんだ」
「ほら、早く食べちゃいなさい。早く洗い物したいのよ」
「……うん」
あたしも、伝えておくべきだったなあ。
あれだけ差が縮まっていたのだから、女の子であるときに、紗希センパイに告白しておくべきだったなあ。
これから取り返していかないと。あたしにはまだまだチャンスがある。
がんばろう。
そして、あたしは迎えに来たしおりんと二人で、歩いて学校へと向かう。彼女は普段車で通学していない。出来る限り、他の生徒と同じ環境で育てろというのが、黒崎家の方針らしい。
「あー、女の子になりたい」
思わず、あたしは隣のしおりんに愚痴をこぼす。
「はいはい」
「だってさあ、しおりん。聞いてよ」
「女言葉」
即座に、しおりんから修正が入る。
「聞いてくれよ」
「はい」
「紗希センパイと、あと少しで付き合えてたかもしれないんだし」
「隣の芝は青いですわね」
「うっ……そうだけど」
厳しい指摘だなあ。
もうちょっと、オブラートに包んでくれてもよかったのに。
「そんなことを考えている間に、まず環境に慣れてくださいませ」
「慣れないんだよなあ」
女の子社会でいるときとは、また違った環境がある。男の子社会は、女の子社会よりも単純で、頭を楽にさせてられるけど、まだまだわからないことも多いし。
「とは言いながらも、クラスの中心になったじゃないですか」
「まあ、そうだけど。山岡いるし」
あのバカ、山岡。
結局、あいつはあたしが転校前と、何一つ変わらない状態に戻った。つまりは悪友ポジションだ。
「その適応力が、朱音くんの強みですわ。これから、紗希ねえとも仲良くなっていけますわよ。昨日、ゲーセンに行ったのでしょう?」
「うん。行ったけどね」
「わたくしが、副生徒総長の仕事をこなしている間に」
「ご、ごめん」
痛いところを突かれてしまった。その通りだもんなあ。
「お気になさらず。そういうこともありますわ」
「あはは……」
「紗希ねえは、笑っていましたか」
あたしの顔を覗き込み、しおりんは尋ねる。
「うーん、まだ固いなあ」
「そうですの」
「そりゃ、そんな簡単に心を開いてなんて、くれないって」
むしろ、簡単に心を開かれたら。
あたしの、女の子としての数年は何だったんだ、という話になるし。
「まだ一週間経っていませんわ」
「だよなあ」
「これから、ゆっくりと前に進めばよいのです」
「そうだなあ。でも思うんだけどさ、しおりん」
「はい?」
「また、近づきすぎたら女の子に戻るんじゃないかって。そうなったら、今まで積み重ねてきたものは全部なくなるだろ?」
そういう不安が心の中にある。
あたしは、ある日突然男の子になった。
ということは、逆が起こったって、何の不思議もないのだから。
「どうして、そう思うのです?」
「何だか、そんな気がするんだよな。不安になるんだ」
「よくわからない仮説ですが。仮に、紗希ねえに近づきすぎたら、女の子に戻ってしまうとしましょう」
「うん」
「それでも、あなたが男の子であったときに積み重ねたものは、あなたの中に残ります。女の子に戻ったときには、昔に積み上げてきたものが、あなたの中で輝きますよ」
きらりと輝く笑みを浮かべたしおりんの顔は、苦しむ者を諭す神の光のごとく、燦然とあたしを照らしていた。のだが。
「うー?」
難しい。
何となく、意味はわかるのだけれど。
ああ、しおりん、ため息をつかないで。悲しいから。
「はあ。どっちにしろ、いい経験だったじゃないか。ということですわ」
「そうなのかなあ」
「戻ったら戻ったときに、考えればよいのですわ。今は、目先のことだけを考えて、集中して生きてゆけばよいのです」
そして、しおりんは笑った。
そうだなあ。その通りだ。今のあたしは、今だけを考えて生きればいい。
「そうだね、わかった」
「わかればよろしい」
前を向いて進む。
それだけでいい。
と、そんなことを考えていると。
「う……ん?」
通学路の先、大きなビルのふもと。小さくにしか見えないのだけれども。
数人の男子に、一人の女子が囲まれ、路地に入っていこうとしていた。
「どうしましたの?」
あたしは目がいい。視力検査は万年最高の結果に終わる。
最近は男の子とも連れ合って悪いことをする子も多いし、平和そうであれば、干渉するつもりはなかった。そんなの、知ったこっちゃない。勝手にやればいい。
「……!」
でも。
目をこらして、その姿を見つけた瞬間。
あたしの足は、まるで爆発するかのように加速を始めようとしていた。
「あっ、朱音くん!」
「しおりん、離して」
制服の襟を、しおりんはぎゅっと掴む。
どうして止めるのか。どうして行かせてくれないのか。
しおりんの力は弱いながらも、強い意志で握られていた。
絶対に行かせない。絶対に干渉させない。そんな思いが伝わってきた。
「だめです、手を出しちゃ」
「理由は、後で聞くから」
でも、そんなことは知るか。
あたしは、あたしのやりたいようにやる。
しおりんにだって、干渉させはしない。絶対に。
「あっ……」
だから、彼女の制止を軽く振り切り。
そして、駆け出してゆく。
紗希センパイの元へと。
――人もおらず、薄暗い路地。
必死に走り、追い付いた先には、あからさまなチンピラたちと、薄暗い中でも、微かな光を受けて透き通る、可憐な少女の後ろ姿。
『外で会っても、出来る限り話しかけるな』。
そんなルールが、あたしと紗希センパイの間にはあった。
でも、このときだけは別だ。誰が何と言おうと、救い続けてきた。
「……っ!」
このクソ野郎ども、紗希センパイを連れて何をするつもりだ。
あたしの頭は、血が沸騰して崩壊してしまいそうなほど、怒りに燃えていた。
「おい」
だから、あたしは彼らに怒りを投げつける。
すると、不機嫌そうに眼を細めて、彼らはこちらに振り返る。紗希センパイも同じで、諦めきった瞳を潤ませて、それでも、どうして、と疑問の色を漂わせていた。
「その人連れて、何をしようってんだよ」
「あ? 関係ねえだろ、てめえには」
図太い声で、チンピラの一人が語る。
ああ、見覚えがある。以前も、ボコボコにしてやった奴だ。
あたしが転校していったからって、自由にのびのびと暴力活動に勤しんでるのか。
「早く答えろよ。俺は、そんなに気が長くねえんだよ」
「知らねえよ。俺らは、頼まれてやってるだけだ」
「誰にだよ」
誰だ。
こいつらを操り、紗希センパイを虐げようとするのは誰だ。
「んなもん、関係ねえだろ」
「後で、ゆっくり聞いてやるよ」
北学の人間か。
それはわからない。
でも、わかったら、ぶっ殺してやる。
それくらい、あたしの頭の中は煮えたぐり、溢れ続ける怒りは、全く留まる事を知らなかった。
「へっ、聞けるもんならな」
「……紗希センパイ、こっちに」
とりあえず、早く紗希センパイを回収しないと。
敵側にいられちゃ、こっちの攻撃も自由にできない。
「朱音くん……どうして……」
「何だよ、この白いやつの友達か何かかよ」
白いやつ。
くそ、何かすげえムカついた。
好きな人のことをバカにされるのって、やっぱり本当に腹が立つ。
「名乗る価値もねえよ。……センパイ、早く」
「……」
「おい、こいつ北学に転校してきたっていう……」
「あ?」
「ヤベエ奴らしいぞ。すげえヤベエって話を聞いた」
そんな噂が流れてるのかあ。
と思いきや。
「関係ないだろ。女みてーな顔してるじゃねえか」
「だな。まあ、一本くらい折ってやりゃ、自分の立場わかんだろ」
「そうだな」
まあ、弱く見られているのならいい。
その分だけ、相手を圧倒しやすくなる。
それくらいに考えていて、全くデメリットに思わなかったのだけれども。
「……前、女の子に負けてたじゃないですか」
紗希センパイが、何を思ったのか。
小声で、チンピラたちに対して本当に弱い抵抗を試みていた。
「てめえっ!」
「……事実です」
どうして、そんなことを今言うのか。
どうして、紗希センパイは今、チンピラに狙われるようなことを言うのか。
「お前、黙ってりゃ調子乗りやがって」
案の定、チンピラの一人は怒り。
腕を振り上げ。
攻撃を、紗希センパイへ降ろそうとしていた。
「紗希センパイ、何でそんな余計なことをっ……!」
大変だ。
彼女の身体にキズをつけるなんて、そんなこと誰であっても許されない。
とりあえず、ミッションスタートだ。紗希センパイを守りながら、チンピラ全員をぶっ殺す。簡単なことだ。紗希センパイが、余計なことさえしなければ。
「仕方ねえっ……!」
そして、あたしは走り出す。
そして、敵を殲滅しようとする。
紗希センパイの、赤い瞳に怯えの色が滲む。
ああ、暴力的なところなんて、出来れば見せたくなかったのだけれども。
そんなことは、今は関係ない。そんなこと、気にしていられない。
ただ、目の前の敵を倒し、情報を聞きだし、少しでも紗希センパイを取り巻く状況を改善させられたら。
頭に浮かんでいたのは、単純な思考だけだった――。
――ミッション、コンプリート。
あたしの足元には、チンピラたちの肢体。もとい、死体。半死体。
いとも容易く、彼らを制圧することができた。
多分、山岡よりも弱かったんじゃないだろうか。余裕すぎたし。
「おい」
しゃがみこんで、地面に転がるチンピラの一人の顎を持ち上げ、尋ねる。
多分、こいつが一番強かったし、ボス格だ。完全に気絶はせずに、意識はあるし。ぼんやりとしてるけど。
「誰に、何をやれって言われた」
「……北学の、女子だよ」
「何をやれって言われたのか、早く言えよ」
「ホテルに連れ込んで、ヤって写メ撮って送れって言われたんだよ」
理解できない。
意味がわからない。
ただのいじめにしては、あまりにも過酷じゃないか。
「……」
「えげつねえわ、マジ女ってこえーよな」
「お前ら、前からやってたのか」
「ちげえよ。今回だけだ」
今回だけ。
本当かどうかはわからないが、目が真実味を帯びている。信じてやろう。
さて、本題だ。
「その女子っつーのは、誰なんだよ」
「高二の連中だよ」
「だから、誰なんだよ」
「さあ? オレはボス猿に頼まれただけだ。まあ、女子全員じゃねえの。そいつ、嫌われてるみたいだしな」
紗希センパイが嫌われている。
そんなことは、知っていた事実だ。
でも、嫌われてるからといって、何をしてもいいわけじゃない。
人の大切な身体をもてあそぶような、そんな悪質で陰湿なイタズラを許していいわけじゃない。
「……朱音くん、もういいですから」
でも、紗希センパイは制止する。
どうしてなんだ。
「よくねえっすよ!」
「もういいって、言ってるのです。わたしが言ってるのですから、もういいでしょう」
「……紗希センパイ」、
「行きましょう。先に行ってますね」
でも、何も言えない。
ゆっくりと、背中を向けて歩き始める彼女を見つめ。
「……っ!」
あたしは、追いかけることができなかった。
どうしてだろうか。足が動かなかったのだ。
「おい」
「あ?」
「お前、名前は何て言うんだよ」
むくりと身体を起こしたチンピラが、あたしを見つめながら尋ねる。
「青木朱音だ」
「……青木?」
「転校したやつとは、関係ない」
どうせ、そっちと一緒になっているのだろう。
まあ、実際はあたしなのだけれども。あたしなのだけれど、今のあたしはあたしじゃない。ややこしいな。
「ああ、そうか。おい、青木」
「何だ」
「オレたちはお前に負けた。オレはもう、そのセンパイさんには手を出さねえ」
「当然だろ」
もしも、また手を出したら。
次は、半殺しじゃすまない。ぶっ殺す。
「だから、オレたちのボスになってくれよ。お前、強いし」
「はあ?」
何を言うのだろうかと思っていたが、バカバカしい話だ。
オレたちのボス? それって、チンピラのボスになれってことだよね。
「もしも、センパイさんがいじめられてるのを見たり、聞いたりしたら、オレたちが助ける。その代わり、お前もオレたちを助けてくれ」
「お前たちに、何のメリットがあるんだよ」
メリットがわからない。
実質的には、紗希センパイの用心棒じゃないか。
「強いやつと、一緒にいたいだけだ。あとは、他のチンピラと戦う時に、助けてくれればそれだけでいい」
「……」
「お前は、北学の中でセンパイさんを助けりゃいいだろ。オレたちは、北学の外でセンパイさんを助けてやるよ。オレたちの仲間は何百人といる。悪い話じゃないだろ」
何百人?
何百人もいるチンピラの、ボスになれって?
ちょいとそれは、リスクが大きすぎるんじゃないか。躊躇するなあ。
「それは……」
「青木、もう一つ、教えてやる」
戸惑っていると、
「センパイさんは、北学女子のいいオモチャだ。このままだと、何されるかわかったもんじゃねえぞ。今回のが成功したら、それ脅しのタネにして、もっとやらせるつもりだったらしいからな」
チンピラが、再び言葉を紡ぎ始める。
「……どういうことだよ」
「あいつら遊ぶのに飽きたから、ヤらせようとしてんだよ。オッサン相手にな、金取って」
「んなもん、絶対に許さねえぞ」
どうかしてる。頭がおかしい。
どこからどうすれば、そんな発想が出てくるのか。恐ろしすぎる。
「オレらだって、ドン引きだよ。さすがにねえだろ。それにな、青木」
「何だよ」
「あの女子連中、相当に頭おかしいわ。オレらが言うのもなんだけどな。容赦しねえよ、特にセンパイさん相手には、相当にひでえことをやってる」
「そんなこと、一度も」
一度も、紗希センパイの口から語られたことはない。
いじめ現場を、救済したことは何度もある。それでも、いじめの内容を知ることはなかった。一度も、何をされて、何があったのかを知ることはなかった。
「そりゃそうだろ。後輩に迷惑かけたくねえんだろうな」
「……紗希センパイ」
「青木。男と男の約束だ。絶対に破りはしねえ。どうだ」
「わかった。これから、よろしく頼むよ」
そこまで言われたら、あたしも信じざるをえない。
男と男の間の約束は、鉄のように固いと聞いている。
握り拳を、がちっと合わせ。
そうすることで、契約が成立した。
「任せろよ。もう、指一本触れさせやしねえ。メルアド交換しようぜ」
「ああ」
「そうだ、もう一ついいことを教えてやるよ、青木」
「んあ?」
「センパイさんはまだ、誰ともヤってねーし、ヤらされてねーよ。安心しろ。まあ、自分から男作ってヤってるなら、まあ別だけどな」
何を言われるのか。
ぼうっとしていたが、一気に頭がしゃきっとした。
そして同時に、何だか安心してしまう自分がそこにいて、何だか恥ずかしい気分になってしまった。まさか下ネタを、こんな所で使ってくるとは。
でも、有用な情報……なのかな? わかんないけど。
「ば、知るかよ、んなこと!」
「好きなんだろ、お前。すぐにでもわかる。任せろよ、守ってやるから」
「くそが……」
「ハハッ!」
男の笑いが、路地裏を支配した。これで、紗希センパイの外の安全は確保されたも同然だろう。これで、北学の人間は、いじめの手先としてこいつらを使えなくなったのだし。
じゃあ、後は。
あたしが、北学の中で彼女を守るだけだ。
その様子を、しおりんは黙って遠くから見つめていた。
何かを言いたそうにしているが、何も言うことはなく。
あたしは、紗希センパイがどこかへと去ったのち、しおりんと二人で学校に向かい、無言の時間を過ごして、無言の昼食を終えた。
時間はいつもより遅く流れながら、過ぎていった。
――そして、放課後。
夕陽が差し込む英語研究会の部室で、あたしは紗希センパイと二人。
何も話すことなく、何もすることなく、ただただじいっと、テーブル越しに向かい合っていた。
何を話していいのかわからない。
何をすればいいのかわからない。
ただ、意思だけは伝えておこうと思った。
「紗希センパイ」
「はい」
「俺、紗希センパイを守ります」
だから、意思表明をする。
「朱音くん」
のだが。
「……はい」
「本当に、ありがとう」
「じゃあ……」
「でも、結構です」
弱々しい笑みを浮かべた紗希センパイは、あたしの申し出をきっぱりと拒絶した。
「朱音くん。見られてしまったから、お話、しておこうと思います」
「……」
今から話されることは、きっとあたしがもう知っていることだ。
もう数年前から知っていて、何とかしようと動き続けたことに関係することだ。
「皆さんは、わたしが嫌いみたいです。ですから、この学校じゃわたしは限りなく浮いた存在なんです」
「そんなこと……」
至高の容姿を持ち、決して抵抗しない弱さを持つ紗希センパイ。
いじめのターゲットとしては、最適だ。
何をされても誰にも言わない。誰にも助けを求めず、ただじいと耐え続ける。
そんな彼女は、不満のはけ口になっていた。
「いいんですよ、朱音くん。本当のことを、助けてくれたあなたには知って欲しいんです」
「……」
でも、このままでいいのか。
よくないだろう。
「わたしは昔、わたしを助けてくれた人が、追い込まれていくのを見ました」
「え?」
紗希センパイに、手を差し伸べた人が、あたし以外にもいた。
誰なんだろう。孤立していた彼女を救ったのは、あたしだと自認していたのに。
「その人は、わたしのせいで、ここにはいられなくなってしまいました」
「いつ、いられなくなったんですか」
「昔の話ですよ。ちょっぴり、昔の話です。……最後には、怒ったのでしょうか。何も言わずに、目の前から去って行きました」
薄情な人間だなあ。
去って行く前には、何があっても別れは告げるべきだ。
そうしなかったから、紗希センパイはこんなに傷ついてるのに。
「事情があったんだと思います。俺にはわかりませんけど」
まあ、助けていたのなら一応擁護してやるが。
「それでも、それなら一言くらいは残してくれるでしょう。よっぽど、ショックだったんだと思います」
悲しい色を帯びた瞳に、僅かな水分を満たして、紗希センパイは語る。
ああ、よっぽどショックだったんだろうなあ、紗希センパイ。
「わかってくれましたか。わたしはもう、あんな辛い思いはしたくないんです」
「でも、辛い思いをしてるのは、紗希センパイじゃないですか」
「自分のことなら、耐えられます。大切な人が辛い思いをするのは、耐えられないんです。それに、朱音くんは汐里の彼氏さんでしょう?」
突然の言葉に、思わず吹き出してしまった。
あたしがしおりんの彼氏? そんなこと。
「ち、違いますって! 友達です、ともだち!」
「ふふ。隠さなくてもいいんですよ。汐里から、最近よく話を聞くようになりました」
「違いますってば!」
だめだ。これは紗希センパイの論点すり替えテクニックだ。
まさか、出会ったばかりのあたしに使うとは思わなかったが。
都合が悪くなると、黒崎姉妹はこうやってあたしを動揺させて、話題をすり替える。
「……じゃあ、紗希センパイにも好きな人っているんですか」
じゃあ、こっちもすり替えてやる。
どうせ、元の話題には戻れないのだ。
それなら、聞きたいことを聞いてやる。
いじめから助けるのに、紗希センパイの許可なんて不要だし。勝手に助ければいいし。
「はい、いました」
はぐらかされるかなあ、と思ったら。
「えっ、誰ですか」
まさかの返答に、あたしは思わず身を乗り出して尋ねる。
紗希センパイの好きな人。誰なんだろう。というか誰だ。探し出してやる。
「ひみつ、です」
「もしかして、俺ですか?」
どきどきする胸の鼓動を無視しながら、あたしは尋ねてみるも。
「後輩としては、好きですよ」
「ですよねー……」
あまりにも早い、瞬間の即答。
「? どうして、そんなに落ち込むのですか?」
「いえいえ、何でもないです」
まあ、出会ったばっかだし。
好きになってくれるとは思ってなかったけど、やっぱりなんだかショック。
「そういえば、何となくなんですけれど」
「はい」
「汐里も、朱音くんも。何か、わたしに隠していませんか?」
「え?」
鋭い、紗希センパイの指摘。
隠し事ならある。
あたしは、女の子の青木朱音だ。
言うことで、精神的なショックを与えるかもしれなくて言えず、ここまで来ているが。
「付き合ってるのかなあ、とぴんときたのはそこなんです」
「どういうことですか?」
「何だか、秘密を共有する二人、ろまんちっくじゃないですか?」
その通りだ。
二人だけの秘密。あたしとしおりんはそれを共有している。
正確には、父さんと母さんも知っているけれど、その他の人は何も知らない。あたしたちだけの秘密だ。ロマンチックかどうかは別として。
「えーあーえー……」
「どうです? なかなか、カンが鋭いって言われるんですよ」
「確かに、凄く鋭いです」
「でしょう」
自信満々の、紗希センパイの笑み。
太陽のように明るく、柔らかく、温かかった。
あたしはこの笑みに惹かれたのだ。連日のケンカ、戦いの中で荒んでいた心を癒してくれた、この笑みに。
「でも、ハズレですよ。あたしとしおりんは、付き合ってません」
カンは鋭いが。
さすがに、あたしが元女の子という発想は、浮かばなかったようだ。
「なんだ。そうなんですか」
「はい。残念でしたね」
話すことで、嫌われてしまうかもしれない。
話すことで、騙していたのかと怒られるかもしれない。
そんな恐怖が、あたしの頭の中を支配していた。ややこしい思いだ。本当に。
――そして、紗希センパイといつも通りに部室で別れ、帰宅後。
「ただいまー。あれ?」
ドアノブを回して、リビングに至るドアを開いた瞬間。
見慣れない人間が、テーブルに座っているのが見えた。
しおりんだ。
「どうしたんだよ、しおりん」
「少し、お話があります」
「あれ、母さんは?」
辺りを見渡すが、いるはずの母さんがいない。
不用心だなあ。
「少し、席を外してもらっています」
「ああ、そうなんだ」
「朱音くん。今日のことは、少し問題ですわ」
「何が?」
何が、と言うものの心当たりはあった。
どうせ、紗希センパイとか、そこらへんの話だ。
「あのチンピラ、ここらを仕切ってるヤンキーのボスです」
心配そうに、あたしを見つけるしおりん。
そこまで心配することはない。何ということはないし。
くすりと笑って、あたしはしおりんの向かい側に座る。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、俺が今度からボスだな」
「そんな気楽な話じゃありませんわ。朱音くん、悪い事は言いません。もう、あの連中に関わるのは、どうかやめてください」
あたしは軽い気持ちだったのだけれど。
しおりんの顔は、笑っていない。本気で言っている目だ。
「危ないから、とか言うんだろ」
「そうです。危ないです」
「大丈夫だって。何とかなるから」
今まで、危ない橋なんていくらでも渡った。
今更、チンピラのボスになるくらい、何てことはない。
それに、ボスになれば、学外での紗希センパイの安全が確保できるし。
「ならなかったときは、どうするんですの」
「その時はその時だろ」
「そんな話じゃありません」
「どうして、しおりんがそんなに心配するんだよ」
「そ、それは……」
明らかに狼狽するしおりん。
どうしてそこまで狼狽えるのか、わからなかったけれども、きっとあたしに反論されてしまって、必死に言い返す理由でも考えているんだろう。
「俺は男の子になったんだから。そんなに心配してもらわなくてもいいって」
さすがに過保護だ。
「でも……」
「心配してくれるのはありがたいけど、俺は大丈夫だから」
「でも、もしも、危ないことに巻き込まれたら……」
「その時は、しおりんが助けてくれるんだろ」
すると。
「え?」
しおりんは、目を丸くして、こちらを見つめる。
「言ってただろ、男の子になった日に。面倒なことは処理してやるって」
「……そう、でしたわね。それでも、助けるとは言ってませんわ」
「しおりんなら助けてくれるって、信じてる」
助けるとは、確かに一言も言っていない。
でも、しおりんなら、そうしてくれると思った。
根拠は全くないけれど、助けてくれると思った。だから、男の子になったあのとき、電話したんだし。
「どうして、そう言い切れるんですの」
「しおりんは、ずっと助けてきてくれたし」
「たった、それだけですの?」
「それだけで、十分だろ」
「……本当に、あなたって残酷です」
「へ?」
「残酷な人ですわ、あなたは」
「どういう意味?」
わけがわからない。
あたしのどこが残酷なのだろう。
助けを求めすぎるから、残酷なんだろうか?
わからないなあ。
「それがわからないから、残酷なんですよ。……そうですわね、面倒なことは処理してや
るって、言ってしまったのですわね」
「うん。優しいもん、しおりん」
厳しいところもあるけれど、本当は優しい女の子。
それが、しおりんだ。それがしおりんの、本当の姿だ。
「でも、一つだけ約束してください」
そんな彼女が、あたしを見つめて、真剣な表情を浮かべて。
何か、言おうとしている。
「うん?」
「絶対に、危ないことはしないように。どうしても、危ないことをするときは、少しでもわたくしに相談してください。それだけ、守ってくださいまし」
本気で心配してくれている。
そんな目だ。
「わかった。出来る限り、そうする」
「出来る限りじゃなくて、絶対ですわ」
「絶対、そうする」
何度も確認をされ、思わず苦笑してしまった。
でも、これがあたしを大切に思ってくれている証だ。
「はい。お願いします」
「それで、話ってそれだけ?」
しかし、何だか拍子抜けだ。
「そうですけれども」
「紗希センパイの話をしにきたんじゃないの?」
何だか深刻な雰囲気を漂わせていたから、きっと紗希センパイに関係することだと思ったのに、
「違いますわ」
「へえ……」
即答されてしまった。
うーん。
「どうして、わたくしがここで紗希ねえの話をすると?」
「自分の姉が、いじめられてる現場、初めて見ただろ」
説明しづらいけれども、率直に話す。
すると。
「いいえ」
彼女は、真顔のまま、首を横に振った。
あたしは、首を縦に振ると思っていた。
でも、彼女はそうしなかった。
「へ?」
どうしてなんだ。
どういうことなんだ。
「初めてじゃありませんわ」
「どういうことだよ」
問い返すと。
「見過ごしたのも、放置したのも、初めてじゃありませんわ」
しれっと、しおりんは言い放った。
いじめを、見過ごしたのも。
いじめを、放置したのも。
初めてじゃない。
「自分のお姉さんだろ、なんで放置するんだよ」
いじめがあるということは、知っている。
それでも、実際に現場に遭遇すれば、何かアクションを起こすはずだろう。それでも、彼女は今まで、何も起こさなかったのだ。今まで、現場に遭遇しても、スルーし続けてきたのか。
「それを、紗希ねえ自身が望むからです」
「意味がわかんねえ。んなもん、本当かどうかわかんねえだろ」
残酷すぎる。
あまりにも、悲しすぎる。
しかし、しおりんは。
「わかります。わたくしは、シスコンですから」
ただ、その一言で話を完結させてしまった。
何だろう。
「それでも助けるだろ、普通は」
割り切れない。
あたしは、そんな現実は認めたくない。
しかし。
「朱音くん」
「何だよ」
しおりんの諭すような声に、いらいらしながら返事を返すと。
「紗希ねえは、手を差し伸べられることを望んでいませんわ」
「そんなこと、しおりんが決めることじゃない」
「黒崎家の内情に一番詳しいのは、わたくしですわ。あなたじゃない。あなたは、黒崎の人間ではない」
心にずしりと、重くのしかかる言葉が投げつけられた。
そうだ。あたしは、黒崎家の内部なんて、何も知らない。
あたしはただの女の子だった男の子で、紗希センパイの家族でもない。
「……」
「紗希ねえは、副生徒総長になれる器でした。わたくしなんかよりも、優秀で知的で、頭の回転も速い。氷のように冷徹な判断を下すかと思えば、温かみのある施しもできる。そんな方です。でも」
「でも?」
「お爺様たち。黒崎家の偉い人々は、紗希ねえを拒絶したんです」
そう語るしおりんは悔しそうに、それでも懸命に感情を堪えているように見えた。
以前、紗希センパイから聞いたことはある。聞いたことはあるが、何度聞いても胸糞が悪いものがある。
「……アルビノ、だから?」
「そうですわ。その瞬間、わたくしが副生徒総長になり、黒崎家当主の座を分家と争うことが決定したのです」
何が悪いのか。
見かけが、ちょっと人と違うだけだ。
それなのに、どうして黒崎家は紗希センパイを認めないのか。
「紗希ねえは、わたくしを応援してくれています。運営だって、本当のところは手伝ってくれてもいます。でも、絶対にそのことを表には出すな。絶対に、自分には関わるなと言って聞かないのです」
「紗希センパイは、どうしてそんなことを」
「優しい方、ですから。自分のことで、誰かに迷惑をかけたくないのでしょう」
「そんなのおかしいだろ」
だから、あたしは想いをぶつける。
すると。
「ええ、おかしいです。おかしいですわよ。その通りですわ」
堰を切ったかのように、しおりんの口から呪いの言葉が紡がれる。
「でも、どうしようもないんです。紗希ねえは、他の人と何も変わりません。施術を受けて、身体の弱さは克服してます。でも、黒崎家では化け物扱いですわ」
悲痛な思いを、言葉に乗せて。
しおりんは、姉に対する思いを吐露し続ける。
「自分が慕う姉が、泣きながら懇願する姿を、あなたは想像できますか」
涙は流していない。それは、副生徒総長、次の当主としての意地か。
それでも、必死に放たれた言葉には、涙の色が滲み出ていた。
「出来ないでしょう。わたくしは副生徒総長です。いじめた生徒を、処分に付することだってできる。いじめた人間を、退学に追い込むことだってできる。でも、紗希ねえはそれを望まなかったんです」
変えられない現実を、しおりんは呪い続ける。
副生徒総長であるのに、権限を行使したいのに。
それでも、姉がそれを望まない。だから、どうすることもできない。
「夕暮れの教室で、『わたしのことで、汐里に迷惑はかけられない』って、いじめっ子に服をはぎ取られて下着姿のまま、泣きながらわたくしの足に縋り付いた大好きな姉の姿を、わたくしは一生忘れません。いえ、忘れられませんわ」
情景が、あたしの頭の中に即座に描写される。
そんな場面に遭遇してしまったら、もし、あたしがしおりんだったら。
あまりの悔しさに、怒り狂っていたに違いない。でも、怒り狂っても、肝心の姉は助けを求めない。
それどころか、逆に気を遣われる。それは、どれだけ悲しいことなんだろう。
「その時わたくしは、心から泣きました。自分の姉は何も悪いことはしていないのに、どうしてここまでされないといけないのか、と。でも、これは決まったことなんです。どうしようもなくて、何も変わらない闇なんです」
変わらない闇。
変えられない闇。
姉が好きなのに、好きな姉は救済を求めない。
葛藤の中で生きる、しおりんの辛さが言葉の一つ一つから伝わってくる。
「しおりん……」
「だから、朱音くんが紗希ねえを助けようとするなら。紗希ねえの意思を無視して、何かコトを起こそうとしているのなら、わたくしは反発しますわ」
小さく、しかし重く紡がれる言葉には、しおりんの覚悟が滲んでいた。
彼女たちの背負った苦しみは、あたしの想像をはるかに超えている。
想像もできないところに、彼女たちの苦しみがある。
「彼女の苦しみは、彼女にだけわかること。あなたが干渉するべき領域にないのです」
何も言えず、あたしは俯くことしか出来なかった。
どうしようもない。
何も言い返せない。
だって、あたしはただの人間で、紗希センパイの後輩で。
そこまで、踏み込めていたわけでもない。何も出来てないんだ。
「今、これを言おうとは思っていませんでした。……でも、良い機会ですので、言っておきます」
心を黒く染めるあたしなんて、全く知らない、といったように。
しおりんは、処刑の言葉を次々と披露してゆく。
「あなたと付き合っても、紗希ねえは幸せになれない」
心に響く、しおりんの声。
「……っ!」
どうして、そんなことを言うのか。
顔を上げて、しおりんの表情を見つめると。
副生徒総長として、責務を全うしているときの顔。
まさしく、黒崎家次期当主としての決意を浮かべていた。
「紗希ねえには、朱音くんは眩しすぎる。あなたは、紗希ねえに夢を与えてしまう」
「夢を与えちゃ、ダメなのかよ」
「ええ、ダメです」
「……」
断固として言い切る、しおりん。
夢も与えられず、夢を求めず。
そんな生活を、紗希センパイはどうして、強いられなければいけないのか。
「絶望の淵に生きてるのです。紗希ねえは。朱音くんが希望を与えれば、紗希ねえは闇に戻れなくなる。光の世界を望んでしまう。そうなれば、傷つくのは紗希ねえなんです」
「あんまりだろ、そんな言い方。なんで、そんなことを言うんだよ。昔は応援してくれてたのに」
「女の子相手の恋愛なら、絶対に成就することはないだろうと、思っていたからですわ」
「……本当かよ」
最悪だ。
そんなことを思っていたなんて。
もし本当なら、あたしを支えてくれていたあのしおりんは、いったい何だったんだ。
「本当ですわ。……でも、今の朱音くんは男の子。もしかすると、成就してしまうかもしれない。そうなってしまえば、傷つくのは紗希ねえです」
ショックを受け、失意の底に沈むあたしに。
「はっきり言っておきます」
しおりんは、一言一言、ゆっくりと。
「あなたと付き合えば、紗希ねえは不幸になる」
あたしに理解させるように。
「わかりましたか?」
言葉を紡いでゆく。
「干渉するなと、言っているのだから、干渉しないのが一番なんです」
諭すように、諦めさせるように。
「朱音くん、わかってくれましたか」
酷く残酷で、優しく、あたしの心を絞め殺す感覚を与える。
応援してくれるとか、支えてくれるとか。
あたしの考えが、甘っちょろかったのだろうか。
そんなことはない。
あたしは、紗希センパイが好きなんだ。
「わかんねえよ、意味がわかんねえよ……」
「紗希ねえのためなんです」
「……」
だから、何を言われても。
あたしは、決して思いを捨てない。
そう、決意をしたのだけれども。
「もしも、それでも、朱音くんが紗希ねえを幸せに出来ると言うのなら」
「……?」
その空気を察したのか、しおりんが厳しい視線を浴びせながら語る。
「誓いを立ててください」
「何をすりゃいいんだよ」
「何もしなくていいですわ」
きっぱりと、言い切るしおりん。
意味がわからない。どういうことなのか。
「?」
「わたくしは、姉が大切です。とても大切に思っています」
「ああ、わかってる」
シスコンだ、と繰り返して述べている。
その言葉が本当なら、しおりんは姉が大好きだ。
姉が大切だからこそ、姉の望みを聞き入れてきた。
それがどんな望みであっても、聞き入れてきたのだ。
彼女が背負った覚悟は、あたしが想像するよりも重く、深いだろう。
「もしも、理不尽な幸せを与えて、その後にそれを奪って、絶望の淵に叩き落としたとしたら、紗希ねえは悲しみ、自分を責め、やがて自決に至るでしょう」
「どうしてわかるんだよ」
「妹、ですから。姉の苦しみは、手に取るようにわかります」
根拠は薄い。
薄いが、そうなるのだろう。
「そうかい」
しおりんがそう語るなら、そうなってしまうのだろう。
紗希センパイの心は、繊細で脆い。
ぱっとある日消えてしまっても、全く違和感はない。絶対にそんなこと、ありえないと信じたいが、違和感自体はない。
「はい。それで、もしも、紗希ねえが死んでしまったら」
「たら?」
「わたくしは、朱音くんを一生許しません」
今まで見たことのないような、殺意に満ちた瞳。
かつてあたしの前では露見させたことのないような、決意に満ちた瞳。
「逆に、あなたに殺されてしまうかもしれない。それでも、わたくしは絶対に許さない」
本気だ。
しおりんは、本気で言っている。
嘘でも偽りでもなく、心からそう言葉を紡いでいる。
「あなたを殺して、それから死ぬ。それくらいの覚悟は、出来ています。朱音くんはどうですか。生半可な気持ちで、紗希ねえに手を出そうとしているのでは、ありませんか」
生半可な気持ちで、紗希センパイと付き合おうとしているわけじゃない。
好きになったのは、そりゃ些細なことだったかもしれない。
でも、それだけじゃないし。そんなことを言われる筋合いなんてない。
言いたいけれど、言葉にできない。
させてくれない。
「女の子が好きだから、紗希ねえが好きになった。可愛くて綺麗で幻想的な紗希ねえを好きになった。それだけじゃないのですか。見かけだけで、好きになったのではありませんか」
絶対に、そうじゃない。
そう言い切れるのだろうか。
あたしは、あたしを認めてくれる、紗希センパイが好きになっただけ。
本当に、紗希センパイが好きなんだろうか。わからない。本当の心は、自分ですらもはっきりしていない。
「……」
「ほら、言い返せないでしょう。きっと、その通りですわ。わたくしを嫌ってくださるなら結構。ぜひ、嫌いになってくださいませ」
返答に詰まるあたしを尻目に。
しおりんは、帰り支度を始める。
勝利宣言か、敗者であるあたしを笑うつもりか。
いずれかはわからない。
でも、あたしは言い返せなかった。あたしの負けだ。
「……もう一度、頭を冷やして、自分でゆっくりと考えてくださいませ。わたくしの大切な、大事な方として」
でも、あまりにも言葉が過ぎる。
少し、さすがにあたしもカチン、と来た。
絶交だと、言い切ってやるのは簡単だ。
しかし。
しおりんが去ってゆく瞬間、ぽろりと瞳から一粒の涙がこぼれ出るのを見た瞬間、何も言えなくなってしまうのだった。
――そして、しおりんが去っていった後。
「はあー……」
自問自答する。
あたしが好きだったのは、紗希センパイなのか。
あたしが好きだったのは、女の子で、可愛い女の子、だったんじゃないのか。
しおりんに言われた言葉が、重くのしかかり続ける。
ため息しか出ないなあ。はあ。
「あら、汐里ちゃん帰ったの?」
「うん……」
「どうしたの、酷い顔よ?」
様子を見てリビングにやってきた母さんが、先ほどまでしおりんが座っていた椅子に座り、あたしに優しく語りかけてくる。
「酷い表情って言ってほしいなあ」
「酷い表情の顔ね」
「何も変わってないよー。はあ……」
こんな冗談にも、返す元気がない。
そんな冗談に、付き合っている余裕がない。
「どうしたの。お母さんに、言ってみなさい」
事の重大さを察知したのか、母さんが尋ねてくる。
「うー?」
「ほら、聞いてあげるわ」
「じゃあさ、お母さん」
聞いてくれるというのなら、聞いてもらおう。
あたしだけじゃ、このまま詰まってしまいそうだ。
「うん」
「こんなことがあったんだけど――」
だから、言うべきではないことは隠し。
あたしが、紗希センパイのことが本当に好きなのか。
そのことについて、尋ねてみる。
――数分後。
「――ってわけ。どうしたらいいんだろう、あたし」
何度も頷き、母さんは話を聞いてくれた。
「あたしじゃなくて、俺。しっかりなさい、朱音」
「うん……」
「朱音は、女の子に戻りたいの?」
根本的な問題だ。
あたしは、どう思ってるんだろう。
最初は、男の子になれば、紗希センパイと付き合えると、簡単に思っていた。
でも、今は違う。そんな単純な問題じゃないと、気づいてしまった。
「うーん、わかんない。どうなんだろう」
「先に言っておくわね」
「うん?」
先ほどまで、笑みを浮かべていた母さんの表情からは、笑いが消え。
しっかりと、あたしを見据えていた。
「朱音は、ずっと男の子のままよ。もう戻れないわ」
ずっと、男の子のまま。
もう戻れない。
なんで、母さんがそんなことを言うのか。
「え? どうして、言い切れるの?」
「そりゃ、言い切れるわよ」
「なんで?」
純粋に意味がわからなかった。
だから、尋ね返した、それだけのことだ。
「だって、お父さんも女の子だったんだから」
だから、その言葉には頭をハンマーで殴られたかのような、衝撃を与えられた。
「え?」
――父さんが、女の子だった?
どういうこと?