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おとこのおんなのこ  作者: 平山ひろてる
第1巻 『センパイの愛した、おもいびと』
4/7

第三話 『もしかして、一緒だったの?』


 リビングで、ゆったりと朝の時間を過ごす。

 一日元気に頑張るためには、朝はしっかりとしておかないとね。

「そういえば、母さん」

「どうしたの?」

 テーブルで、あたしは母さんと一緒に食事をとる。パジャマはもう男物だし、化粧もやめた。髪の毛はぱっと整えるだけで、朝の余裕がかなり生まれた。楽だなあ。

 そんなことを思いながら、母さんに話しかける。

「その、性転換? の申請って終わったの?」

「終わったわよ」

「じゃあ、あたしってもう男の子?」

「そうなるわね」

「そうなんだー……」

 何だか、改まって考えてみると凄い話だなあ。

「まあ、頑張りなさい」

「あっさり言うなあ。あれ、父さんは?」

「有給使ったから、溜まった仕事を片付けるってもう出ていったわ」

「そうなんだ」

 父さんはそれなりに忙しい会社員だ。

「そういえば、母さん」

「ん?」

 父さんの名前が出たので、ちょっと聞いてみよう。

 今まで、勇気がなくて聞けなかったことだ。この機会だから、聞いてみよう。

「父さんとは、その、どうして付き合ったの?」

「どうしてそんなことを聞くの?」

 どうして聞いてしまったのか。

 その意図は自分でもわからなかった。

「いや、その……えっと……」

 でも、気になってしまったのだ。

「女の子が好きだったのに、どうして男と付き合ったのか、って?」

「……うん」

 母さんも、あたしと同じで女の子が好きだった、らしい。

 だから、カミングアウトする勇気も出たし、だから母さんは、あたしが紗希センパイとくっつけるように、応援もしてくれていた。

 でも、どうしてだろうか。父さんと付き合い、そしてあたしが生まれた。

 何だか、矛盾なようなものを覚える。父さんが中性的な顔つきだから、妥協して結婚したとか、そういうものなんだろうか。

「気になる?」

「気になる」

「教えてあげなーい」

「えー!」

 ぺろ、と舌を出して悪戯っぽく笑う母さんに、思わず拍子抜けしてしまった。

「いつか、教えてあげるわ」

「むう……」

 ほんのちょっぴりの勇気を出して損した。勇気損。

 テンション降下気味のあたしに、母さんは微笑みかけ。

「でもね、朱音。一つだけ覚えておきなさい」

 ゆっくりと、口を開いた。

「人を好きになることに、権利なんて必要ないの。好きになる権利がないとか、好きになっちゃだめだとか、そんなことは考えちゃだめだからね」

「……どういうこと?」

 母さんの言葉は、深く、意味が大きそうなもので。

 自分に言い聞かせるような、そんな自戒の念を込めたような言葉だった。

「思いは伝えるもの。心の中で押し殺すものじゃないわ」

「母さんも、伝えたの?」

「ええ。伝えたわ」

 伝えた。

「そしたら、どうなったの?」

「さあ、どうなったんでしょうね」

 でも、結果は目に見えている。

 断られてしまったのだろう。想い人である少女に告白し、断られた。

「……」

 それを深く掘り下げる勇気は、あたしにはなかった。

 それを望んでもいないだろう。

「後悔はしてないわ。信じてたから」

 どこか、吹っ切れたような笑みを浮かべながら、母さんは語る。

 やりきった人間の顔。想いを伝えきった人間の顔。

 失敗したのに、朗らかな笑みを浮かべ、過去に思いを馳せている。

「そう、なんだ」

「ほら、早く食べちゃいなさい。早く洗い物したいのよ」

「……うん」

 あたしも、伝えておくべきだったなあ。

 あれだけ差が縮まっていたのだから、女の子であるときに、紗希センパイに告白しておくべきだったなあ。

 これから取り返していかないと。あたしにはまだまだチャンスがある。

 がんばろう。


 そして、あたしは迎えに来たしおりんと二人で、歩いて学校へと向かう。彼女は普段車で通学していない。出来る限り、他の生徒と同じ環境で育てろというのが、黒崎家の方針らしい。

「あー、女の子になりたい」

 思わず、あたしは隣のしおりんに愚痴をこぼす。

「はいはい」

「だってさあ、しおりん。聞いてよ」

「女言葉」

 即座に、しおりんから修正が入る。

「聞いてくれよ」

「はい」

「紗希センパイと、あと少しで付き合えてたかもしれないんだし」

「隣の芝は青いですわね」

「うっ……そうだけど」

 厳しい指摘だなあ。

 もうちょっと、オブラートに包んでくれてもよかったのに。

「そんなことを考えている間に、まず環境に慣れてくださいませ」

「慣れないんだよなあ」

 女の子社会でいるときとは、また違った環境がある。男の子社会は、女の子社会よりも単純で、頭を楽にさせてられるけど、まだまだわからないことも多いし。

「とは言いながらも、クラスの中心になったじゃないですか」

「まあ、そうだけど。山岡いるし」

 あのバカ、山岡。

 結局、あいつはあたしが転校したことになっている前と、何一つ変わらない状態に戻った。つまりは悪友ポジションだ。

「その適応力が、朱音くんの強みですわ。これから、紗希ねえとも仲良くなっていけますわよ。昨日、ゲーセンに行ったのでしょう?」

「うん。行ったけどね」

「わたくしが、副生徒総長の仕事をこなしている間に」

「ご、ごめん」

 痛いところを突かれてしまった。その通りだもんなあ。

「お気になさらず。そういうこともありますわ」

「あはは……」

「紗希ねえは、笑っていましたか」

 あたしの顔を覗き込み、しおりんは尋ねる。

「うーん、まだ固いなあ」

「そうですの」

「そりゃ、そんな簡単に心を開いてなんて、くれないって」

 むしろ、簡単に心を開かれたら。

 あたしの、女の子としての数年は何だったんだ、という話になるし。

「まだ一週間経っていませんわ」

「だよなあ」

「これから、ゆっくりと前に進めばよいのです」

「そうだなあ。でも思うんだけどさ、しおりん」

「はい?」

「また、近づきすぎたら女の子に戻るんじゃないかって。そうなったら、今まで積み重ねてきたものは全部なくなるだろ?」

 そういう不安が心の中にある。

 あたしは、ある日突然男の子になった。

 ということは、逆が起こったって、何の不思議もないのだから。

「どうして、そう思うのです?」

「何だか、そんな気がするんだよな。不安になるんだ」

「よくわからない仮説ですが。仮に、紗希ねえに近づきすぎたら、女の子に戻ってしまうとしましょう」

「うん」

「それでも、あなたが男の子であったときに積み重ねたものは、あなたの中に残ります。女の子に戻ったときには、昔に積み上げてきたものが、あなたの中で輝きますよ」

 きらりと輝く笑みを浮かべたしおりんの顔は、苦しむ者を諭す神の光のごとく、燦然とあたしを照らしていた。のだが。

「うー?」

 難しい。

 何となく、意味はわかるのだけれど。

ああ、しおりん、ため息をつかないで。悲しいから。

「はあ。どっちにしろ、いい経験だったじゃないか。ということですわ」

「そうなのかなあ」

「戻ったら戻ったときに、考えればよいのですわ。今は、目先のことだけを考えて、集中して生きてゆけばよいのです」

 そして、しおりんは笑った。

 そうだなあ。その通りだ。今のあたしは、今だけを考えて生きればいい。

「そうだね、わかった」

「わかればよろしい」

 前を向いて進む。

 それだけでいい。

 と、そんなことを考えていると。

「う……ん?」

 通学路の先、大きなビルのふもと。小さくにしか見えないのだけれども。

 数人の男子に、一人の女子が囲まれ、路地に入っていこうとしていた。

「どうしましたの?」

 あたしは目がいい。視力検査は万年最高の結果に終わる。

 最近は男の子とも連れ合って悪いことをする子も多いし、平和そうであれば、干渉するつもりはなかった。そんなの、知ったこっちゃない。勝手にやればいい。

「……!」

 でも。

 目をこらして、その姿を見つけた瞬間。

 あたしの足は、まるで爆発するかのように加速を始めようとしていた。

「あっ、朱音くん!」

「しおりん、離して」

 制服の襟を、しおりんはぎゅっと掴む。

 どうして止めるのか。どうして行かせてくれないのか。

 しおりんの力は弱いながらも、強い意志で握られていた。

 絶対に行かせない。絶対に干渉させない。そんな思いが伝わってきた。

「だめです、手を出しちゃ」

「理由は、後で聞くから」

 でも、そんなことは知るか。

 あたしは、あたしのやりたいようにやる。

 しおりんにだって、干渉させはしない。絶対に。

「あっ……」

 だから、彼女の制止を軽く振り切り。

 そして、駆け出してゆく。

 紗希センパイの元へと。


 ――人もおらず、薄暗い路地。

 必死に走り、追い付いた先には、あからさまなチンピラたちと、薄暗い中でも、微かな光を受けて透き通る、可憐な少女の後ろ姿。

『外で会っても、出来る限り話しかけるな』。

 そんなルールが、あたしと紗希センパイの間にはあった。

 でも、このときだけは別だ。誰が何と言おうと、救い続けてきた。

「……っ!」

 このクソ野郎ども、紗希センパイを連れて何をするつもりだ。

 あたしの頭は、血が沸騰して崩壊してしまいそうなほど、怒りに燃えていた。

「おい」

 だから、あたしは彼らに怒りを投げつける。

 すると、不機嫌そうに眼を細めて、彼らはこちらに振り返る。紗希センパイも同じで、諦めきった瞳を潤ませて、それでも、どうして、と疑問の色を漂わせていた。

「その人連れて、何をしようってんだよ」

「あ? 関係ねえだろ、てめえには」

 図太い声で、チンピラの一人が語る。

 ああ、見覚えがある。以前も、ボコボコにしてやった奴だ。

 あたしが転校していったからって、自由にのびのびと暴力活動に勤しんでるのか。

「早く答えろよ。俺は、そんなに気が長くねえんだよ」

「知らねえよ。俺らは、頼まれてやってるだけだ」

「誰にだよ」

 誰だ。

 こいつらを操り、紗希センパイを虐げようとするのは誰だ。

「んなもん、関係ねえだろ」

「後で、ゆっくり聞いてやるよ」

 北学の人間か。

 それはわからない。

 でも、わかったら、ぶっ殺してやる。

 それくらい、あたしの頭の中は煮えたぐり、溢れ続ける怒りは、全く留まる事を知らなかった。

「へっ、聞けるもんならな」

「……紗希センパイ、こっちに」

 とりあえず、早く紗希センパイを回収しないと。

 敵側にいられちゃ、こっちの攻撃も自由にできない。

「朱音くん……どうして……」

「何だよ、この白いやつの友達か何かかよ」

 白いやつ。

 くそ、何かすげえムカついた。

 好きな人のことをバカにされるのって、やっぱり本当に腹が立つ。

「名乗る価値もねえよ。……センパイ、早く」

「……」

「おい、こいつ北学に転校してきたっていう……」

「あ?」

「ヤベエ奴らしいぞ。すげえヤベエって話を聞いた」

 そんな噂が流れてるのかあ。

 と思いきや。

「関係ないだろ。女みてーな顔してるじゃねえか」

「だな。まあ、一本くらい折ってやりゃ、自分の立場わかんだろ」

「そうだな」

 まあ、弱く見られているのならいい。

 その分だけ、相手を圧倒しやすくなる。

 それくらいに考えていて、全くデメリットに思わなかったのだけれども。

「……前、女の子に負けてたじゃないですか」

 紗希センパイが、何を思ったのか。

 小声で、チンピラたちに対して本当に弱い抵抗を試みていた。

「てめえっ!」

「……事実です」

 どうして、そんなことを今言うのか。

 どうして、紗希センパイは今、チンピラに狙われるようなことを言うのか。

「お前、黙ってりゃ調子乗りやがって」 

 案の定、チンピラの一人は怒り。

 腕を振り上げ。

 攻撃を、紗希センパイへ降ろそうとしていた。

「紗希センパイ、何でそんな余計なことをっ……!」

 大変だ。

 彼女の身体にキズをつけるなんて、そんなこと誰であっても許されない。

 とりあえず、ミッションスタートだ。紗希センパイを守りながら、チンピラ全員をぶっ殺す。簡単なことだ。紗希センパイが、余計なことさえしなければ。

「仕方ねえっ……!」

 そして、あたしは走り出す。

 そして、敵を殲滅しようとする。

 紗希センパイの、赤い瞳に怯えの色が滲む。

 ああ、暴力的なところなんて、出来れば見せたくなかったのだけれども。

 そんなことは、今は関係ない。そんなこと、気にしていられない。

 ただ、目の前の敵を倒し、情報を聞きだし、少しでも紗希センパイを取り巻く状況を改善させられたら。

 頭に浮かんでいたのは、単純な思考だけだった――。


 ――ミッション、コンプリート。

 あたしの足元には、チンピラたちの肢体。もとい、死体。半死体。

 いとも容易く、彼らを制圧することができた。

 多分、山岡よりも弱かったんじゃないだろうか。余裕すぎたし。

「おい」

 しゃがみこんで、地面に転がるチンピラの一人の顎を持ち上げ、尋ねる。

 多分、こいつが一番強かったし、ボス格だ。完全に気絶はせずに、意識はあるし。ぼんやりとしてるけど。

「誰に、何をやれって言われた」

「……北学の、女子だよ」

「何をやれって言われたのか、早く言えよ」

「ホテルに連れ込んで、ヤって写メ撮って送れって言われたんだよ」

 理解できない。

 意味がわからない。

 ただのいじめにしては、あまりにも過酷じゃないか。

「……」

「えげつねえわ、マジ女ってこえーよな」

「お前ら、前からやってたのか」

「ちげえよ。今回だけだ」

 今回だけ。

 本当かどうかはわからないが、目が真実味を帯びている。信じてやろう。

 さて、本題だ。

「その女子っつーのは、誰なんだよ」

「高二の連中だよ」

「だから、誰なんだよ」

「さあ? オレはボス猿に頼まれただけだ。まあ、女子全員じゃねえの。そいつ、嫌われてるみたいだしな」

 紗希センパイが嫌われている。

 そんなことは、知っていた事実だ。

 でも、嫌われてるからといって、何をしてもいいわけじゃない。

 人の大切な身体をもてあそぶような、そんな悪質で陰湿なイタズラを許していいわけじゃない。

「……朱音くん、もういいですから」

 でも、紗希センパイは制止する。

 どうしてなんだ。

「よくねえっすよ!」

「もういいって、言ってるのです。わたしが言ってるのですから、もういいでしょう」

「……紗希センパイ」、

「行きましょう。先に行ってますね」

 でも、何も言えない。

 ゆっくりと、背中を向けて歩き始める彼女を見つめ。

「……っ!」

 あたしは、追いかけることができなかった。

 どうしてだろうか。足が動かなかったのだ。

「おい」

「あ?」

「お前、名前は何て言うんだよ」

 むくりと身体を起こしたチンピラが、あたしを見つめながら尋ねる。

「青木朱音だ」

「……青木?」

「転校したやつとは、関係ない」

 どうせ、そっちと一緒になっているのだろう。

 まあ、実際はあたしなのだけれども。あたしなのだけれど、今のあたしはあたしじゃない。ややこしいな。

「ああ、そうか。おい、青木」

「何だ」

「オレたちはお前に負けた。オレはもう、そのセンパイさんには手を出さねえ」

「当然だろ」

 もしも、また手を出したら。

 次は、半殺しじゃすまない。ぶっ殺す。

「だから、オレたちのボスになってくれよ。お前、強いし」

「はあ?」

 何を言うのだろうかと思っていたが、バカバカしい話だ。

 オレたちのボス? それって、チンピラのボスになれってことだよね。

「もしも、センパイさんがいじめられてるのを見たり、聞いたりしたら、オレたちが助ける。その代わり、お前もオレたちを助けてくれ」

「お前たちに、何のメリットがあるんだよ」

 メリットがわからない。

 実質的には、紗希センパイの用心棒じゃないか。

「強いやつと、一緒にいたいだけだ。あとは、他のチンピラと戦う時に、助けてくれればそれだけでいい」

「……」

「お前は、北学の中でセンパイさんを助けりゃいいだろ。オレたちは、北学の外でセンパイさんを助けてやるよ。オレたちの仲間は何百人といる。悪い話じゃないだろ」

 何百人?

 何百人もいるチンピラの、ボスになれって?

 ちょいとそれは、リスクが大きすぎるんじゃないか。躊躇するなあ。

「それは……」

「青木、もう一つ、教えてやる」

 戸惑っていると、

「センパイさんは、北学女子のいいオモチャだ。このままだと、何されるかわかったもんじゃねえぞ。今回のが成功したら、それ脅しのタネにして、もっとやらせるつもりだったらしいからな」

 チンピラが、再び言葉を紡ぎ始める。

「……どういうことだよ」

「あいつら遊ぶのに飽きたから、ヤらせようとしてんだよ。オッサン相手にな、金取って」

「んなもん、絶対に許さねえぞ」

 どうかしてる。頭がおかしい。

 どこからどうすれば、そんな発想が出てくるのか。恐ろしすぎる。

「オレらだって、ドン引きだよ。さすがにねえだろ。それにな、青木」

「何だよ」

「あの女子連中、相当に頭おかしいわ。オレらが言うのもなんだけどな。容赦しねえよ、特にセンパイさん相手には、相当にひでえことをやってる」

「そんなこと、一度も」

 一度も、紗希センパイの口から語られたことはない。

 いじめ現場を、救済したことは何度もある。それでも、いじめの内容を知ることはなかった。一度も、何をされて、何があったのかを知ることはなかった。

「そりゃそうだろ。後輩に迷惑かけたくねえんだろうな」

「……紗希センパイ」

「青木。男と男の約束だ。絶対に破りはしねえ。どうだ」

「わかった。これから、よろしく頼むよ」

 そこまで言われたら、あたしも信じざるをえない。

 男と男の間の約束は、鉄のように固いと聞いている。

 握り拳を、がちっと合わせ。

 そうすることで、契約が成立した。

「任せろよ。もう、指一本触れさせやしねえ。メルアド交換しようぜ」

「ああ」

「そうだ、もう一ついいことを教えてやるよ、青木」

「んあ?」

「センパイさんはまだ、誰ともヤってねーし、ヤらされてねーよ。安心しろ。まあ、自分から男作ってヤってるなら、まあ別だけどな」

 何を言われるのか。

 ぼうっとしていたが、一気に頭がしゃきっとした。

 そして同時に、何だか安心してしまう自分がそこにいて、何だか恥ずかしい気分になってしまった。まさか下ネタを、こんな所で使ってくるとは。

でも、有用な情報……なのかな? わかんないけど。

「ば、知るかよ、んなこと!」

「好きなんだろ、お前。すぐにでもわかる。任せろよ、守ってやるから」

「くそが……」

「ハハッ!」

 男の笑いが、路地裏を支配した。これで、紗希センパイの外の安全は確保されたも同然だろう。これで、北学の人間は、いじめの手先としてこいつらを使えなくなったのだし。

 じゃあ、後は。

 あたしが、北学の中で彼女を守るだけだ。

 その様子を、しおりんは黙って遠くから見つめていた。

 何かを言いたそうにしているが、何も言うことはなく。

 あたしは、紗希センパイがどこかへと去ったのち、しおりんと二人で学校に向かい、無言の時間を過ごして、無言の昼食を終えた。

 時間はいつもより遅く流れながら、過ぎていった。


 ――そして、放課後。

 夕陽が差し込む英語研究会の部室で、あたしは紗希センパイと二人。

 何も話すことなく、何もすることなく、ただただじいっと、テーブル越しに向かい合っていた。

 何を話していいのかわからない。

 何をすればいいのかわからない。

 ただ、意思だけは伝えておこうと思った。

「紗希センパイ」

「はい」

「俺、紗希センパイを守ります」

 だから、意思表明をする。

「朱音くん」

 のだが。

「……はい」

「本当に、ありがとう」

「じゃあ……」

「でも、結構です」

 弱々しい笑みを浮かべた紗希センパイは、あたしの申し出をきっぱりと拒絶した。

「朱音くん。見られてしまったから、お話、しておこうと思います」

「……」

 今から話されることは、きっとあたしがもう知っていることだ。

 もう数年前から知っていて、何とかしようと動き続けたことに関係することだ。

「皆さんは、わたしが嫌いみたいです。ですから、この学校じゃわたしは限りなく浮いた存在なんです」

「そんなこと……」

 至高の容姿を持ち、決して抵抗しない弱さを持つ紗希センパイ。

 いじめのターゲットとしては、最適だ。

 何をされても誰にも言わない。誰にも助けを求めず、ただじいと耐え続ける。

 そんな彼女は、不満のはけ口になっていた。

「いいんですよ、朱音くん。本当のことを、助けてくれたあなたには知って欲しいんです」

「……」

 でも、このままでいいのか。

 よくないだろう。

「わたしは昔、わたしを助けてくれた人が、追い込まれていくのを見ました」

「え?」

 紗希センパイに、手を差し伸べた人が、あたし以外にもいた。

 誰なんだろう。孤立していた彼女を救ったのは、あたしだと自認していたのに。

「その人は、わたしのせいで、ここにはいられなくなってしまいました」

「いつ、いられなくなったんですか」

「昔の話ですよ。ちょっぴり、昔の話です。……最後には、怒ったのでしょうか。何も言わずに、目の前から去って行きました」

 薄情な人間だなあ。

 去って行く前には、何があっても別れは告げるべきだ。

 そうしなかったから、紗希センパイはこんなに傷ついてるのに。

「事情があったんだと思います。俺にはわかりませんけど」

 まあ、助けていたのなら一応擁護してやるが。

「それでも、それなら一言くらいは残してくれるでしょう。よっぽど、ショックだったんだと思います」

 悲しい色を帯びた瞳に、僅かな水分を満たして、紗希センパイは語る。

 ああ、よっぽどショックだったんだろうなあ、紗希センパイ。

「わかってくれましたか。わたしはもう、あんな辛い思いはしたくないんです」

「でも、辛い思いをしてるのは、紗希センパイじゃないですか」

「自分のことなら、耐えられます。大切な人が辛い思いをするのは、耐えられないんです。それに、朱音くんは汐里の彼氏さんでしょう?」

 突然の言葉に、思わず吹き出してしまった。

 あたしがしおりんの彼氏? そんなこと。

「ち、違いますって! 友達です、ともだち!」

「ふふ。隠さなくてもいいんですよ。汐里から、最近よく話を聞くようになりました」

「違いますってば!」

 だめだ。これは紗希センパイの論点すり替えテクニックだ。

 まさか、出会ったばかりのあたしに使うとは思わなかったが。

 都合が悪くなると、黒崎姉妹はこうやってあたしを動揺させて、話題をすり替える。

「……じゃあ、紗希センパイにも好きな人っているんですか」

 じゃあ、こっちもすり替えてやる。

 どうせ、元の話題には戻れないのだ。

 それなら、聞きたいことを聞いてやる。

 いじめから助けるのに、紗希センパイの許可なんて不要だし。勝手に助ければいいし。

「はい、いました」

 はぐらかされるかなあ、と思ったら。

「えっ、誰ですか」

 まさかの返答に、あたしは思わず身を乗り出して尋ねる。

 紗希センパイの好きな人。誰なんだろう。というか誰だ。探し出してやる。

「ひみつ、です」

「もしかして、俺ですか?」

 どきどきする胸の鼓動を無視しながら、あたしは尋ねてみるも。

「後輩としては、好きですよ」

「ですよねー……」

 あまりにも早い、瞬間の即答。

「? どうして、そんなに落ち込むのですか?」

「いえいえ、何でもないです」

 まあ、出会ったばっかだし。

 好きになってくれるとは思ってなかったけど、やっぱりなんだかショック。

「そういえば、何となくなんですけれど」

「はい」

「汐里も、朱音くんも。何か、わたしに隠していませんか?」

「え?」

 鋭い、紗希センパイの指摘。

 隠し事ならある。

 あたしは、女の子の青木朱音だ。

 言うことで、精神的なショックを与えるかもしれなくて言えず、ここまで来ているが。

「付き合ってるのかなあ、とぴんときたのはそこなんです」

「どういうことですか?」

「何だか、秘密を共有する二人、ろまんちっくじゃないですか?」

 その通りだ。

 二人だけの秘密。あたしとしおりんはそれを共有している。

 正確には、父さんと母さんも知っているけれど、その他の人は何も知らない。あたしたちだけの秘密だ。ロマンチックかどうかは別として。

「えーあーえー……」

「どうです? なかなか、カンが鋭いって言われるんですよ」

「確かに、凄く鋭いです」

「でしょう」

 自信満々の、紗希センパイの笑み。

 太陽のように明るく、柔らかく、温かかった。

 あたしはこの笑みに惹かれたのだ。連日のケンカ、戦いの中で荒んでいた心を癒してくれた、この笑みに。

「でも、ハズレですよ。あたしとしおりんは、付き合ってません」

 カンは鋭いが。

 さすがに、あたしが元女の子という発想は、浮かばなかったようだ。

「なんだ。そうなんですか」

「はい。残念でしたね」

 話すことで、嫌われてしまうかもしれない。

 話すことで、騙していたのかと怒られるかもしれない。

 そんな恐怖が、あたしの頭の中を支配していた。ややこしい思いだ。本当に。


 ――そして、紗希センパイといつも通りに部室で別れ、帰宅後。

「ただいまー。あれ?」

 ドアノブを回して、リビングに至るドアを開いた瞬間。

 見慣れない人間が、テーブルに座っているのが見えた。

 しおりんだ。

「どうしたんだよ、しおりん」

「少し、お話があります」

「あれ、母さんは?」

 辺りを見渡すが、いるはずの母さんがいない。

 不用心だなあ。

「少し、席を外してもらっています」

「ああ、そうなんだ」

「朱音くん。今日のことは、少し問題ですわ」

「何が?」

 何が、と言うものの心当たりはあった。

 どうせ、紗希センパイとか、そこらへんの話だ。

「あのチンピラ、ここらを仕切ってるヤンキーのボスです」

 心配そうに、あたしを見つけるしおりん。

 そこまで心配することはない。何ということはないし。

 くすりと笑って、あたしはしおりんの向かい側に座る。

「へえ、そうなんだ。じゃあ、俺が今度からボスだな」

「そんな気楽な話じゃありませんわ。朱音くん、悪い事は言いません。もう、あの連中に関わるのは、どうかやめてください」

 あたしは軽い気持ちだったのだけれど。

 しおりんの顔は、笑っていない。本気で言っている目だ。

「危ないから、とか言うんだろ」

「そうです。危ないです」

「大丈夫だって。何とかなるから」

 今まで、危ない橋なんていくらでも渡った。

 今更、チンピラのボスになるくらい、何てことはない。

 それに、ボスになれば、学外での紗希センパイの安全が確保できるし。

「ならなかったときは、どうするんですの」

「その時はその時だろ」

「そんな話じゃありません」

「どうして、しおりんがそんなに心配するんだよ」

「そ、それは……」

 明らかに狼狽するしおりん。

 どうしてそこまで狼狽えるのか、わからなかったけれども、きっとあたしに反論されてしまって、必死に言い返す理由でも考えているんだろう。

「俺は男の子になったんだから。そんなに心配してもらわなくてもいいって」

 さすがに過保護だ。

「でも……」

「心配してくれるのはありがたいけど、俺は大丈夫だから」

「でも、もしも、危ないことに巻き込まれたら……」

「その時は、しおりんが助けてくれるんだろ」

 すると。

「え?」

 しおりんは、目を丸くして、こちらを見つめる。

「言ってただろ、男の子になった日に。面倒なことは処理してやるって」

「……そう、でしたわね。それでも、助けるとは言ってませんわ」

「しおりんなら助けてくれるって、信じてる」

 助けるとは、確かに一言も言っていない。

 でも、しおりんなら、そうしてくれると思った。

 根拠は全くないけれど、助けてくれると思った。だから、男の子になったあのとき、電話したんだし。

「どうして、そう言い切れるんですの」

「しおりんは、ずっと助けてきてくれたし」

「たった、それだけですの?」

「それだけで、十分だろ」

「……本当に、あなたって残酷です」

「へ?」

「残酷な人ですわ、あなたは」

「どういう意味?」

 わけがわからない。

 あたしのどこが残酷なのだろう。

 助けを求めすぎるから、残酷なんだろうか?

 わからないなあ。

「それがわからないから、残酷なんですよ。……そうですわね、面倒なことは処理してや

るって、言ってしまったのですわね」

「うん。優しいもん、しおりん」

 厳しいところもあるけれど、本当は優しい女の子。

 それが、しおりんだ。それがしおりんの、本当の姿だ。

「でも、一つだけ約束してください」

 そんな彼女が、あたしを見つめて、真剣な表情を浮かべて。

 何か、言おうとしている。

「うん?」

「絶対に、危ないことはしないように。どうしても、危ないことをするときは、少しでもわたくしに相談してください。それだけ、守ってくださいまし」

 本気で心配してくれている。

 そんな目だ。

「わかった。出来る限り、そうする」

「出来る限りじゃなくて、絶対ですわ」

「絶対、そうする」

 何度も確認をされ、思わず苦笑してしまった。

 でも、これがあたしを大切に思ってくれている証だ。

「はい。お願いします」

「それで、話ってそれだけ?」

 しかし、何だか拍子抜けだ。

「そうですけれども」

「紗希センパイの話をしにきたんじゃないの?」

 何だか深刻な雰囲気を漂わせていたから、きっと紗希センパイに関係することだと思ったのに、

「違いますわ」

「へえ……」

 即答されてしまった。

 うーん。

「どうして、わたくしがここで紗希ねえの話をすると?」

「自分の姉が、いじめられてる現場、初めて見ただろ」

 説明しづらいけれども、率直に話す。

 すると。


「いいえ」


 彼女は、真顔のまま、首を横に振った。

 あたしは、首を縦に振ると思っていた。

 でも、彼女はそうしなかった。

「へ?」

 どうしてなんだ。

 どういうことなんだ。

「初めてじゃありませんわ」

「どういうことだよ」

 問い返すと。

「見過ごしたのも、放置したのも、初めてじゃありませんわ」

 しれっと、しおりんは言い放った。

 いじめを、見過ごしたのも。

 いじめを、放置したのも。

 初めてじゃない。

「自分のお姉さんだろ、なんで放置するんだよ」

 いじめがあるということは、知っている。

 それでも、実際に現場に遭遇すれば、何かアクションを起こすはずだろう。それでも、彼女は今まで、何も起こさなかったのだ。今まで、現場に遭遇しても、スルーし続けてきたのか。

「それを、紗希ねえ自身が望むからです」

「意味がわかんねえ。んなもん、本当かどうかわかんねえだろ」

 残酷すぎる。

 あまりにも、悲しすぎる。

 しかし、しおりんは。

「わかります。わたくしは、シスコンですから」

 ただ、その一言で話を完結させてしまった。

 何だろう。

「それでも助けるだろ、普通は」

 割り切れない。

 あたしは、そんな現実は認めたくない。

 しかし。

「朱音くん」

「何だよ」

 しおりんの諭すような声に、いらいらしながら返事を返すと。

「紗希ねえは、手を差し伸べられることを望んでいませんわ」

「そんなこと、しおりんが決めることじゃない」

「黒崎家の内情に一番詳しいのは、わたくしですわ。あなたじゃない。あなたは、黒崎の人間ではない」

 心にずしりと、重くのしかかる言葉が投げつけられた。

 そうだ。あたしは、黒崎家の内部なんて、何も知らない。

 あたしはただの女の子だった男の子で、紗希センパイの家族でもない。

「……」

「紗希ねえは、副生徒総長になれる器でした。わたくしなんかよりも、優秀で知的で、頭の回転も速い。氷のように冷徹な判断を下すかと思えば、温かみのある施しもできる。そんな方です。でも」

「でも?」

「お爺様たち。黒崎家の偉い人々は、紗希ねえを拒絶したんです」

 そう語るしおりんは悔しそうに、それでも懸命に感情を堪えているように見えた。

 以前、紗希センパイから聞いたことはある。聞いたことはあるが、何度聞いても胸糞が悪いものがある。

「……アルビノ、だから?」

「そうですわ。その瞬間、わたくしが副生徒総長になり、黒崎家当主の座を分家と争うことが決定したのです」

 何が悪いのか。

 見かけが、ちょっと人と違うだけだ。

 それなのに、どうして黒崎家は紗希センパイを認めないのか。

「紗希ねえは、わたくしを応援してくれています。運営だって、本当のところは手伝ってくれてもいます。でも、絶対にそのことを表には出すな。絶対に、自分には関わるなと言って聞かないのです」

「紗希センパイは、どうしてそんなことを」

「優しい方、ですから。自分のことで、誰かに迷惑をかけたくないのでしょう」

「そんなのおかしいだろ」

 だから、あたしは想いをぶつける。

 すると。

「ええ、おかしいです。おかしいですわよ。その通りですわ」

 堰を切ったかのように、しおりんの口から呪いの言葉が紡がれる。

「でも、どうしようもないんです。紗希ねえは、他の人と何も変わりません。施術を受けて、身体の弱さは克服してます。でも、黒崎家では化け物扱いですわ」

 悲痛な思いを、言葉に乗せて。

 しおりんは、姉に対する思いを吐露し続ける。

「自分が慕う姉が、泣きながら懇願する姿を、あなたは想像できますか」

 涙は流していない。それは、副生徒総長、次の当主としての意地か。

 それでも、必死に放たれた言葉には、涙の色が滲み出ていた。

「出来ないでしょう。わたくしは副生徒総長です。いじめた生徒を、処分に付することだってできる。いじめた人間を、退学に追い込むことだってできる。でも、紗希ねえはそれを望まなかったんです」

 変えられない現実を、しおりんは呪い続ける。

 副生徒総長であるのに、権限を行使したいのに。

 それでも、姉がそれを望まない。だから、どうすることもできない。

「夕暮れの教室で、『わたしのことで、汐里に迷惑はかけられない』って、いじめっ子に服をはぎ取られて下着姿のまま、泣きながらわたくしの足に縋り付いた大好きな姉の姿を、わたくしは一生忘れません。いえ、忘れられませんわ」

 情景が、あたしの頭の中に即座に描写される。

 そんな場面に遭遇してしまったら、もし、あたしがしおりんだったら。

 あまりの悔しさに、怒り狂っていたに違いない。でも、怒り狂っても、肝心の姉は助けを求めない。

 それどころか、逆に気を遣われる。それは、どれだけ悲しいことなんだろう。

「その時わたくしは、心から泣きました。自分の姉は何も悪いことはしていないのに、どうしてここまでされないといけないのか、と。でも、これは決まったことなんです。どうしようもなくて、何も変わらない闇なんです」

 変わらない闇。

 変えられない闇。

 姉が好きなのに、好きな姉は救済を求めない。

 葛藤の中で生きる、しおりんの辛さが言葉の一つ一つから伝わってくる。

「しおりん……」

「だから、朱音くんが紗希ねえを助けようとするなら。紗希ねえの意思を無視して、何かコトを起こそうとしているのなら、わたくしは反発しますわ」

 小さく、しかし重く紡がれる言葉には、しおりんの覚悟が滲んでいた。

 彼女たちの背負った苦しみは、あたしの想像をはるかに超えている。

 想像もできないところに、彼女たちの苦しみがある。

「彼女の苦しみは、彼女にだけわかること。あなたが干渉するべき領域にないのです」

 何も言えず、あたしは俯くことしか出来なかった。

 どうしようもない。

 何も言い返せない。

 だって、あたしはただの人間で、紗希センパイの後輩で。

 そこまで、踏み込めていたわけでもない。何も出来てないんだ。

「今、これを言おうとは思っていませんでした。……でも、良い機会ですので、言っておきます」

 心を黒く染めるあたしなんて、全く知らない、といったように。

 しおりんは、処刑の言葉を次々と披露してゆく。

「あなたと付き合っても、紗希ねえは幸せになれない」

 心に響く、しおりんの声。

 

「……っ!」


 どうして、そんなことを言うのか。

 顔を上げて、しおりんの表情を見つめると。

 副生徒総長として、責務を全うしているときの顔。

 まさしく、黒崎家次期当主としての決意を浮かべていた。

「紗希ねえには、朱音くんは眩しすぎる。あなたは、紗希ねえに夢を与えてしまう」

「夢を与えちゃ、ダメなのかよ」

「ええ、ダメです」

「……」

 断固として言い切る、しおりん。

 夢も与えられず、夢を求めず。

 そんな生活を、紗希センパイはどうして、強いられなければいけないのか。

「絶望の淵に生きてるのです。紗希ねえは。朱音くんが希望を与えれば、紗希ねえは闇に戻れなくなる。光の世界を望んでしまう。そうなれば、傷つくのは紗希ねえなんです」

「あんまりだろ、そんな言い方。なんで、そんなことを言うんだよ。昔は応援してくれてたのに」

「女の子相手の恋愛なら、絶対に成就することはないだろうと、思っていたからですわ」

「……本当かよ」

 最悪だ。

 そんなことを思っていたなんて。

 もし本当なら、あたしを支えてくれていたあのしおりんは、いったい何だったんだ。

「本当ですわ。……でも、今の朱音くんは男の子。もしかすると、成就してしまうかもしれない。そうなってしまえば、傷つくのは紗希ねえです」

 ショックを受け、失意の底に沈むあたしに。

「はっきり言っておきます」

 しおりんは、一言一言、ゆっくりと。

「あなたと付き合えば、紗希ねえは不幸になる」

 あたしに理解させるように。

「わかりましたか?」

 言葉を紡いでゆく。

「干渉するなと、言っているのだから、干渉しないのが一番なんです」

 諭すように、諦めさせるように。

「朱音くん、わかってくれましたか」

 酷く残酷で、優しく、あたしの心を絞め殺す感覚を与える。

 応援してくれるとか、支えてくれるとか。

 あたしの考えが、甘っちょろかったのだろうか。

 そんなことはない。

 あたしは、紗希センパイが好きなんだ。

「わかんねえよ、意味がわかんねえよ……」

「紗希ねえのためなんです」

「……」

 だから、何を言われても。

 あたしは、決して思いを捨てない。

 そう、決意をしたのだけれども。

「もしも、それでも、朱音くんが紗希ねえを幸せに出来ると言うのなら」

「……?」

 その空気を察したのか、しおりんが厳しい視線を浴びせながら語る。

「誓いを立ててください」

「何をすりゃいいんだよ」

「何もしなくていいですわ」

 きっぱりと、言い切るしおりん。

 意味がわからない。どういうことなのか。

「?」

「わたくしは、姉が大切です。とても大切に思っています」

「ああ、わかってる」

 シスコンだ、と繰り返して述べている。

 その言葉が本当なら、しおりんは姉が大好きだ。

 姉が大切だからこそ、姉の望みを聞き入れてきた。

 それがどんな望みであっても、聞き入れてきたのだ。

 彼女が背負った覚悟は、あたしが想像するよりも重く、深いだろう。

「もしも、理不尽な幸せを与えて、その後にそれを奪って、絶望の淵に叩き落としたとしたら、紗希ねえは悲しみ、自分を責め、やがて自決に至るでしょう」

「どうしてわかるんだよ」

「妹、ですから。姉の苦しみは、手に取るようにわかります」

 根拠は薄い。

 薄いが、そうなるのだろう。

「そうかい」

 しおりんがそう語るなら、そうなってしまうのだろう。

 紗希センパイの心は、繊細で脆い。

ぱっとある日消えてしまっても、全く違和感はない。絶対にそんなこと、ありえないと信じたいが、違和感自体はない。

「はい。それで、もしも、紗希ねえが死んでしまったら」

「たら?」

「わたくしは、朱音くんを一生許しません」

 今まで見たことのないような、殺意に満ちた瞳。

 かつてあたしの前では露見させたことのないような、決意に満ちた瞳。

「逆に、あなたに殺されてしまうかもしれない。それでも、わたくしは絶対に許さない」

 本気だ。

 しおりんは、本気で言っている。

 嘘でも偽りでもなく、心からそう言葉を紡いでいる。

「あなたを殺して、それから死ぬ。それくらいの覚悟は、出来ています。朱音くんはどうですか。生半可な気持ちで、紗希ねえに手を出そうとしているのでは、ありませんか」

 生半可な気持ちで、紗希センパイと付き合おうとしているわけじゃない。

 好きになったのは、そりゃ些細なことだったかもしれない。

 でも、それだけじゃないし。そんなことを言われる筋合いなんてない。

 言いたいけれど、言葉にできない。

 させてくれない。

「女の子が好きだから、紗希ねえが好きになった。可愛くて綺麗で幻想的な紗希ねえを好きになった。それだけじゃないのですか。見かけだけで、好きになったのではありませんか」

 絶対に、そうじゃない。

 そう言い切れるのだろうか。

 あたしは、あたしを認めてくれる、紗希センパイが好きになっただけ。

 本当に、紗希センパイが好きなんだろうか。わからない。本当の心は、自分ですらもはっきりしていない。

「……」

「ほら、言い返せないでしょう。きっと、その通りですわ。わたくしを嫌ってくださるなら結構。ぜひ、嫌いになってくださいませ」

 返答に詰まるあたしを尻目に。

 しおりんは、帰り支度を始める。

 勝利宣言か、敗者であるあたしを笑うつもりか。

 いずれかはわからない。

 でも、あたしは言い返せなかった。あたしの負けだ。

「……もう一度、頭を冷やして、自分でゆっくりと考えてくださいませ。わたくしの大切な、大事な方として」

 でも、あまりにも言葉が過ぎる。

 少し、さすがにあたしもカチン、と来た。

 絶交だと、言い切ってやるのは簡単だ。

 しかし。

 しおりんが去ってゆく瞬間、ぽろりと瞳から一粒の涙がこぼれ出るのを見た瞬間、何も言えなくなってしまうのだった。


 ――そして、しおりんが去っていった後。

「はあー……」

 自問自答する。

 あたしが好きだったのは、紗希センパイなのか。

 あたしが好きだったのは、女の子で、可愛い女の子、だったんじゃないのか。

 しおりんに言われた言葉が、重くのしかかり続ける。

 ため息しか出ないなあ。はあ。

「あら、汐里ちゃん帰ったの?」

「うん……」

「どうしたの、酷い顔よ?」

 様子を見てリビングにやってきた母さんが、先ほどまでしおりんが座っていた椅子に座り、あたしに優しく語りかけてくる。

「酷い表情って言ってほしいなあ」

「酷い表情の顔ね」

「何も変わってないよー。はあ……」

 こんな冗談にも、返す元気がない。

 そんな冗談に、付き合っている余裕がない。

「どうしたの。お母さんに、言ってみなさい」

 事の重大さを察知したのか、母さんが尋ねてくる。

「うー?」

「ほら、聞いてあげるわ」

「じゃあさ、お母さん」

 聞いてくれるというのなら、聞いてもらおう。

 あたしだけじゃ、このまま詰まってしまいそうだ。 

「うん」

「こんなことがあったんだけど――」

 だから、言うべきではないことは隠し。

 あたしが、紗希センパイのことが本当に好きなのか。

 そのことについて、尋ねてみる。

 

 ――数分後。

「――ってわけ。どうしたらいいんだろう、あたし」

 何度も頷き、母さんは話を聞いてくれた。

「あたしじゃなくて、俺。しっかりなさい、朱音」

「うん……」

「朱音は、女の子に戻りたいの?」

 根本的な問題だ。

 あたしは、どう思ってるんだろう。

 最初は、男の子になれば、紗希センパイと付き合えると、簡単に思っていた。

 でも、今は違う。そんな単純な問題じゃないと、気づいてしまった。

「うーん、わかんない。どうなんだろう」

「先に言っておくわね」

「うん?」

 先ほどまで、笑みを浮かべていた母さんの表情からは、笑いが消え。

 しっかりと、あたしを見据えていた。

「朱音は、ずっと男の子のままよ。もう戻れないわ」

 ずっと、男の子のまま。

 もう戻れない。

 なんで、母さんがそんなことを言うのか。

「え? どうして、言い切れるの?」

「そりゃ、言い切れるわよ」

「なんで?」

 純粋に意味がわからなかった。

 だから、尋ね返した、それだけのことだ。


「だって、お父さんも女の子だったんだから」


 だから、その言葉には頭をハンマーで殴られたかのような、衝撃を与えられた。

「え?」


 ――父さんが、女の子だった?

 どういうこと?



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