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おとこのおんなのこ  作者: 平山ひろてる
第1巻 『センパイの愛した、おもいびと』
3/7

第二話 『混沌とした学園生活の幕開け』

 翌日。

 あたしは、男の子になる前と同じクラスに、編入することになっていた。

 男物のブレザーや、新しい学生証は即座に用意され、必要なものは全て揃った。

 さすが副生徒総長。さすが黒崎家。バックアップ体制は、完全というわけだ。


「兵庫県の桜花学園高校から、編入してきました。青木朱音って言います。よろしくお願いします」

 ぺこ、と黒板にチョークで名前を書き、お辞儀をする。学校名はでっちあげた。あたしたちの通う北宮学院は関東にあるし、バレるわけがない。

「あー、仲良くしてやってくれ。席はそうだな……」

「わたくしの隣に」

「わかった。黒崎の隣に行け、おいそこの列の奴らは、少しずつ前にずれろ」

 頭を上げて、周囲の人間を見ると、奇異と好奇の視線を送ってきていた。

 くそう、見世物じゃないんだぞ。

 その中、不安そうにあたしを見つめる、しおりんの姿が何とも言えず、頼もしく、心強かった。

 父さんや母さん以外にも、あたしが実は女の子なんだ、という事実を知っている人がいる、あたしは、結構恵まれているのかもしれない。


 そして、あたしの男の子としての生活が本格的に始まった。

 のだけれども。


 ホームルームが終わり、ちょっとトイレに行こうと思った矢先のこと。

 さすがに、これはしおりんに、ついて来てもらうわけにいかないしね。

「なあなあ」

「んあ?」

「よう、よろしくな。俺は山岡だ」

 早速、男に絡まれてしまった。

 悪いことではないのだが、面倒くさい。

 追いかけてきやがった。

「はあ……よろしく、山岡くん」

 こいつの名前は、山岡雄太。

 確か十五歳。

 あたしたちの組の男子のリーダーのようなもので、ちょくちょくあたしに絡んできていた人間だ。

 嫌いじゃないが、うざい、という問題がある。

 ちなみに、しおりんの友人ではある。

「呼び捨てでいいよ。なあ、お前、もしかして青木の親戚か何かか?」

「青木?」

 あたしのことだろう。

 あたしのことだろうが、知らないふりをする。

「ああ、知らないならいいんだけどな」

「誰?」

「青木朱音って、お前と全く同じ名前の女がいたんだよ。何か、入れ替わりで転校していったけどな。残念だ」

「ふうん。そいつが転校して行って、寂しいとか?」

「ああ、寂しいな」 

「へ、へえ」

 まさか、あたしのことが好きだったとか。

 そういう言葉が聞けたら面白そうだと、興味で聞いてみたのだが。

 意外に真面目な顔をして話すものだから、少しギャップで胸が躍った。

「あいつとなら、本気で殴り合いができた。楽しかった」

 しかし、次の瞬間には胸の鼓動は消沈。

 あたしは、山岡とよくガチの喧嘩をしていた。

「へえ?」

「まあ終わった話だな。何かの縁だろ、よろしくな。青木」

 あー、きゅんとして損した。きゅん損。

 やっぱり山岡は山岡だ。頭の中まで筋肉まみれの、バカだ。

「ああ」

「でもさあ、その青木は、俺のことをうぜえうぜえって、殴ってきたんだぜ。うざくねえよな、俺」

 初対面の人間に、そんなことを話す人間は、ウザくないのか。

 そんなことを思いながら。

「まあ、そんなこともあるんじゃねえの」

「そうかねえ」

「ああ」

 軽く流してやる。

 満足して去っていくかな、と思ったらしっかりと横を歩いていた。

 まさか、ついてくるつもりか。

「なんでついてくるんだよ」

 とあたしが言うと。

「え? いや、連れション行こうと思って」

 けろっとした口調で、山岡は語るが。

「っ!」

 頬が熱くなるのを感じ、あたしは思わず、山岡の横腹を思いっきり殴ってしまった。

「いでえっ! なんで殴るんだよ!」

「ご、ごめん」

「力つえーなあ、青木。一瞬気が遠くなったぞ」

「ああ……」

 やっぱり、しおりんの時もそうだったが。

 あたしの力は、かなり強くなっているようだ。

 山岡は身体を鍛えているし、よっぽどのことがなければ痛がらない。

「なんか、武術やってんの?」

 そう彼が疑うのも、当然のことだ。

「いや、何もやってない」

 気をつけないとなあ。

 下手すると、周りの人間をケガさせてしまう。

「へえー。すげえな」

 そんなことを話している間に。

 男子トイレまでやってきた。

 正直ドキドキだ。ドキドキだけど、一応、昨日予習しておいた。大丈夫なはず。うまくできるはず。そう信じたい。

 トイレの前に立ち、山岡に向かって語りかけるが。

「……一人で行きたいんだけど」

「そんなこと言うなよ。行こうぜ、青木」

「ちょっ」

 彼は、あたしの肩を抱いてトイレの中へと進入してゆく。

 言っているとおかしな話だけど、現実は男同士なんだから、おかしなことはない。

 あー、別におかしなことじゃないんだろうけど、あー、何だかもやもやする。

 もやもやするなあ!


 そして――。


「どうです? 男として暮らすというのは」


 ――クラスメイトの質問攻めも終わり、授業も午前中のものは全て終え。

 今は、昼休み。

 屋上のベンチに座り、あたしとしおりんは、弁当を食べながら二人で話す。

 山岡は振り払った。しおりんの名前を出したら、簡単に引いた。

 何故か知らないけど、あいつは妙にしおりんに優しいんだよね。

「疲れたー」

「初日に体育というのは、それはそれで大変でしたわね」

「そう! それも大変すぎるんだって! スプレー、スプレー使いすぎ!」

「体育終わったあとの教室、凄くスプレーの匂いしますものね」

「しなかったらしなかったで、すっげー汗くさいんだけどねえ……」

 なかなか辛いものがある。

 動きまくるもんなあ。そりゃ汗も出るよ、匂いもするさ。

「匂いフェチに目覚めたのですか?」

 そんなあたしを、じいと見つめるしおりん。

 弁当を食べる手が止まってるよ。早く食べて、そんな話題する前に。

「そんなわけないだろー」

「そうなのですか」

「女の子の匂いなら歓迎だよ」

 女の子の匂いは香水だの、コロンだの、何だと批判されることも多いが。

 あの匂いだって人それぞれだ。いい匂いをさせている子は、いい匂いなんだ。

「おっさんくさいですわ」

「すみません……」

 ぺし、っと頭を叩かれた。

 しおりん、もうちょっと乗ってくれてもいいのに。

「そうだ、こんな話はどう?」

「どんな話です?」

「山岡と、連れション行った話」

 箸をぱたり、と弁当箱の上に置き。

「謝るなら、今のうちですわよ」

 素晴らしい笑顔を浮かべながら、しおりんはあたしに言い放つ。

「はい。すみませんでした」

 恐ろしい。

 笑っているのに、目が全く笑っていない。

「ゴハン食べてるときに、何て汚い話をするんですか。信じられませんわ」

「すみませんでした」

「全く……」

「そういえば、女子の間で何か話題あった?」

「朱音さんが転校していったことを、残念がる話も出てましたわ」

「へえ……」

 何だろう。

 嬉しいなあ、何か、ほっこりする。

 そう思った矢先のこと。

「その後すぐに、昨夜にあったお笑い番組の話に、シフトしましたけど」

「え? 何? 俺の人気って、お笑い番組以下だったわけ?」

「それはともかく、朱音くんのほう、人気ありましたわよ女子の間で」

 何だか、しおりんはあえてスルーしたような。

 ちょっと、あたしの人気がどうなのか、教えて欲しかったけどね。

「マジでっ!」

 元気が胸の底から沸き起こってくる。

 女子相手に人気がある、それは嬉しいお知らせだ。

「目の色を変えないでくださいまし」

「はい……」

「カッコカワイイ、だそうです」

「えー、どっちなの? かっこいいのか、可愛いのか」

 中途半端だなあ。

 どっちかにしてほしい。

「どっちつかずなんでしょう」

「ひどいっ!」

「まあ、悪評が立つよりはマシでしょう」

「悪評は何かあった?」

「『可愛い子ぶってて、ちょっとうざくない?』という評価が、クラスの某女子から」

「俺は男だっつーの!」

 正確には女の子だけど!

 もう男の子だから! その評価はおかしい!

「グループに属していない子の話ですから、気にしないほうがいいかと。基本的には、高評価ですわ」

「それでもなあ……」

「まだ動作に女性的な部分がありますから。そこは直したほうが良いでしょう」

「うー……」

 直せるかなあ。

 動作は、染み付いちゃってるものだしなあ。

「これから、何とかなりますわ」

「そうかなー……」

 十五年間、女の子として生きてきたのだ。

 女の子であるときは、動作が乱暴で男っぽいと言われたこともあるが、男の子の基準で見ると、やはり女の子っぽいのか。

 難しいなあ。染み付いたものだし。

「そういえば、英研に入るのですか」

「うん。入ろうかなあって。でも、前と同じ感じかなあ」

 前と同じ感じ。

 正式なメンバーではある。

 あるのだが、英研のメンバーであることは、他の皆には秘密になっていた。

 そうしろと、紗希センパイに言われたから、そのようなふわふわな状態だった。

「なるほど」

「うっ、うん……」

「なら、前と同じように振る舞ってくださいな」

「わかってるよ」

 あー、結局あたしは何もできないのかなあ。

 しおりんの声を聞きながら、そんなことを思うのだった。


 ――そして、放課後。

 副生徒総長であるしおりんは生徒総会に出ていて、今は一緒にいない。

 こっそりこっそりと、昨日と同じ部室棟の一室にある、英語研究会の部室へと足を向けるあたし。

 今日は昨日よりも時間が早く、人の数もそれなりに多い。

 誰か他の生徒に見られてしまっては困るため、辺りをきょろきょろと警戒しながら、誰もいないタイミングを見計らって、ドアを開いて中に進入する。

「誰もいないーか」

 昨日と変わらぬ部室。

 ここに、あの人がいた。

「紗希センパイ……」

 何というか、あの人に惚れたのは単純すぎる理由だった。

 あの人は可愛いのもあるし、触れたら壊れてしまいそうな、硝子細工のような儚さを持っているし、性格も良く、一緒にいて心の安らぐ人。

 でも、理由はそれだけではなかった。

 それは……。

「入部希望ですか?」

「ひゃあっ!」

 突然の背後からの声に、あたしは思わずその場で飛び上がってしまった。

 そして、焦りながら振り向くと、紗希センパイがいた。

「あ、昨日の……」

「こ、こんにちは!」

「……どうぞ、座ってください」

 さすがに二回目なので慣れてくれたのか、引きつった笑みを浮かべながら紗希センパイは、手を差し伸べて、椅子に座ることを勧めてくれた。

「は、はいい」

「あの子のお友達ですか?」

「は、はあ」

 萎縮してしまう。

 昨日はあんな騒ぎがあったから、まともに顔を見ていないし。

 怯えが滲んだ笑みだったが、それでも他の女子の数倍可愛い。

「そうなんですか」

「はい……」

「えーっと。この部活、英語は研究してないです。もしも、英語がやりたいって言うのなら……」

「知ってます!」

「? どうして?」

 不思議そうに首を傾げる紗希センパイ。

 英語研究会なのに、英語を研究していない。

 なぜなら、この部活は、紗希センパイが中学生のときに作り、妹と二人でいるためにこしらえた空間だから。

「あ、え、えーと、しおりんから聞きました」

 でも、正直に答えるわけにはいかない。

 その事実を知ったのも、紗希センパイと打ち解けてからなのだ。

「ふふ。そうなんですか」

「……」

「また、入部届書いてくださいね。えっと、改めて、自己紹介します。知ってるかもしれないけど、黒崎紗希。二年生で、ここの会長やってます」

 知っている。

 他の誰よりも、あなたのことは知ってます。

 それでも、そのことを言い出すことが出来ない辛さに、あたしは胸の痛みを覚えた。

「……」

「どうしたんですか?」

 そんな事情を知らない紗希センパイは、ただ首を傾げるばかりだった。

「い、いえ。あた……俺の名前は青木朱音って言います。一年生で、昨日転校してきました」

「朱音くん、綺麗な茶髪ですね」

「はうっ!」

 健気に笑いながら世間話をしようとする紗希センパイに、思わずきゅんとした。

 何だこの可愛い生き物、彼女にしたい。

「あ、なれなれしかった……ですか」

「そんなことないです! なれなれしいのはウェルカムです!」

「そうですか」

「まさか、髪の毛を褒められるとは思いませんでした」

 いつものやり取りだ。

 あの、楽しかった英研でのやり取りだ。

「髪の毛以外にも、いい所がありますよ」

「どこですか?」

「えーっと……」

 真剣に悩みながら考える紗希センパイに、

「ないなら言わないでください」

 あたしは思わず、いつもの調子で返してしまった。

「ご、ごめんなさい。何だか、本当になれなれしくしてしまって」

「あ、ああ、そんなつもりで言ったんじゃ」

 取り乱すあたしたち。

 何だかぎくしゃくしているが、何だか楽しくて。

「……ぷっ」

「笑ってないで、いい所探してくださいよー」

「そうだね……。目とか?」

 これから先、うまくやっていけるような、そんな気がした。

「目なんて褒められてもなあ……」

「あの、朱音くん」

「はい?」


「わたしを見ても、何とも思わないんですか?」


 そんな中、ざわりと不穏な空気が流れた気がした。

「可愛いですよね」

「そ、そうじゃなくてですね……」

「他に、何を思えばいいんですか?」

 紗希センパイは戸惑っていたが、あたしには理由がわかっていた。

 彼女の肌は色素が薄く、髪の毛も微かに金色がかった白だ。

 瞳は赤ワインのような色をしている。紗希センパイはカラーコンタクトを目に入れているわけでも、髪の毛を脱色しているわけでもなく、外人であるわけでもない。

「それは……」

 言葉に詰まる彼女。

「可愛いとしか、思わないです。俺は」


 紗希センパイは、いじめられている。

 正確には、存在しない人間と扱われている。


 ほとんどの生徒からは、暴力を受けているわけではなく、腫れ物に触る扱いを受けている。いないように扱われ、友達もおらず、ひたすらに避け続けられてきた。

「……朱音くん」

 女子のみならず、男子までもが紗希センパイを無視していた。

 そんな中で、物言わぬ紗希センパイを、面白がって物理的にいじめる女子も、男子も存在していた。

「まだ……会ったばかりですけど」

 ゆえに、彼女は孤立していた。

「朱音くんは、気持ち悪いって思わないんですか?」

「思わないです」

 この人が、悪いわけじゃない。

この人に、原因があるわけではない。

「そう、ですか」

「はい」

 あたしは即答し続ける。

 彼女の存在を肯定するように、あたしの存在を認めてくれた彼女に縋るように。

「……ごめんなさい。変なことを聞いて」

「いえいえ」

「わたし、アルビノなんです。そこまで深刻じゃなくて、軽いものなんですけど」

「へえー」

 アルビノ、生まれつき身体の色素がない、もしくは薄い人間をそう呼ぶ。全世界どこでも生まれるもので、黒人にもアルビノはいるし、日本人も例外ではない。

「ただ、肌と髪の色も白いですし、目も赤いでしょう?」

「ワインが飲みたくなりますね」

「あはは。面白いことを言いますね」

 その容姿ゆえに、紗希センパイの存在は学内でも有名だ。

その名前は中高に知れ渡っている。

 有名だが、ほとんど会話に上がることはない。

下手に会話に出して、この学校を取り仕切る理事長を刺激して、自分に不利益が降りかかることを、皆が嫌がるのだ。


 しおりんの場合は、乱暴だが積極的に他人に関わろうとする。

 だから、理事長一家の娘で、権力者であっても、友達の数は多い。

 でも、紗希センパイは他人に関わろうとしない。

 だから、状況が変わらない。変えようともしていない。

 全てを諦めて、ただ流れる時間のままに身を任せている。早く、理事長にチクればいいのに。無理なら、しおりんに言えばいいのに。


 それはともかく。

 だから、英研には部員がいない。

 ここは紗希センパイのための、言うなれば聖域なのだ。

 そうなってしまっている。


「何だか、朱音くん。何年も一緒にいたような、そんな感覚がします」

「え?」

「あ、いや、何だか、安心できるような気がするんです」

「俺もですよ」

「汐里の友達だからでしょうか」

「かもしれないです」

 それ以上に、あたしとあなたは数年も仲良くしてきたんです。

 泣いた顔も、笑った顔も、苦しんだ顔も、喜んだ顔も、まるで恋人のように見てきました。

「これから、仲良くなれるでしょうか」

 今まで培ったものを、全て放棄して。

「なります」

 ここから、また全てを始めなくてはならない。

 実はあたしが朱音なんだ、とカミングアウトするのは容易だ。

「ぷっ。なります、ですか」

 しかし、無邪気に笑う紗希センパイの心は脆く、壊れやすい。

 そんなことを言ってしまったら、何か全てが崩れてしまうような。

 あたしは、そんな気がしたのだ。

 だから、そっと心の奥底に言いたいという気持ちを隠して、笑った。

「はい」

「でも、朱音くん」

「はい?」

「この部室の外では、一切関わらないでください。部員であることも、隠してください」

「……」

 予想通り。

 紗希センパイも、しおりんと同じで。

「わたしはもう、誰かを巻き添えにしたくないんです」

「紗希センパイ、俺は」

「何も聞かないでください」

 いつも、あたしの投げつける疑問をはぐらかす。

 昔からそうだ。

 ずっとそうだ。ずっとはぐらかされ続けてきた。

「……紗希センパイ」

「わたしに関わって、いいことなんて何もないですから」

「そんなことないです。どういうことなんですか」

「すぐにわかりますよ、理由なんて」

 どうせ、理由なんて自分が爪はじきにされているから、関わったあたしが迷惑を被ることになる、とかそんなものだろう。

「……」

 でも、直接それを彼女の口から聞くことはまだ、できない。

 この時点のあたしは、そのことを知るはずがないのだから。

「簡単なことです。すぐに、わかります」

「そんなっ……」

「お願いします。わたしに希望を持たせないでください」

「希望……?」

 何の話だ。

 希望とは何か。


「わたしは、大切な人を失いました」


 そう語る彼女のワインレッドの瞳は、どこか遠くを見つめているようで。

 もはや届かない思いを、心の底へと必死に沈めているように見えた。

「え?」

「多分、その人は、わたしが関わりすぎようとしたから、いなくなってしまったんです」

 小さく、淡々と、諦めの混じった声で紗希センパイは語る。

 誰の話をしているのだろう。

 彼女の前から姿を消した、大切な人。

「誰のことですか?」

 紗希センパイに、大切とまで言わせる存在。

 あたしは思わず、嫉妬で胸の中が支配されてゆくのを、感じていた。

「昔のことです。ちょっぴり、昔の話です」

「……」

 でも、それを聞くことはまだできない。

 男の子になったあたしは、まだ紗希センパイと出会ったばかり。

 そんなすぐに、深い話を聞くことはできない。

 じれったいけれども我慢しておかなければ、今後の交友関係すら潰しかねない。

 やがて、紗希センパイは口元をゆるめて、安心したように笑う。

「じゃあ、それでお願いします。汐里とは、仲良くしてあげてください」

「はい」

「でも、本当に朱音くんは、朱音ちゃんに似てます」

「え?」

「あ、えっと、朱音くんと入れ替わりに、転校してしまった女の子なんですけどね」

「ああ……」

 紛らわしいなあ。

 紗希センパイが語るのは、女の子のあたし。

 彼女と今話しているあたしは、女の子のあたしではなく、別人だ。

 実際は別人じゃないのだけれど、それを知っているのは、両親とあたし、そしてしおりんだけだ。

「本当に、どこに転校してしまったのでしょうね……」

「メルアドとか、携帯知らないんですか?」

 まあ、答えはわかりきってるんだけど。

 メルアドも携帯番号も、紗希センパイは教えてくれなかった。

「……わたしが馬鹿なばっかりに、聞くことも、教えることも出来なかったんです」

 小さな声で呟く紗希センパイ。

 しかしあたしは、一つ大事なことを考え付いた。

「でも、紗希センパイは黒崎家の人間ですよね。そこを何とかして、教えてもらえないんですか?」

 

 もしも、紗希センパイがその辺りの情報を知ることが出来るのなら。

 いずれ、あたしという存在の、ちぐはぐさに気が付いてしまうだろう。

 転校先のはずの学校には、あたしは存在しておらず、同名の生徒が、あたしの転校と同時にこの学校に編入してきている。

 そうなれば紗希センパイの不信は増大し、やがて信頼の崩壊につながる。

 これから先の、紗希センパイを彼女にするための計画には、その辺りを詰めておく必要があった。


「わたしは、学校運営には関わってないんですよ。転校先を聞こうにも、汐里は教えてくれませんし」

「へえー初耳です」

 心の中でガッツポーズを作る。

 残酷なようであったが、あたしにとっては幸運でもあった。

「そうでしょう。出会ったばかりですからね」

「あ、は、そうですね!」

「それはそうと、朱音くんは、どうしてこの時期に転校を?」

「えーとですね……」

 さて。

 バレないように、これからの生活、立ち回らなければ。

 バレないように立ち回りながらも、しっかりと紗希センパイの好感度を上げる。

 これは、かなり難易度の高いことだぞ。

 でも、せっかく男の子になれたのだ。チャンスは生かさなければ。

 そんなことを考えながら、紗希センパイとやり取りを交わし、そして時間が経ってゆくのだった。


 ――翌日。お昼時。

 あたしは、色々と面倒くさいことがあって、しおりんとの昼食に遅れた。

「ふう……よいしょ」

「お疲れですわね」

「ちょっと面倒くさいことがあってね」

「面倒くさいこと?」

 きょとんと首を傾げるしおりん。そんな彼女を尻目に、あたしは彼女の隣にちょこんと座り、手に持っていた弁当箱を開く。

「ヤンキーに絡まれたんだ」

 女の子であった時も絡まれた。この学校はなかなかに治安が悪い。というか、出る杭をとことん打とうとしてくる。

 理事長の娘と共に行動する、茶髪であり、屈強な男。狙われないほうがおかしいのかもしれない。

「それは大変ですわ」

「簡単に返り討ちにできたけど。ワンパンチワンキック」

 上級生で、それなりに強いはずだ。

 強いはずだけれども、あたしは簡単に倒すことができた。

「それは大変なことですわね」

「やっぱり、力が強くなってるなあ」

「前よりも、ですの?」

「うん。ちょっと殴っただけで吹っ飛ぶし」

 あまりにもあっさりすぎた。

 ちょっと、軽く小突いてやろうと思ったら、思いっきり吹っ飛ぶんだもの。

 もしも本気で殴ったら、空を飛べるんじゃないだろうか。もちろん、相手がね。

「元々、暴力系でしたものね」

「おしとやかな女子でいたかったんだけどね」

「仕方ありませんわ。山岡くんと殴り合いをしているのですもの」

「だなあ」

「鬼女神の青木、中学のころから有名でしたもの」

「あのバカのせいでねえ」

 事あるごとに、あたしたち二人にからかい、絡んでくるバカ、山岡。

 あまりにも鬱陶しくて、顔面にパンチを叩き込んでやったのは、中学一年の授業開始、一週間のことだった。

「力が強いことはいいことですわ。まあ、周りには引かれますけれど」

「友達多かったよ?」

 過去を振り返りながら、あたしの周りにいた人間を頭に思い浮かべる。

 二ケタ、いや、三ケタはいただろうか。結構な数の友達が、全学校にいた。

「あれは友達じゃありません」

 はずなんだけどなー?

「えー」

「舎弟ですわ」

「そうかなあ……」

 そんなはずはないんだけどなあ。

「ナイフを持った屈強な男を、血まみれになりながら殴り倒した女。舎弟の数人や数十人できるに決まってます」

「でも、毎朝パンくれたし、ジュースもくれたよ?」

「上納品じゃないですの」

「いじめられてたら、助けてあげたし」

「みかじめ料ですわね」

 はあ、とため息をつきながらしおりんは語る。

 あたし自身は要求したこともないし、自分自身がやりたいから、助けただけだ。

 もっと言えば、評判を上げて、紗希センパイにいい顔をしたいだけだった。それなのに相手の子たちはあたしを、用心棒のような存在だと、認識していたのだろうか。

「えー。違うよー、友達だよー」

 何だかショック。

「そういうことにしておきましょう」

「しおりんは友達だよね?」

 おずおずと尋ねると、

「さあ、どうでしょう」

 彼女はくすりと笑い、自分の弁当箱の中から、可愛らしいたこさんウィンナーを箸でつまみあげ、口に中へと放り込んだ。

「そこは即答してほしかったなあ」

「悪友みたいなものですわね」

「そっかー」

 何だか安心。

 あたしって、単純だなあ。

「そういえば……、昨日は部活行きましたの?」

「うん。行ったよ。紗希センパイ可愛いよねえ」

 単純だよね、あたし。

「のろけ話は結構です」

「のろけじゃないよっ!」

「はいはい」

 さらりと流されてしまった。くそう。

「のろけたいんだけどなあ」

「紗希ねえは、攻略難易度が最高ですわよ」

「そうだよね……。応援してよ、しおりん」

「前にも言ったでしょう。わたくしたち姉妹は、基本的に相互不干渉。彼女がそう望むのですから、わたくしは妹として、関わるわけにはいかないのですよ」

 何だかよくわかんないけど、しおりんは自らをシスコンだと呼ぶ。

 シスコンだからこそ、姉の命令は絶対で、決して逆らわないのだという。本当に、紗希センパイはそれを望んでいるのだろうか。

「うーん……わかんないなあ……」

 聞いたところで、きっと彼女は答えてくれない。

 そんな状態を、何年も繰り返していたのだから。

「まあ、難しい姉妹なのですわ」

「難しすぎだよねえ」

「まあ……」

 いつも通りのやり取り。

 そんなものを交わしていると。


「オラア! 青木!」


 屋上の扉が勢いよく開け放たれ、包帯を巻いた金髪のヤンキーが、あたしを思いっきり睨み付けていた。その後ろからは、四人五人の同じような量産型ヤンキー。

「あー、さっきの先輩方」

「あー、じゃねえよ。よくもやってくれたな!」

 めんどくさいなあ。

「朱音くん、これは……?」

「さっき倒したヤンキーさん。……後ろにいて、絶対に前に出ないで」

「は、はい……」

 立ち上がろうとするしおりんを制止しながら、あたしはゆっくりと弁当箱を、怯えている彼女に手渡し、すっくと立ち上がる。

「転校早々女連れなんて、良い身分じゃねえかよ」

「一人じゃ勝てないからって、群れを組んでボコりにきたんですか」

 ヤンキーは、仲間を呼んだ!

「うるせえ、転校生の分際でよお!」

 しかし、全員雑魚だった!

「早く来いよ、雑魚ども」

 どうせ、そんなオチが見えてる。

 あたしがイヤラシイ笑みを浮かべて挑発すると、ヤンキー先輩方は憤怒に満ちた表情を浮かべて、一斉に殴りかかってくる。

「っ……!」

「おらあっ!」

 まず一人、動作が大振りだ。

 するりと身体を避け、一発腹に重いものをぶち込む。

「当たってないですよ」

「かはっ……」

 その場に崩れ落ちる、量産型ヤンキー先輩一号。

 まず一人、ノックアウト。いとも簡単に潰れてくれた。

 その様子を、最初に喧嘩を売ってきたヤンキー先輩が、包帯まみれの身体を震わせながら、睨み付けていた。

「青木っ……!」

「ほんと、群れても雑魚ですね」

 何ということはない。

 今のあたしは、この学校で最強と言っても過言ではない。

 それは言い過ぎかもしれないけれど、この場では最強だった。

「あれ? もう来ないんですか?」

 いとも容易く一人目をのしてしまったことで、他のヤンキーたちは萎縮していた。

 なあんだ、面白くもなんともない。挑発しても、乗ってこないのかなあ。

 そう、たかをくくっていると。

 勇敢な包帯ヤンキー先輩が、猪のように猛進してくる。

「青木いっ!」

「そう来ないと……なっ!」

 単純だなあ。

 簡単すぎるなあ。

 大振りな動きをはっきりと見切って、あたしは軸足をしっかりと地面につけて、蹴りを先輩の脇腹に入れる。

「がっ……!」

 瞬間。

 崩れ落ちる身体。

 骨のきしむような音。

 自分でも、恐ろしくなった。

 男の子になっただけで、ここまで威力が変わるとは。

 気絶して、地面で伸びている包帯ヤンキー先輩を見つめながら、あたしはそんなことを思った。

「まだやるんですか?」

 しかし、感情を隠しながら、抑揚のない声で言葉を紡ぐ。

「お、覚えてろよっ!」

 すると。

 ヤンキー先輩方は、あたしに敗れた二人を回収し。

 捨て台詞を吐き捨てつつ、そそくさと退場してゆく。

 なんだ、他の人たちはびびってしまったのか。

 面白くないなあ。

「大丈夫か、しおりん」

「え、ええ……」

「何かされたら、すぐに言ってくれよ。ぶっ殺しに行くからさ」

「わたくしを誰だと思ってるのです。生徒総会を実質的に取り仕切る、生徒副総長で、黒崎の娘ですわよ」


 この学校において、生徒総会の権限が強いのには、理由がある。黒崎家の人間を、次の経営者として育成するために、副生徒総長として配置しているのだ。全ての議論は、副生徒総長の承認を経なければ、成立しない。

 責任は全て副生徒総長のものとなり、損害が発生すれば、いくら黒崎家の人間といえ、損害賠償を請求される。その中で順調に運営を行っているのが、このしおりんだ。

 副生徒総長の資格には、黒崎家の人間であり、中高の生徒であることが求められる。紗希センパイにも資格があったらしいけれど、そこら辺の事情は話してくれない。


「はは。それもそうか」

 いつかは話してくれるのだろうか。

 でもやっぱり無理かなあ。

「でも、本当に男の子になってしまったのですわね……」

「ん? そうだなあ」

 他のことをぼうっと考えていると、しおりんもぼうっとした表情を浮かべていた。

「何だか、実感してしまいました」

「嫌なところで実感しちゃうんだ……。やっぱり嫌?」

「いいえ、そんなことはありませんわ」

「かっこいい?」

「そ、そんなことはありませんわね」

 何だか、頬を微かに染めてぷい、と逸らすしおりん。

「ちぇっ」

 まったりとした時間が流れている。

 歴史を流れる時のように、ゆっくりと、変わらない関係は少しずつ変わり始める。

 あたしの行動、彼女の行動、誰かの行動が、ほんのちょっぴりすれ違い始めて、大きな転換の訪れを待ちわびていた。


 ――放課後。

 しおりんはいつも通りに、副生徒総長の仕事に出ている。お疲れなことだ。

 だから、今日もあたしは、紗希センパイと二人でゆっくりと話している。

「朱音くん、喧嘩したんですか?」

「げっ、何で知ってるんですか」

 思わず、げえっとか言ってしまった。

 まさか、紗希センパイがもう知ってるなんて。

 もしかして、案外広まっている話なのかも。いやだなあ。

「風の噂、です」

「ああ……えっと……まあ」

「喧嘩はよくないですよ」

「はあ。でも、売られた喧嘩だったんで」

 いきなり、絡まれたのだ。絡まれたから、倒した。

 あたしがやったのは、たったそれだけのことだ。

「停学、させられますよ?」

「大丈夫っすよ。副生徒総長が味方なんで」

「あの子は、優しく見えて厳しいですよ」

「そうですかねえ」

 確かに、厳しいところもあるが。

 基本的に甘々だ。口調と行動が一致していない。

 厳しいことを言っておきながら、宿題を見せてくれるような子だ。甘い。

「はい。ですから、もう喧嘩はやめてくださいね」

「うぃーっす。紗希センパイが言うなら、もうやめます」

 自分から絡みにいくことはないし。

 今度絡まれたら、絶対言わないように口止めしておこう。

 すると、自分の主張が受け入れられたことに満足したのか、紗希センパイは口元を微かに緩ませて、こちらに微笑みかけてくる。

「いいこ、です」

 今の表情、やばかった。

 天使のような顔。

 いや、女神以上の顔だ。

 首をわずかに傾げて、ふわりとした髪を揺らし、満足感を周囲に振りまいた紗希センパイの笑顔が、あたしの胸の内を可愛さの矢で射ぬく。

 思わず、コクってしまいそうになる。

 のを、必死に抑えて、言葉を紡ぐ。

「そ、そうだ、紗希センパイ」

「はい?」

「今日、ゲーセン寄ってきません?」

「一緒にいるのを見られるのは、ちょっと」

 案の定渋った。

 でも、あたしは強引に誘いを続ける。

「大丈夫ですって。現地集合って感じで」

「……それなら」

 以前も、このやり方なら通用した。

 北宮学院の生徒は、いわゆる不良層しかゲーセンに行かない。

 真面目っ子の多い学校であり、ゲーセンの中に入ってしまえば、二人でいることを、噂のタネにしそうな一般生徒はいない。

 不良層の生徒は、あたしを含めて、そんなくだらないことに興味がなかった。

「決まりー。じゃあ、駅前のゲーセンで」

「はい。でも、あそこは怖いですよ?」

「大丈夫ですよ、ぶん殴ります」

「ぶん殴る……?」

「パンチングマシーンをね、パンチングマシーンを」

「なるほど……? でも、あったっけ……」

「あたし、先に行って、お金集めてますね」

 ゲーセンには、他校の不良や、調子に乗った一般人もいる。

 殴られてカネを盗られそうになっている人間を助け、用心棒代として、僅かな資金をいただく。 これがあたしのプレイスタイルだった。

「え?」

 しかし、これは女の子の青木朱音がやっていたことで。

 今のあたしは、遙か西の兵庫県から来たばっかりの、異邦人だ。

「あ、い、いや、何でもないです」

「何か、悪いことをしようとしてませんか?」

 目を細めて、疑いの視線をあたしに向ける紗希センパイ。

 紗希センパイにも、危ないからやめろと言われていたことだが。

 目の前で困っている人間がいるのに、無視するようなことはあたしにはできない。

 お金だって、無理にもらったわけじゃないし、相手がくれる、というからもらっただけだ。悪いことは何にもしていない。

「やだなあ、そんなわけないですよ」

「……そうですか?」

「は、はい。じゃあ、先に行ってます」

 とにかく、ここに留まりすぎるのはまずい。

 何だか、色々とボロを出してしまいそうだし。

 鞄を持ち、さっさと出立の準備を進める。

 しかし。

「わかりました。すぐに行きます」

 紗希センパイも、何か決意じみた表情を浮かべて立ち上がる。

 え? まさか?

「ゆっくりしててもいいですよ」

「いえ、放っておくと、とんでもないことになりそうなので。やっぱり一緒に行きます」

 今まで、こんなことは一度もなかった。

「えー」

 そうは言いながらも、あたしは嬉しかった。

 この部室の外では、会話も交わさないし目を合わせることもない。

 それなのに今は一緒に、共に、歩んでいくことができる。

 どういう心境の変化か、紗希センパイは彼女が守ってきた大原則を、『とんでもないことになりそうだから』という理由で、破った。

「……えー?」

「な、なんでもないです!」

「よろしい」

「ちぇー……」

 まあいっか。

 嬉しいし。

 

 ――そして、あたしと紗希センパイはゲーセンに到着した。外見からは退廃的な雰囲気は漂っておらず、中も普通のゲーセンと変わらない。

 ただ違うのは、一定の時間になると、かつあげチンピラが出現するということだけだ。その時間が近づいている。

 もしも、紗希センパイに手を出したらぶっ殺す。割と本気でやる。

「あ、紗希センパイ」

「はい?」

 とりあえず、紗希センパイを楽しませてあげよう。

「UFOキャッチャーでもやりませんか?」

「やりましょう!」

「計画通り」

 彼女は、UFOキャッチャーが得意で、ゲーセンで一番好きなゲームだと語っていた。

 そうやって気配りして、ちょっとずつポイント上げていかないとね。

「はい?」

「何でもないです。やりましょう早くやりましょうさあやりましょう」

「どうしたんですか?」

「何でもないですよお」

 まあ、そんな事実を今のあたしが知るわけはない。

 転校していったはずの、青木朱音(女)だけが知ることなのだ。

「……何だか気になりますが、まあいいでしょう」

「はい。奢りますよ」

「いえ、悪いです」

「いいからいいから」

「あ……」

「頑張って、取ってください。えーっと、ほら、あの黄色いくまさんのぬいぐるみとかどうですか?」

「あれ、取ろうと思ってました。凄いですね、朱音くん」

「いやあそれほどでも」

 趣味嗜好、どんなものが好きで、どんなものが苦手なのか。あたしには彼女の方向性が手に取るようにわかる。だから、どんなことを考えているのかも、ある程度のことならばわかる。だって、好きなんだもの。

「じゃあ、頑張ります」

 小さくガッツポーズを作り、にっこりとほほ笑む紗希センパイ。

 ほわあっとする。ほわあっと。

「頑張ってください」

「はい!」

 さて。

 紗希センパイは目の色を変えて、全力で、真剣そのものの表情で、UFOキャッチャーに向かった。これからしばらくは、黄色いくまさんのぬいぐるみを獲得するために、全神経を集中させるだろう。

 その間は、あたしにフリータイムが出来る。

 こっそりと、ばれないようにそろりそろり、と足を動かし。


 ゆっくりと、歩き始める。


 しっかりと、紗希センパイの動向は監視している。

 しているが、それよりもまず、面倒なチンピラの掃除が大切だ。

「さーてと……」

 最近は、あたしが掃除していたせいで、なかなか安全な場所になっていたし、もしかするともういなくなってしまい、別の場所にターゲットを求めに行ったのかもしれない。

 それなら、それでいい。見つけ次第、そこでも掃除するだけだ。

 あたしの人気が上がるなら、紗希センパイの耳に入るのなら、どんな危険だって冒す覚悟はあった。

「おおっと」

 いないかなあ、と辺りを見渡していると。

 ――いた。トイレの入り口の影、多くの場所からは死角になっているところに、金髪のいかにもなヤンキー二人組がおり、にやにやと気弱そうな男の子に話しかけている。

話しかけている、というよりも、脅しかけている。という表現のほうが正しいか。

 さて。

 とりあえず、振り向いて、紗希センパイがこちらを見ていないか確認。

 大丈夫だ。熱心に、黄色いくまさんを取ろうとしている。周囲の様子なんて、知ったことかって感じに。

 これなら、すぐに終わらせればバレないだろう。

 よし。

 やるか。

 そう決心し、あたしはゆっくりと彼らに近づいてゆく――。


 ――そして。

「ありがとう……ございます」

 ぺこぺこと頭を下げる男の子。

 そして、地面に転がるヤンキー二人。

 しゃがみこみ、彼らのポケットから財布を抜き取り、中身を確認。

 わあ、結構入ってるなあ。

「いやいや、気にしなくていいから。で、いくら取られたんだ」

「一万……」

 金持ちめ!

 とりあえず、ヤンキー財布から一万円を取り出し、彼に渡す。その一割でもくれたらなあ。くれないかなあ。淡い期待を浮かべるけれども、まあ無理だろう。

「はい、危ないなあと思ったら逃げろよ」

「ありがとうございます! えっと、お名前は?」

「青木朱音だよ。こっちには転校してきたばっかなんだけどな」

「朱音さま?」

「へ?」

 さま?

 どうしてさま呼ばわり?

「い、いえ、朱音さまという喧嘩の強い女性がいて……」

「あー、うん。知り合いでもないし、関係者でもない」

「そうですか……」

 まさか、そこまで名前が知れ渡っていたとは。狙い通りといえば狙い通りなんだけど。

「違う違う」

「そうなんですか」

 あ、やばい。

 紗希センパイが、もうUFOキャッチャーを終えてこちらを見ている。胸元には黄色いくまさんのぬいぐるみ。そして瞳には、疑いの色を滲ませていた。

「ああ。これからは気を付けるんだぞー」

 さっさと別れてしまわないと。

「はい!」

 あーあ、収穫なし。

 ヤンキー財布から抜き取ってもいいけど、それやってもなあ。

 ため息をつきながら、財布をまだ倒れているヤンキーの身体の上に投げ出し、ちょっぴり残念な気分になりながら、紗希センパイの元へと歩いてゆくのだった。

 歩いてゆくのだが。

 明らかに、怒っている紗希センパイ。

 怖い。真っ赤な瞳が、あたしを射抜いている。

 あーあ、バレてる。絶対バレてる。やだなあ。

「朱音くん?」

「ハイ」

「何をしてたんですか?」

「ヒーローごっこです……」

「危ないでしょう」

 透き通った水晶の声が、頭に浸透する。

「その通りです」

「……本当に、気を付けてください」

「ハイ」

 でも、あたしは嬉しかった。

 まだまだ見知らぬ関係だけど、紗希センパイがあたしを心配してくれた。

 それって、結構な収穫だと思う。

「もしも、朱音くんが誰かにいじめられたら。心配してるんですよ」

「へ?」

 あれ?

 何だか、紗希センパイの瞳には涙が浮かんでいる。

 どうして、あたしがいじめられるなんて、ファンタジックなことを言い出すのだろう。

「ああいう人を攻撃して、目をつけられたらどうするんですか。転校とか、しないといけなくなるんですよ」

「大丈夫ですってば。俺、やり返せますし」

「そうは言いますけど……」

 何だか、まだまだ言いたそうだ。

 しかし、今はそんな話がしたいわけじゃない。

 さっと話題を切り替え、さっと紗希センパイの手を取り、

「ほら、紗希センパイ。次のゲームやりましょうよ。そんな面白くない話は、やめておきましょう」

 さっさと歩きだす。

 せっかくの機会なんだから、遊ばないとね!

 お金はないけど、ちょっとくらいはあるし! なんとかなるさ!


 ――時間が経ち、夕陽はもう水平線の向こうに消え、外はもう薄暗くなっている。

「そろそろ帰りましょうか、紗希センパイ」

 このまま紗希センパイを一人で帰すわけにもいかないし、彼女を家に送ってあげなければ。そう思うのだけれど、紗希センパイは自分の家の場所を、あたしに教えてくれるだろうか。

「はい。帰りましょう」

「送っていきますよ」

「あ……えっと……」

 まあ、予想通り。

 彼女はばつが悪そうに、辺りをきょろきょろと見渡している。

「どうしたんですか?」

「送ってもらうのは悪いので……」

 他人に干渉したがらない。させたがらない。

 そんな紗希センパイだから、きっとそう言うと思っていた。

「気にしないでください。危ないでしょう、もう夜も遅いし」

「えっと」

「嫌ならいいんですけどね、嫌なら、悪いですし」

 しかし、頑固ではあるが、突破口はある。

 申し訳ないという気持ちもあるが、彼女の罪悪感を利用するのだ。

「そんなことはないです。お気持ちはありがたいのですけれど……」

「じゃあ行きましょう」

「強引ですね、朱音くん」

「よく言われます」

 予想通り。

 こうすれば、紗希センパイの心にゆっくりと近づいてゆける。

 そして、あたし達二人は、ゆっくりと帰路につく。紗希センパイ、黒崎家の家は街の外れにある大豪邸だ。数回かお邪魔したことはあるが、とても窮屈で、とても重苦しい雰囲気が漂っていた。

 歩いていると、紗希センパイがあたしの横顔を見つめながら、語りかけてきた。

「ほんとに、そっくりです」

「その……転校していったって人に、ですか?」

「はい。よく喧嘩してて、それこそ、不良さんたちと戦ってました」

「はは……」

 自分のことだもんなあ。

 何だかむずむずするなあ。

「でも、格好良かったですよ。髪も染めていて、周りの人たちには不良女だとか、言われてましたけど、わたしは好きでした」

「へえー」

 不良女!

 あたし自身は、おしとやかなレディーのつもりだったのに!

 ありえませんわ、としおりんが突っ込む声がどこかで聞こえた気がする。気がするけれど、あくまで気のせいだ。

 てか、染めてないよ! 地毛だよ紗希センパイ!

「そういえば、朱音くんは、汐里の彼氏さんなんですか?」

「ぶっ!」

「あ、図星でしたか」

「違います違います。えっと、友達です。友達。親友」

「朱音くんは、どちらの出身でしたか」

「えーっと、生まれはこっちなんですけど、育ちは兵庫です」

「それは遠いところから」

「ええ……まあ」

 何だか、バレてるような気がする。

 いや、バレてたら怒ってるか。バレてないよなあ。

「どうして、汐里と仲良く?」

「う、うーん……チャットです、チャット」

「なるほど。チャットなんですか。イマドキですね」

「はい、そうですそうです」

「なら、知ってるかもしれませんね」

 夜の闇の中、紗希センパイはゆっくりと口を開く。一体、何を語るつもりなのだろう。

「何がです?」

「汐里、副生徒総長なんですよ」

「ああ、はい。聞きました」

 とっくの昔に知っている情報だった。

「副生徒総長って、選挙で選ばれないって知ってましたか」

 こちらも、昔から知っている。

 でも『黒崎の人間が、副生徒総長となる』以外は、一般生徒が理由を知ることはない。聞こうと思ったこともなかったし。

「それも……聞きました。でも、理由がよくわからなくて」

「黒崎の人間が、本家筋分家筋関係なく、副生徒総長に就任するんです。それで、将来の経営の勉強をさせるんですよ。生徒総会の権力が強い理由は、そこなんです」

「ああ……なるほど」

 そんなカラクリだったのか。

 うちの学校は、本当に生徒総会の力が強い。その理由は、経営勉強のためか。

 黒崎家は分家が日本中にあって数が多いらしいし、次から次へと子供が生まれるから、副生徒総長の欠員が出ることもないんだろう。

「久しぶりの本家筋の副生徒総長、それが汐里です」

「大変ですよねえ」

 分家に負けられない、それが本家としての意地だろう。しおりんのことだし。

「ええ。プレッシャーでしょうね。もしも、上手に運営できなければ、黒崎の当主に選ばれませんから」

 でも、だ。

 本家筋の人間は、しおりん以外にもいる。

「でも、それなら紗希センパイにも資格があったんじゃ?」

 そう、紗希センパイも本家の人間であり、しかも長女だ。

 資格ならば、紗希センパイのほうにあるのではないか。

 しかし。

「わたしは、お爺様達……偉い人たちに、『白子は不要だ』と言われましたので」

 全てを諦めきった笑みを浮かべ、紗希センパイは語った。

 白子、アルビノというだけで、存在が否定される。

「そんな……」

 あんまりだ。

 そんなの、どうかしてる。

「わたしは、あの子に迷惑をかけたくない。ただ、学校の運営だけに全力を使わせてあげたい。ただ、それが出来れば満足なんですよ」

「そんなのってあんまりじゃないですか。紗希センパイが悪いとか、そもそも、外見がどうとかなんて、運営するのに何の関係もないじゃないですか」

 思わず熱っぽく演説をふるうも。

「でも、それがルールですから」

 たった一言で、切り捨てられてしまった。

「……あんまりですよ」

 この問題が、姉妹の仲をややこしいものとしている。

 その事実を、知ることができた。

 あたしは、この思わぬ収穫に、何だか得体のしれない期待感と。

「優しいんですね、朱音くんは。すみません、何だか面白くない話をしてしまいました。さあ、帰りましょう」

 どうしようもない、絶望の壁のようなものを感じるのだった。


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