第二話 『混沌とした学園生活の幕開け』
翌日。
あたしは、男の子になる前と同じクラスに、編入することになっていた。
男物のブレザーや、新しい学生証は即座に用意され、必要なものは全て揃った。
さすが副生徒総長。さすが黒崎家。バックアップ体制は、完全というわけだ。
「兵庫県の桜花学園高校から、編入してきました。青木朱音って言います。よろしくお願いします」
ぺこ、と黒板にチョークで名前を書き、お辞儀をする。学校名はでっちあげた。あたしたちの通う北宮学院は関東にあるし、バレるわけがない。
「あー、仲良くしてやってくれ。席はそうだな……」
「わたくしの隣に」
「わかった。黒崎の隣に行け、おいそこの列の奴らは、少しずつ前にずれろ」
頭を上げて、周囲の人間を見ると、奇異と好奇の視線を送ってきていた。
くそう、見世物じゃないんだぞ。
その中、不安そうにあたしを見つめる、しおりんの姿が何とも言えず、頼もしく、心強かった。
父さんや母さん以外にも、あたしが実は女の子なんだ、という事実を知っている人がいる、あたしは、結構恵まれているのかもしれない。
そして、あたしの男の子としての生活が本格的に始まった。
のだけれども。
ホームルームが終わり、ちょっとトイレに行こうと思った矢先のこと。
さすがに、これはしおりんに、ついて来てもらうわけにいかないしね。
「なあなあ」
「んあ?」
「よう、よろしくな。俺は山岡だ」
早速、男に絡まれてしまった。
悪いことではないのだが、面倒くさい。
追いかけてきやがった。
「はあ……よろしく、山岡くん」
こいつの名前は、山岡雄太。
確か十五歳。
あたしたちの組の男子のリーダーのようなもので、ちょくちょくあたしに絡んできていた人間だ。
嫌いじゃないが、うざい、という問題がある。
ちなみに、しおりんの友人ではある。
「呼び捨てでいいよ。なあ、お前、もしかして青木の親戚か何かか?」
「青木?」
あたしのことだろう。
あたしのことだろうが、知らないふりをする。
「ああ、知らないならいいんだけどな」
「誰?」
「青木朱音って、お前と全く同じ名前の女がいたんだよ。何か、入れ替わりで転校していったけどな。残念だ」
「ふうん。そいつが転校して行って、寂しいとか?」
「ああ、寂しいな」
「へ、へえ」
まさか、あたしのことが好きだったとか。
そういう言葉が聞けたら面白そうだと、興味で聞いてみたのだが。
意外に真面目な顔をして話すものだから、少しギャップで胸が躍った。
「あいつとなら、本気で殴り合いができた。楽しかった」
しかし、次の瞬間には胸の鼓動は消沈。
あたしは、山岡とよくガチの喧嘩をしていた。
「へえ?」
「まあ終わった話だな。何かの縁だろ、よろしくな。青木」
あー、きゅんとして損した。きゅん損。
やっぱり山岡は山岡だ。頭の中まで筋肉まみれの、バカだ。
「ああ」
「でもさあ、その青木は、俺のことをうぜえうぜえって、殴ってきたんだぜ。うざくねえよな、俺」
初対面の人間に、そんなことを話す人間は、ウザくないのか。
そんなことを思いながら。
「まあ、そんなこともあるんじゃねえの」
「そうかねえ」
「ああ」
軽く流してやる。
満足して去っていくかな、と思ったらしっかりと横を歩いていた。
まさか、ついてくるつもりか。
「なんでついてくるんだよ」
とあたしが言うと。
「え? いや、連れション行こうと思って」
けろっとした口調で、山岡は語るが。
「っ!」
頬が熱くなるのを感じ、あたしは思わず、山岡の横腹を思いっきり殴ってしまった。
「いでえっ! なんで殴るんだよ!」
「ご、ごめん」
「力つえーなあ、青木。一瞬気が遠くなったぞ」
「ああ……」
やっぱり、しおりんの時もそうだったが。
あたしの力は、かなり強くなっているようだ。
山岡は身体を鍛えているし、よっぽどのことがなければ痛がらない。
「なんか、武術やってんの?」
そう彼が疑うのも、当然のことだ。
「いや、何もやってない」
気をつけないとなあ。
下手すると、周りの人間をケガさせてしまう。
「へえー。すげえな」
そんなことを話している間に。
男子トイレまでやってきた。
正直ドキドキだ。ドキドキだけど、一応、昨日予習しておいた。大丈夫なはず。うまくできるはず。そう信じたい。
トイレの前に立ち、山岡に向かって語りかけるが。
「……一人で行きたいんだけど」
「そんなこと言うなよ。行こうぜ、青木」
「ちょっ」
彼は、あたしの肩を抱いてトイレの中へと進入してゆく。
言っているとおかしな話だけど、現実は男同士なんだから、おかしなことはない。
あー、別におかしなことじゃないんだろうけど、あー、何だかもやもやする。
もやもやするなあ!
そして――。
「どうです? 男として暮らすというのは」
――クラスメイトの質問攻めも終わり、授業も午前中のものは全て終え。
今は、昼休み。
屋上のベンチに座り、あたしとしおりんは、弁当を食べながら二人で話す。
山岡は振り払った。しおりんの名前を出したら、簡単に引いた。
何故か知らないけど、あいつは妙にしおりんに優しいんだよね。
「疲れたー」
「初日に体育というのは、それはそれで大変でしたわね」
「そう! それも大変すぎるんだって! スプレー、スプレー使いすぎ!」
「体育終わったあとの教室、凄くスプレーの匂いしますものね」
「しなかったらしなかったで、すっげー汗くさいんだけどねえ……」
なかなか辛いものがある。
動きまくるもんなあ。そりゃ汗も出るよ、匂いもするさ。
「匂いフェチに目覚めたのですか?」
そんなあたしを、じいと見つめるしおりん。
弁当を食べる手が止まってるよ。早く食べて、そんな話題する前に。
「そんなわけないだろー」
「そうなのですか」
「女の子の匂いなら歓迎だよ」
女の子の匂いは香水だの、コロンだの、何だと批判されることも多いが。
あの匂いだって人それぞれだ。いい匂いをさせている子は、いい匂いなんだ。
「おっさんくさいですわ」
「すみません……」
ぺし、っと頭を叩かれた。
しおりん、もうちょっと乗ってくれてもいいのに。
「そうだ、こんな話はどう?」
「どんな話です?」
「山岡と、連れション行った話」
箸をぱたり、と弁当箱の上に置き。
「謝るなら、今のうちですわよ」
素晴らしい笑顔を浮かべながら、しおりんはあたしに言い放つ。
「はい。すみませんでした」
恐ろしい。
笑っているのに、目が全く笑っていない。
「ゴハン食べてるときに、何て汚い話をするんですか。信じられませんわ」
「すみませんでした」
「全く……」
「そういえば、女子の間で何か話題あった?」
「朱音さんが転校していったことを、残念がる話も出てましたわ」
「へえ……」
何だろう。
嬉しいなあ、何か、ほっこりする。
そう思った矢先のこと。
「その後すぐに、昨夜にあったお笑い番組の話に、シフトしましたけど」
「え? 何? 俺の人気って、お笑い番組以下だったわけ?」
「それはともかく、朱音くんのほう、人気ありましたわよ女子の間で」
何だか、しおりんはあえてスルーしたような。
ちょっと、あたしの人気がどうなのか、教えて欲しかったけどね。
「マジでっ!」
元気が胸の底から沸き起こってくる。
女子相手に人気がある、それは嬉しいお知らせだ。
「目の色を変えないでくださいまし」
「はい……」
「カッコカワイイ、だそうです」
「えー、どっちなの? かっこいいのか、可愛いのか」
中途半端だなあ。
どっちかにしてほしい。
「どっちつかずなんでしょう」
「ひどいっ!」
「まあ、悪評が立つよりはマシでしょう」
「悪評は何かあった?」
「『可愛い子ぶってて、ちょっとうざくない?』という評価が、クラスの某女子から」
「俺は男だっつーの!」
正確には女の子だけど!
もう男の子だから! その評価はおかしい!
「グループに属していない子の話ですから、気にしないほうがいいかと。基本的には、高評価ですわ」
「それでもなあ……」
「まだ動作に女性的な部分がありますから。そこは直したほうが良いでしょう」
「うー……」
直せるかなあ。
動作は、染み付いちゃってるものだしなあ。
「これから、何とかなりますわ」
「そうかなー……」
十五年間、女の子として生きてきたのだ。
女の子であるときは、動作が乱暴で男っぽいと言われたこともあるが、男の子の基準で見ると、やはり女の子っぽいのか。
難しいなあ。染み付いたものだし。
「そういえば、英研に入るのですか」
「うん。入ろうかなあって。でも、前と同じ感じかなあ」
前と同じ感じ。
正式なメンバーではある。
あるのだが、英研のメンバーであることは、他の皆には秘密になっていた。
そうしろと、紗希センパイに言われたから、そのようなふわふわな状態だった。
「なるほど」
「うっ、うん……」
「なら、前と同じように振る舞ってくださいな」
「わかってるよ」
あー、結局あたしは何もできないのかなあ。
しおりんの声を聞きながら、そんなことを思うのだった。
――そして、放課後。
副生徒総長であるしおりんは生徒総会に出ていて、今は一緒にいない。
こっそりこっそりと、昨日と同じ部室棟の一室にある、英語研究会の部室へと足を向けるあたし。
今日は昨日よりも時間が早く、人の数もそれなりに多い。
誰か他の生徒に見られてしまっては困るため、辺りをきょろきょろと警戒しながら、誰もいないタイミングを見計らって、ドアを開いて中に進入する。
「誰もいないーか」
昨日と変わらぬ部室。
ここに、あの人がいた。
「紗希センパイ……」
何というか、あの人に惚れたのは単純すぎる理由だった。
あの人は可愛いのもあるし、触れたら壊れてしまいそうな、硝子細工のような儚さを持っているし、性格も良く、一緒にいて心の安らぐ人。
でも、理由はそれだけではなかった。
それは……。
「入部希望ですか?」
「ひゃあっ!」
突然の背後からの声に、あたしは思わずその場で飛び上がってしまった。
そして、焦りながら振り向くと、紗希センパイがいた。
「あ、昨日の……」
「こ、こんにちは!」
「……どうぞ、座ってください」
さすがに二回目なので慣れてくれたのか、引きつった笑みを浮かべながら紗希センパイは、手を差し伸べて、椅子に座ることを勧めてくれた。
「は、はいい」
「あの子のお友達ですか?」
「は、はあ」
萎縮してしまう。
昨日はあんな騒ぎがあったから、まともに顔を見ていないし。
怯えが滲んだ笑みだったが、それでも他の女子の数倍可愛い。
「そうなんですか」
「はい……」
「えーっと。この部活、英語は研究してないです。もしも、英語がやりたいって言うのなら……」
「知ってます!」
「? どうして?」
不思議そうに首を傾げる紗希センパイ。
英語研究会なのに、英語を研究していない。
なぜなら、この部活は、紗希センパイが中学生のときに作り、妹と二人でいるためにこしらえた空間だから。
「あ、え、えーと、しおりんから聞きました」
でも、正直に答えるわけにはいかない。
その事実を知ったのも、紗希センパイと打ち解けてからなのだ。
「ふふ。そうなんですか」
「……」
「また、入部届書いてくださいね。えっと、改めて、自己紹介します。知ってるかもしれないけど、黒崎紗希。二年生で、ここの会長やってます」
知っている。
他の誰よりも、あなたのことは知ってます。
それでも、そのことを言い出すことが出来ない辛さに、あたしは胸の痛みを覚えた。
「……」
「どうしたんですか?」
そんな事情を知らない紗希センパイは、ただ首を傾げるばかりだった。
「い、いえ。あた……俺の名前は青木朱音って言います。一年生で、昨日転校してきました」
「朱音くん、綺麗な茶髪ですね」
「はうっ!」
健気に笑いながら世間話をしようとする紗希センパイに、思わずきゅんとした。
何だこの可愛い生き物、彼女にしたい。
「あ、なれなれしかった……ですか」
「そんなことないです! なれなれしいのはウェルカムです!」
「そうですか」
「まさか、髪の毛を褒められるとは思いませんでした」
いつものやり取りだ。
あの、楽しかった英研でのやり取りだ。
「髪の毛以外にも、いい所がありますよ」
「どこですか?」
「えーっと……」
真剣に悩みながら考える紗希センパイに、
「ないなら言わないでください」
あたしは思わず、いつもの調子で返してしまった。
「ご、ごめんなさい。何だか、本当になれなれしくしてしまって」
「あ、ああ、そんなつもりで言ったんじゃ」
取り乱すあたしたち。
何だかぎくしゃくしているが、何だか楽しくて。
「……ぷっ」
「笑ってないで、いい所探してくださいよー」
「そうだね……。目とか?」
これから先、うまくやっていけるような、そんな気がした。
「目なんて褒められてもなあ……」
「あの、朱音くん」
「はい?」
「わたしを見ても、何とも思わないんですか?」
そんな中、ざわりと不穏な空気が流れた気がした。
「可愛いですよね」
「そ、そうじゃなくてですね……」
「他に、何を思えばいいんですか?」
紗希センパイは戸惑っていたが、あたしには理由がわかっていた。
彼女の肌は色素が薄く、髪の毛も微かに金色がかった白だ。
瞳は赤ワインのような色をしている。紗希センパイはカラーコンタクトを目に入れているわけでも、髪の毛を脱色しているわけでもなく、外人であるわけでもない。
「それは……」
言葉に詰まる彼女。
「可愛いとしか、思わないです。俺は」
紗希センパイは、いじめられている。
正確には、存在しない人間と扱われている。
ほとんどの生徒からは、暴力を受けているわけではなく、腫れ物に触る扱いを受けている。いないように扱われ、友達もおらず、ひたすらに避け続けられてきた。
「……朱音くん」
女子のみならず、男子までもが紗希センパイを無視していた。
そんな中で、物言わぬ紗希センパイを、面白がって物理的にいじめる女子も、男子も存在していた。
「まだ……会ったばかりですけど」
ゆえに、彼女は孤立していた。
「朱音くんは、気持ち悪いって思わないんですか?」
「思わないです」
この人が、悪いわけじゃない。
この人に、原因があるわけではない。
「そう、ですか」
「はい」
あたしは即答し続ける。
彼女の存在を肯定するように、あたしの存在を認めてくれた彼女に縋るように。
「……ごめんなさい。変なことを聞いて」
「いえいえ」
「わたし、アルビノなんです。そこまで深刻じゃなくて、軽いものなんですけど」
「へえー」
アルビノ、生まれつき身体の色素がない、もしくは薄い人間をそう呼ぶ。全世界どこでも生まれるもので、黒人にもアルビノはいるし、日本人も例外ではない。
「ただ、肌と髪の色も白いですし、目も赤いでしょう?」
「ワインが飲みたくなりますね」
「あはは。面白いことを言いますね」
その容姿ゆえに、紗希センパイの存在は学内でも有名だ。
その名前は中高に知れ渡っている。
有名だが、ほとんど会話に上がることはない。
下手に会話に出して、この学校を取り仕切る理事長を刺激して、自分に不利益が降りかかることを、皆が嫌がるのだ。
しおりんの場合は、乱暴だが積極的に他人に関わろうとする。
だから、理事長一家の娘で、権力者であっても、友達の数は多い。
でも、紗希センパイは他人に関わろうとしない。
だから、状況が変わらない。変えようともしていない。
全てを諦めて、ただ流れる時間のままに身を任せている。早く、理事長にチクればいいのに。無理なら、しおりんに言えばいいのに。
それはともかく。
だから、英研には部員がいない。
ここは紗希センパイのための、言うなれば聖域なのだ。
そうなってしまっている。
「何だか、朱音くん。何年も一緒にいたような、そんな感覚がします」
「え?」
「あ、いや、何だか、安心できるような気がするんです」
「俺もですよ」
「汐里の友達だからでしょうか」
「かもしれないです」
それ以上に、あたしとあなたは数年も仲良くしてきたんです。
泣いた顔も、笑った顔も、苦しんだ顔も、喜んだ顔も、まるで恋人のように見てきました。
「これから、仲良くなれるでしょうか」
今まで培ったものを、全て放棄して。
「なります」
ここから、また全てを始めなくてはならない。
実はあたしが朱音なんだ、とカミングアウトするのは容易だ。
「ぷっ。なります、ですか」
しかし、無邪気に笑う紗希センパイの心は脆く、壊れやすい。
そんなことを言ってしまったら、何か全てが崩れてしまうような。
あたしは、そんな気がしたのだ。
だから、そっと心の奥底に言いたいという気持ちを隠して、笑った。
「はい」
「でも、朱音くん」
「はい?」
「この部室の外では、一切関わらないでください。部員であることも、隠してください」
「……」
予想通り。
紗希センパイも、しおりんと同じで。
「わたしはもう、誰かを巻き添えにしたくないんです」
「紗希センパイ、俺は」
「何も聞かないでください」
いつも、あたしの投げつける疑問をはぐらかす。
昔からそうだ。
ずっとそうだ。ずっとはぐらかされ続けてきた。
「……紗希センパイ」
「わたしに関わって、いいことなんて何もないですから」
「そんなことないです。どういうことなんですか」
「すぐにわかりますよ、理由なんて」
どうせ、理由なんて自分が爪はじきにされているから、関わったあたしが迷惑を被ることになる、とかそんなものだろう。
「……」
でも、直接それを彼女の口から聞くことはまだ、できない。
この時点のあたしは、そのことを知るはずがないのだから。
「簡単なことです。すぐに、わかります」
「そんなっ……」
「お願いします。わたしに希望を持たせないでください」
「希望……?」
何の話だ。
希望とは何か。
「わたしは、大切な人を失いました」
そう語る彼女のワインレッドの瞳は、どこか遠くを見つめているようで。
もはや届かない思いを、心の底へと必死に沈めているように見えた。
「え?」
「多分、その人は、わたしが関わりすぎようとしたから、いなくなってしまったんです」
小さく、淡々と、諦めの混じった声で紗希センパイは語る。
誰の話をしているのだろう。
彼女の前から姿を消した、大切な人。
「誰のことですか?」
紗希センパイに、大切とまで言わせる存在。
あたしは思わず、嫉妬で胸の中が支配されてゆくのを、感じていた。
「昔のことです。ちょっぴり、昔の話です」
「……」
でも、それを聞くことはまだできない。
男の子になったあたしは、まだ紗希センパイと出会ったばかり。
そんなすぐに、深い話を聞くことはできない。
じれったいけれども我慢しておかなければ、今後の交友関係すら潰しかねない。
やがて、紗希センパイは口元をゆるめて、安心したように笑う。
「じゃあ、それでお願いします。汐里とは、仲良くしてあげてください」
「はい」
「でも、本当に朱音くんは、朱音ちゃんに似てます」
「え?」
「あ、えっと、朱音くんと入れ替わりに、転校してしまった女の子なんですけどね」
「ああ……」
紛らわしいなあ。
紗希センパイが語るのは、女の子のあたし。
彼女と今話しているあたしは、女の子のあたしではなく、別人だ。
実際は別人じゃないのだけれど、それを知っているのは、両親とあたし、そしてしおりんだけだ。
「本当に、どこに転校してしまったのでしょうね……」
「メルアドとか、携帯知らないんですか?」
まあ、答えはわかりきってるんだけど。
メルアドも携帯番号も、紗希センパイは教えてくれなかった。
「……わたしが馬鹿なばっかりに、聞くことも、教えることも出来なかったんです」
小さな声で呟く紗希センパイ。
しかしあたしは、一つ大事なことを考え付いた。
「でも、紗希センパイは黒崎家の人間ですよね。そこを何とかして、教えてもらえないんですか?」
もしも、紗希センパイがその辺りの情報を知ることが出来るのなら。
いずれ、あたしという存在の、ちぐはぐさに気が付いてしまうだろう。
転校先のはずの学校には、あたしは存在しておらず、同名の生徒が、あたしの転校と同時にこの学校に編入してきている。
そうなれば紗希センパイの不信は増大し、やがて信頼の崩壊につながる。
これから先の、紗希センパイを彼女にするための計画には、その辺りを詰めておく必要があった。
「わたしは、学校運営には関わってないんですよ。転校先を聞こうにも、汐里は教えてくれませんし」
「へえー初耳です」
心の中でガッツポーズを作る。
残酷なようであったが、あたしにとっては幸運でもあった。
「そうでしょう。出会ったばかりですからね」
「あ、は、そうですね!」
「それはそうと、朱音くんは、どうしてこの時期に転校を?」
「えーとですね……」
さて。
バレないように、これからの生活、立ち回らなければ。
バレないように立ち回りながらも、しっかりと紗希センパイの好感度を上げる。
これは、かなり難易度の高いことだぞ。
でも、せっかく男の子になれたのだ。チャンスは生かさなければ。
そんなことを考えながら、紗希センパイとやり取りを交わし、そして時間が経ってゆくのだった。
――翌日。お昼時。
あたしは、色々と面倒くさいことがあって、しおりんとの昼食に遅れた。
「ふう……よいしょ」
「お疲れですわね」
「ちょっと面倒くさいことがあってね」
「面倒くさいこと?」
きょとんと首を傾げるしおりん。そんな彼女を尻目に、あたしは彼女の隣にちょこんと座り、手に持っていた弁当箱を開く。
「ヤンキーに絡まれたんだ」
女の子であった時も絡まれた。この学校はなかなかに治安が悪い。というか、出る杭をとことん打とうとしてくる。
理事長の娘と共に行動する、茶髪であり、屈強な男。狙われないほうがおかしいのかもしれない。
「それは大変ですわ」
「簡単に返り討ちにできたけど。ワンパンチワンキック」
上級生で、それなりに強いはずだ。
強いはずだけれども、あたしは簡単に倒すことができた。
「それは大変なことですわね」
「やっぱり、力が強くなってるなあ」
「前よりも、ですの?」
「うん。ちょっと殴っただけで吹っ飛ぶし」
あまりにもあっさりすぎた。
ちょっと、軽く小突いてやろうと思ったら、思いっきり吹っ飛ぶんだもの。
もしも本気で殴ったら、空を飛べるんじゃないだろうか。もちろん、相手がね。
「元々、暴力系でしたものね」
「おしとやかな女子でいたかったんだけどね」
「仕方ありませんわ。山岡くんと殴り合いをしているのですもの」
「だなあ」
「鬼女神の青木、中学のころから有名でしたもの」
「あのバカのせいでねえ」
事あるごとに、あたしたち二人にからかい、絡んでくるバカ、山岡。
あまりにも鬱陶しくて、顔面にパンチを叩き込んでやったのは、中学一年の授業開始、一週間のことだった。
「力が強いことはいいことですわ。まあ、周りには引かれますけれど」
「友達多かったよ?」
過去を振り返りながら、あたしの周りにいた人間を頭に思い浮かべる。
二ケタ、いや、三ケタはいただろうか。結構な数の友達が、全学校にいた。
「あれは友達じゃありません」
はずなんだけどなー?
「えー」
「舎弟ですわ」
「そうかなあ……」
そんなはずはないんだけどなあ。
「ナイフを持った屈強な男を、血まみれになりながら殴り倒した女。舎弟の数人や数十人できるに決まってます」
「でも、毎朝パンくれたし、ジュースもくれたよ?」
「上納品じゃないですの」
「いじめられてたら、助けてあげたし」
「みかじめ料ですわね」
はあ、とため息をつきながらしおりんは語る。
あたし自身は要求したこともないし、自分自身がやりたいから、助けただけだ。
もっと言えば、評判を上げて、紗希センパイにいい顔をしたいだけだった。それなのに相手の子たちはあたしを、用心棒のような存在だと、認識していたのだろうか。
「えー。違うよー、友達だよー」
何だかショック。
「そういうことにしておきましょう」
「しおりんは友達だよね?」
おずおずと尋ねると、
「さあ、どうでしょう」
彼女はくすりと笑い、自分の弁当箱の中から、可愛らしいたこさんウィンナーを箸でつまみあげ、口に中へと放り込んだ。
「そこは即答してほしかったなあ」
「悪友みたいなものですわね」
「そっかー」
何だか安心。
あたしって、単純だなあ。
「そういえば……、昨日は部活行きましたの?」
「うん。行ったよ。紗希センパイ可愛いよねえ」
単純だよね、あたし。
「のろけ話は結構です」
「のろけじゃないよっ!」
「はいはい」
さらりと流されてしまった。くそう。
「のろけたいんだけどなあ」
「紗希ねえは、攻略難易度が最高ですわよ」
「そうだよね……。応援してよ、しおりん」
「前にも言ったでしょう。わたくしたち姉妹は、基本的に相互不干渉。彼女がそう望むのですから、わたくしは妹として、関わるわけにはいかないのですよ」
何だかよくわかんないけど、しおりんは自らをシスコンだと呼ぶ。
シスコンだからこそ、姉の命令は絶対で、決して逆らわないのだという。本当に、紗希センパイはそれを望んでいるのだろうか。
「うーん……わかんないなあ……」
聞いたところで、きっと彼女は答えてくれない。
そんな状態を、何年も繰り返していたのだから。
「まあ、難しい姉妹なのですわ」
「難しすぎだよねえ」
「まあ……」
いつも通りのやり取り。
そんなものを交わしていると。
「オラア! 青木!」
屋上の扉が勢いよく開け放たれ、包帯を巻いた金髪のヤンキーが、あたしを思いっきり睨み付けていた。その後ろからは、四人五人の同じような量産型ヤンキー。
「あー、さっきの先輩方」
「あー、じゃねえよ。よくもやってくれたな!」
めんどくさいなあ。
「朱音くん、これは……?」
「さっき倒したヤンキーさん。……後ろにいて、絶対に前に出ないで」
「は、はい……」
立ち上がろうとするしおりんを制止しながら、あたしはゆっくりと弁当箱を、怯えている彼女に手渡し、すっくと立ち上がる。
「転校早々女連れなんて、良い身分じゃねえかよ」
「一人じゃ勝てないからって、群れを組んでボコりにきたんですか」
ヤンキーは、仲間を呼んだ!
「うるせえ、転校生の分際でよお!」
しかし、全員雑魚だった!
「早く来いよ、雑魚ども」
どうせ、そんなオチが見えてる。
あたしがイヤラシイ笑みを浮かべて挑発すると、ヤンキー先輩方は憤怒に満ちた表情を浮かべて、一斉に殴りかかってくる。
「っ……!」
「おらあっ!」
まず一人、動作が大振りだ。
するりと身体を避け、一発腹に重いものをぶち込む。
「当たってないですよ」
「かはっ……」
その場に崩れ落ちる、量産型ヤンキー先輩一号。
まず一人、ノックアウト。いとも簡単に潰れてくれた。
その様子を、最初に喧嘩を売ってきたヤンキー先輩が、包帯まみれの身体を震わせながら、睨み付けていた。
「青木っ……!」
「ほんと、群れても雑魚ですね」
何ということはない。
今のあたしは、この学校で最強と言っても過言ではない。
それは言い過ぎかもしれないけれど、この場では最強だった。
「あれ? もう来ないんですか?」
いとも容易く一人目をのしてしまったことで、他のヤンキーたちは萎縮していた。
なあんだ、面白くもなんともない。挑発しても、乗ってこないのかなあ。
そう、たかをくくっていると。
勇敢な包帯ヤンキー先輩が、猪のように猛進してくる。
「青木いっ!」
「そう来ないと……なっ!」
単純だなあ。
簡単すぎるなあ。
大振りな動きをはっきりと見切って、あたしは軸足をしっかりと地面につけて、蹴りを先輩の脇腹に入れる。
「がっ……!」
瞬間。
崩れ落ちる身体。
骨のきしむような音。
自分でも、恐ろしくなった。
男の子になっただけで、ここまで威力が変わるとは。
気絶して、地面で伸びている包帯ヤンキー先輩を見つめながら、あたしはそんなことを思った。
「まだやるんですか?」
しかし、感情を隠しながら、抑揚のない声で言葉を紡ぐ。
「お、覚えてろよっ!」
すると。
ヤンキー先輩方は、あたしに敗れた二人を回収し。
捨て台詞を吐き捨てつつ、そそくさと退場してゆく。
なんだ、他の人たちはびびってしまったのか。
面白くないなあ。
「大丈夫か、しおりん」
「え、ええ……」
「何かされたら、すぐに言ってくれよ。ぶっ殺しに行くからさ」
「わたくしを誰だと思ってるのです。生徒総会を実質的に取り仕切る、生徒副総長で、黒崎の娘ですわよ」
この学校において、生徒総会の権限が強いのには、理由がある。黒崎家の人間を、次の経営者として育成するために、副生徒総長として配置しているのだ。全ての議論は、副生徒総長の承認を経なければ、成立しない。
責任は全て副生徒総長のものとなり、損害が発生すれば、いくら黒崎家の人間といえ、損害賠償を請求される。その中で順調に運営を行っているのが、このしおりんだ。
副生徒総長の資格には、黒崎家の人間であり、中高の生徒であることが求められる。紗希センパイにも資格があったらしいけれど、そこら辺の事情は話してくれない。
「はは。それもそうか」
いつかは話してくれるのだろうか。
でもやっぱり無理かなあ。
「でも、本当に男の子になってしまったのですわね……」
「ん? そうだなあ」
他のことをぼうっと考えていると、しおりんもぼうっとした表情を浮かべていた。
「何だか、実感してしまいました」
「嫌なところで実感しちゃうんだ……。やっぱり嫌?」
「いいえ、そんなことはありませんわ」
「かっこいい?」
「そ、そんなことはありませんわね」
何だか、頬を微かに染めてぷい、と逸らすしおりん。
「ちぇっ」
まったりとした時間が流れている。
歴史を流れる時のように、ゆっくりと、変わらない関係は少しずつ変わり始める。
あたしの行動、彼女の行動、誰かの行動が、ほんのちょっぴりすれ違い始めて、大きな転換の訪れを待ちわびていた。
――放課後。
しおりんはいつも通りに、副生徒総長の仕事に出ている。お疲れなことだ。
だから、今日もあたしは、紗希センパイと二人でゆっくりと話している。
「朱音くん、喧嘩したんですか?」
「げっ、何で知ってるんですか」
思わず、げえっとか言ってしまった。
まさか、紗希センパイがもう知ってるなんて。
もしかして、案外広まっている話なのかも。いやだなあ。
「風の噂、です」
「ああ……えっと……まあ」
「喧嘩はよくないですよ」
「はあ。でも、売られた喧嘩だったんで」
いきなり、絡まれたのだ。絡まれたから、倒した。
あたしがやったのは、たったそれだけのことだ。
「停学、させられますよ?」
「大丈夫っすよ。副生徒総長が味方なんで」
「あの子は、優しく見えて厳しいですよ」
「そうですかねえ」
確かに、厳しいところもあるが。
基本的に甘々だ。口調と行動が一致していない。
厳しいことを言っておきながら、宿題を見せてくれるような子だ。甘い。
「はい。ですから、もう喧嘩はやめてくださいね」
「うぃーっす。紗希センパイが言うなら、もうやめます」
自分から絡みにいくことはないし。
今度絡まれたら、絶対言わないように口止めしておこう。
すると、自分の主張が受け入れられたことに満足したのか、紗希センパイは口元を微かに緩ませて、こちらに微笑みかけてくる。
「いいこ、です」
今の表情、やばかった。
天使のような顔。
いや、女神以上の顔だ。
首をわずかに傾げて、ふわりとした髪を揺らし、満足感を周囲に振りまいた紗希センパイの笑顔が、あたしの胸の内を可愛さの矢で射ぬく。
思わず、コクってしまいそうになる。
のを、必死に抑えて、言葉を紡ぐ。
「そ、そうだ、紗希センパイ」
「はい?」
「今日、ゲーセン寄ってきません?」
「一緒にいるのを見られるのは、ちょっと」
案の定渋った。
でも、あたしは強引に誘いを続ける。
「大丈夫ですって。現地集合って感じで」
「……それなら」
以前も、このやり方なら通用した。
北宮学院の生徒は、いわゆる不良層しかゲーセンに行かない。
真面目っ子の多い学校であり、ゲーセンの中に入ってしまえば、二人でいることを、噂のタネにしそうな一般生徒はいない。
不良層の生徒は、あたしを含めて、そんなくだらないことに興味がなかった。
「決まりー。じゃあ、駅前のゲーセンで」
「はい。でも、あそこは怖いですよ?」
「大丈夫ですよ、ぶん殴ります」
「ぶん殴る……?」
「パンチングマシーンをね、パンチングマシーンを」
「なるほど……? でも、あったっけ……」
「あたし、先に行って、お金集めてますね」
ゲーセンには、他校の不良や、調子に乗った一般人もいる。
殴られてカネを盗られそうになっている人間を助け、用心棒代として、僅かな資金をいただく。 これがあたしのプレイスタイルだった。
「え?」
しかし、これは女の子の青木朱音がやっていたことで。
今のあたしは、遙か西の兵庫県から来たばっかりの、異邦人だ。
「あ、い、いや、何でもないです」
「何か、悪いことをしようとしてませんか?」
目を細めて、疑いの視線をあたしに向ける紗希センパイ。
紗希センパイにも、危ないからやめろと言われていたことだが。
目の前で困っている人間がいるのに、無視するようなことはあたしにはできない。
お金だって、無理にもらったわけじゃないし、相手がくれる、というからもらっただけだ。悪いことは何にもしていない。
「やだなあ、そんなわけないですよ」
「……そうですか?」
「は、はい。じゃあ、先に行ってます」
とにかく、ここに留まりすぎるのはまずい。
何だか、色々とボロを出してしまいそうだし。
鞄を持ち、さっさと出立の準備を進める。
しかし。
「わかりました。すぐに行きます」
紗希センパイも、何か決意じみた表情を浮かべて立ち上がる。
え? まさか?
「ゆっくりしててもいいですよ」
「いえ、放っておくと、とんでもないことになりそうなので。やっぱり一緒に行きます」
今まで、こんなことは一度もなかった。
「えー」
そうは言いながらも、あたしは嬉しかった。
この部室の外では、会話も交わさないし目を合わせることもない。
それなのに今は一緒に、共に、歩んでいくことができる。
どういう心境の変化か、紗希センパイは彼女が守ってきた大原則を、『とんでもないことになりそうだから』という理由で、破った。
「……えー?」
「な、なんでもないです!」
「よろしい」
「ちぇー……」
まあいっか。
嬉しいし。
――そして、あたしと紗希センパイはゲーセンに到着した。外見からは退廃的な雰囲気は漂っておらず、中も普通のゲーセンと変わらない。
ただ違うのは、一定の時間になると、かつあげチンピラが出現するということだけだ。その時間が近づいている。
もしも、紗希センパイに手を出したらぶっ殺す。割と本気でやる。
「あ、紗希センパイ」
「はい?」
とりあえず、紗希センパイを楽しませてあげよう。
「UFOキャッチャーでもやりませんか?」
「やりましょう!」
「計画通り」
彼女は、UFOキャッチャーが得意で、ゲーセンで一番好きなゲームだと語っていた。
そうやって気配りして、ちょっとずつポイント上げていかないとね。
「はい?」
「何でもないです。やりましょう早くやりましょうさあやりましょう」
「どうしたんですか?」
「何でもないですよお」
まあ、そんな事実を今のあたしが知るわけはない。
転校していったはずの、青木朱音(女)だけが知ることなのだ。
「……何だか気になりますが、まあいいでしょう」
「はい。奢りますよ」
「いえ、悪いです」
「いいからいいから」
「あ……」
「頑張って、取ってください。えーっと、ほら、あの黄色いくまさんのぬいぐるみとかどうですか?」
「あれ、取ろうと思ってました。凄いですね、朱音くん」
「いやあそれほどでも」
趣味嗜好、どんなものが好きで、どんなものが苦手なのか。あたしには彼女の方向性が手に取るようにわかる。だから、どんなことを考えているのかも、ある程度のことならばわかる。だって、好きなんだもの。
「じゃあ、頑張ります」
小さくガッツポーズを作り、にっこりとほほ笑む紗希センパイ。
ほわあっとする。ほわあっと。
「頑張ってください」
「はい!」
さて。
紗希センパイは目の色を変えて、全力で、真剣そのものの表情で、UFOキャッチャーに向かった。これからしばらくは、黄色いくまさんのぬいぐるみを獲得するために、全神経を集中させるだろう。
その間は、あたしにフリータイムが出来る。
こっそりと、ばれないようにそろりそろり、と足を動かし。
ゆっくりと、歩き始める。
しっかりと、紗希センパイの動向は監視している。
しているが、それよりもまず、面倒なチンピラの掃除が大切だ。
「さーてと……」
最近は、あたしが掃除していたせいで、なかなか安全な場所になっていたし、もしかするともういなくなってしまい、別の場所にターゲットを求めに行ったのかもしれない。
それなら、それでいい。見つけ次第、そこでも掃除するだけだ。
あたしの人気が上がるなら、紗希センパイの耳に入るのなら、どんな危険だって冒す覚悟はあった。
「おおっと」
いないかなあ、と辺りを見渡していると。
――いた。トイレの入り口の影、多くの場所からは死角になっているところに、金髪のいかにもなヤンキー二人組がおり、にやにやと気弱そうな男の子に話しかけている。
話しかけている、というよりも、脅しかけている。という表現のほうが正しいか。
さて。
とりあえず、振り向いて、紗希センパイがこちらを見ていないか確認。
大丈夫だ。熱心に、黄色いくまさんを取ろうとしている。周囲の様子なんて、知ったことかって感じに。
これなら、すぐに終わらせればバレないだろう。
よし。
やるか。
そう決心し、あたしはゆっくりと彼らに近づいてゆく――。
――そして。
「ありがとう……ございます」
ぺこぺこと頭を下げる男の子。
そして、地面に転がるヤンキー二人。
しゃがみこみ、彼らのポケットから財布を抜き取り、中身を確認。
わあ、結構入ってるなあ。
「いやいや、気にしなくていいから。で、いくら取られたんだ」
「一万……」
金持ちめ!
とりあえず、ヤンキー財布から一万円を取り出し、彼に渡す。その一割でもくれたらなあ。くれないかなあ。淡い期待を浮かべるけれども、まあ無理だろう。
「はい、危ないなあと思ったら逃げろよ」
「ありがとうございます! えっと、お名前は?」
「青木朱音だよ。こっちには転校してきたばっかなんだけどな」
「朱音さま?」
「へ?」
さま?
どうしてさま呼ばわり?
「い、いえ、朱音さまという喧嘩の強い女性がいて……」
「あー、うん。知り合いでもないし、関係者でもない」
「そうですか……」
まさか、そこまで名前が知れ渡っていたとは。狙い通りといえば狙い通りなんだけど。
「違う違う」
「そうなんですか」
あ、やばい。
紗希センパイが、もうUFOキャッチャーを終えてこちらを見ている。胸元には黄色いくまさんのぬいぐるみ。そして瞳には、疑いの色を滲ませていた。
「ああ。これからは気を付けるんだぞー」
さっさと別れてしまわないと。
「はい!」
あーあ、収穫なし。
ヤンキー財布から抜き取ってもいいけど、それやってもなあ。
ため息をつきながら、財布をまだ倒れているヤンキーの身体の上に投げ出し、ちょっぴり残念な気分になりながら、紗希センパイの元へと歩いてゆくのだった。
歩いてゆくのだが。
明らかに、怒っている紗希センパイ。
怖い。真っ赤な瞳が、あたしを射抜いている。
あーあ、バレてる。絶対バレてる。やだなあ。
「朱音くん?」
「ハイ」
「何をしてたんですか?」
「ヒーローごっこです……」
「危ないでしょう」
透き通った水晶の声が、頭に浸透する。
「その通りです」
「……本当に、気を付けてください」
「ハイ」
でも、あたしは嬉しかった。
まだまだ見知らぬ関係だけど、紗希センパイがあたしを心配してくれた。
それって、結構な収穫だと思う。
「もしも、朱音くんが誰かにいじめられたら。心配してるんですよ」
「へ?」
あれ?
何だか、紗希センパイの瞳には涙が浮かんでいる。
どうして、あたしがいじめられるなんて、ファンタジックなことを言い出すのだろう。
「ああいう人を攻撃して、目をつけられたらどうするんですか。転校とか、しないといけなくなるんですよ」
「大丈夫ですってば。俺、やり返せますし」
「そうは言いますけど……」
何だか、まだまだ言いたそうだ。
しかし、今はそんな話がしたいわけじゃない。
さっと話題を切り替え、さっと紗希センパイの手を取り、
「ほら、紗希センパイ。次のゲームやりましょうよ。そんな面白くない話は、やめておきましょう」
さっさと歩きだす。
せっかくの機会なんだから、遊ばないとね!
お金はないけど、ちょっとくらいはあるし! なんとかなるさ!
――時間が経ち、夕陽はもう水平線の向こうに消え、外はもう薄暗くなっている。
「そろそろ帰りましょうか、紗希センパイ」
このまま紗希センパイを一人で帰すわけにもいかないし、彼女を家に送ってあげなければ。そう思うのだけれど、紗希センパイは自分の家の場所を、あたしに教えてくれるだろうか。
「はい。帰りましょう」
「送っていきますよ」
「あ……えっと……」
まあ、予想通り。
彼女はばつが悪そうに、辺りをきょろきょろと見渡している。
「どうしたんですか?」
「送ってもらうのは悪いので……」
他人に干渉したがらない。させたがらない。
そんな紗希センパイだから、きっとそう言うと思っていた。
「気にしないでください。危ないでしょう、もう夜も遅いし」
「えっと」
「嫌ならいいんですけどね、嫌なら、悪いですし」
しかし、頑固ではあるが、突破口はある。
申し訳ないという気持ちもあるが、彼女の罪悪感を利用するのだ。
「そんなことはないです。お気持ちはありがたいのですけれど……」
「じゃあ行きましょう」
「強引ですね、朱音くん」
「よく言われます」
予想通り。
こうすれば、紗希センパイの心にゆっくりと近づいてゆける。
そして、あたし達二人は、ゆっくりと帰路につく。紗希センパイ、黒崎家の家は街の外れにある大豪邸だ。数回かお邪魔したことはあるが、とても窮屈で、とても重苦しい雰囲気が漂っていた。
歩いていると、紗希センパイがあたしの横顔を見つめながら、語りかけてきた。
「ほんとに、そっくりです」
「その……転校していったって人に、ですか?」
「はい。よく喧嘩してて、それこそ、不良さんたちと戦ってました」
「はは……」
自分のことだもんなあ。
何だかむずむずするなあ。
「でも、格好良かったですよ。髪も染めていて、周りの人たちには不良女だとか、言われてましたけど、わたしは好きでした」
「へえー」
不良女!
あたし自身は、おしとやかなレディーのつもりだったのに!
ありえませんわ、としおりんが突っ込む声がどこかで聞こえた気がする。気がするけれど、あくまで気のせいだ。
てか、染めてないよ! 地毛だよ紗希センパイ!
「そういえば、朱音くんは、汐里の彼氏さんなんですか?」
「ぶっ!」
「あ、図星でしたか」
「違います違います。えっと、友達です。友達。親友」
「朱音くんは、どちらの出身でしたか」
「えーっと、生まれはこっちなんですけど、育ちは兵庫です」
「それは遠いところから」
「ええ……まあ」
何だか、バレてるような気がする。
いや、バレてたら怒ってるか。バレてないよなあ。
「どうして、汐里と仲良く?」
「う、うーん……チャットです、チャット」
「なるほど。チャットなんですか。イマドキですね」
「はい、そうですそうです」
「なら、知ってるかもしれませんね」
夜の闇の中、紗希センパイはゆっくりと口を開く。一体、何を語るつもりなのだろう。
「何がです?」
「汐里、副生徒総長なんですよ」
「ああ、はい。聞きました」
とっくの昔に知っている情報だった。
「副生徒総長って、選挙で選ばれないって知ってましたか」
こちらも、昔から知っている。
でも『黒崎の人間が、副生徒総長となる』以外は、一般生徒が理由を知ることはない。聞こうと思ったこともなかったし。
「それも……聞きました。でも、理由がよくわからなくて」
「黒崎の人間が、本家筋分家筋関係なく、副生徒総長に就任するんです。それで、将来の経営の勉強をさせるんですよ。生徒総会の権力が強い理由は、そこなんです」
「ああ……なるほど」
そんなカラクリだったのか。
うちの学校は、本当に生徒総会の力が強い。その理由は、経営勉強のためか。
黒崎家は分家が日本中にあって数が多いらしいし、次から次へと子供が生まれるから、副生徒総長の欠員が出ることもないんだろう。
「久しぶりの本家筋の副生徒総長、それが汐里です」
「大変ですよねえ」
分家に負けられない、それが本家としての意地だろう。しおりんのことだし。
「ええ。プレッシャーでしょうね。もしも、上手に運営できなければ、黒崎の当主に選ばれませんから」
でも、だ。
本家筋の人間は、しおりん以外にもいる。
「でも、それなら紗希センパイにも資格があったんじゃ?」
そう、紗希センパイも本家の人間であり、しかも長女だ。
資格ならば、紗希センパイのほうにあるのではないか。
しかし。
「わたしは、お爺様達……偉い人たちに、『白子は不要だ』と言われましたので」
全てを諦めきった笑みを浮かべ、紗希センパイは語った。
白子、アルビノというだけで、存在が否定される。
「そんな……」
あんまりだ。
そんなの、どうかしてる。
「わたしは、あの子に迷惑をかけたくない。ただ、学校の運営だけに全力を使わせてあげたい。ただ、それが出来れば満足なんですよ」
「そんなのってあんまりじゃないですか。紗希センパイが悪いとか、そもそも、外見がどうとかなんて、運営するのに何の関係もないじゃないですか」
思わず熱っぽく演説をふるうも。
「でも、それがルールですから」
たった一言で、切り捨てられてしまった。
「……あんまりですよ」
この問題が、姉妹の仲をややこしいものとしている。
その事実を、知ることができた。
あたしは、この思わぬ収穫に、何だか得体のしれない期待感と。
「優しいんですね、朱音くんは。すみません、何だか面白くない話をしてしまいました。さあ、帰りましょう」
どうしようもない、絶望の壁のようなものを感じるのだった。