episode6
蘭の強烈な視線から逃れるようにして一歩下がった瞬間、私の足元で「ふにゃっ」と奇妙な音がした。
「あ、ごめんなさい……!」
慌てて振り返ると、パイプ椅子の影になる床の隅で、一人の少女が膝を抱えて丸まっていた。
乱れた黒髪の間から覗くのは、ひどく気怠げで、どこか焦点の合っていない瞳。彼女の首元にかけられたヘッドホンからは、アンニュイなメロディに意図的なノイズやグリッチ音を混ぜ込んだ、ネットサブカル特有の退廃的なトラックが微かに漏れ聞こえている。
[ ターゲット捕捉:黒金 冴 ]
ボーカル:98(神の領域) / メンタル:10(極度の無気力)
(ボーカル、98……!?)
私が息を呑んだのと同時に、冴は「んー……」と欠伸混じりに身をよじり、漏れ聞こえる退廃的なトラックのベース音に合わせて、ふと鼻歌を漏らした。
「〜〜♪」
たった一音。それだけで、私の背筋にゾクッと鳥肌が立った。
ピッチ、響き、声の重心。どれをとっても完璧で、何より声そのものに「聴く者の耳を捕らえて離さない」引力がある。
(嘘でしょ……)
前世の私は、なけなしのバイト代をボイトレにつぎ込んできた。でも、どんなにスケール練習を繰り返しても、喉を開く感覚を叩き込んでも、「本当にこの練習に意味があるのか?」「私の歌は良くなっているのか?」という停滞感と限界にずっと苛まれていた。努力ではどうにもならない『生まれ持った楽器の違い』という残酷な壁。
それを、目の前の気怠げな17歳は、寝起きのような顔で軽々と飛び越えてみせたのだ。
「……ねえ、お姉さん」
冴が、とろんとした目で私を見上げた。
「お姉さんの声帯、なんか……『いっぱい使った後の音』がする。すっごい哀愁。……私、そういうバグったみたいなノイズ、嫌いじゃないよ」
私が30年かけてすり減らしてきた声を、彼女は直感で「哀愁」として聴き取ったらしい。恐ろしい才能だ。
「……ありがとう。あなたも、すごくいい声してるわね」
私が苦笑いしながら手を差し伸べようとした、その時だった。
「ちょっと! そこで地べたに座り込まないでいただける!?」
ヒステリックな声が響き、ピンヒールの足音が近づいてきた。
見上げると、完璧に巻かれた縦ロールの髪に、一目でハイブランドと分かる小物を身につけた少女が、苛立ちを隠せない様子で私たちを見下ろしていた。
[ ターゲット捕捉:九条院 麗華 ]
総合ステータス:オールB+
[ 状態:親からのプレッシャーにより、メンタル値が『25(危険域)』まで低下しています ]
麗華は腕を組み、ツンと顎を上げた。
「ここは遊び場じゃないのよ。緊張感のない人間は、私の視界に入らないでちょうだい。……これだから、コネも教養もない一般人は嫌なのよ」
典型的なお嬢様の高圧的な態度。
周囲の候補生たちが「うわ、関わりたくない」と遠巻きに距離を置く中、冴は「うるさーい……」と耳を塞いで再び丸まってしまった。
ターゲットを私に変えた麗華が、「あなたもよ! さっさと立ちなさい!」と捲し立てる。
その肩が、微かに小刻みに震えているのを、私の『30歳の目』は見逃さなかった。
(なるほどね。虚勢を張ってないと、押しつぶされそうなんだ)
大人の社会でもよく見るタイプだ。プレッシャーに弱い人間ほど、他人に厳しく当たることで自分を保とうとする。
私はゆっくりと立ち上がると、反論する代わりに、彼女の冷え切った指先をスッと両手で包み込んだ。
「えっ……!? な、なによっ」
「手が冷たい。すごく緊張してるのね」
私は、かつて職場でパニックになった後輩を宥めた時と同じ、一番落ち着いた、ゆっくりとした声で語りかけた。
「周りが全員敵に見えるかもしれないけど、大丈夫よ。あんなに綺麗な姿勢で立っていられるんだから、あなたはちゃんと努力してきたはずよ。深呼吸して。温かいお茶でも飲む?」
「は……? え……?」
予想外の「母性」あるいは「お局様的包容力」をぶつけられ、麗華は完全に毒気を抜かれてしまった。顔を真っ赤にして、パクパクと口を動かしている。
「わ、わわ、私は別に緊張なんてっ……! ただ、空気が悪いから注意しただけでっ……!」
「ふふ、そうね。ごめんなさい、気をつけるわ」
私が微笑むと、麗華は「な、なんなのよあなた……!」と捨て台詞を吐いて、逃げるように自分の席へと戻っていった。ただし、その肩の震えはすっかり止まっていた。
「……お姉さん、なんか変。お母さんみたい」
床で丸まっていた冴が、不思議そうな顔で私を見ている。
「誰がお母さんよ。……ほら、もうすぐ審査が始まるわよ。起きなさい」
[ システム通知 ]
[ 黒金 冴からの『興味』を獲得しました ]
[ 九条院 麗華からの『戸惑い(依存の種)』を獲得しました ]
周囲の空気がピリついたまま、ついにスタジオの奥からスタッフの声が響き渡った。
「それでは、エントリーナンバー1番から10番の方! 実技審査室へ移動してください!」
いよいよ、私たちの真価が問われるステージが幕を開ける。




