【短編小説】喫茶店と強盗
毎日決まった時間に行く喫茶店がある。"喫茶マーレ"
大きな出窓から見えるのは海ではなく、酒類を運ぶ小型のトラックと、開店準備をする居酒屋の店長の姿。
マスターはイタリアでカフェをひらくのが夢だったらしく、入り口にはヨーロッパの港町の写真が飾ってある。店全体が茶色を帯びた、昔ながらの純喫茶。
朝10時。鉛をぶら下げた体をどうにか起こし、顔を洗い、髭を剃り、全体をいい感じに整える。目覚めの珈琲を淹れようとキッチンに立つと、ダイニングテーブルに転がる、未使用の開封すらされていないリップクリームが目に入った。一昨日買ったものだ。最近は男性も化粧をするらしいと聞いて、薬局で購入した薄い桃色のリップクリーム。恋をして浮き足立っているわけでも、心機一転したい出来事があったわけでもない。年々血色が悪くなる唇をどうにかしようと迷った挙句、このリップクリームにたどり着いたのだ。しかし、買って満足した僕の唇は、未だかさつき、血色の悪い紫色を保っている。
今日からまた一段と寒くなるらしい。僕はクローゼットからボアフリースを取り出し、羽織った。一瞬手に取ったグレーのパーカーを戻して。
こうして考えると、1日の中だけでもいくつもの岐路に立ち、未来を選択している。
毎日着ているグレーパーカー?いや、今日は気温が下がると昨晩のニュースで言っていた。店内は暖かいとはいえ、帰りは冷え込むぞ。よし、フリースにしよう。フリースにもクリーム色と黒色がある。今日の気分はクリーム色の通称羊ひつじフリース。そうなると、靴は黒革のローファーがいい。カジュアルすぎず、バランスが取れる。
簡単に食事を済ませて、14時になると、僕は喫茶マーレへ向かう。はずなのに。
これが僕の決まった1日のはずなのに、僕は今、山田珈琲のソファ席でノートを広げて、小説の構想を考えている。
山田珈琲は、この街に突如として現れた。1年ほど前のことだ。その名前を聞くのは初めてだったが、全国に展開するチェーン店らしい。学生が多く暮らすこのエリアでは、カフェはいくつあっても足りないくらいで、山田珈琲の新設は大変歓迎された。連日満席で外に列をなしていることもしばしばだったが、最近になりその盛況は少し落ち着いたようだ。
僕は何を思ったが、通り過ぎた足を止め、山田珈琲の前まで戻った。
扉のガラス越し、ショーケースにケーキを並べる、大学生くらいの女性が見えた。
だからというわけではない。特別な理由はなかった。毎朝行う鼻毛チェックを、今朝はなんとなく怠ったのと同じような感覚だ。
一時の気の迷い、出来心、といったところだろうか。
浮気がバレて問い詰められた時のような言い訳を並べて、喫茶マーレにすまないと告げ、僕は山田珈琲の階段を登り扉をあけた。
しかし、案内されたソファに座り、10分後には自分を悔やんだ。
珈琲の味は悪くない。苦味が強いが、その方が好みだった。リーズナブルで軽食のメニューも充実している。従業員は学生が多いようで、僕が数年前どこかに落としてきてしまった輝きを放っていた。
問題は、ソファ席のシートの硬さである。新店舗でバネが摩耗しているとは考えづらいが、どうも腰が深く沈んでしまう。僕の爆弾を抱えた腰では、耐えて1時間というとこだろうか。
本日、ひとつめの後悔である。
いつも通り喫茶マーレを選んでおけばよかった。僕の腰に合うのは、喫茶マーレのソファの、あの硬さだけだった。
僕は学ばない。昨日の、いつも乗る急行の電車を見送った時もそうだ。予想以上の乗客の数に、次にくる各停に乗ろうと考えたのだ。だが、乗るはずだった各停の電車は人身事故に見舞われ、駅に到着したのは1時間後だった。
山田珈琲で過ごせるタイムリミットは1時間。その間に、小説「喫茶店と強盗」の構成くらいは仕上げたい。
物語は、喫茶店に強盗が入ってくるところから始まる。マスターは、どうせ強盗するならもっと金目のものを扱っている所に行く方がいいと、昔自分が勤めていた銀行への強盗を勧める。金庫を開けるためのパスワードには条件があり、それを教えてやると言った。おまけにマスターは、盗んだ金を入れる用にと、大きな革製の鞄も提供した。そして金庫の保管部屋の階数と、秘密の裏道の進み方を教える。翌日、強盗の男が言われた通り裏道を突破し、3階の保管部屋の前に到着すると、部屋の扉には"社長室"と書かれた立派な木の板が付いていた。男がドアノブに手をかけたその瞬間、視界は真っ白な世界に包まれた。という、短編の物語。
ありきたりだろうか。どこかで読んだことのある物語のようにも思える。
僕は店内を見渡した。
珈琲豆の芳醇な香り。軽やかなピアノの旋律。隣の席には、談笑するふたりの女子大生。ステンドグラスの窓から差し込む、色のついた柔らかな光芒。
そして想像した。
平和の象徴のようなこの場所に、もし今、強盗がやってきたら。
強盗は、最初に僕を狙うかもしれない。太陽の光をほとんど浴びず、白く痩せ細った僕を。いや、隣の女子大生を狙うか。それとも、入ってすぐの所に立っている、ウェイトレスの女性を人質にとるだろうか。
強盗は『携帯を置け。通報したらこいつの命はないぞ』と言って、『金目のものを出せ』と要求してくる。
店内に男性客は僕ひとり。女性たちは怯えて、泣き出してしまう。やるしかない。僕が戦うのだ。
強盗が僕に背中を向けたその隙に、勇敢に立ち上がり、飛びかかって強盗を抑え込む。
「強盗なら強盗らしく、銀行でも襲ったらどうだ」
こうして、人質は助かり、山田珈琲に平和が戻ってくる。
と、僕がそんな勇敢な人間だったら、どれほどいいか。
時刻は14時50分。ここにきて50分が経過した。店を出る前にトイレに行こうと立ち上がったと同時に、入り口あたりから聞こえてきたのは、パリンと耳の奥を刺すような破砕音と、女性の小さな悲鳴だった。
"まさか‥‥強盗か!?"
僕は本能的にソファに座り直し、恐怖と期待を交互に重ねながら音の聞こえた方を覗いた。
立っていたのは、サングラスをかけた大柄の男。ウェイトレスの女性は、胸の辺りまで上げた手を小さく震わせている。
『この店はいつになったら料理が出てくるんだよ!!』
男の怒声に、女性は小さな体をさらに小さく縮こめた。
クレーマーだ。
出番ではないか、と僕は咄嗟にそう考えた。
そうだ、今こそ立ち上がるのだ。
僕は振動する膝を抑え、じりじりと男の背後に近づいた。180センチはあるだろうその背中は、洋服に隠れていてもくっきりと分かる強固な筋肉に覆われ、頑丈な佇まいだった。
それでも、ここまできて、引き返すわけにはいかない。
僕が搾りかすのような声で「ちょっと、そ、そんな言い方‥」と注意したところで、男が振り返った。
『あ?なんだお前』
サングラスで表情は分からなかったが、眉間に深く刻まれた皺だけで、やってくる未来が想像できた。
男の顔がゆっくりと近づいてくる。ライオンに捕食される瞬間、動物たちはこんな気持ちだったのか。いや、戦うことを諦めている僕は、もう屍肉同然なのかもしれない。
サングラス越しに見えた鋭い視線に思わず顔を逸らした時だった。
『ちょっと、何してるんですか!』
扉を豪快に開き登場したのは、巡回中の警察官だった。僕から男を引き剥がし、猛獣使いの如く、どうどうと男を宥めてみせた。
起死回生。危うく命を失うところだった。
僕は簡単な事情聴取を受けた後、席に戻り、しばらくは放心状態だった。
小さな怒りと、情けなさと、安堵と、また情けなさ。喫茶マーレを選んでいれば、いつも通りの平穏な日常だったのに。野蛮な男と遭遇することもなかったのに。後悔だ。
すっかり冷めきった珈琲を口に運ぶと、スッと心臓に染み込んでいくようだった。
まぁ、いいか。強盗じゃなかっただけマシだ。
物語を変えようかな。「喫茶店と暴力と後悔」に。
いや、つまらないか。




