胞子舞う森の奥に
朝の光が、街の輪郭をはっきりさせていった。
歩き出すには、もう十分だった。
うっすらと冷たい空気を肌に感じる。
窓枠が小さく音を立てて唸っていた。
――今日は特に風が強い。
「うーん…キノコは苦手だな。
……ボクは行かないよ」
エリンはじっとりとした瞳で、
リリィを見つめる。
リリィが一枚の紙をテーブルに広げると、
街の噂――『黄金色のキノコ』の
記事を叩いてみせる。
「えー! なんで!
街の美食家たちがこぞって絶賛してたんだよ?
今の時期しか取れない、香りの宝石なんだよ!?」
リリィの目は、
今行こうと言わんばかりに揺れていた。
「――俺も好かん。
キノコなど、湿った場所の澱みだろう…」
黒猫のヴェルは、
毛繕いをしながら冷ややかに言い放つ。
――結局リリィの「ひとりででも行く!」という
無鉄砲な背中を放っておけず、
一行は記事にあった
キノコの密林へと足を踏み入れる。
「うーん…」
エリンが口元をローブの袖で覆う。
ここは、視覚と嗅覚が
不調和に交差する場所だった。
見上げるほどに巨大なキノコの傘が、
重なり合いながら低くうなり、
差し込む光を貪るように
毒々しい色に染め上げる――
旅の一行は霞む光に満ちた極彩色の傘が立ち並ぶ、
異様な光景に息を飲んだ。
ふと、リリィは周囲を見渡すと、
密林の入口に動物たちが不自然に集まっていた。
「嫌な予感がするね…」
リリィは視界の端に
それらを捉えながら重い足を引きずる。
普段なら突っ走る所だが、
足が言うことを聞かなかった。
密林の空気は水中にいるかのように重く、
樹脂のような濃厚な香り。
そして、その奥に潜んだ生命が過剰に溢れて
腐り落ちていくような
甘く重い土の息吹が絡みつき
鼻の奥までねっとりと染み込んでくる。
ふと、エリンは足を止める。
足元には、茶色く染まった籠が転がっていた。
――先客の忘れ物だろうか。
それは胞子の層に深く埋もれていて、
既に森の胃袋に飲み込まれ
『代謝』されようとしていた。
その“捕食性”に、
エリンは思わずリリィに声をかける。
「リリィ、魔道具を口元に…」
「ええ、了解…っ」
魔力を帯びた布を口元にきつく締め直した。
布越しの呼吸は、清潔すぎる無機質な味がした。
この不自然な味は、
外の異常な臭気を際立たせる。
その時、山から吹き下ろす突風が走る。
「……っ、リリィ、伏せて!」
鮮やかな色彩は一瞬で消え、
あたりは茶色く濁った胞子の煙幕に包まれる。
「…………ッ!」
視界を奪うほどの粉っぽさが、
魔道具の布を抜け、舌の奥にざらついた
「土とカビの臭い」を運んできた。
「ラズリ…光を…。」
ランタンはぼんやりと不安定な光を放つ。
((ちょ…っと、ねえ大丈夫なの?))
ラズリの光はいつもより頼りなく揺らぎ、
手に伝わる震えを感じる。
エリンは目を細め、ランタンの中で瞬く
ラズリの光だけを頼りに進む。
「あれ…かな…」
一帯には先客が置き去りにした
採取用のハサミや袋のようなものがあり、
密林の隙間を埋め尽くすように広がった黄金色が
不自然に鈍い輝きを放っていた。
◆
「……臭かった。本当に、臭かった…」
その夜、宿の部屋でエリンは珍しく、
眠る前に蜂蜜紅茶を淹れていた。
お湯に溶ける蜂蜜の潔い甘さが、
鼻腔に奥までこびりついた
極彩色の残り香をようやく追い出していく。
「――珍しいね、エリン。そんなに臭かった?」
リリィが不思議そうに聞く。
……彼女は先ほど、宿の主人が
「旅の御方、これは逸品です!」と
腕を振るった黄金キノコのソテーを
完食したばかりだ。
「……リリィの魔道具も、洗わなきゃな」
エリンは茶色く濁った洗い桶の水を
じっと見つめ、ボソリと呟き、
細かく肩を震わせた。
翌朝、お腹を壊して
「あいたたた……」と丸くなるリリィを見て、
ヴェルが低い声で笑うように一瞥する。
「珍味とはそういうものだ、
知らなかったのか?」
エリンは、丸くなるリリィに目もくれず、
魔道具を石鹸と風の匂いがするまで
洗い上げていた。
「ラズリ、怖かったよね…
もう大丈夫だよ。おやすみ」
((いや、今回は本当に怖かったよ!!))
ランタンの灯りが消える頃には、
言葉は必要なくなっていた。
夜はちゃんと夜の役目を果たしていた――
――――
黄金キノコは、人の痕跡に寄生する――
という噂を耳にしたことがある。
噂は噂でしかない。
そもそも黄金キノコの存在が噂のようなもの……
黒猫のヴェルは、小さく身体を震わせた。
ランタンの灯りが消える頃には、
言葉は必要なくなっていた。
夜はちゃんと夜の役目を果たしていた。




