雨粒の街道
朝の光が、街の輪郭をはっきりさせていった。
歩き出すには、もう十分だった。
空は厚い雲に覆われていて、
湿った空気が肌にまとわりつく。
石畳の街道を歩くエリンの足音は、
いつもより重たく響いた。
「……雨が来るな。」
黒猫のヴェルが低い声で呟く。
その言葉通り、
ぽつり、ぽつりと雨粒が石畳を叩き始めた。
やがて雨は音を立てて降り注ぎ、
街道全体を白く煙らせる。
「雨は……苦手だな……」
エリンはローブのフードを深く被る。
ヴェルがささっとローブの中に潜り込んできて、
エリンの腕の中で丸くなった。
「……重い。」
「濡れたくないんだ、我慢しろ。」
雨粒がローブに染み込んで、
じわりと重さが肩にのしかかってくる。
ヴェルの分の重さも加わって、
エリンは少しだけ歩みが遅くなった。
石畳は水を弾いて、
足元から跳ねた雫が靴を濡らす。
濡れた石の匂いと、
雨に打たれた草の匂いが混ざり合って
鼻をくすぐった。
しばらく歩くと、
街道の脇に馬車が止まっているのが見えた。
荷台が傾いていて、車輪の一つが外れかけている。
「あれ……?」
リリィが駆け出す。
馬車の横には初老の男が立っていて、
困った顔で荷台を眺めていた。
「どうしたんですか?」
リリィが声をかけると、男は振り返って苦笑する。
「はは…商品を載せた荷台が壊れてしまってね……
このままじゃ動けないんだ。人も来なくてね…。」
リリィは振り返ってエリンを見る。
「ねえエリン、直せない?」
「……ボクたちだけでは直すことはできないよ。」
エリンは首を横に振る。
「だよねー……じゃあ私たち以外なら直せるわけだ!」
リリィはいつもの調子で笑う。
「……また始まったな。」
ヴェルはエリンの腕の中であくびしながら一言。
男はほっとしたように頷いた。
「この先に港町がある。
そこなら船大工がいるはずだ。」
「じゃあ、一緒に行きましょうっ!」
右手を挙げて張り切って引率をするリリィ。
一行は再び歩き出す。
雨はまだ降り続けていて、
石畳は水の膜を張ったように曇天を写し出す。
ローブが水を吸って、さらに重たくなる。
エリンは肩を揺らしながら、黙々と歩く。
やがて、雨の匂いに混じって、
今までに嗅いだことのない匂いが鼻をくすぐった。
塩っぽくて、魚のスープのような香り。
草と土の匂いに、その匂いが絡みつく。
「……これが、海の匂い……?」
エリンは小さく呟いた。
――海藻や濡れた貝殻のような匂いがした。
「うん!海だよ、エリン!」
リリィが嬉しそうに言う。
程なくして、港町の輪郭が見えてきた。
雨に煙る街並みと、
遠くに揺れる船のマストが視界に入る。
港町に着く頃には、雨は小降りになっていた。
船大工の工房は港のそばにある。
柔らかな陽だまりのような甘く優しい香りがする先に
その工房は立っていた。
工房の中は、朝の森を吹く風の匂いがした。
エリンたちが事情を説明すると、
船大工は快く引き受けてくれた。
「しょうがねえな、姉ちゃん。俺も手伝うぜ。
馬車の修理くらい、朝飯前さ。」
そう言って船大工は、
手早く道具をまとめて、弟子を連れて工房を出る。
「ねえ…どうやって説得したの?」
エリンはリリィの顔を覗き込むと、
オレンジ色の笑顔で答える。
「――コツがあるんだよっ、コーツっ」
全くわからなかった。
男が修理をしている間、
エリンたちは港町で宿を取った。
部屋に荷物を置いて外に出ると、
雨はすっかり上がっていた。
「ね、港に行ってみようよ。」
リリィが誘う。
二人は港へ向かった。
夕日が雲の切れ間から差し込んで、
光の色に染まった波から放たれる光の粒が、
きらきらと踊っていた。
エリンは立ち止まって、
その光景をじっと見つめる。
リリィも隣で黙って海を眺めていた。
言葉は、どこかに消えていた。
「……人助けも、悪くないね。」
エリンがぽつりと呟く。
リリィがにぱっと笑った。
その夜、宿の食堂で船大工と馬車の商人と
一緒に食事をした。
商人は上機嫌で、全て奢ってくれた。
「本当に助かったよ。ありがとう。」
温かい料理と、笑い声が食堂を満たす。
ランタンの光が、テーブルを柔らかく照らしていた。
部屋に戻ると、リリィはすぐに眠りについた。
エリンは窓辺に座って、静かな港町の夜を眺める。
「海……初めて見た。赤かったな……。」
ランタンの灯りが消える頃には、
言葉は必要なくなっていた。
夜はちゃんと夜の役目を果たしていた。
――世界はこうも美しい。




