□ 1-8 ラミビア王宮
馬車が王宮にかかる大理石の橋をゆっくりと渡り、荘厳な門をくぐった瞬間――俺の目の前に広がった光景は、まさに別世界だった。
「……うわぁ……」
思わず、声が漏れた。
中庭の先には、白金に輝く高い塔がそびえ立つ。
空へ真っ直ぐ伸びるその姿は、神の住処を思わせる神秘さで、俺の心を一瞬で呑み込んだ。
入口には真紅のアーチが優雅に広がり、そこを抜けると、まばゆい彫刻の施された石造りの建物が中庭をぐるりと囲んでいる。
柱の一つ一つにまで精緻な装飾が施され、壁を飾る金の細工が陽の光を受けてきらきらと反射していた。
(……すげぇ……。これが、王宮……)
圧倒的な広さ、どこまでも磨き上げられた石の光沢、気品漂う空気―――そこに立っているだけで、平民の俺なんかが足を踏み入れていい場所ではないと、嫌でも思い知らされる。
「さあ、陛下の下へ案内しよう」
タレス殿下の凛とした声に、我に返る。
俺とミラは馬車を降り、彼のあとをついて歩き始めた。
白銀の回廊を抜け、金色の装飾がきらめく階段を登る。
通りすがる侍女たちはみな一様に美しく、優雅なお辞儀をしてくれる。
どこまでも非日常的な空間が、俺の頭をぼんやりさせた。
やがて、タレス殿下が立ち止まり、重厚な扉の前で振り返る。
「この控室でしばらく待つがよい。
これから陛下に到着を報告し、謁見の場へと案内しよう」
「は、はい……」
俺がうなずくと、タレス殿下は静かに部屋を出ていった。
残された部屋には漆黒の絨毯が敷かれ、壁にはいくつものタペストリーが厳かに飾られている。
どれも高貴な紋章を織り込んだもので、見るからに由緒あるものだ。
これから、俺は―――父親に会う。
聖王という、この国のすべてを握る男に――
未だに実感はない。
ついこの前まで、俺には父親なんていないと思っていた。
孤児として育ち、ミラだけが家族だった。
なのに――
……と、その時だった。
「この部屋、ちょっと変ね」
ミラがぽつりと呟いた。
振り返ると、彼女は周囲を見回しながら、わずかに眉をひそめている。
「窓も椅子もないし……賓客が待つ控室にしては、物が何もなさすぎるわ。
普通なら椅子やテーブル、絵画の一つくらいあるものよ」
「そ、そう言われてみると……なんか殺風景かも……」
妙に広いのに、調度品らしいものがひとつもない。
黒い絨毯とタペストリーだけ――。
ぞわり、と背筋を冷たいものが走った。
「もしかして……タレス殿下を疑ってるの?」
思わず聞き返した俺に、ミラは唇を軽く引き結び、小さく頷いた。
「……いえ、殿下そのものを疑ってるわけじゃないわ。
ただ――少し引っかかるだけ」
「引っかかる……?」
「法務院が“私たちを狙う動き”を掴んだって言っていたでしょう?
あれ、情報が妙に早すぎるのよ。
誰かが意図的に流した情報か、あるいは……」
ミラはそこまで言って、言葉を濁した。
「……まあ、殿下は法務院のトップだし、あちこちに情報網があるのは当然よ。
でも、用心するに越したことはないわ。
いざという時のために、心の準備だけはね」
その時――
ごぉん……と、低く響く音が床下から立ちのぼった。
「え……?」
次の瞬間、足元が淡く光り始め、ぎらぎらと輝く魔法陣が一気に浮かび上がる。
「なっ……!?」
何かが俺たちを包み込む――いや、押さえつけてくる。
全身に重圧がのしかかり、まるで金縛りにあったように指一本動かせない。
(くっ……! これ……!)
声を出そうとしても、喉が凍りついたように動かない。
その沈黙を破るように、背後から聞こえてきたのは――
さっきまで紳士そのものだった男の、冷たく歪んだ声だった。
「くっくっ……申し訳ない。どうやら“少し”手違いがあったようだ」
振り向くこともできない。
しかし声だけで、誰なのかは明らかだった。
タレス殿下。
だがその声音は、あからさまな嘲笑に満ちていた。
「残念だが――ここまでだ。
もう、誰もお前たちを助けられぬ」
(は……? え……? お、おま……っ!?)
視界がぐにゃりと歪み、魔法陣はますます強い光を放つ。
ばちん、と破裂音が響いた瞬間――
視界が暗転し、身体が光に吸い込まれていく。
重力がねじれるような感覚。
身体がぐんと引っ張られ、意識が遠のく。
(……やべ……これ……本当に……)
思考が霧に飲まれ――
俺は、そのまま意識を手放した。




