□ 2-25 魔王城の夜(5)
俺がメルジーヌの誘惑に完全に呑まれ、口づけに応じようとした――まさにその瞬間だった。
「……ダメッ……!」
かすれた声がメルジーヌの口から漏れた。
驚いて顔を上げると、彼女は苦悶に眉を寄せ、俺から逃れるように身を引く。
そのまま力が抜けたようにベッドへ倒れ込んだ。
いったい何が――
混乱しつつ様子をうかがうと、メルジーヌはうずくまり、頭を抱えて呻き続けていた。
まるで内側で誰かと激しく争っているようだ。
その身体がときどきビクリと震える。
張りつめた空気が漂う中、不意に部屋がふっと温もりを帯びた気がした。
次の瞬間、メルジーヌの動きが止まり、ゆっくりと上体を起こす。
「……ふぅ、危ないところだったわね」
その声、その口調――これは。
「ミラ!!」
顔をのぞき込むと、魅惑の文様も消えている。
ミラが戻ってきたのだ。
「アレンっ!」
ミラは俺の顔を見た途端、満面の笑みで飛びついてきた。
「無事でよかったよぅ~!」
ぎゅーっと抱きしめられ、またしても豊満な胸で視界が真っ暗になり――
「ぐ、ぐるじ……!」
急いで背中を叩くと、ミラが慌てて解放してくれる。
「あっ、ご、ごめん! 嬉しすぎてつい……!」
隣に座り、優しく頭を撫でてくる仕草は、紛れもないミラのものだった。
ようやく呼吸が整う。
「はあ……ほんとに良かった。戻ってきてくれて」
「アレン~~! 本当に心配したんだから!
私ね、メルジーヌがまだ生きてるかもって薄々思ってたの。
さっきは気づいたら意識が奥に押し込まれてて、そのすきにメルジーヌが勝手にしゃべってるし!
もうパニック! 必死で戻ろうとしてたのに、全然戻れなくて!」
興奮したミラがまくしたてる。
どうやら裏側で相当苦労していたらしい。
「いやぁ、俺の方も大変だったよ!
いつの間にかミラがメルジーヌに入れ替わってて、もう驚いたのなんのって!
頭蓋骨をミシミシいわされるし……!」
「だよね~……
それで、メルジーヌったらアレンを誘惑しようとするんだもの。
こっちは気が気じゃないわよ!
アレンはアレンでメロメロになっちゃうし……。
いよいよ危ない!ってところで、最後の力を振り絞って結界を破ったの!」
本当に危機一髪だった。
……にしても、あのままメルジーヌに身を任せていたら――どんな体験ができたのだろうか。
ちょっと惜しかった気がしないでもない……
「いや、ミラが戻ってきてくれてほんと助かったよ。
もうちょっとで、自由に……じゃなかった、メルジーヌの餌食になってしまうところだったよ」
「あ、今『自由に』って言った!」
しまった。つい、ポロっと。
ミラの目がスッと細くなる。
「ア~レ~ン~?」
「は、はい……」
「まさか、メルジーヌが消えて残念、とか思ってないよね……?」
「い、いやいや! そんなわけが!」
じと目で凝視され、俺は冷や汗をかく。
「さっき『お姉さまぁ……』とか言って甘えてたけど?
鼻息フガフガしてたし」
全部バレてた!?
「ご、ごめんなさーい! 誘惑に負けちゃいましたーっ!」
思わず土下座姿勢になる。
ミラはため息をついたが、怒りは弱い。
「まあ……仕方ないよね。あれは反則級だし……
アレン、一人でよく頑張ったわよねぇ」
……どうやら許されたようだ。
助かった。
「でも! 気を許しちゃダメよ。
メルジーヌはアレンを篭絡して主導権を取り返すつもりだったはず。
本当に危ないんだから」
「……うん」
俺は言葉に詰まる。
確かに、誘惑に負けそうになったのはまずかった。
単に俺が好みだからってだけじゃなく、何か意図があったはずだ。
そういえば“隷属の契り”ってやつも気になる。
メルジーヌは……キスで俺を支配しようとしてたってことか?
そもそも俺、幻術を使うときにもメルジーヌにキスされたけど……大丈夫なのだろうか。
その後で、ミラにもキスされちゃったけど……
「そ、それで思い出したんだけど……さっきメルジーヌが言ってた“隷属の契り”。
あれって、どういう意味なの?
森の中でもキスされたし……変な効果が残ってたら困るんだけど……」
「え、あ、あれね……」
ミラは急に目を泳がせ、言葉を濁す。
「たいしたことは……ないんだけど……
キスされると、相手を好ましく思うようになって、他の異性に興味がなくなるの。
魅了と違って、その効果は弱いものだけど、効果が続くタイプで……」
「えっ!?」
ちょっと待って。
つまり……俺は、もうすでにメルジーヌとミラを、多少なりとも好ましく思い始めてるってこと?
俺は思わずミラをじとーっと見つめる。
「あっ、だからね! アレンはメルジーヌにキスされちゃったでしょ?
それでメルジーヌの虜になっちゃったら困るでしょ!
だから私がね……その、キスの効果を上書きしようと思ったの」
ミラは早口でまくし立てる。
「えーっ、そんな理由……だったの?」
「そうよっ、仕方がなかったのよ!
苦肉の策よ!」
いや、あの時の態度は、苦肉の策、っていう感じじゃなかったけどなあ……
「まあいいじゃないの。
アレンだって、メルジーヌに隷属されちゃったら困るでしょ?」
ミラがふんっと鼻を鳴らすように言う。
なんかうまく言いくるめられた気もするけど……これ以上は考えるだけ無駄か。
「……でも、困ったわね。
メルジーヌは生きてたわけだから」
ミラは表情を引き締める。
「こうなった以上、メルジーヌと敵対するわけにもいかないわ。
同じ身体を共有してるわけだし……
それに人族と魔族の協定改正でも、魔族の女王——メルジーヌを無視するわけにはいかないわ」
なるほど……理屈ではそうだ。
メルジーヌが生きているとなると、計画の練り直しになりそうだ。
「それで今、メルジーヌは?
表には出てこれないの?」
「今のところはね。
どうやら私に身体の優先権があるみたいね」
おお、それは不幸中の幸いだ。
どうやらメルジーヌの下僕にはならずに済みそうだ。
「でも、メルジーヌとは、いずれ話し合わないといけない。
お互いの折り合いをつける場所を探すしかないわね」
「はぁ……あのメルジーヌと、話し合いかぁ」
魔族の女王との交渉――胃が痛くなってきた。
さすがに俺もメルジーヌは超怖いんですけど……
「こうなった以上、メルジーヌとは何とかうまくやっていきたいわね。
同じ身体を共有する者同士ね」
はぁ……ミラだって、本当はずっと自分が身体を使いたかったはずなのに。
「ミラ、その……せっかく新しい身体を得たのに、こんな……」
「もう、なにしんみりしてるのよ。
今日どれだけのことがあったと思ってるの。
私、一度死んでるんだから!
いちいちへこたれてたらやってられないわよ」
「……へい」
ミラはほんとに強い。へこたれない。
この精神力の強さにはいつも感心してしまう。
ミラは一度深く息を吸い、真っ直ぐに俺を見据える。
「じゃあ、心の準備はいい?
これから――メルジーヌと話すわよ」




